第23話 書庫の週課
週課は、五の日の夕方と決まった。
名目は書庫二階の資料整理。王女の研究個室に隣接する書庫の棚を、特待生が労働奉仕で整える——事務方への届け出はそうなっている。労働奉仕の中身が王家の秘密の校正だとは、届け出の紙は知らない。
一度目の週課で、飾り紋の修正方針を詰めた。
二度目で、第四紋の飾り環の重ね彫りが済んだ。彫るのは王都の外れの、王家が代々使う口の堅い彫り師だという。セオの校正刷りは、その工房への「匿名の指示書」に化けた。指示書はセオが書いた——ただし自分の字ではなく、王都の年寄りの彫り師が書きそうな、癖の枯れた筆跡で。筆跡を演じるのは写本の基礎技能で、まさか王家の偽装の片棒でその技能を使う日が来るとは、父も想像していないはずだ。
「筆跡まで変えるの」と、指示書を検めたアリシアが言った。
「直筆は残さない主義です。……お互いに」
「……本当に、敵に回したくない男ね」
三度目の週課で、アリシアは出し抜けに言った。
「障壁を見なさい」
「は?」
「わたくしの本物の二枚のうち、一枚。維持契約の範囲でしょう。……それとも、飾りしか読めないの?」
挑発の形をした依頼だった。個室の中で、彼女は薄絹の手袋を外し、左腕の障壁紋に魔力を通した。
「障壁よ、立て」
淡い光の壁が、卓の上に立つ。教本で読むのとは別物の、恐ろしく目の細かい障壁だった。そして——張りっぱなしではない。数呼吸ごとに一度、壁がわずかに揺らいで、張り直される。
「張り替え式、ですね。常時展開より精度を取る型」
「ええ。集中が要るけれど、薄い障壁を張りっぱなしにするより硬いわ」
「張り替えの拍が、揃いすぎです」
彼女の眉が、ぴくりと動いた。
「三呼吸に一度、きっかり。几帳面すぎる。読める相手には、次に壁が揺らぐ瞬間が予告されているのと同じだ。……せめて二呼吸と四呼吸を混ぜて、拍を崩したほうがいい」
沈黙が長かった。やがてアリシアは、悔しさを上品に畳んだ顔で扇を閉じた。
「五年間、誰にも指摘されなかったわ」
「読める人間が周りにいなかっただけです」
「……その台詞、そろそろ聞き飽きた」
それから半刻、二人で張り替えの拍を崩す稽古をした。教える、というより校正するに近い作業で、彼女の呑み込みは腹立たしいほど速かった。三度直した頃には、揺らぎの予告はほとんど読めなくなっていた。
読めなくしたのは、自分だ。
いつかこの校正が、自分の首を絞める日が来るかもしれない——そんな考えが頭をよぎり、笑って棚に戻した。彼女と敵対する日を想定する方が、今は不自然だった。
* * *
週課の帰りに工房へ寄ると、ちょうど納品の来客と鉢合わせた。
来客の側が、鉢合わせに耐えられなかった。
「こ、これは王女殿下……!」
ミナが工具を、がしゃんと落とした。
アリシアは届いたばかりの魔導灯の修理依頼を「偶然」持参した体で工房に立っており、ミナは油まみれの前掛けのまま床に膝をつきかけ、セオは戸口で荷物を抱えたまま固まった。協定第三条、公の場では無関心——の運用試験としては、最悪の初回だった。
「よい。手を動かしなさい」
王女は完璧な公用の微笑で修理品を置き、完璧な足取りで出て行った。出て行った後、ミナは五分間口を利かず、六分目にようやく言った。
「……あんた、なんで平気な顔してるの」
「慣れって怖いな」
「は?」
「なんでもない」
協定は守られている。守られているが、噓の運用には筋力が要ると知った。
なお後日、修理を終えたミナは魔導灯を検めながら、腑に落ちない顔で言った。
「これ、わざと壊してある。留め具の裏、素人は触らない場所が綺麗に外されてた」
「……へえ」
「へえ、じゃない。王女殿下がわざわざ壊した灯りを持って、なんでうちの工房に来るの。あんた、何の知り合い?」
「得意先だ」
「どこの写本屋が王家を得意先にするの」
職人の目は、紋章以外の嘘も読む。誤魔化しの在庫が、この友人の前では日ごとに目減りしていった。
* * *
演習の組稽古では、レナードと組むことが増えた。
誰が決めたわけでもない。実技教官が二人一組を作らせると、気付けば互いの前に立っている。それだけのことが、続いた。
レナードとの組稽古は、会話が少ない。
「右を頼む」
「ん」
それで通じる。彼の剣が右を薙ぎ、セオの読みが左の死角を報せる。二人がかりの的あて演習で、教官が記録を二度見する点数が出た。
「……君と組むと、戦場が広く見えるな」
汗を拭いながら、レナードがぽつりと言った。
「目がふたつ増えるので」
「四つだろう」
「俺の目は後ろにも付いてるって、取り巻きの皆さんが」
「言いそうだ」
冗談の練習相手としては、彼は少し生真面目すぎた。それでも、背中を預けて違和感のない相手というのは、この学院で彼が最初だった。
帰り際、レナードは思い出したふうでもなく言った。
「御前試合の代表要項が、そろそろ出る。……君は出るのか」
「席次次第でしょう。そっちは」
「出る。今年は、負けられない理由が増えた」
誰のせいで、とは言わなかった。言わない礼儀の分だけ、宣戦は重かった。
* * *
その週の終わり、掲示板に新しい告知が出た。
——対抗演習。二人一組。旗の争奪戦。全学年参加、評点は席次に反映。
組み合わせの決め方の欄を読んで、セオは嫌な予感を覚えた。
——組分けは、くじ引きとする。
くじ。人為の入らない、完全な偶然。
偶然というやつは、物語の都合みたいな引きを平気でやる。五年間の経験則が、そう告げていた。




