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紋章なしの紋章師  作者: 西棟
第一部 学院編 第1章 無紋の少年
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第27話 再儀

その文書は、聖堂の使いが北棟まで直接届けに来た。


使いが来たこと自体が、北棟では事件だった。空き部屋だらけの廊下に祭服の裾が翻り、二年の特待生が扉の隙間から首を伸ばした。教会は、届け方まで計算する。この封筒が「特別扱い」であることを、北棟の全員に見せながら渡すのが狙いだ。


聖堂の紋章入りの封筒。中身は丁寧な手跡で、要点はひとつだった。


——授紋の再儀のご提案。


無紋の裁定より五年を経た者には、再儀の先例がある。女神の慈悲を、再び乞う機会を設けたい。式は学院聖堂にて、聖油と祝詞は州都大聖堂より特に取り寄せる。


署名、グレゴア。


読み終えて、セオは便箋を長いこと眺めた。


断る理由が、書類の上のどこにもない。慈悲の申し出だ。五年前に見放された子供に、もう一度だけ機会をやろうという、教会の温情。断れば「女神の慈悲を拒んだ無紋」になる。受ければ——受ければ、何が起きる?


五年前と同じく、何も浮かばずに終わるだけか。


それとも。


分からないことが、いちばんの答えだった。あの司祭が、結果の分かり切った儀式のために、州都から聖油を「特に取り寄せ」たりするものか。


* * *


夜明けの旧練兵場で、ヴァンは文書を一読して、木剣を地面に突き立てた。


「行くな」

「先例があると書いてあります」

「先例はある。三十年に一度あるかどうかのな。……いいか、坊主」


ヴァンの声は、いつもの半分の速さになった。この男が言葉を惜しまないときは、大抵ろくでもない話をするときだ。


「儀式ってのは、体に触れる口実だ。聖油を塗る。祝詞を上げる。手順の全部が、お前の体に教会の手が触れることを正当化する。……何を塗られるか、塗られて何を調べられるか、こっちには読みようがない」


聖油。


五年前の朝の、あの温かさを思い出した。額と腕を滑った油の感触。あのときは、ただの油だと思っていた。何が溶いてあるのかなんて、考えたこともなかった。


今は、考える。考え始めると、止まらなかった。あの日、俺の腕の上で「何も起きなかった」のは——本当に、何も起きていなかったのか?


答えの出ない問いを、セオは帳面の余白に書かずに呑み込んだ。書いていい場所が、まだこの世のどこにもない問いだった。


「断れば?」

「断った、という紙が大聖堂に残る。それも向こうの得点だ」


受けても取られ、断っても取られる。二択の両方に値札が付いている書類を、教会は慈悲の顔で寄越してきた。


「……詰みですか」

「学院の中だけならな」


ヴァンはそれだけ言って、木剣を引き抜いた。学院の中だけなら。つまり、外に盤面があるという意味だ。この男の半分の言葉を、最近は少し読めるようになってきた。


* * *


盤面の外から手が伸びたのは、二日後だった。


週課の個室で文書を見せると、アリシアは二度読んで、扇を閉じた。閉じ方で分かる。機嫌の悪化——ではなく、臨戦だった。


「再儀そのものは潰せないわ。教会の管轄よ。でも」


扇の先が、文面の一箇所を指した。


——式は学院聖堂にて。


「格上げしましょう。あなた、御前試合の代表候補よね」

「席次の上では」

「王家にはね、代表候補の武運を祈る『祝別』の慣例があるの。ずいぶん埃を被った慣例だけれど——埃は払えば取れるわ」


彼女は「二、三日ちょうだい」と言った。


本当に三日だった。三日で、王宮の祭祀局が動いた。どの筋を、どの順で、何と言って動かしたのか——聞かなかった。聞けば知ってしまうし、知れば書いてしまいそうだからだ。帳面に書けない種類の借りが、また一枚増えた。


三日後、王宮から学院へ、一通の書状が下りた。


——御前試合代表候補セオ・アトリーの祝別を、王家の主催にて執り行う。式次第・聖油の選定は王家祭祀局の管轄とする。


王家の主催。祭祀の格で言えば、学院聖堂の再儀より二段上だ。同じ体にふたつの儀式は重ねられない。教会が再儀を強行すれば、王家の祝別と「取り合った」形になる——教会と王家の均衡を、儀式ひとつで軋ませる度胸は、さすがのグレゴアにもなかったらしい。


再儀の提案は、一週間後に「時期を改めて」の一文で引っ込んだ。


廊下ですれ違ったグレゴアは、いつもの浅い微笑のままだった。ただ、すれ違う一瞬、微笑の膜の下で何かが一枚、剥がれて見えた。慇懃の下の素顔は、怒りですらなかった。計算を組み直す者の、無表情だった。


その晩から数日、聖堂の窓の灯りは、消灯の鐘のあとも長く点いていた。組み直された計算がどんな形をしているのか、灯りの色からは読めなかった。


* * *


週課の個室で、セオは頭を下げた。


「借りが大きすぎます」

「共犯でしょう。縄は同じ」


アリシアは書類から顔も上げなかった。


「それにね、これは貸しじゃなくて投資よ。祝別を受けた代表候補が御前試合で勝てば、推した王家の目も正しかったことになる。……つまり、あなたは勝ちなさい。利回りで返して」

「王族は、利回りの話も上品ですね」

「褒め言葉として受け取るわ」


扇の陰で、彼女は少しだけ笑った——ように見えた。素の表情の在庫は、相変わらず極端に少ない。


その帰り道、掲示板の前の人だかりが、今日はひときわ厚かった。


——御前試合、代表要項。


新入生の部、出場資格。席次、上位十六名。


セオは自分の席次を、指で確かめるまでもなく知っていた。


十六席。当落線の、いちばん上。真下の十七席には、九十日の再挑戦制限が明ける日を数えている侯爵家の三男がいる。


そして月例席次戦は、要項の締めの前に、あと一度ある。


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