87.あなたがいなければ
ヴァレン様はステラの腰を抱いたままホールの奥にある軽食スペースに移動すると、ステラが持ったままだった葡萄酒のグラスをひょいと取り上げてそのまま飲み干す。
「ヴァ、ヴァレン様…」
「兄上には一度厳しく言わないとな。」
口をつけた飲み物を尊いお口に入れてしまってステラは慌てるが、ヴァレン様は気にした様子もなくまだ第一王子殿下のことを睨み付けている。
そしてステラをまた抱き寄せると耳を食むように口付けしながら言う。
「兄上と何を話した?」
「み、耳が…」
耳を舌が這う感覚にステラはビクッと震えてしまう。
「言わないともっと恥ずかしいことをするよ。」
王城で貴族の面前なのにドレスから出ている背中を妖しく撫でられて、ステラは耳まで真っ赤になる。
「あ、あの、第一王子殿下の近衛にならないかと言われました。第一王子殿下の側なら危険な目に合わない、と…。」
ステラの言葉にヴァレン様の手がぴたっと止まる。
「お戯れでしょうから、勿論お断りしました。それから、瞳を見るように言われて…」
第一王子殿下の瞳に一瞬燃え上がった紅い光を思い出すが、ここで口にすることではないので顔を伏せる。
「ステラ、帰ろう。」
「え?!でもヴァレン様は…」
主役が退場するには早いのではないかと慌てるが、また腰を強く抱えられたので抵抗できなくて、そのまま私室に連行された。
◇◇◇
私室に押し込まれると、そのままベッドに体を押し付けられて性急な口付けをされる。
「んっ…ヴァレン様……どう、された…のですか………あっ…」
見ると、ヴァレン様の金色の瞳の縁が紅く染まっている。
ステラは慌てて魔力を込めながら背中を抱き寄せる。
「ヴァレン様、私はヴァレン様のお側を離れるつもりはありません。望んでくださるのならばずっとお隣にいます。」
ステラの魔力がヴァレン様に染み込んでいくと、ふぅーっと息をついて、ステラをまた見下ろす。
「ステラ、兄上はステラを寵絡しようと、私から奪おうとしている。」
「そ、そんな…」
濃い金色の瞳に戻ったヴァレン様が真剣な顔でステラに言うが、自分にそんな価値があるとはとても思えなくて驚く。
「父上がお認めになったとはいえ、まだ婚約者という身分だ。
兄上に本気で奪われたら、私には抵抗できる手段がない。母上はお怒りになるかもしれないが。」
泣きそうにも見えるヴァレン様の瞳を見てステラもそれは嫌だと泣きたくなる。
「そうなったら私はどんな手段を使っても逃げ出します。命を奪われようとも、ヴァレン様から離れるつもりはございません。」
「ステラ…。」
やっとヴァレン様の瞳が和らいだ。
「私は黙ってドレスを着ている人間ではないので大丈夫です。」
ステラが微笑むとヴァレン様も少しだけ微笑んでくれる。
「…例えそうなっても、命だけは大切にしてくれ。君のいない世界では生きていけない。」
「ヴァレン様。私もヴァレン様のいない世界では生きていけません。添い遂げるまでお側にいさせてください。」
尊いお言葉に目を瞠るが、ステラも同じ気持ちだったので微笑んで返す。
ステラが一番初めにかけた、自分の命と引き換えにヴァレン様を守る魔術が発動してもヴァレン様が生きていけないのなら、そうならないように力をつけてお守りしようと誓った。
◇◇◇
八月に入ってやっと社交の予定が落ち着いた。
ヴァレン様が執務室で過ごされる時間も増えたので、ステラは今日も王国魔術師団の訓練に向かおうとしていたらヴァレン様に呼び止められた。
「ステラ、今日から妃教育が始まるんだ。」
「き、き、き……」
「妃教育だ。」
「ひっ…」
「女官長が迎えに来るからここで待っていてほしい。」
「…はい、ヴァレン殿下。」
怯えるステラにヴァレン様はいたずらっぽく微笑んでいるし、横で作業をしていたレオナルドは笑いを耐えて肩が震えている。
たしかにヴァレン様の、第二王子殿下のお妃様は何の覚悟も努力も無しになれるものではないだろう。
自分に務まるのかまた不安になってぷるぷる震えながら執務室の扉の横に張り付くように立っているとノックの音がしてビクッとする。
「失礼いたします。ステラ・アルカニス嬢をお迎えに参りました。」
「は、はい。」
どうにか呼吸を落ち着けてからぎこちなく一礼をして退出しようとすると、ちらっと見た二人は女官長の前で吹き出さないように下を向いて笑いを耐えていた。
「ステラ・アルカニスと申します。本日からよろしくお願いいたします。」
「お初に御目にかかります、アルカニス嬢。女官長のセリーヌ・ショヴァンと申します。」
さすが王城の女官長だけあって見惚れるほど美しい礼だった。
そのまま女官長の先導で別の部屋に向かう。
「こちらでございます。」
案内された部屋は妃教育専用に使われるのか、ダンスもできそうなほど広くて、茶器や花器からさまざまなドレスまで様々な物が揃っていた。
「侍女より話は伺っておりますので、あなた様がお妃様になられる上で必要なことをお伝えさせていただきます。」
「よ、よろしくお願いいたします。」
「まず何よりもその言葉遣いでございます。あなた様は王族に連なる方です。王族以外に敬語を使ってはなりません。」
「は、はい。」
「それからその軟弱な態度はお止めください。王族が揺らいではなりません。」
「ひっ…。」
すぐにおどおどしてしまうステラは、警備部隊の訓練でも根性を叩き直されたが、女官長の指導はそれ以上だった。
生まれてこの方、屋敷の使用人を除いて人の上になど立ったことのないステラにとっては、まず王城の女官長に対して敬語を使わないなど震えてしまいそうになる。
「王族」や「妃」と聞くたびにビクッとなる振る舞いも正されて、午前中の指導が終わる頃にはステラは訓練に行くよりもヨレヨレになっていた。
「ステラ・アルカニス様がお越しです。」
「通せ。」
ヴァレン様の執務室に戻ると、頭を下げる。
「どうだった?」
「…私にはやはりそのお隣は不相応です、ヴァレン様……。」
麗しくて自信に満ちて見えるヴァレン様が一層尊く見えて目を細める。
「王国魔術師のときのステラでいれば大丈夫そうだけどね。かっこいいし。」
「王室は軍隊ではないのだから野蛮だと言われました。」
横からレオナルドが茶化すので、ステラはヨレヨレの顔を向けて答えた。
騎士達や王国魔術師団によって鍛えられてきたステラは軍隊式の振る舞いは身に付いていたが、王族の優雅な振る舞いなどできそうもなかった。
ステラの言葉にヴァレン様とレオナルドがついに吹き出した。
「や、野蛮…たしかに軍隊ではないかもね。」
ヴァレン様が笑いすぎて目の端に滲んだ涙を押さえながら言う。
お二人は高貴なお育ちだから自然と高貴な振る舞いができるのだろうがステラは違うのだ。
領地のトムス家令や侍女の指導でなんとか伯爵令嬢としての振る舞いはできるが、王族としては優雅さも高貴さも足りなかった。
「…一旦、王国魔術師団の訓練に行ってもよろしいでしょうか。」
「いいよ。気をつけて。」
第二王子殿下のお妃様という単語を百回は聞いて恐れ多さが限界に達していたので、一旦立場を忘れたかったのだ。
まだ笑っている二人に、鍛え直された優雅な礼をして退出した。




