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紋章なしの紋章師  作者: 西棟
第一部 学院編 第1章 無紋の少年
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第26話 目と剣(後)

最初の三合で、分業は崩壊した。


セオの読みは、この男に対してだけは白紙になる。紋章がない。魔力の膨らみもない。読んで報せるべきものが、何ひとつない。


「北西、来ます——いや、違う、東——」


足音がなく、気配が薄く、フェイントに体重の嘘がない。読みの報せは全部後手に回り、後手の号令は号令にならなかった。


それでもアリシアは、三合を凌いだ。


一合目、袈裟の木剣を細剣が搦めて逸らす。宮廷剣術の受けは、力ではなく角度でできていた。二合目、返しの突きをヴァンは半身で外し、外しながらの肘打ちを彼女は扇で——扇で、受けた。畳んだ扇の骨が鈍い音を立て、王女の得物が二刀だったことを、その場の全員が初めて知った。


三合目は「障壁よ、立て」。読み予告のない敵に、細剣と扇と障壁で向かう王女は、率直に言って強かった。週課で見た精度が、実戦の速度で回っている。


「ほう」


ヴァンが、初めて評価の声を出した。


出した直後、王女の障壁が張り替わる。その一拍を、木剣が正確に貫いた。


拍は、崩してあったはずだ。二呼吸と四呼吸を混ぜ、予告を消したはずだ。それでもヴァンは、揺らぎ始めの空気の張りだけで見抜いた。読めなくても、読む。目と経験だけで、読める人間と同じ場所へ届く。達人というのは、そういう生き物らしかった。


弾かれた細剣が宙を舞い、アリシアの手首が決まる。


セオは割って入った。


一合目は、朝稽古の足運びで木剣の下を潜った。潜れたことに自分で驚いた。二合目、ヴァンの体重の嘘のない嘘——嘘がないと読ませることが嘘だった——に足を払われ、視界が回り、気付けば王女と並んで、丘の草の上に転がされていた。


見上げた空は業腹なほど晴れていて、隣で王女が、聞いたこともない平民のような舌打ちをひとつした。


「——旗、いただき」


ヴァンは岩場の窪みから小旗を抜き、ひらひらと振った。


「二人まとめて、ここまで。よく保った方だ」


* * *


結果発表は、夕方の演習林の入り口で行われた。


セオとアリシアの組——旗四本の獲得に加え、「教官組二名との交戦で、一名から一本(実技教官の旗は、ヴァン戦の前に読みで釣り出して奪ってあった)」。ヴァンには敗れたが、教官の旗に手を掛けた組は他になく、総合評点は首位だった。


二位はレナードの組。教官組の旗を狙って丘へ最短で向かい、ヴァンに正面から挑んで、これも敗れたという。


「君たちも、あの人か」


帰り道、レナードが並んで言った。彼の頬には、木剣の平打ちの痕が堂々と残っていた。


「何合だった?」

「……アリシア殿下が三合、俺が二合」

「五合か。僕は相方と二人で四合だ。……あの教官、何者なんだ」


何者なのか。答えの半分を、セオは知っている気がした。塗り潰された頁の、消される前の中身。知っている気がするだけで、聞く気はなかった。


* * *


夜の書庫の個室で、二人は敗因の総括をした。


卓の上に、セオは今日の読みの記録を広げた。


「敗因ははっきりしてます。俺の読みが、紋章と魔力に寄りかかりすぎてる。読む対象を持たない相手には、目が白紙になる」

「わたくしの敗因も言いなさい」

「……張り替えの揺らぎを、空気の張りで読まれた。拍を崩しても、揺らぎ自体は消せない」

「そうね。悔しいけれど、そう」


アリシアは扇を開き、閉じ、また開いた。考えるときの癖だ。


「読めない相手への答え。あなた、半分は掴んでいるでしょう」

「半分だけ。——情報が出ないなら、出させる。挑発でも、地形でも、偽の隙でもいい。向こうに『動かせる』何かを、こちらから書き込む」

「具体案は」

「三つ考えて、二つ捨てました。挑発は、あの人には効かない。偽の隙は、偽だと読まれて逆用される。残るのは——地形と道具。読めない相手でも、踏む地面と受ける道具までは消せない」

「及第点。残りの半分は?」

「宿題です。今日の敗け金で買った宿題なので、ゆっくり解きます」

「書き込む、ね」


彼女は、先刻の言葉をもう一度繰り返した。


「読むだけの人だと思っていたけれど。……あなたの目は、剣より速いわ。今日、後ろで聞いていてよく分かった」

「負けましたけど」

「負けたのに、よ」


扇の先が、卓の記録を軽く叩いた。


「妬ける速さね」


王女の語彙で「妬ける」がどの温度なのか、今度も判定は保留した。保留の欄が、帳面の中で少しずつ嵩を増している。


片付けを終えて個室を出る間際、アリシアが背中に言った。


「セオ・アトリー」


名前で呼ばれたのは、初めてだった。


「御前試合に、出なさい」

「……御前試合?」

「秋の大祭。国王臨席。新入生の部は席次上位十六名——あなた、今ちょうど十六席よ」


振り向くと、彼女は個室の灯りを背に立ち、扇を閉じてこちらへ向き直った。


「教会があなたを見ている。派閥もよ。日陰にいるものは、日陰にいるという理由で潰される。潰しても、誰も騒がないから」


扇の先が、セオの胸元を正確に指した。


「なら日向に出なさい。御前試合で勝ち上がった新入生を、理由もなく消せば騒ぎになる。名前は、鎧よ。……あなたを守る一番の方法は、あなたを有名にすることよ」


守る、と彼女は言った。協定の条文どおりの言葉のはずが、条文より半歩だけ体温が高く聞こえたのは、書庫の灯りのせいだと思うことにした。


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