第16話 触らない者たち
決闘の翌朝、食堂の景色は書き換わっていた。
壁際の席は変わらない。変わったのは距離だ。昨日まで消えていた周囲の席が、今日は「様子見」の間合いで埋まっている。遠すぎず、近すぎず、いつでもどちらにも転べる距離。教室でも廊下でも、同じ間合いがセオを囲むようになった。
露骨なのも来た。
「アトリー君、だったね。僕はセドリック・ロー。子爵家の三男でね、君の決闘は実に痛快だった。よければ今度、うちの読書会に——」
昨日まで口を利いたこともない中位貴族の子弟が、名刺代わりの家名を置いていく。読書会、剣術の私的な稽古会、写本の「割のいい」内職の斡旋。どの誘いも、袖の下に同じ文が透けていた。得体の知れないものなら、懐に入れて観察したい。
セオは全部に同じ礼を返し、全部を保留にした。嘲りから畏れへ、畏れから打算へ。視線の書体は変わっても、こちらを「人」として読んでいる目は、まだ数えるほどしかない。
廊下では、ダリオの取り巻きだった一人と行き合った。相手は目を逸らし、半歩引いて道を空けた。空けられた道を歩くのは、塞がれた道を迂回するのと、また別の据わりの悪さがあった。
その数えるほどの一人が、購買の列で隣に並んだ。
「あの籠手、いい仕事だ」
レナードだった。前置きも、決闘の話もなし。目線はセオの腕の絶縁籠手に落ちている。
「工匠科の?」
「ミナ・ハレット。北棟裏の工房です」
「覚えておく」
それだけ言って、彼は自分の買い物を済ませて行った。決闘の因縁を引きずらない、記録のとおりの男だった。ただ、去り際に一度だけ振り向いた。
「銀線の編み、あれは特注だろう。……僕の雷を三度受けて焼き切れなかった籠手は、初めてだ」
敗者の言葉ではなかった。武人の、道具への正当な敬意だった。
* * *
その敬意は、三日で形になった。
工房を訪ねると、ミナが困った顔で木箱を抱えていた。中には依頼の書き付けが五枚。騎士科の三年から絶縁籠手の注文、二年から剣帯の修理、そして一枚は——ギルフォード家の家紋章入りの、正式な発注書だった。
「観覧席で籠手を見てた奴らが、どこの仕事か調べたって。……あんたのせいだよ」
「せい?」
「……おかげ、って言い直すと思った?」
言い直さないのが彼女の流儀だった。ただ、書き付けを仕舞う手つきは、どう見ても職人の嬉しさの形をしていた。工房の戸には、二人で組んだ新しい錠が収まった。壊された半月は、注文の五枚で釣りが来る。彼女の帳簿は、ちゃんと黒字に戻りつつあった。
「年度課題も、作り直しの申請が通った。今度のは前より良くなる。壊される前の設計より、あたしの頭は半月ぶん新しいから」
その言い方が気に入って、セオは帳面の隅にそのまま写した。
* * *
呼び出しは、昼過ぎに来た。
学院聖堂の司祭室。用向きは「新入生への祝福の面談」だという。順番に全員がやるものだと事務方は言ったが、セオの知る限り、先に呼ばれた新入生はいない。
司祭室は香の匂いがした。ミルベルの礼拝堂と同じ、甘くて少し焦げた匂い。
「ようこそ、アトリー君」
机の向こうの司祭は、細面に浅い笑みを湛えていた。グレゴア、と名乗った。歳はコルムより若く、笑みはコルムより深く、目はどちらより乾いている。
「堅くならずに。これはただの、顔合わせのようなものです」
「はい」
「ミルベルのご出身とか。よい町と聞きます。……春に、魔獣の災いがあったそうですね」
「町の皆で凌ぎました」
「ええ、ええ。報告は読みました。勇敢なことです」
グレゴアは机の上で、指をゆっくりと組んだ。
「あの夜、あなたは騎士殿の紋章をお借りになった。……どのような、お気持ちでした?」
気持ち。
手口でも、方法でもなく、気持ち。質問の狙いが読めないまま、セオは一番安全な答えを選んだ。
「夢中で、よく覚えていません」
「そうでしょう、そうでしょう」
司祭は二度頷いた。頷きながら、目は一度も笑みの形にならなかった。それからしばらく、故郷の話、父の商いの話、学院の暮らしの話。中身のない問いが続き、中身のない答えを返した。
一つだけ、中身のある針が混ざっていた。
「読み書きは、どちらで? ご立派なものだ」
「父に習いました」
「なるほど、なるほど。……その目も、お父上譲りで?」
針の先が、皮膚のすぐ上で止まった気がした。
「さあ。母譲りかもしれません。もう、確かめられませんが」
「それは、失礼を」
司祭は悼みの形に眉を下げた。眉の下の目は、何かを帳面に書き付ける動きをした。面談は、それから四半刻で終わった。
立ち上がったセオの背に、グレゴアは最後の一言を置いた。
「女神の慈悲は、遅れて届くこともございます。——あなたの上にも、いずれ」
廊下に出てから、セオは自分の呼吸が浅くなっていたことに気付いた。
何も聞かれていない。何も答えていない。なのに、検分されたという感触だけが、聖油の匂いと一緒に襟に残った。
* * *
夜明けの旧練兵場で、ヴァンは木剣を二本担いで待っていた。
一本が、セオに投げて寄越される。いつもの「杖」ではなかった。
「今日から打ち込みじゃない。打ち合いだ」
「……いいんですか」
「継ぎ目が読めたなら、次は自分の継ぎ目を消せ。読める奴と当たったとき、今のお前は頁の開きっぱなしだ」
読める奴。その言い方に、観覧席の最前列の残像が重なった。扇の内の、唇の動き。
打ち合いは、三十秒で終わった。文字どおり頁を開くように、セオの構えの癖を三つ指摘されて転がされた。それでも木剣を「打ち合わせてもらえた」ことが、この師匠の採点表では昇級を意味する。
二本目の打ち合いは一分保った。三本目の途中で、ヴァンが半歩の間合いの内側で止まった。「今、俺の木剣がどこを通ったか言え」「……見えませんでした」「見えない太刀は、体で読め。皮膚も目のうちだ」。教えは相変わらず、写本屋の言葉に翻訳できる形で来る。
稽古の帰り、中庭の掲示板に人が集まっていた。
月例席次戦の告知。申請は三日以内、挑戦は上位十席以内、月に三件まで。
隣で覗き込んだミナが、納品の荷を抱え直しながら言った。
「そういえばあんた、まだ百席のままなの」




