第25話 目と剣(前)
開始の鐘は、演習林の全域に響いた。
木立、下生え、小川、岩場。五十組の小旗が林のあちこちに散り、奪い合いが始まる。
セオとアリシアの初動は、動かないことだった。
旗はまず、目立つ木の根元に一本「立てた」。柄だけの偽物だ。本物の旗布は竿から外して岩場の窪みに畳み、上に苔石をひとつ。見せてもいい旗を表に、本物は棚の裏に——部屋の図鑑と同じ理屈だった。
偽の旗には、開始半刻で二組が食いついた。食いついた二組が偽物を巡って同士討ちを始めたので、勝った方から本物の一本目を頂いた。労せずして、というやつだ。
それからセオは高みの倒木に腹這いになる。読むためだ。林の中で紋章が起きるたび、光と魔力の癖が梢越しに漏れる。どこで誰が戦い、誰が勝ち、どの組がこちらへ流れてくるか——演習林全体が、一冊の動く本だった。
「北東、二組が交戦。勝った側がこちらへ来ます。火矢と剛力の組、旗持ちは左の男」
「編成は」
「火矢が前に出たがる悪癖。三射目の装填が遅い」
「なら三射目で潰すわ。——号令はわたくしが出す。あなたは読み続けなさい」
アリシアは細剣を提げて、木立の陰に立った。
来た二人組に対して、王女は声を張った。
「そこの二人! 火矢の三射目が遅いわ、丸見えよ——アトリー、右へ回りなさい!」
号令の形をした種明かし。指摘された側は動揺し、動揺した三射目はさらに遅れ、遅れた装填の隙に王女の細剣が旗ごと払った。
セオは右へ回っただけで、剣を一度も抜いていない。
それでいい。読みは全部、彼女の「号令」の中に溶けている。傍から見れば、これは王女が戦況を見抜き、駒を的確に動かしているだけの絵だ。
「お見事です、殿下」
「褒め方が棒読みよ」
「台本がないもので」
* * *
昼までに、旗は四本になった。
二本目は待ち伏せを読み返して逆に奪った。待ち伏せというのは、待つ側が痕跡を先に払う。払われて不自然に綺麗な下生えは、写本で言えば消し跡の残る頁だ。消し跡の向こうに回り込んで、後ろから旗だけ抜いた。
三本目は交戦で消耗した組から頂き、四本目の相手は三年の上位ペアで、これは正面から当たった——アリシアの障壁が相手の連携を受け止め、拍を崩した張り替えが敵の読みを外し、セオの読みが敵の「読もうとする癖」まで報せた。
障壁の拍を直したのは、三度目の週課だ。自分の校正が、目の前で他人の読みを殺していく。妙な手応えと、妙な寒気が、同じ場所から湧いた。
レナードのペアとは、小川を挟んで行き合った。
双方、動かなかった。レナードは対岸からセオとアリシアの布陣を眺め、旗の位置を測り、それから槍使いの相方に何かを言って、引いた。
「……逃げた?」
「取っておいたのよ」とアリシアが言った。「彼、本命は最初から教官組の旗だわ。学生同士の消耗戦に、雷の残量を使う気がない」
「同感です。あの人、うちらと同じ計算をしてる」
「うちら、という括りは初めて聞いたわね」
揚げ足だけは、王女は決して取り逃さない。
* * *
教官組の一人目は、昼過ぎに獲った。
実技教官。演習場でセオを見学席に振り分け続けた、あの規定の人だ。教官の旗は本人の腰にあり、本人は川辺の岩の上で悠々と学生を返り討ちにしていた。
「あの人は読めます」とセオは言った。「風斬と剛力の二紋。癖も、見学席から二月ぶん写した」
「なら、釣り出すわよ。餌は?」
「俺です。あの人、俺が実技に出られないことを規定ごと知ってる。——規定外の場所で俺が動けば、確かめに来る」
セオが単独で、わざと視界の端を横切った。教官は案の定、岩を降りて追ってきた。追った先の茂みで待つのは王女の細剣で、読み上げ済みの二紋は、初動を全部先回りされて三合で終わった。
「見事」と実技教官は旗を渡しながら、悔しさより感心の顔で言った。「アトリー。おまえの見学は、見学ではなかったらしいな」
「規定どおりの、見学でした」
規定の人は、笑っていいのか怒っていいのか分からない顔をした。
* * *
その直後から、林の空気が変わった。
学生ペアの旗が、次々に減り始めたのだ。北から順に、静かに、一組ずつ。悲鳴も交戦の光もほとんどなく、気付けば旗が消えている。
敗退して林の外へ歩く学生たちと、二度すれ違った。どの顔も、負けた悔しさより先に、何が起きたのか分からない顔をしていた。「気付いたら、旗がなかった」——三年の上位ペアの旗持ちが、呆然と同じ言葉を繰り返すのが聞こえた。
「教官組が、待ちに飽きたようね」
「……歩いて狩りに来てる。丘を空けて?」
「三人のうち、二人が出た。残り一人が旗番——という読みでいい?」
「いや」
セオは倒木の上で、耳と皮膚に神経を集めた。林の音の流れに、穴がひとつ空いている。鳥の声が途切れ、虫の音が薄れる帯が、ゆっくりとこちらへ動いてくる。
音のない、大きなもの。
「……旗番はゼロです。三人目も、出てる」
「丘が空? 罠かしら」
「罠でしょうね。でも、たぶんそれ以前の問題で——」
言い終わる前に、背後の茂みが、音もなく割れた。
「——ようやく見つけた。隠れ方だけは及第だ」
振り向いた先、木漏れ日の下に、木剣を担いだヴァン・オルローが立っていた。欠伸まじりの顔のまま、目だけがいつかの「狩る者」のそれだった。
「二対一だ、遠慮するな。……ああ、それと」
ヴァンは肩の木剣を、ゆっくり降ろした。
「手加減の仕方を、忘れちまってな」




