第18話 星降祭
「式の間に灯りが落ちたら、あたしのせいになる。祈って」
朝いちばん、聖堂の梁の上から降ってきた声だ。工匠の祈りの頼み先が女神でなくこちらなのは、たぶん彼女なりの信仰の形だった。
星降祭の朝、王都は藍と銀に染まった。
家々の軒に星の飾り布が下がり、大路には屋台が列を作る。焼き菓子、蜜酒、星形の紙灯り。ミルベルの市を百倍にして、上から銀箔を振ったような賑わいだった。
学院の聖堂でも、昼から大礼拝が執り行われる。学生と教職に加え、王都の名士、州の代表、そして王族の臨席。門の警備は三重になり、朝から儀仗の騎士が石段を磨き上げる念の入れようだった。
大路の書き売りは祭りの特別号で、紙面の半分が七紋開示の儀の次第で埋まっている。屋台の星菓子の山を見て、ミルベルの水場の顔をふと思い出す。走れば五日、の算数の子は、今年の星降祭を町のどの角で見ているだろう。
特待生には、祭りより先に仕事が来る。
「アトリー、おまえは祭壇周りの燭台係だ。式の間、脇廊の定位置から動くな」
式務の割り振りは、労働と呼ぶには堂々とした身分制だった。貴族の子弟は参列席に座り、特待生は裏方に立つ。ミナは工匠科ごと灯りの管理に回され、朝から聖堂の梁の上で配線を這わせている。祈って、の宛先は朝のうちに引き受けてある。
もっとも、セオに不満はなかった。
脇廊の燭台係の定位置は、祭壇から十歩。参列席のどの椅子より、式のすべてが近くで見える場所だった。
* * *
昼の鐘とともに、聖堂の扉が開いた。
参列者が身分の順に石床を埋めていく。学院長、教官団、州都の司教たち。参列席の前列には名家の子弟が並び、レナードの金茶の頭が姿勢の良さでひとつ抜けて見えた。祭壇にはグレゴアが立ち、香炉から細い煙が真っ直ぐに昇っている。堂内は千の呼吸で温まり、それでも私語はひとつもなかった。
王族の入場は、最後だった。
楽の音が変わり、堂の全員が立ち上がる。
中央の通路を、アリシア・ヴェルクレアが歩いてきた。
式典の正装は、学院の制服とは別の生き物だった。藍の裳裾に銀糸の星々。結い上げた星銀の髪に、細い冠。菫の目は伏せられ、歩幅は完璧で、堂内の千の視線を一身に受けながら、砂粒ほどの揺らぎもない。
廊の定位置から、セオはそれを見ていた。
綺麗なものは、綺麗に見えるようにできている——いつか自分が言った台詞を思い出す。あれは作られた綺麗さだ、という意味で言った。今日のこれも、作られている。ただし、作りの水準が違った。呼吸、目線の高さ、指先の角度まで、一冊の完本として綴じられている。
王女は祭壇の前で立ち止まり、女神の星章に一礼した。
グレゴアの声が、堂内に朗々と渡る。
「——女神アステルの御名のもと、星降の日に、王家は民に恩寵を示す。七紋開示の儀である」
* * *
侍女が二人、王女の左右に付いた。
正装の外衣が肩から外され、薄絹の下の両腕が、燭台の光の中に晒される。
堂内のどよめきは、声になる前に畏敬で押し潰された。王族の七紋。女神の恩寵の、生きた証。参列席の誰もが、拝むように首を伸ばしている。
セオも、見た。
見てしまった。
一つ目。右腕の内側、聖光の紋。読める。起こしは三節、環は二重、画は深く、使い込まれた反りがある。本物だ。それも、恐ろしく手入れのいい本物。この摩耗の均し方は、毎日欠かさず、決まった手順で鍛錬した者にしか出ない。名簿の一番上は、飾りで座る席ではないらしい。
二つ目。左腕、障壁の紋。読める。これも本物だ。張り替え式の、精度を突き詰めた設計。画の摩耗が偏っている——実戦形式で使い込んだ痕だ。二枚とも、持ち主に恥じない働き者の字をしている。ここまでは、畏敬の側の読書だった。
三つ目。
セオの目が、止まった。
——文に、なっていない。
線は流麗だった。環も画も、遠目には完璧な紋章の顔をしている。だが読めば分かる。節と節が繋がっていない。魔力の通り道が、どこにも続いていない。字の形だけ真似た、意味のない——
市場の木札と、同じものだ。
四つ目も、そうだった。五つ目も。六つ目も。
装飾用の偽紋が、本物二つの隣に、四枚並んでいる。彫りの腕は王都の一流なのだろう。市場の焼き印とは比べものにならない、完璧な「紋章の絵」だ。けれど文は死んでいる。銀貨三枚の護符と王女の腕の四枚は、セオの目には同じ棚の品だった。
見間違いであってくれ、と思いながら、三つ目をもう一度読んだ。二度読んでも、死んだ文は生き返らなかった。
どういう、ことだ。
七紋の王家。継承の証。女神の恩寵。教科書の言葉が頭の中で音を立てて崩れていくのを、セオは燭台の脇で立ったまま聞いた。彫った職人は、知っていて彫ったのか。侍女たちは。教会は——祭壇の上で祝詞を上げている、あの司祭は。
分からない。分かるのはひとつだけだ。この堂内の千人で、あの四枚を「読めた」のは、たぶん自分しかいない。
そして、七つ目。
右の肩口に近い、最後の一枚。
——読めない。
偽物ではなかった。偽物なら「文になっていない」と読める。これは違う。文であることは分かる。線に文法がある。魔力の通り道も、たぶんある。なのに、意味がどの棚にも収まらない。
この感触を、知っている。
学院の正門。門柱の、一番古い一筋。
五百年前より、さらに上流。どの教科書にも載っていない、川の始まりの書体。石に刻まれていてさえ薄気味悪かったあれが——生きた人間の肌に、一枚だけ刻まれている。
誰が。いつ。何のために。
心臓が、一拍分だけ強く鳴った。
顔に出すな。出すな、と思ったときにはもう、目が七枚目を二度なぞっていた。
——祭壇の上で、菫の目が動いた。
伏せられていた視線が上がり、参列席を、静かに、扇のひと薙ぎほどの速さで渡る。感極まった老婦人。拝む商人。頬を染めた学生たち。千の顔をひと撫でで検分して。
脇廊の燭台の前で、止まった。
目が、合った。
それは一瞬だった。王女の視線はすぐに正面へ戻り、儀式は何事もなく進み、堂内の誰ひとり、その一瞬に気付かなかっただろう。
セオだけが分かった。あの目は、順路を検めていた。自分の腕を「読んだ」目が、どの高さから、どの角度で見ていたのかを。
とっさに燭台へ向き直り、芯を直す振りをした。手は動いた。遅かったことも、分かっていた。
五年間、読めない振りだけは上達しなかった。
その未熟の代金が、どういう形で来るのか——グレゴアの祝詞の声を聞きながら、セオは燭台の火だけを見て立っていた。
* * *
式が終わり、片付けが終わり、北棟に戻ったのは夜だった。
梁の上で一日を過ごしたミナと、購買で残り物の星菓子を分けて食べた。甘すぎる菓子と、他愛のない工房の話。今日見たものの話は、しなかった。話せる種類のものではなかった。
部屋の前まで戻って、セオは足を止めた。
扉の下の郵便受けに、白いものが差してある。
封筒だった。上質の紙。香が焚き込めてあり、開けなくても分かるほど品よく匂う。裏を返すと、緋色の蝋に小さな印が沈んでいた。
星と、扇の意匠。
王女の私印だった。




