第三話 指
4月1日。
雲ひとつない青空の下、俺は真新しいスーツに身を包み、入社式の会場へと向かった。
二駅先の「あの部屋」で目覚める朝も、一ヶ月が経つ頃にはすっかり日常の一部になっていた。結局、あの錆びた回覧板は見つからないままだったが、生活に支障があるわけでもない。いつの間にか、俺の意識からあの夜の恐怖は、春の霞に溶けるように消え去っていた。
「柏木! 今日から仕事でもよろしくな」
式典の会場で隣り合ったのは、インターンの時に馬が合った同期の山田だった。彼は俺と同じ寮に入社式の数日前に慌ただしく入居してきた。
本当はボロい寮ではなく綺麗な賃貸を借りるつもりだったが良い部屋が見つからず土壇場で会社に頼み込んで急遽寮を借りたらしい。
快活な性格だが随分はた迷惑な男だ…。
「おう、よろしく。落ち着いたら、今度俺の部屋に遊びに来いよ。プラモの新作、並べて待ってるからさ」
俺が軽い調子で誘うと、山田は一瞬だけ、言葉に詰まったような顔をした。
「……ああ。……まあ、機会があればな」
明るい表情から一転して浮かない表情を見せた山田に違和感を覚えたが、入社式の緊張のせいだろうと、俺は特に深く追求せずにそのまま式典に臨んだ。
その翌日から1ヶ月間。
俺と山田は、本社での合同研修を受けた。毎日朝から晩までビジネスマナーや製品知識を叩き込まれ、夜は同期たちと安居酒屋で将来を語り合う。そんな目まぐるしい日々の中で、あの夜の出来事は完全に「過去の錯覚」として処理されていた。
5月。
研修を終えた俺と山田は、新しく設立されたばかりの綺麗な営業所に正式配属となった。
フロアは白を基調とした清潔な作りで、最新のデスクが並んでいる。
畠山主任も、「現場へようこそ。今日からは実践だね」と、あの温厚な笑顔で俺たちを迎え入れてくれた。
仕事は忙しくも充実していた。
何も、おかしなことなんてなかった。
そう思っていた。
配属されて一週間が経った日の夕方。
オフィスには俺と山田、それに少し離れたドア近くの席に畠山主任だけがオフィスに残って作業していた。西日がブラインドの隙間から差し込み、オレンジ色の長い光がフロアの床を斜めに切り取っている。
ふと横を見ると、山田がパソコンを打つ手を止め、
膝の上に置いた自分の右手をじっと見つめていた。
山田は、左手の親指で、右手の指を一本ずつ、なぞるように数えていた。
「…2…3……4……。」
微かな呟き。俺は苦笑して声をかけた。
「どうした、山田。何数えてるんだ?」
山田はビクッとして肩を大きく揺らし、慌てて手を引っ込めた。
「えっああ、いや、なんでもないよ。ちょっと、爪の形が気になっただけ。変な癖なんだよな、俺」
山田は引き攣ったような笑みを浮かべ、顔を赤くしてキーボードを叩き始めた。だが、その視線は泳いでおり、明らかに何かを隠そうとしている素振りだった。
「そうか? 数えてるみたいに見えたけど」
「いや、本当になんでもないから。……それより明日の資料、どう?終わった?」
強引に話題を逸らされ、俺はそれ以上追求するのをやめた。だが、その時の山田の指先が、小刻みに震えていたのが目に焼き付いた。
しばらくして、山田が「お疲れ」とだけ言って、鞄を持って足早にオフィスを出て行った。
俺は一人、残った作業を片付けようとしばらく集中していたが、
ふと床に目を向けた。
西日に照らされ、俺と山田の影が並んで東側の壁へと伸びている。
その時、俺の心臓が嫌な音を立てた。
山田はもういない。なのに、床にはまだ「二人の影」が残っているように見えた。
驚いて目を凝らすと影はなく、
なんだ、俺の見間違いだったのかと安堵したその時、
「何を見てるの。 」
背後から声がした。
振り返ると、畠山主任が窓を背にして逆光の中に立っていて、その顔は真っ暗で読み取れない。
「いえ、何でもないです。ただ、目が疲れてるのかも、でも、寝れば治ります。」
俺は主任に笑って返事をしてパソコンに向き直った。
しかし背後の主任は特に返事をするわけでもなく、どこかに行く素振りもない。
違和感を覚え背後の畠山主任に恐る恐る目を
向けようとしたその瞬間
「柏木くんまだ残ってたんだね。お疲れさまー。」
畠山主任がオフィスのドアを開けた。
ありえない。
今さっき話したのは一体…?
「おっ、お疲れさまです…!えっ?!」
俺が挙動不審に辺りを見回すと主任は
不思議そうに俺の顔を見てから少し何か考えて
「…もしかして俺そっくりなのと話した?」と聞いてきた。
「話しました。…いやでも今思うと畠山主任に似てたか分からないです…そう思い込んでただけで全然違う人かも…声も主任とは違ったような…?」
「そうかぁ、たまにあるんだよね。いないはずの人がいたって言う人。」
「えっこれよくあるんですか?」
「うーん、でも、みんなあとから考えたら全然似てないけどその時はその人だと思っちゃうんだって。変だよね。俺は見たことないけど…柏木くんは完全に暗くなる前に今日は帰りなね。」
お言葉に甘えてその後早々に帰った。
寮に着き、階段を上がろうと思った時
ふと、帰り際に体調が悪そうだった山田が気になり
一〇ニ号室の前に立ち止まった。
インターホンを押したが返事はない。
寝てるのか帰っていないのか、
しつこくするのも良くないと思い諦めた俺は
すぐに階段を上がり、明日の出勤に備えて
いつも通り就寝した。




