第30話 入山
「——紐」
列の前で、オーウェン・ダントが手を出した。
入山口の点呼は、装備の荷改めから始まる。演習教官補佐の腕章を着けた本科三年は、班ごとに背嚢の紐、剣帯、靴紐の順で検めていく。セオの番で、彼は剣帯の結び目を一度引いて、留めた。
「緩んでる。結び直すな。切って、替えろ」
「……まだ使えます」
「結び直した紐は、結び目から切れる。山の中でだ」
予備の革紐が一本寄越され、押し問答の余地のない速さで、腕章は次の班の背嚢を引いていた。
セオは剣帯の紐を切って、替えた。切った古紐は捨てずに、帳面に挟んでおく。教わったことは、物でも取っておく質だった。
* * *
九番区は、古森の北の端だった。
苔むした岩、太い根の張る斜面、頭上を塞ぐ梢。区域の境には大人の腰ほどの結界杭が点々と打たれ、杭の間が獣避けの見えない壁になっているという。他の班より森の深部に寄った区域で、野営の適地は沢沿いの一箇所しかなかった。
野営地の設営はミナの独壇場だった。天幕の張り綱の角度から、火床の石組み、荷の吊るし方まで、道具の置き場に迷いがない。ノエルは薪を集め、セオは区域の略図を帳面に起こした。沢の流れ、けもの道、杭の位置。写本屋は、山も写す。
初日の成果は、上々だった。
小型の鎧鬣が二頭、巣穴のけもの道で網に掛かった。
手順はこうだ。セオが足跡と糞から通り道を読み、ミナが道の窪みに発条仕掛けの足縛りを埋める。ノエルの火矢が風下から追い立て、獣が仕掛けを踏んだところへ、セオが仕留めに入る。三人で、傷ひとつなく、二頭。討伐の証の骨鬣を切り取りながら、ノエルが「うちの班、効率が怖い」と半分本気の声を出した。
——春には、この獣に殺されかけた。
骨の鬣を検分しながら、セオは妙な感慨を噛んだ。ミルベルの夜、松明の火に照らされたあの影は、冬の炉端の語り話そのものだった。同じ獣が今は、手順で片付く「課題」になっている。変わったのは獣ではなく、こちら側だ。
ノエルの火矢は、丁寧だった。
ダリオの散り気味の礫とは違う。束ねは細いが、狙いに嘘がない。三頭目を追い立てたあと、彼はぽつりと言った。
「……僕の火矢、遅いだろう」
「遅くない。正確です」
「正確なだけだ。家の兄たちは、僕の倍の速さで倍の火を出す」
フォス家は火矢の家系らしい。三男の彼は、家の物差しの中でずっと「遅い側」だったという。
「だから、ダリオの誘いが嬉しかったんだ。強い側の輪にいれば、遅くても強い側に見えるから。……君の帳面に載るようなことをしたのは、その、そういうわけで」
「帳面の三頁目は、もう用済みです」
「え?」
「あの帳面は決闘で清算済みなので。載ってるのは事実だけで、利子は付いてません」
ノエルは目を丸くして、それから初めて、硬さの取れた顔で笑った。
「……変わってるって言われるだろう、君」
「三日にいっぺんは」
* * *
一日目の夜は、静かだった。
火の番は三交代に決め、最初の番はセオが取った。火床の火が爆ぜ、沢の音が絶えず流れ、天幕の中からミナの工具の手入れの音がしばらく続いて、やんだ。
平和だった。この時点では、まだ。
* * *
異変を見つけたのは、二日目の夕方の踏査だった。
野営地を決め、区域の境を確かめに歩いた帰り道。結界杭の一本の前で、セオの足が止まった。
読める——いや。
読めるのは、当たり前だ。杭の守護紋は教会の定型文で、ミルベルの結界石と同じ系統の、もっと簡素な文が刻まれている。足を止めたのは、読めたからではない。
文が、増えていた。
定型文の節と節のあいだに、線が三本、書き足してあった。彫りは浅いが迷いのない運びで、風化とはまったくの別物——ミルベルの石の欠けが「歯抜けの文」なら、これは「書き込みのある文」だ。
誰かが、手を入れた。それも、最近。彫り口の石の色がまだ新しい。
セオは隣の杭まで歩いて見比べた。隣は定型のまま。もう一本先も定型。書き足しがあるのは、森の深部に面したこの一本だけ。春のミルベルで踏んだ手順を、同じ順で、同じ嫌な予感と一緒に踏んでいた。
「どうしたの」とミナが屈み込む。「杭がどうかした?」
「文が書き換えられてる。更新は彫り直しのはずだ。摩耗した文を、同じ文に深く——これは違う。文そのものが、別物になってる」
ミナとノエルは、顔を見合わせた。二人の目に、杭の彫りはただの模様にしか見えていない。ミルベルの詰所の、あの平らな声を思い出す。お前が、紋章の何を知ってる——。
「……信じるんですか。俺の目を」
「何を今さら」とミナが言った。
「君が言うなら、そうなんだろ」とノエルが言った。
二人とも、杭よりセオの顔色の方を疑っていなかった。春に町ひとつ説得できなかった言葉が、ここでは二人に、三秒で通じた。通じたことに、変な間ができた。
「で、どうする」とミナが実務の声で続けた。
セオは書き足された三本の線を、指でなぞらず、目だけで解いた。
定型の守護紋は「退がれ」と命じる文だ。獣に向かって、境の内へ入るなと。
書き足された三本の線は、その文の向きをねじ曲げるためのものだった。
命令の宛先が、裏返っている。境の「外」の獣に退がれ、ではなく——境の「内」へ、と。
喉の奥が、ゆっくり冷えていく。
この杭は、獣を拒む文ではない。
——招く文に、なっている。




