第28話 防衛戦
挑戦の申請は、締切の朝に一件だけ入った。
十八席、マルコ・レーン。子爵家の次男。申請書の備考欄は空白で、派閥の名前も、因縁の匂いもない。
帳面をめくって、彼の頁を確かめた。実技で二度見た。剛力紋と障壁紋の、堅実で真面目な二紋使い。癖は少なく、書かれているのは「基礎が正確」「消耗戦を厭わない」の二行だけ。
動機は、考えるまでもなかった。
御前試合の代表は席次上位十六名。彼は十八席。ルシアンは再挑戦制限で動けない。つまり、代表への最後の椅子に座る道は、十六席への挑戦だけ——嫌がらせでも、派閥の思惑でもない。ただ、出たいのだ。
初めての種類の敵だった。憎む理由も、見返す理由もない、普通の他人。
* * *
決闘は、月例の白線の一番端で行われた。
観覧席は今回も埋まっていたが、空気が違う。ダリオ戦の好奇でも、ルシアン戦の物見高さでもない。代表の最後の一枠が懸かった試合を、皆、静かに見に来ていた。
マルコ・レーンは、開始の礼を丁寧にした。
「アトリー殿。何の恨みもない。……ただ、御前試合に出たい。それだけだ」
「知ってます。俺もです」
「なら、恨みっこなしだ」
鐘が鳴った。
派手さのない試合になった。マルコの剛力は教本どおりに正確で、障壁は焦らせても句を噛まなかった。読める癖が少ないというのは、つまり付け入る漏れが少ないということだ。
十合を超えた。二十合を超えた。観覧席の私語が消え、白砂を擦る足音と、句の応酬だけが演習場に残る。マルコは一度も無理をしなかった。障壁で受け、剛力で押し、削れない相手を削ろうとし続けた。真面目さが、そのまま強さの形をしている男だった。
セオは風斬で牽制し、剛力で受け、間合いを測り直し——気付けば、この学院に来て一番長い決闘をしていた。
決め手は、消耗の綾だった。
写しの燃費の悪さは、こちらの弱点だ。だから写しを最小限に絞り、体術と足で時間を買い、相手の魔力が先に細るのを待った。障壁の光が薄くなる瞬間を三度見送り、四度目に踏み込んだ。
剛力の一撃が障壁を割り、決着の鐘が鳴った。
マルコは白砂に座り込んで、しばらく動かなかった。やがて立ち上がり、乱れた息のまま、もう一度丁寧に礼をした。
「……完敗だ。代表、頑張ってくれ」
声に、恨みはひとかけらもなかった。ないことが、いちばん堪えた。
彼の背中が観覧席の階段を上っていくのを、セオは白線の内側から見送った。勝った側の足元に、負けた側の「出たい」が落ちている。拾って返せる種類のものではなかった。
* * *
夕方の旧練兵場に、ヴァンがいた。
稽古の日ではない。ただ、縁石に座って革袋の水を飲んでいた。セオが並んで座っても、しばらく何も言わなかった。
「勝ったか」
「勝ちました」
「顔が勝ってないな」
「……初めてでした。ああいう、恨みっこなしの相手は」
ヴァンは革袋の栓を締め、夕日の演習場を眺めた。
「席ってのはな、坊主。座ってみると分かる。——誰かを座らせない椅子だ」
誰かを、座らせない椅子。
十六席の椅子には今、セオが座っている。座っているだけで、マルコ・レーンは御前試合に出られない。悪意も、不正も、何もなくても、そうなる。制度の中で勝ち上がるとは、制度の椅子取りに加担することでもある——。
「……先生は、それが嫌で七剣を——王国に七つきりの剣の席を、辞めたんですか」
教官室の前の廊下で拾った古い噂が、口から勝手に滑り出ていた。探りのつもりはなかった。
ヴァンは答えなかった。答えない代わりに、立ち上がって尻の砂を払い、いつもの半分の言葉だけ置いていった。
「椅子の話はな、椅子に座り続けた奴だけがしていい。……お前はまだ、座り方を覚える段だ」
* * *
代表の掲示は、翌日の昼に出た。
——御前試合、新入生の部、代表十六名。
一席、アリシア・ヴェルクレア。二席、レナード・ギルフォード。以下、名家の子弟の名が続き、最後の一行に。
十六席、セオ・アトリー。
掲示の前の人だかりは、最後の一行を二度読みする者ばかりだった。無紋の代表。学院はじまって以来の文字列は、もう嘲笑では読まれなかった。
人垣の端で、レナードと目が合った。
「よく来たな、十六席」
「そっちこそ、二席」
それだけの挨拶だった。それだけで足りる程度には、互いの帳簿はもう読み合った仲だ。
工房に寄ると、ミナが紙を広げて待ち構えていた。装備の整備計画だった。籠手の銀線の増強、計時の何か(「まだ内緒」だそうだ)、予備の鞘の新調——彼女の癖字が、紙の端まで几帳面に並んでいる。
「御前試合まで、装備は全部あたしが見る。あんたは体だけ仕上げて」
「代金は」
「優勝賞金の一割」
「負けたら?」
「出世払い」
職人の帳簿は、今日も強気だった。
食堂の夕餉の席で、セオは壁の書き売りを何気なく読んだ。
御前試合の日程。穀物の値。王都の祭りの支度。周りの席の話題も、そのあたりを行ったり来たりしている。誰が代表だ、賭けはどうなる、祭りの屋台は。
いつもの紙面の隅に、いつもより小さい字で、その一行はあった。
——帝国軍、北部国境にて大演習。規模、近年最大。
読んでいる者は、食堂を見回しても一人もいなかった。祭りの手前の王都で、北の話は誰の皿にも載っていない。
帝国。北の、機械の国。
セオはその一行を、意味も分からないまま帳面に写した。写本屋の習性だった。分からないものは、分からないまま写しておく。
意味が追いつくのは、いつも後になってからだ。




