189.前夜
いよいよ結婚式を明日に控えて、ステラは朝目覚めた瞬間から緊張と胃痛で青ざめていた。
心細くなってそっとヴァレン様に顔を寄せると、額に優しい口付けが落ちてきた。
「ステラ、どうしたの?」
「すみません、緊張で胃が痛くて…」
「式は明日だよ。まだ緊張しなくても大丈夫。」
ヴァレン様にクスクスと笑われるが、尊い儀式に慣れているヴァレン様と違って、ステラは人前に立つことすら最近ようやく慣れ始めたのだ。
しかもあの場所で着飾って麗しいヴァレン様のお隣に立つなど、どんな令嬢でも胃を痛めるだろうと思ってまた青ざめた。
「魔法伯のところにでも行く?」
ヴァレン様がステラの頭を撫でながら聞いてくれる。
婚姻の勅許が下りる前日は、なんとなく父に会いたくなったのだ。
でもステラがお礼を言ったら父の涙が止まらなくなってしまい、最終的には師団長室を追い出された。
「私のことになると涙腺が弱いようなのでやめておきます。」
「涙もろいところまでそっくりだね。」
「…はい。」
そう言われると照れ臭いような嬉しいようななんだか恥ずかしい気持ちになる。
「では今日は一日一緒に過ごそうか。」
「えっ?!執務や準備は大丈夫なんでしょうか?」
ヴァレン様の言葉に、ステラは驚いて胃痛が引っ込みそうになった。
任務以外でヴァレン様と一日一緒に過ごせたのは幽閉が解かれた後の僅かな時間と王家の書庫にこもった日だけだ。
「レオに任せてあるから大丈夫。手合わせでもする?」
「い、いいんですか…?」
ステラはヴァレン様の言い付けを守って、ここ二週間は訓練に参加していない。
体を動かしたくてうずうずしていたので、ヴァレン様の思いがけない申し出に目を輝かせてしまう。
「絶対に怪我はさせられないから手加減はするけどね。」
「ありがとうございます!ぜひお願いします!」
まさか今日ヴァレン様と手合わせできるなんて思っていなかったので、嬉しくて胃痛もどこかに飛んでいった。
「ステラが元気になったならよかった。では、行こうか。」
「はい、ヴァレン様。ありがとうございます。」
ステラが意気揚々と起き上がって王国魔術師のローブに袖を通すのを、ヴァレン様は苦笑いで見つめていた。
◇◇◇
久しぶりに王城の庭でヴァレン様と向き合う。
嬉しくて勝手に緩んでしまう頬を引き締めてヴァレン様を見上げると、ヴァレン様も嬉しそうに微笑んでくれていた。
そのままステラが一歩踏み出すと、ヴァレン様も踏み込んで斬りかかった。
木刀の芯がぶつかる音と腕に走る痺れが嬉しくて、やっぱり頬が緩んでしまう。
一日一緒に過ごせると言われたので時間を気にせず打ち込んでいると、ふとヴァレン様が剣を下ろした。
また国王陛下がいらっしゃったのかと思って慌てて振り返ると、驚いて叫んでしまった。
「お、お父様?!」
王国魔術師のローブを着た父が一人で歩いてくるところだった。
「おはよう、ステラ。お前はこんなときに打ち込みをしていたのか。」
父は目を細めて微笑みながらステラを見つめた。
手に荷物を持っているから、王都の屋敷から登城したところなのだと気付いた。
父が荷物を地面に置こうとしたので慌てて駆け寄って荷物を受け取ろうとしたが、制された。
そして片手に荷物を持ったまま、ヴァレン様に臣下の礼をとって頭を下げた。
「ご機嫌麗しゅうございます、王太子殿下。娘と手合わせをしていただき、光栄に存じます。」
「顔を上げてくれ、魔法伯。」
ヴァレン様がつかつかとステラの方に歩いてきて、横に並んだ。
「魔法伯。遅くなったが、明日はよろしく頼む。」
ヴァレン様がそう言って軽く頭を下げたのでステラも慌てて頭を下げた。
「王太子殿下、お顔を上げてください。」
父の言葉で顔を上げると、父はヴァレン様をまっすぐ見つめて言った。
「どうか娘を、よろしくお願いいたします。」
父の言葉にステラは一瞬固まるが、次の瞬間なぜか涙がぽろぽろと溢れ落ちてきた。
ヴァレン様は突然泣き始めたステラを見て呆れたように笑ってから、父に真剣な眼差しを向けて言った。
「ステラは、そなたのご令嬢は私がこの力の全てをかけて守る。
魔法伯が大切に育ててきた命を私の生涯をかけて守り抜くと、我が名にかけて誓おう。」
ヴァレン様の言葉に父は一瞬目を丸くしたが、次の瞬間さっと横を向いて片眼鏡を外して、持っていた荷物で顔を覆った。
父も泣いているのだとわかって、ステラはまた涙が止まらなくなる。
「…王太子殿下、尊きお言葉を賜り恐れ入ります。それ以上はなりません。」
「そうか、魔法伯はステラのことになると涙もろいんだったな。」
鼻声で顔を覆う父とぽろぽろと涙を流すステラを交互に見て、ヴァレン様はまた呆れたように笑った。
「お父様。私、結婚式でお父様と手を取って歩くのが幼い頃からの夢だったんです。明日は正直怖いですが、お父様と一緒に歩けるのだと思うと楽しみです。」
ステラが泣きながら伝えると、父は荷物で顔を隠したままぴしゃりと言った。
「本当にこれ以上はやめろ。任務に差し支える。
王太子殿下、それではこれにて失礼いたします。」
父は鼻声で顔を荷物で隠したまま頭を下げると、忽然と姿を消した。
無詠唱でどこかに《転移》したのだろうが、唐突に消えたので思わずヴァレン様と顔を見合わせる。
ヴァレン様も驚いた顔でステラを見つめると、次の瞬間お腹を抱えて笑い出した。
ステラも笑ってしまって涙が引っ込んだ。
◇◇◇
その後はヴァレン様の私室でヴァレン様が幼い頃お気に入りだったという絵本を発掘したり、王家の書庫で二人で本を読んだりして過ごした。
ヴァレン様と二人きりで過ごす時間が楽しくて幸せで、明日の式への緊張はいつの間にか吹き飛んでいた。
夕方、ステラの私室のカウチに腰かけて、久しぶりに二人でゆっくり話した。
夕焼けが二人の髪を朱に染めているのを見て、ステラは呟くように言った。
「ここで指輪をいただいたとき、ヴァレン様の髪と瞳が夕焼けに染まってすごく綺麗だったんです。」
「私も、ステラのドレスが夕陽に染まっていて美しいと思っていたよ。」
ヴァレン様は目を細めて嬉しそうに返してくれた。
そして、窓の外で夕陽に照らされている天文台を眺めて言った。
「あの魔法は美しかった。君には美しい魔法が似合う。」
「ヴァレン様…ありがとうございます。魔法は美しいものだといいなと思っています。」
天文台の影に沈んでいく夕陽を見ていると、ステラはまた涙が溢れてきた。
「…っ、ヴァレン様と、こうしてまた一緒に過ごせて、本当に幸せです。」
これ以上泣いたら目が腫れてしまいそうなので慌てて拭おうとして、ヴァレン様に抱き締められた。
「もう離さないよ。ずっと私の隣にいて。」
「はい、ヴァレン様。」
見上げると、ヴァレン様の金色の瞳が夕陽の朱を湛えていた。
引き寄せられるように唇を重ねると、口元から段々水音が漏れてきて、息も重なった。
黄昏が二人の髪を染めても、窓の外に王都の夜景が煌めいても、やがて天文台が闇に沈んでも、その濃い金色の瞳に囚われたように目が離せなかった。
緊張はすっかり忘れて、幸せに包まれたまま眠りの世界に落ちていった。




