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紋章なしの紋章師  作者: 西棟
第一部 学院編 第1章 無紋の少年
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第20話 校正刷り

部屋を探られて、怒りが湧かなかったと言えば嘘になる。


ただ、怒りの行き先を考えると、筆が止まった。彼女の側から見れば、話は単純だ。国の根幹に関わる秘密を、素性の知れない平民に読まれたかもしれない。確かめる。潰せるなら、潰す。王族の作法としては、むしろ穏当な部類だろう。閨閥と毒の歴史なら、図書館の年代記で腹いっぱい読んだ。


つまりこのままだと、こちらは「潰される側の駒」の欄に載ったままになる。


では告発するか。誰に? 教会に持ち込めば、王家と教会の均衡ごと燃える。火元の無紋が無事で済む道理はない。王家に訴えれば、王女の醜聞を握った平民の始末は、たぶん書類一枚で済まされる。どの窓口に持ち込んでも、この秘密は持ち込んだ人間から燃える作りになっていた。


降りる道はない。読んでしまったものは、読まなかったことにできない。なら、載る欄を変えるしかなかった。


敵の欄でも、駒の欄でもない、どこか別の欄に。


セオは夜の机で、便箋を三枚出した。


書き出しは、宛名も挨拶もなし。署名もなし。書いたのは、ただの目録だった。


一、第四紋。環の交差が逆。正面一歩の距離で鑑識の心得がある者が見れば、違和感に気付く恐れ。修正案、交差の上に飾り環を一画重ねて誤認を誘う。


一、第二紋。褪せの階調が第一紋と揃いすぎ。刻んだ時期が違うはずの紋の褪せが同じなのは、かえって不自然。修正案、酸化の速い顔料で第二紋のみ半年ぶん「老けさせる」。


一、第五紋。単体では問題なし。ただし第三紋と同じ手の癖で彫られており、二枚を同時に検分されると同一工房の作と知れる。修正案、片方の飾り環の癖を意図的に崩す。


一、第六紋。画の末端が肌の皺と喧嘩している。成長に伴う位置ずれと思われる。修正案、末端一画の彫り足しで皺に沿わせる。


読み返して、我ながら呆れた。


王女の秘密を握った男が書く文書として、これは脅迫状でも取引状でもない。どこからどう読んでも、校正刷りだった。誤字の指摘と、直し方の提案。写本屋が本にやることを、そのまま人にやっているだけだ。


だが、これでいい。


脅せば敵の欄に載る。黙っていれば駒の欄のままだ。校正屋の欄なら——たぶん、まだ誰も載っていない。


* * *


渡し方は、二日かけて調べた。


手渡しは論外。郵便受けは侍女が検める。人を介せば介した人間が危険になる。残る道は、彼女しか開かない場所に置くことだった。


王女は週に一度、図書館の政治史の棚から本を借りる。借覧の記録は貸出台帳に残る。台帳は写本屋の目には日記と同じで、彼女の読書には規則正しい癖があった。返却は決まって五の日の夕方、侍女ではなく本人が返す。借りるのも選ぶのも本人で、供は書架の外で待たされる——本にだけは、他人の手を挟まない人らしい。


その癖に、賭けた。


五の日の昼、セオは返却棚の本を一冊、館内閲覧の体で手に取った。『ヴェルクレア政治史・第四巻』。頁のあいだに畳んだ便箋を挟み、栞の紐を挟んだ頁に掛けて戻す。


賭けの要素はふたつ。彼女より先に司書が気付くか。彼女が栞の頁を開くか。


前者は潰してある。返却棚から書架へ戻すのは閉館前で、彼女の返却と入れ違いだ。後者は——読書家の癖を信じるしかない。栞の掛かった頁を素通りできる読み手を、セオはあまり知らない。


夕方、書架の陰から、それは見えた。


政治史の棚の前で、アリシアが本を開く。頁を繰る指が、栞の位置で止まる。畳まれた便箋。彼女は周囲を見ない。見ないという動作を完璧にやったまま、便箋を袖に落とし、何事もなく本を閉じた。


——指が、一瞬だけ止まっていた。


開いてもいない便箋の厚みだけで、彼女は何かを察した。あるいは、誰からかを。


* * *


翌日の渡り廊下で、王女の一行とすれ違った。


儀礼どおりに道の端へ寄り、頭を下げる。衣擦れが近づき、通り過ぎる——その一瞬、伏せた視界の端で、彼女の唇が動いた。


声はない。息すらない。唇の形だけの言葉。


(なぜ、告発しないの)


セオは頭を下げたまま、同じやり方で返した。


(誤字を見つけたら、直したくなる質でして)


衣擦れの音が、半歩ぶんだけ乱れた。


(……ふざけてるの?)


(半分は)


一行は止まらずに行った。廊下の角を曲がる寸前、扇がひらいて、閉じた。何かの符牒のような、ただの癖のような、読み切れない動きだった。


頭を上げて、セオは自分の掌が汗ばんでいることに気付いた。唇ふたつぶんの会話に、決闘一戦ぶんの体力を持っていかれた。あの人と長話をする日が来たら、たぶん痩せる。


その夜、北棟の郵便受けに、二通目の香の封筒が差してあった。


文面は、一行きり。


——取引よ。条件を聞きに来なさい。


署名の代わりに、星と扇の私印。


セオは封筒を灯りにかざして、しばらく眺めた。敵の欄でも、駒の欄でもない。取引の相手の欄。載りたかった欄に、どうやら載った。


載ってから気付いたが、その欄がいちばん命懸けだった。


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