第15話 雷装(後)
膝をついたまま、セオは盤面を裏返した。
雷装剣技は、二枚が同時に仕事をするから強い。だが雷刃は魔力食いで、纏いっぱなしにはできない。だからレナードは要所で纏い直す。そして人の体はよくできていて、二つの紋章を同時には起こせない——纏い直しの半拍だけ、瞬脚が緩む。
二枚の紋章の、あいだ。
継ぎ目の話だ、とあの男は言った。稽古場でではなく、綴じの緩んだ写本を直させながら、いつか言われた気もする。頁と頁のあいだが緩んだ本は、そこから開く。
拾うべき漏れは、確定した。あとは書くだけだ。
セオは弾き飛ばされた剣を拾って、立った。
観覧席のどよめきが、一段低くなる。立会のバルロが上げかけた手を、事務的に下ろした。
「……続行」
レナードは追撃をしていなかった。膝をついた相手を待つ。記録のとおりの男だった。そのとおりの男が、待ちながら眉をひそめた。セオが、右の袖をまくったからだ。
「ようやくか」
「お待たせしました」
写すのは、一枚。
雷刃紋。起動句なら、この十五合で数え切れないほど聞いた。画の癖も、纏いの濃淡も、骨に刻まれるほど見た。速さは要らない。この一枚は、逃げるための紋ではないからだ。
指先に魔力を集める。焼けた針の痛み。一画、二画——白砂の上で、自分の腕を書き物机にする。会場の静けさが、皮膚の上の熱と一緒に張り詰めていく。
書き上がった。
「——雷刃よ、纏え」
借り物の雷が、支給剣の刃を細く走った。
観覧席が、爆ぜた。
* * *
レナードの目に、初めて感情の全部が乗った。驚きと、歓びと、その奥の警戒。
「僕の家の雷を、僕の前で写すか……!」
「借りてます。あとで返します」
「返すな。斬り込んで来い!」
望むところ、とは言わなかった。言う代わりに、足を出した。
打ち合いは、これで五分——ではない。向こうにはまだ瞬脚がある。同じ雷刃でも、本家の纏いは厚く、こちらの写しは細い。まともに撃ち合えば三合で焼き切れる。
だから、まともには行かない。
一合。雷と雷がぶつかって、白い火花が散った。腕まで痺れが抜ける。二合、三合——受けるたび、写しの光が細る。観覧席には押されて見えているはずだ。実際、半分は本当に押され気味だった。
残り半分は、数えている。
レナードの雷刃が、ふっと薄れた。
濃く纏い直す前の、あの瞬き。この十数合でいちばん濃い纏いを、彼は決着のために作る気だ。次の一撃が、この決闘でいちばん速く、いちばん重い。
——来る。
観覧席の音が、潮の引くように失せた。ミナが工具箱の把手を握り込むのが、視界の端に映る。石段の最上段で、ヴァンが組んでいた腕を、静かに解いた。
「雷刃よ、纏え——瞬脚よ、疾れ!」
二重の起動句。最速の踏み込み。雷を纏った剣が、正面から消える速さで来た。
セオは、下がらなかった。
半歩、前へ。ヴァンの足運びで最短の内側へ。振り抜かれる剣の腹へ、ミナの籠手を合わせる。銀線が悲鳴を上げて雷を散らし、衝撃で肘まで痺れた。それでも剣は、落とさなかった。
レナードの雷刃が——纏い直しの半拍に、入る。
脚が、緩む。
今。
写しの雷が乗った剣を、セオは最短距離に置いた。突きでも斬りでもない。ただ、彼が次に踏み込む線の上に、先回りして置いた。
自分の速さで、レナードは雷の刃へ踏み込んだ。
刃引きの剣が胴を打つ鈍い音と、雷の弾ける音が、同時に鳴った。
* * *
静寂は、三つ数えるぶんだけ続いた。
白砂に膝をついたのは、二席だった。
「——それまで! 勝者、百席セオ・アトリー!」
バルロの声が終わる前に、演習場が割れた。歓声と悲鳴と怒号の混ざった、意味になる前の音の洪水。石段の上で誰かが叫んだ。「百席が、二席を破った!」
セオは腕の写しが消えるのを見届けて、それから膝に手をついた。立っているのがやっとだった。籠手の銀線は半分が焼け落ち、肩口の傷が今頃になって主張を始めている。
レナードが、膝の砂を払って立ち上がった。負けた直後の所作まで、記録の綴りのとおりに乱れがなかった。
取り巻きが白線の外から駆け寄ろうとする。ダリオの声が上ずって届いた。
「い、今のは写しです、レナード様! 本物の実力では——」
「よせ」
一言で、場が静まった。
レナードは剣を鞘に納め、乱れた襟を正し、まっすぐにセオの前へ歩いてきた。
「僕の家の剣が、正面から破られた。それが全部だ」
声は演習場の全員に届く大きさで、そのために張られた声だった。敗北の言い訳を、彼は自分の連れにすら許さなかった。
それから、決闘の礼。腰から折る、教本どおりの完璧な礼だった。セオも同じ角度で返した。顔を上げたとき、二席の目には熱だけが残っていた。
「セオ・アトリー」
初めて、名前を呼ばれた。君でも、白紙でもなく。
「次は負けん」
「……次も勝つ、と言いたいところですが」
セオは正直に言った。
「次の手は、まだ書けてません」
レナードは一拍おいて、短く笑った。この男の笑い声を聞いたのは、学院中でそれが初めてだったらしい。観覧席のざわめきが、また少し質を変えた。
* * *
決闘の後、医務室の帰りに工房へ寄ると、ミナは焼け落ちた銀線を無言で外し始めた。
「……すまん。半分駄目にした」
「本望でしょ、こいつは。仕事して死んだ」
彼女は焼けた線を小箱に仕舞い、新しい銀線の巻きを棚から下ろした。「作り直す。次はもっと太いのを編む。あんた、どうせまた雷と殴り合うんだから」
反論の材料が、何ひとつなかった。
通用口ですれ違ったヴァンは、包帯だらけのセオを上から下まで眺めて、一言だけ寄越した。
「拾ったな」
継ぎ目を、とは言わなかった。言わなくても通じる程度には、師弟の帳簿も貸し借りが増えている。
名誉決闘は、席次を動かさない。
翌日の席次板で、百席の札は百席のままだった。それでも札の前で足を止める者はもういない。かわりに演習場では、見学席のセオの帳面を、遠くから盗み見る目が増えた。恐れの形も、値踏みの形も、昨日までとは違う書体になっている。
少なくとも、白紙、と呼ぶ声はその日一度も聞かなかった。
人垣の引いた放課後の演習場で、セオは観覧席を見上げて、初めて気付いた。
最前列に、まだ人が残っている。
星銀の髪。畳んだ扇。侍女も護衛も連れて、一席がそこにいた。いつからいたのかは分からない。少なくとも、決着の場面は見ていた席だ。
アリシア・ヴェルクレアは立ち上がり、踵を返しながら、扇の内で何かを呟いた。
独り言だ。誰に聞かせる声でもない。侍女すら気付かない、唇だけの動き。
声は届かない。届かなくても——唇の形は、読める。
(読んでいたわね、今の)
セオの背筋を、雷刃とは別の種類の何かが走った。
読んでいた。この人は、あの決闘の中身を正しく読んでいた。継ぎ目も、数えていたことも、たぶん最後の一手の意味も。学院で二人目の「読める側」が、名簿の一番上に座っている。
王女の一行は、振り返らずに観覧席を出て行った。石段に、扇のひらく小さな音だけが残った。




