第二話 空白の記憶
翌朝、窓から差し込む暴力的なまでの太陽光で目が覚めた。
昨夜の湿った不気味さが嘘のように、部屋の中は春の陽気に満ちている。俺は布団の中で大きく伸びをし、昨夜の自分がいかに滑稽だったかを思い返した。引っ越し初日の緊張と、古いアパートの静けさに、勝手に想像力を働かせていただけだ。
机には、昨夜、畠山主任が届けてくれた大きな封筒が乱雑に置いてある。
中を確認すると、至って事務的な書類一式が入っていた。入社式の案内、研修のカリキュラム、準備すべき備品リスト。どこをどう見ても、これから社会人になる俺を待ち構える、「未来」の断片だった。
主任の丁寧な手書きの付箋まで添えられており、
「困ったことがあったら遠慮せず相談してください。
一緒に4月から頑張りましょう!」と書かれていた。
「畠山主任、本当良い人だよなぁ…。」
俺はしみじみと付箋を眺め、あとで詳しく目を通そうと封筒に入れ直しまた机の上に置いた。
夕方から地元の友人・中村と飲む約束がある。
家を出る準備をしながら、俺はふと、
あの錆びた回覧板の存在を思い出した。
しかし、机の上、玄関、棚の影、
どこを探しても、回覧板は見つからなかった。
「おかしいな。どこに置いたっけ…」
昨夜、慌てて飛び出した際、どこかに置き忘れたのかもしれない。少し焦ったが、あの気味の悪い規則が書かれた板だ。失くなったところで実害はないだろうと自分に言い聞かせ、俺は部屋を出た。
二駅先の地元駅に降り立つと、そこは知った顔と知った匂いに満ちていた。
待ち合わせ場所の改札前で、中村がスマホをいじっている。
「おー、柏木! 新生活はどうだよ」
「まあな。まだ荷解きも終わってないけど、アパートは広くていいよ」
中村の屈託のない笑顔を見て、ようやく俺は心から息を吐いた。
駅近くの馴染みの居酒屋に入り、ビールを煽る。就職のこと、共通の友人のこと、他愛もない話で盛り上がった。やはり地元は落ち着く。そう確信した時、ふと、昨夜見た名前が脳裏をよぎった。
「なあ、中村。慎二兄ちゃんのこと、覚えてるか?」
その瞬間、中村がジョッキを置く音が、やけに重く響いた。
さっきまで饒舌だった彼の表情がわずかに強張るのが見えた。
「……慎二さん? ああ、いたな。お前の親戚の」
「俺、ずっと慎二兄ちゃんは小学生の頃に事故で亡くなったって親から聞いてたんだけどさ。ふと思い出したんだよ。葬式に出た記憶がないなって」
中村は焼き鳥の串をいじりながら、視線を泳がせた。俺の目を見ようとしない。
「……お前、親から何も聞いてないのか?」
「え?」
「いや、俺も詳しくは知らないぜ。ただ、うちの親父が言ってたんだ。『あの人の話は、あんまり公にするもんじゃない』ってさ」
中村の声のトーンが、一段低くなった。周囲の喧騒から切り離されたような、ひどく冷めた声だ。
「…俺は、行方不明って聞いたけど。当時、警察も出たらしいけど、結局何も見つからなかったって」
ビールの冷たさとは違う冷気が、喉の奥に張り付いた。
「行方不明? 冗談やめろよ。」
「お前のじいさんが必死になって探してたって俺の親から聞いたような、まぁ小学生の頃だし俺の記憶違いかな。…まあ、この話はやめようぜ。ごめんな!曖昧な記憶で変なこと言っちゃったかも。改めて、乾杯!」
中村は強引に話を打ち切るように、残りのビールを一気に飲み干した。
彼が慎二兄ちゃんの話題を避けたがっているのは明らかだった。単なる「行方不明」という言葉以上に、そこには触れてはいけない暗部が潜んでいるような、そんな雰囲気だった。
昨夜、回覧板に書かれていた「佐伯慎二」という文字。
中村の言う通り、彼が今もどこかで見つからずにいるのだとしたら。
あの「規則」が書かれた錆びた板は、今どこで、
誰の手にあるのだろうか。
店から出たあと「俺、このまま彼女の家行くから、ここから近いんだ」と言う中村とすぐに別れ、
駅方面に一人で歩きつつ、
街灯に照らされた自分の影を見る。
そこには、ごく普通の、影が一つだけ伸びていた。
異変は何もない。
ただ、二駅先のあの静かな部屋に帰るのが、言いようもなく恐ろしかった。




