第19話 香の封筒
星降祭の夜、部屋の郵便受けに差してあった王女の封筒——中身は、茶会の招待状だった。
星降祭の労をねぎらい、話題の特待生を慰労する——文面はそういう体裁で、日付は三日後、場所は学院の貴賓の間。署名は流麗な一筆で、アリシア・ヴェルクレア。
断る、という選択肢を、セオは一晩だけ検討した。
結論は決まっていた。王女の招きを平民が断れば不敬になる。それに——断ったところで、あの目が引っ込むとは思えない。読まれたと知っている人間の目は、読み返してくるまで止まらない。五年間、鏡の中で毎朝見てきた種類の目だ。
誰かに相談する、という選択肢は三秒で捨てた。ミナに見せれば工房ごと巻き込む。ヴァンに見せれば、あの人はたぶん何か知っている顔で半分だけ答える。この封筒は、開けた人間の数だけ危険が増える種類の書類だった。
当日の朝、セオは一張羅の制服の袖口を繕い直し、靴を磨き、それから帳面の新しい頁に日付だけ書いて出た。何が起きても、帰ってから書けるように。
* * *
貴賓の間は、北棟の部屋が二十は入る広さだった。
磨かれた長卓、菓子の塔、湯気の立つ茶器。壁際に侍女がふたり、扉の脇に護衛の女官がひとり。そのどれもが調度の顔をして、実際には一人残らずこちらを見ている。
アリシア・ヴェルクレアは、卓の向こうで完璧に微笑んでいた。
「よく来てくれました、アトリー。決闘の傷は、もういいの?」
「お陰さまで。医務室の世話になるほどでは」
「結構。……どうぞ、座って。毒は入っていないわ」
「王女殿下の卓に毒を疑う不敬は、持ち合わせていません」
「あら。疑うのは不敬ではなく、作法よ」
茶が注がれた。香りのいい、たぶん一杯で銀貨が飛ぶ茶だった。
会話は、菓子の皿を三周するあいだ、完璧に無害だった。故郷の話。写本の話。学院の暮らし。彼女の問いはどれも柔らかく、どれも一枚めくれば別の問いだった。
「ギルフォードとの決闘も拝見したわ。雷装剣技を、纏い直しの一拍で破るなんて」
「……よく、ご覧で」
「継ぎ目、と言うのですってね。あなたの師の言葉では」
茶器を持つ手が、危うく止まりかけた。継ぎ目という言葉は、ヴァンとの稽古と、自分の帳面の中にしかない。観覧席から決闘を見ただけで、彼女はそこまで読み解いている。読める側の人間が、この卓の向こうに座っている——その確認を、彼女はわざわざ、こちらに聞かせる形でやった。
探り合いというより、名刺の交換に近かった。互いの名刺に、互いの武器の名前が書いてある。
「星降祭は、初めてでしょう。式典はよく見えて?」
来た、と思った。
「燭台係でしたので、遠目でした」
「あの位置で? 祭壇まで十歩もないのに」
十歩。彼女は燭台係の定位置を正確に知っている。調べたのではない。あの日、検めたのだ。
「……綺麗なものは、綺麗に見えるようにできているのだと思いました」
沈黙が、一拍だけ卓の上に置かれた。
アリシアは茶器を持ち上げ、口をつけずに戻した。
「面白い言い方をするのね」
「写本屋の言い回しです。装丁の綺麗な本ほど、中身より装丁に金がかかっている——という程度の意味で」
「その伝で言うと、わたくしは装丁のいい本かしら」
「拝読の許しを得ていない本の装丁を、あれこれ言う趣味はありません」
我ながら、綱の上の返事だった。読んだ、とは言っていない。読んでいない、とも言っていない。彼女の目が初めて、微笑の形から一度だけ外れた。値踏みでも警戒でもない。帳尻を合わせる目だった。
「……そう。本の話は、またいずれ」
茶会は、それから四半刻で穏やかに終わった。何も起きなかった。何も起きなかったことが、帰り道の廊下でいちばん重かった。
扉を出る間際、背中に王女の声が届いた。
「アトリー。決闘、見事だったわ。——あなたの目は、いいものを読むのね」
振り向いたときには、もう微笑に戻っていた。
* * *
その夜、北棟の部屋の前で、セオは鍵を差す手を止めた。
違和感は、匂いでも音でもなかった。開けて、灯りを点けて、三秒で分かった。
片付いている。
出たときのままに、完璧に。むしろ完璧すぎた。机の帳面の角は揃い、寝台の皺は伸び、棚の本は背の高さの順——いや。
本の並びが、一冊分だけ違う。
教本の三冊目と四冊目のあいだに差してあった座学の綴りが、二冊目の隣に移っている。几帳面な手が、几帳面に戻して、几帳面さの向きだけ間違えた。うちの棚の順は高さ順ではなく、授業の曜日順だ。
部屋を、探られた。
セオは椅子に腰を下ろして、深く息を吐いた。
図鑑は、無事だ。この部屋にあるのは見せてもいい頁だけ——ミルベルの民紋と、市場の偽紋の写しの綴り。本命の綴りは最初から部屋に置いていない。分冊して、別々の場所に。五年間の用心は、王都でも欠かしていなかった。
それでも、背中は薄ら寒かった。
茶会でこちらを引き止めているあいだに、部屋を検める。手際も人手も、王女の私兵のものだ。あの完璧に無害な茶飲み話は、時間稼ぎまで兼ねていた。
怒るべきなのだろう。怒りよりも先に、妙な感心が来てしまうのが、我ながら業だと思う。手際に無駄がなく、狙いが正確で、そして——見つからない前提の仕事に、一冊分の綻びを残した。完璧な人間の、完璧では済まなかった部分。
——読み合いは、もう始まったのだ。
セオは帳面を開き、今日の記録を付けた。日付。茶会。会話の要旨。そして最後に一行。
本の並び、一冊分だけ違う。




