250.心を殺して★
★第三者との身体接触あり
「皇太子殿下、なぜ私のためにそこまでして下さるのですか?」
本当にこれで戦が終わるなんて信じられない。
ステラが皇太子殿下の黒い瞳を見て言うと、皇太子殿下はその瞳をまた慈しむように細めた。
「これほど欲しいと願ったのは貴女が初めてだ。貴女のためなら何だってできます。」
どこまでも黒い瞳でステラをじっと見つめながら言うのでステラは背筋がぞっと凍りついた。
皇太子殿下は気が触れているのだろうかと凄まじく不敬なことを考えていると、野原の奥から馬車が駆けてきた。
まさか、本当に使者を返してくれるのだろうか。
期待を込めて皇太子殿下を見つめると、にこっと微笑んで言った。
「貴女のお望みの物です。」
皇太子殿下がそう言うと、馬車の中から王国騎士が四名下りてきた。
服はぼろぼろだが怪我はなく、自分の足で立っていた。
「あなた達…!無事で……っ」
ほっとして涙が出そうになるのを堪えて思わず手を延ばすと、その手を皇太子殿下にぎゅっと掴まれた。
ステラの背中に手を当てていた父から即座に殺気が放たれて、父の密度の高い魔力がステラを包み込んだ。
ステラが驚いて皇太子殿下を再び見つめると、皇太子殿下は不気味なくらい微笑みながら言った。
「但し、一つだけ条件があります。貴国との友好の証として、貴女に親愛のキスを送りたい。
さすればこの者達はここでお返しして、戦はそちらの条件通り終わらせましょう。」
皇太子殿下の言葉に父は今にも魔法を放ちそうなほど殺気を強めて、ステラの肩を自分に抱き寄せた。
ステラは一瞬思考が停止した。
親愛のキスと言うが、皇太子殿下はチークキスではなく口付けを望んでいるのであろうことは明白だった。
皇太子殿下と口付けをしたとして、ヴァレン様に知られたら深く傷つけてしまうことだろう。
主君を裏切るような真似はしたくない。
でも同時に、ただ口付けをするだけで戦が終わるのならばいくらでも応じようと思う自分がいた。
ステラの唇の価値など、今まで奪った命と比べる価値もない。
それに何度も殺してきたステラの心は、皇太子殿下と口付けをする嫌悪感とヴァレン様への罪悪感を殺すことくらい容易かった。
「本当にそれだけでよろしいのですか?」
「王太子妃殿下!」
父がステラの肩を抱く手に力を込めて怒鳴るように言うが、ステラは父を見ることなく、皇太子殿下をまっすぐ見つめた。
父の目を見たら、ステラの脆弱な決意などすぐに崩壊するのがわかりきっていたからだ。
「本当は貴女が欲しいのだが、お父君の前でそれは酷でしょうから。」
皇太子殿下は再び不気味な微笑みを浮かべてステラに言った。
ステラはそれを聞いて、心を決めた。
「魔法伯、手を離しなさい。」
「殿下、なりません。」
ステラは初めて王族として父に命令した。
父は動じることなくステラに言って、肩をぎゅっと抱いた。
国王陛下の命だからではなく、父としてステラを守ろうとしてくれていることがわかった。
ステラは罪悪感で胸が締め付けられたが心を殺して続けた。
「そなたはこの国の王族に逆らうのか。」
ステラの言葉に父はビクッと体を震わせると、先程までの抵抗が嘘のようにさっと肩から手を下ろした。
王族の命令は絶対だとステラに教えたのは父だ。
父は王族であるステラに命じられたら逆らえない。
残酷な命令をしていることはわかっていたが、ステラはそれよりも残酷なことをここでしてきたのだ。
より多くの命を救うために、ステラは一歩足を踏み出して国境線の上に立った。
ステラが目を閉じると、ザッと音がして、あっという間に強く抱き締められた。
その瞬間、父から息ができなくなるほどの殺気が放たれて、杖に魔力を込められるのを感じた。
抱き締められるのは条件になかったのでステラがそっと皇太子殿下の胸を押し返すと、皇太子殿下はクスッと笑ってからステラの顎を掴んだ。
そして、その唇がステラの唇に押し当てられた。
襲ってくる嫌悪感とヴァレン様への罪悪感を必死で押し殺す。
何度も角度を変えて口付ける皇太子殿下に早く終われと心の中で念じながら、ステラは微動だにせずひたすら心を殺して耐えた。
「貴女の唇を奪えたのだから、この戦をした価値があった。」
とち狂った言葉を囁く皇太子殿下に、体の中の怒りがまた暴走して言い返そうと口を開いた瞬間、皇太子殿下が素早く唇を押し当ててそのまま舌を挿れようとした。
今度こそ父から殺気と共に魔法が放たれて、バチッと言う音がしてステラは皇太子殿下から引き離された。
そのまま父がステラの手を引いて、その腕にがっしりと抱え込まれた。
「邪魔が入りましたね。」
皇太子殿下は悪びれる様子はなく、相変わらずステラに不気味な微笑みを向けていた。
「ですが、これにて交渉成立です。降伏の書状に割譲の件を盛り込んで貴国に届けます。どうかお受け取りください、王太子妃殿下。」
「承知しました、皇太子殿下。書状の到着を楽しみにしております。」
ステラは父の腕に抱かれたまま頭を下げた。
「それでは、またお会いしましょう。王太子妃殿下。」
「ええ、またお会いしましょう。皇太子殿下。」
心の中ではもう二度と会わない呪いをかけたい気分だったが、ステラは笑顔を張り付けて再び頭を下げた。
皇太子殿下は急に口付けを見せつけられて呆然とする王国騎士達をその場に残して、馬車に乗って野原の奥へと消えていった。
皇太子殿下も近衛魔術師もいなくなるのを見送って完全に姿が見えなくなってから、父はステラをもう一度ぎゅっと強く抱き締めた。
「なぜあんな条件に従った。」
父が泣き声交じりの鼻声で言うので、ステラは驚いて固まってしまった。
「お前がここまでする必要はなかった。最初の条件通り、帝国を攻撃すればよかっただけの話だ。」
父がステラの体を離して言ったのでステラは父と目を合わせることになった。
その目は怒りに歪められ、涙が滲んでいた。
「お父様。私はこれ以上尊い命を奪いたくなかったのです。私の唇と民の命の価値など、比べるに値しません。」
民は自分達に仕える者、自分達とは違う者と思えるくらい尊い育ちだったのならば、もしかしたら唇の方が価値が高かったのかもしれない。
でもステラは民と共に育ってきたのだ。
無関係で罪のない帝国の民が、あのような下劣な統治者のせいで命を奪われるなど考えたくもなかったのだ。
「ステラ…。だが、王太子殿下は違うだろう。この事を知ったらお前に命じられなくとも、私に帝国への攻撃を命じられる。」
「ならば今私が命じます。」
ステラは、その場にいた部隊長とクリンプトン先生、そしてメーデンとアーノルドを見た。
皆、痛ましそうにステラを見つめて顔を歪めている。
「この事は誰にも口外するでない。口外した場合、私への反逆とみなす。王太子殿下にお伝えすることは決して許さぬ。」
「「承知しました、王太子妃殿下。」」
「…承知しました。」
ステラの命令に部隊長とクリンプトン先生はすぐに返事をした。
父は顔を歪めて言葉を飲み込むように頷いて、メーデンとアーノルドは黙り込んだまま顔を伏せていた。
ステラの護衛で派兵されているとはいえ、ヴァレンの近衛騎士である二人にとって主君はステラではなくヴァレン様だ。
たとえ反逆罪に問われても、主君を欺くような命令に頷くことなどできないのだろう。
「メーデン、アーノルド。あなた達の気持ちはよくわかります。」
ステラの言葉に、二人がはっとしたように顔を上げた。
ステラも二人と同じようにヴァレン様の近衛だから、立場が違えば同じことをしただろう。
「ですが、どうか国王陛下が帝国の降伏文書にサインするまでは待ってください。王太子殿下に報告するのはその後にしてください。
私はそのために屈辱を堪え忍び、王太子殿下への想いを押し殺したのです。
どうか私の願いを聞いて下さい。お願いします。」
ステラは二人の目を見て言って、そして頭を下げた。
「「…承知しました、王太子妃殿下。」」
沈黙の後、二人の声がしてステラはほっとして顔を上げた。
メーデンとアーノルドの目にも涙が浮かんでいるような気がしてステラは驚いたが、口付けのことは気にしないでほしかったので顔に微笑みを張り付けた。




