80.先輩
舞踏会が終わり、社交の予定が落ち着いてくると、ステラはいよいよ焦り出した。
期末試験が迫っているのに、今学期はほとんど学院に通えていないのだ。
今日は午前中ヴァレン様が執務室にいらっしゃるので、王国魔術師のローブのまま急いで学院に向かっていた。
馬車を降りて、領地仕込みの俊足で教室まで駆け抜けた。
「あれ?ステラだ!久しぶり!」
息を切らして入るステラを久しぶりのクリスフォードが笑顔で迎えてくれる。
「ひ、久しぶり。間に、合って、よかったわ…。」
「ちょうど鈴が鳴るところだ、ほら。」
懐かしい響きの鈴が鳴って、慌てて席に着いた。
ステラは王国史の授業を受けながら絶望していた。
この授業は教科書に書かれていない先生の私見が語られるので、板書をとっていないと先生と見解が違ってしまったりするのだ。
今日も王国千年の歴史を切々と語る先生を見て、この教科だけは一位は無理かもしれないと思い始めていた。
授業が終わるとアリスのところに駆け寄ってすがり付く。
「アリス…っ!」
「ノートよね。勿論いいわよ。」
「ありがとう、アリス!すぐに写して返すわ。」
「ご婚約者様に頭を下げられたら騎士様に斬られそうで怖いわ。」
アリスに頭を下げると、いつものように屈託なく笑ってくれる。
「あと、あの件だけど本当にありがとう。」
ローブのポケットから巾着を取り出してアリスに押し付ける。
ヴァレン様への贈り物を代わりに選んでもらうので、そのお金だ。
「これ…お金なんて受け取れないわ。友達だもの。」
「受け取ってもらわないと私からの贈り物にならないわ。
それに私、使う宛もないのよ。ね、受け取って。」
ヴァレン様の近衛魔術師になってから身の丈に合わない額のお給金をいただいていたが、生活の面倒はヴァレン様にみてもらっているし学費は父が変わらず出してくれるので使い道もなかったのだ。
「…それもそうよね。ではありがたく頂戴するわ。」
「ありがとう、アリス。」
巾着を押し付けて、ステラはほっと息をついた。
慌ただしいが、もう王城に戻らないと次の任務に間に合わない。
皆に別れを告げて、ステラはまた走って馬車まで戻った。
◇◇◇
その日の予定を終えて侍女に磨き上げられたステラは、夕食に向かいながらこの後の予定を考えていた。
試験まであと二週間しかない。
アリスに借りたノートは膨大な量だが、夜を徹して写せば三日もあれば返せるかもしれない。
その日もヴァレン様と食卓というには大きすぎるテーブルを囲みながら夕食をいただくが、ステラはいつものように味わう間もなくひたすら口に運ぶ。
「そんなに急いでどうしたの?」
優雅に食事をされていたヴァレン様が目を丸くしてステラを見つめる。
「御目汚しを申し訳ございません、ヴァレン様。このあとやらなければいけないことがあるんです。
それでは、先に失礼いたします。」
最後の一口を飲み込んだステラはヴァレン様よりも先に部屋を出る無礼に深く頭を下げて、私室に急いだ。
私室に到着してアリスのノートを広げ、一心不乱に書き写していると扉がノックされて飛び上がった。
「ステラ、入るよ。」
「ど、どうぞ。」
思ったよりも早く部屋に戻ってきたヴァレン様の声に、慌てて机を片付けて立ち上がって頭を下げる。
「そんなに慌てて何をしていたの?」
「すみません。友人に借りた王国史のノートを書き写していたんです。」
「ああ、そういうことか。」
ヴァレン様は静かに机に歩いてくると、アリスのノートをぱらぱらとめくる。
「これ、私のときとほとんど変わっていないから私のノートを貸すよ。」
「え?!あっ!」
思ってもみない申し出に動揺してインクを溢しそうになってヴァレン様にクスクス笑われる。
「こちらにおいで。」
「は、はい。」
ベッドの奥にあるヴァレン様の私室につながる扉に向かうヴァレン様に慌ててついていく。
ヴァレン様の私室に入ると、そのまま天井まである本棚の一つに向かわれたのでステラも後に続く。
「ここにあるから自由に使っていいよ。」
ヴァレン様が示した一角には学院時代の教科書やノートがまとめて置かれていた。
「そ、そんな…ヴァレン様のノートなんて恐れ多くて、とてもお借りすることなんてできません。」
「気にしないで、ほら。」
そう言って王国史と美しい文字で書かれているノートを手に押し付けられてステラは慌てる。
第二王子殿下の直筆のノートなんて尊すぎて素手で触れていいようなものではない。
しかも百点中二百点を取るようなノートだから国宝級かもしれない。
慌ててローブのポケットから綺麗なハンカチを取り出しているとまたヴァレン様は訝しそうにステラを見る。
「ステラ、何をしてるの?」
「ヴァレン殿下の尊きノートを素手で触るなど不敬です。」
ステラがハンカチの上にノートを掲げるように持つとヴァレン様は急に吹き出してお腹を抱えて笑い出した。
「と、尊きノートって…。
いいんだよ、ステラ。困っている後輩を助けるのは当然だ。遠慮しないで。」
「で、でも…。」
確かにヴァレン様は先輩だけど、先輩と呼ぶには恐れ多すぎる。
笑いすぎて目の端を抑えているヴァレン様におろおろすることしかできない。
「王族ではなく一人の人間として見てって言ったでしょう。」
「…はい。」
その言葉をこんなことに使わせてもらってもいいのか不安だったが、ノートを書き写さなくていいのは大変有難い。
「あの、ヴァレン様、ありがとうございます。本当に助かります…。」
「うん。気にしないで。」
ステラが深く頭を下げると、ヴァレン様はステラの頭を優しくぽんぽんと撫でてくれた。
◇◇◇
それからはヴァレン様が執務室に過ごされるわずかな時間はステラも部屋の片隅を借りて勉強させてもらった。
他の教科のノートも有り難くも貸していただいたので、夜はヴァレン様の私室で過ごすようになった。
学院に行く時間はなかったので、アリスには翌日に侍女を通じてノートを返しておいた。
そして今日は再びヴァレン様よりも先に夕食を食べ終えて、久しぶりにステラの私室に戻ってきていた。
ステラはまた焦っていたのだ。
今学期は魔法剣術の試験がある。
筆記試験の勉強が落ち着いてやっと思い出したときには試験まで残り一週間だった。
三ヶ月ほど剣を振っていないので、このままだとドラードに負けてしまいそうだった。
ワードローブから儀仗を取り出して、高そうな調度品に当たらないように素振りをする。
儀仗を選んだのは王城で真剣を振り回したら騎士に斬られそうだからだ。
剣よりも長いので儀仗を逆さにして柄の中途半端なところを持って振っていると、扉をノックする音がした。
驚いて飛び上がったステラは慌てて儀仗を背中に隠してヴァレン様を迎える。
「…今度は何をしているの?」
入ってきたヴァレン様が儀仗を逆さに持つステラを訝しげに見つめる。
「…申し訳ありません。素振りをしていました。」
ヴァレン様は濃い金色の目を丸くして、次の瞬間笑い出した。
「杖で素振り?」
「剣を振り回したら騎士様に斬られそうなので…。」
ヴァレン様はまたお腹を抱えて笑う。
「魔法剣術か。私が相手しようか?」
「そ、そんな…ヴァレン様のお手を煩わせるわけには…」
「言ったでしょう。先輩を頼ってくれ。」
気まずくて顔を真っ赤にするステラを優しく抱き寄せて、頭を撫でられる。
「ヴァ、ヴァレン様は、王城では剣を持たれないのではないのでしょうか…」
寮にいた頃は毎日剣を振っていたヴァレン様だが、王城に来てからは正装の儀礼用の剣以外、剣を手に取る姿は見たことがなかった。
「ああ、前は気にしていたんだけどね。
今はもう大丈夫だから。
私も久しぶりに剣を握りたいし、朝、手合わせしようか。」
もしかして、ヴァレン様に王位をとの声が高まらないようにその才ある剣技も隠していたのだろうかと気付いた。
「い、いいんでしょうか…。」
「もちろんだよ。ステラに頼ってもらえると嬉しい。」
「…ありがとうございます、ヴァレン様。
どうお礼をしていいのかわからないですが、本当にありがとうございます。」
ステラの我が儘で学院に通わせてもらっているのに頼るのは申し訳ないが、追い詰められていたステラにはヴァレン様の優しさが尊かった。




