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紋章なしの紋章師  作者: 西棟
第一部 学院編 第1章 無紋の少年
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第17話 百段の階段

申請の紙には、挑戦相手を書く欄が三つある。


セオは見学席の帳面を最初の頁から読み返して、一晩かけて三人を選んだ。選び方は決めてある。読めた相手にしか、挑まない。


九十三席、風斬の使い手。絞りの前で必ず息を止める癖。


八十六席、障壁の使い手。起こしの句を焦ると半分噛む。


八十二席、剛力の使い手。力比べに乗ると視野が消える。


十席刻みの一番上を狙えばもっと跳べる、と申請所の書記には言われた。跳べるだろう。読めていない相手に、賭けで勝てれば。賭けをしないのが写本屋の商いで、それを曲げる理由は今のところ何もない。


月例の席次戦は、演習場に白線を三本引いて、朝から順に消化される。


一戦目、九十三席。


相手は開幕から風斬を連発してきた。見えない刃は厄介で、初撃は頬の横を風が抜けてから気付いた。それでも二撃目からは読める。息を止める癖は、止めた息の続く三拍のあいだしか刃が出ないという意味だ。三拍数えて、四拍目に踏み込む。それを二度繰り返したところで、相手の呼吸が乱れて句が空回りした。決着は体術。ヴァンの足運びが、また一つ仕事をした。


二戦目、八十六席。


障壁は堅かった。堅いが、焦らせれば句を噛む。セオは初めて人前で二枚目の手札を切った——審査の日の風斬。「風よ、斬れ」。見えない刃が障壁の縁を掠めるたび、相手の起こしは早口になり、五度目に半分噛んだ。張りの薄くなった障壁ごと、刃引きの剣で押し倒した。


三戦目、八十二席。


力比べを挑まれた。乗らなかった。剛力と剛力なら書き手の地力で負ける。だから写さず、退がり続けて、視野の消えた突進を白線の外へ二度受け流した。場外二回、判定。地味な勝ちほど、観覧席は静かになる。静かな観覧席の隅で、ヴァンが欠伸をしているのが見えた。合格、の意味の欠伸だと思うことにした。


夕方、席次板の前で、係の生徒が札を差し替えた。


百席の札が抜かれ、八十二席の位置に差し直される。三人の名前がひとつずつ下がる。抜いた札と差した札のあいだの十八席ぶんを、セオはしばらく眺めた。


階段は、あと八十一段ある。


* * *


席次が上がると、書類が増えた。


寮の部屋替えの案内(北棟から本寮の相部屋へ移れる、という。断った。北棟は静かで、工房が近い)。支給剣の更新の案内(断った。ミナの研いだ剣より良い支給品が、この学院にあるとは思えない)。断り続けたら、事務方に「変わり者」の判を押された気配があるが、帳面には「実利」とだけ書いておいた。


変わったのは、待遇より視線だった。演習場の見学席で帳面を開くと、遠くから覗き込もうとする首が三つ四つ伸びる。あの帳面には百人ぶんの弱点が書いてある——そういう噂が、いつの間にか歩き回っているらしい。


噂は、半分正しい。書いてあるのは弱点ではなく癖だが、癖は使いようで弱点になる。訂正して回る義理はないので、放っておいた。


* * *


その週の座学は、紋章学史だった。


老教授が黒板に大きく年表を引く。大災厄。女神アステルの降臨。聖王ヴェルクレアへの授紋。魔獣の平定、建国、そして最初の授紋の儀。教科書には建国期の石碑の拓本が図版で載っていて、彫りの深い古語が並んでいる。


「これがわしらの文字の、いちばん古いご先祖じゃ。読める者——は、聞くだけ野暮かの、アトリー」

「……字面だけなら。『星の名のもとに、この地を守る』」

「うむ。建国王の誓いの碑じゃな」


教室が半分感心し、半分白けた。どちらでもよかった。セオの引っかかりは、読めたことではなく、その先にあった。


教科書を、最初の頁から図版だけめくり直す。建国期の碑。二百年前の法典。百年前の教会文書。どれも読める。書体は少しずつ姿を変えながら、一本の川のように今の文字へ流れ込んでいる。


なら——川の、上流は?


大災厄より前の文字が、一枚もない。


五百年より昔の書字は、拓本も、写本も、図版の一枚さえ、どの教科書にも載っていなかった。歴史は建国から始まっている。その前の頁が、この世のどの本にもない。


……いや。


一枚だけ、心当たりがある。学院の正門で、どの棚にも収まらなかった、あの読めない一筋。


授業の後、教壇を片付ける老教授に、それとなく聞いてみた。大災厄より前の書き物は、どこにも残っていないのか、と。


「残っておらんよ。焼けたか、朽ちたか。……災厄というのは、そういうものじゃ」


教授は拓本の図版を丁寧に閉じて、それから少しだけ声を落とした。


「もっとも——王家と教会の書庫は、わしらの立ち入れる棚ではないでの。無い、と言い切れるのは、わしの知る棚の話じゃ」


立ち入れない棚。この学院の図書館の奥にも、鉄の格子があったことを思い出す。


セオは帳面の余白に小さく「上流?」とだけ書いて、深追いをやめた。分からないことは分からないまま持っておく。埋まる日は、向こうから来る。


* * *


放課後の工房で、報奨金の勘定をした。


勝ち星三つで銀貨六枚。机に並べると、ミナが横から覗き込んだ。


「何に使うの」

「砥石と、革の油と、紙とインク。あとは取っておく」

「色気がない」

「そっちは五枚の注文で何を買うんです」

「銀線と、坩堝(るつぼ)の内張りと、蝶番。あとは取っておく」

「色気がない」


お互い様だった。作業台の上では、作り直しの計量炉が骨組みまで戻っている。壊される前より配線が一本少ないのは、半月ぶん新しい頭が余計な線を削ったからだそうだ。


籠手も、銀線の太い二代目が組まれ始めていた。「どうせまた雷と殴り合うんだから」と言われれば、返す言葉はない。次に殴り合う雷が誰のものかは、お互い口にしなかった。


帰り道の中庭は、夕方の匂いが変わり始めていた。渡り廊下の柱に職人たちが飾り布を掛けていて、藍色の地に散らした銀の星が、夕日の低い光を拾っては手元で揺れる。聖堂の石段には花の鉢が並び、購買の軒には星形の飾り菓子の予告が貼られ、通りかかる生徒の歩みが、そこだけ少しずつ遅くなる。祭りの支度というのは、支度のうちがいちばんいい匂いがするものだと、市の立つ町で育った鼻は知っている。夕闇の先で、掛け終わった飾り布が一枚、風を受けて星ごと膨らんだ。


星降祭。女神アステルの祝祭が、十日後に迫っていた。


祭りの貼り紙の隣に、小さく添えられた一行を、セオは読んだ。


——本年は王族臨席のもと、七紋開示の儀を執り行う。


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