第22話 指名戦
指名戦の朝、渡り廊下で王女の一行とすれ違った。
唇だけの声が、伏せた視界の端で動く。
(止められなかったわ。ロデルは父の代からの派閥なの)
(公的無関心の協定が、初日から効いてますね)
(……皮肉は減点よ)
協定の三条は正しく機能している。王女は特待生の決闘に興味を示さない。示さないまま、廊下の先で扇が一度だけ、強めに閉じられた。
* * *
観覧席は、ダリオ戦の倍は埋まっていた。
十六席対八十二席。侯爵家の秘伝紋対、例の無紋。賭けの帳場は今日も立って、相場は「ルシアンの五合以内」だという。
白線の向こうで、ルシアン・ロデルは手袋を締め直していた。
「先に言っておくよ、写本屋君。君の手の内は調べさせてもらった。相手の紋を見て、写す。実に興味深い——だからこそ、僕が適任なんだ」
立会教官の合図と同時に、ルシアンは袖をまくった。
前腕の紋章が起きる。読める——読み始めた、その瞬間。
「幻よ、惑え」
世界が、増えた。
ルシアンが三人に分かれた。三人とも紋章を光らせ、三人とも構えが同じで、三人とも——読める。
それが、罠だった。
目が勝手に三人ぶんの紋章を読みにいく。三つの文が同時に流れ込み、頭の中で重なり、濁る。二人に増えた。五人。七人。七人ぶんの偽の文が、一斉に喋り出す。
王都の門をくぐった日の百倍の音量で、目が、うるさい。
膝が揺れた。吐き気が喉の裏まで来る。
読むのをやめようとした。やめられなかった。五年間、目は読むことで生きてきた。息を止めろと言われて止められないのと同じで、目の前に文字がある限り、この目は読みにいく。読めば濁る。濁ってもまだ読む。毒の栓が、自分の側に付いていない。
「おやおや。読める目というのは、便利なぶんだけ不便らしい」
七人のルシアンが、同じ角度で首を傾げた。
「君の目は読んでしまうのだろう? なら、読み切れない量を見せればいい。——僕の幻は、君にだけ効く毒なのさ」
火の礫が飛んできた。幻かどうか読もうとして、また目が濁る。頬を掠めたそれは、本物だった。焼ける痛みで、一瞬だけ頭が晴れる。
——このままでは、読み殺される。
* * *
下がりながら、セオは選択肢を数えた。
写しは論外だ。この状態では、写す一枚を選ぶ目がもう保たない。読み比べて本物を探す? 七つの文を読み比べるあいだに、本物の礫が先に届く。
読む速さで、読まされる量に勝てない。
なら。
——読めるものが多すぎるなら、読まなければいい。
セオは、目を閉じた。
観覧席のどよめきが、遠くで波打った。世界から七人のルシアンが消え、偽の文の洪水が止まる。残ったのは、砂を踏む音。空気の動き。焦げた匂いの流れる向き。
夜明けの旧練兵場。見る、立ち位置、呼吸。あの稽古の後半、ヴァンは決まって言った。「目をつぶれ。皮膚も目のうちだ」。足音のない男の打ち込みを、頬の産毛で受け続けた朝々が、体の中に積んである。
幻は、視覚の術だ。
目を閉じた相手に、幻の七人は仕事をしない。
右前方、砂の軋み。本物の足は、幻より重い。
だがルシアンも、すぐに理解した。足音が止み、砂の気配が薄れる。息を殺し、爪先だけで回り込む静けさ——彼は彼で、目を閉じた相手との戦い方を、その場で組み立てている。侯爵家の三男は、幻の陰に隠れるだけの男ではなかった。
静寂の探り合いが、二呼吸。
先に動いたのは、衣擦れだった。絹の袖は、木綿より高い音で鳴る。
火の礫の風切りを左肩でかわし、音の出どころへ、一直線に踏み込む。
「なっ——」
ルシアンの声が、初めて優雅さを失った。振られた細剣を音で受け、剣の腹を滑らせて懐へ。目を閉じたままの一撃は、教本のどの頁にもない角度から、侯爵家三男の胴を打った。
白砂に倒れる音を聞いてから、セオは目を開けた。
世界にルシアンは一人だけで、その一人が、呆然と空を見上げていた。
「——それまで! 勝者、八十二席セオ・アトリー!」
観覧席は、今日も歓声より先に沈黙が来た。目を閉じて幻術師を破る、という絵の意味を、皆が呑み込むのに時間が要ったらしい。呑み込んだ後の音は、ダリオ戦より一回り大きかった。
* * *
席次の勝敗処理は、割り込み式だ。
勝者は敗者の席に割り込み、敗者以下はひとつずつ繰り下がる。月例の挑戦なら上下の幅は十席以内——だが指名戦に、その保護はない。仕掛けた側が負ければ、落差はそのまま牙になって返る。
その割り込みに、一度だけ待ったが掛かりかけた。
決闘の日の夕、席次係の窓口に先客がいた。ロデル派の上級生が書記に耳打ちしている——月例扱いで処理を、申請には口頭の但し書きがあった、と。
窓口の奥から、申請書を手にした大柄な本科生が出てきた。本日の決闘の立会補佐を務めた、湯の順番の人だ。
オーウェン・ダントは、申請書の区分欄を指で叩いた。
「区分は指名戦。受理印も控えもある。但し書きは、紙のどこに書いてある」
「……口頭での」
「口頭は、規定の管轄外だ」
声は平らなままだった。上級生は引き下がり、書記は区分欄のとおりに帳簿を付けた。オーウェンはセオを一瞥して、何も言わず奥へ戻った。守られた、という感触は薄い。規定が守られ、その内側にたまたま自分が立っていた——そういう背中だった。
翌朝、席次板の前は黒山だった。
八十二席の札が抜かれ、十六席の位置に差し直される。ルシアンの札は十七席へ。六十六席ぶんの跳躍に、係の生徒が三度も席次表を確かめていた。
「……学院史に残るぞ、これは」
誰かが言った。潰すための制度が、潰し損ねた瞬間に、最強の梯子に化ける。制度の穴を開けたのは、悪意の側だった。セオは差し替わった自分の札を眺め、それから帳面に短く書いた。
十六席。挑んだのではなく、挑まれた結果。
ルシアン本人は、板の前に立っていた。取り巻きも連れず、一人で。セオに気付くと、彼は乱れのない礼をした。
「完敗だ。……次があれば、と言いたいが、再挑戦の規定は九十日。当分は席を磨いておくよ」
負け方の綺麗な貴族を、これで二人知った。この学院の名家は、負けてからの方が上等になるらしい。
「ひとつだけ聞いても?」とセオは言った。「幻に、音と気配は付けられないんですか」
ルシアンの目が、すっと細くなった。
「……君は、敵に塩どころか砥石を送るのか」
「次があるんでしょう。なら、次はもっと読み甲斐のある幻が見たい」
「言ってくれる」
侯爵家三男は、今度こそ本物の笑みで手袋を締め直した。
その夜、北棟の窓辺で、月明かりを頼りに唇の稽古をした。
(うちの派閥が失礼をしたわ)
昼の廊下の、彼女の唇はそう動いていた。返した唇はこうだ。
(いえ。おかげで出世しました)
一拍おいて、返ってきた形を、セオは何度も思い返した。
(……及第点)
扇の内で、王女は確かに、少しだけ笑っていた。




