第21話 同じ縄
指定の場所は、貴賓の間ではなかった。
図書館の最奥、書庫の二階の研究個室。王女が「論文の準備」の名目で年間押さえている部屋だという。侍女も護衛も扉の外に残され、卓を挟んで二人きりになった。
埃と古い紙の匂い。貴賓の間の茶より、こちらの方がよほど落ち着くのは、育ちの問題だと思う。
個室の棚には、彼女の私物らしい書物が詰まっていた。背表紙を目が勝手になぞる。政治史、法制史、系譜学、婚姻記録の註解——娯楽の一冊もない。王女の書棚というより、何かを追っている人間の書棚だった。
視線に気付いたアリシアが、扇の先で棚を軽く塞いだ。
「勝手に読まない」
「背表紙までは、目の管轄外です」
「……本当に、嫌な目ね」
「単刀直入に言うわ」
アリシアの声から、茶会の柔らかさが抜け落ちていた。短く、平らで、断定の速い声。こちらが素なのだろう。
「あなた、どこまで読んだの」
「七枚のうち、二枚は本物。四枚は文になっていない飾り。最後の一枚は——読めませんでした」
隠す局面は、もう過ぎている。セオは全部を、そのまま置いた。
アリシアは瞬きもしなかった。長い沈黙のあと、彼女は小さく息を吐いて、卓の上で指を組んだ。
「五年間、誰にも見抜かれなかった。州都の司教にも、王宮の鑑識にも、教会の授紋官にもよ。……それを、燭台係が十歩で読むのね」
「読める目のせいで、こちらも五年、ろくな目に遭っていません。お互い様かと」
「お互い様」
彼女はその言葉を、舌の上で検分する言い方をした。
「いいわ。なら、お互いの分を開示しましょう。取引の卓に着く前に、商品の目録は要るもの」
* * *
王女の開示は、簡潔で、底が深かった。
七紋は王族の継承資格であり、教会の認証事項でもある。七つ揃って初めて「女神の恩寵を受けた王家の血」と認められる。欠ければ継承の列から外れるだけでは済まない。王家の血の正統性そのものに、教会が疑義を差し挟む口実になる。
「授紋の儀を握っているのは教会よ。つまり、王家が王家であることの判子も、半分は教会が握っているの。七紋はその判子。わたくしの腕は——王家と教会の力関係が彫ってある帳簿というわけ」
だから偽装は、彼女個人の見栄ではない。露見すれば、王家の足元が揺れる。揺れた足元に、教会は必ず楔を打つ。腕の四枚の飾りは、国の均衡の上に彫られていた。
「わたくしの姉たちは、二人とも他家へ嫁いだわ。政略の駒として、先に使われた。だから予備の駒のわたくしには、七紋が要った。——物心つく前に、もう刻まれていたの。選ぶ余地なんて、最初からどこにもない」
使える紋は、聖光と障壁の二枚だけ。残りは飾り。王家の血が薄まったのか、彼女の体質なのか、それすら確かめる術がない。確かめようとすること自体が、露見の危険だからだ。
「七枚目のことを聞いても?」
「……あれは」
初めて、彼女の言葉が一拍遅れた。
「分からない。物心ついたときには、もうあった。誰が刻んだのかも、何の紋なのかも。父上に聞いたことが一度だけあるわ。答えは『おまえが知る日が来ぬことを祈る』——それきりよ」
本人も、知らない。
読めない紋章を、意味も知らずに背負って、その上に六枚の演技を重ねて生きている。セオは自分の背筋が冷えるのを感じた。無紋の五年間は軽くなかったが、少なくとも自分の体に、読めない他人の字は書かれていない。
「同情かしら、その顔」
「いえ。……装丁の綺麗な本の、綴じの内側を見た顔です」
「言い回しがいちいち写本屋ね」
彼女はそう言って、ほんの少しだけ、本当に少しだけ笑った。作られていない表情を見たのは、それが初めてだった。
* * *
条件の擦り合わせは、半刻かかった。
セオの側の義務。一、飾り紋の維持と校正(先日の目録の続き)。二、七枚目の監視——変化があれば直ちに報告。三、彼女が進める「ある調査」の代読役。中身はまだ明かされない。「信用の残高が貯まったらね」だそうだ。
アリシアの側の義務。一、教会と貴族政治からの、可能な範囲の防波堤。二、書庫と記録への閲覧の便宜。三、公の場では互いに無関心を装うこと。
「三つ目は、あなたのためでもあるのよ。王女と平民の接点は、それだけで醜聞になる。醜聞はあなたを潰す口実に化けるわ」
「心得ます。……で、破ったときの話もしておきますか」
「話が早くて助かるわ」
アリシアは扇を閉じて、卓の上に置いた。
「あなたが裏切れば、わたくしはあなたを異端として教会に売る。無紋の写しは、売り文句には困らないでしょうね」
「そちらが裏切れば、俺は読んだものを然るべき筋に書き残す。写本屋の遺言は、たぶん普通の遺言より残ります」
「上等よ」
物騒な条文を、彼女は満足そうに二度読み返した。
「対等というのはね、アトリー。互いの首に、同じ縄をかけることを言うの。——同じ縄よ」
「首は細い方から締まるので、お手柔らかに」
「あら。締まりやすさなら、いい勝負だと思うけれど」
それが、契約の締結だった。署名も血判もない。あるのは、互いの首の縄の重さだけ。帰りの書庫の階段で、セオは自分が笑っていることに気付いて、少し困った。命懸けの縄のはずが、五年ぶんの独房の錠が一つ外れたような、妙な軽さが胸にあった。
読める、を隠さなくていい相手が、この世にひとりできた。
* * *
翌週の月例席次戦の掲示の前で、その軽さは終わった。
申請の一覧に、見慣れない形式の一枚が貼ってある。
——指名戦。十六席ルシアン・ロデルより、八十二席セオ・アトリーへ。
指名戦。上から下へ仕掛ける、潰すための決闘。ヴァンの夜営の講義が、耳の奥で蘇る。
ロデル。確か、侯爵家。そして掲示の脇では、絹のような銀灰の髪の生徒が、手袋を几帳面に締め直しながら、こちらを見て優雅に微笑んでいた。
「初めまして、写本屋君。王女殿下のお茶会に招かれた栄誉、同じ学び舎の者として鼻が高いよ」
声は柔らかく、目は笑っていなかった。
「増長した平民の躾は、殿下のお手を煩わせる前に、臣下が済ませるものでね」




