第九話 怖れるべきは死ではない。真に生きていないことをこそ怖れよ
アリスの持ったサーベルから赤く生暖かい液体がぴちょん、と滴り落ちた。
「はあっ、はあっ……わ、私……」
カタカタと剣を持つ手が震え、彼女の瞳孔が激しく揺れる。
呼吸が乱れて、耳鳴りがした。鼻を突く鉄の臭いが、これが夢ではないことを無慈悲に告げていた。
「あー。やっちゃったか……」
静寂を破ったのはここ数日でさんざん聞いた、あの胡散臭い声だった。
暗い室内に場違いな軽い足跡が響き、気怠げな金色の瞳がゆっくりとこちらに近づいてくる。
その憎たらしい男は赤髪を揺らして、いつもと変わらない様子でぽりぽりと首の裏を掻いた。
――事件が起こる数十分前。
アリスはこっそりと花屋の中に忍び込み、ノックスとロバートの様子を見守っていた。
店内の奥には比較的広い倉庫があり、その部屋でロバートは膝立ちになり、高さの低い机に頭を乗せている。
部屋の真ん中こそよく整理されてがらんどうだが、隅には色とりどりの花が咲き誇り、どこか浮世離れした異質な光景が広がっていた。
「ノックス、悪いが早いとこ済ませてくれるか……?俺の中でどんどん破壊衝動が強くなってる。正直いつまで人のままでいられるか分からない」
薄い笑みを浮かべながらも冷や汗を垂らすロバートの言葉に、ノックスはゆっくりと頷き鞘から剣を引き抜いた。
「じゃあ、やるよ」
ノックスは緊張した面持ちで、しかし手元が狂わないよう必死に全身の震えをコントロールしようとする。
「ああ。はは……ノックス。最後の最後で我儘言っちまって悪かったな。ありがとよ」
ロバートの呼吸はだんだん荒くなっていき、瞳孔も忙しなく動きだした。
『早く、早く何かロバートさんを助ける方法を考えないと!……ダメだ、何も思いつかないよっ』
ロバート達の追い詰められた様子を見たアリスは頭を抱えるが、オズの言う通り今の彼女が二人にできることは何もなかった。
「ぼ、僕だってそうさ!これまでも、今だって君に救われっぱなしだ!そもそも昔、人とうまく話せずに植物ばっかり気にかけてた僕に、花屋という夢を与えてくれたのだって君じゃないか」
ノックスはだんだんとぼやけていく視界に焦りを覚えながら、盤上遊戯を遊んだ幼いころの記憶と、今自らの目の前で人ではなくなっていく親友の姿が重なった。
「そんなこともあったっけな。……う、ぐっ。頼む。早くしてくれっ」
噛み締めた唇から血を流しながら、ロバートは叫ぶ。
その声にノックスはロバートの首上で剣を構えるが――。
「……ごめん。僕にはやっぱり無理だ」
カランと音がしてノックスの手から剣が滑り落ちた。
「え」
呆けた声を出したロバートの目が、次の瞬間、猛獣のそれに変わる。
「グウゥゥゥゥウ」
地の底を這うような唸り声を発したかと思うと、次の瞬間ロバートはノックスの身体を殴り飛ばした。
「ッ!?」
声を出す間もなくノックスの身体は宙に浮き、部屋の端に置かれていた花壇を押しのけながら壁に叩きつけられる。
追い打ちをかけようとするロバートだが、そうはさせまいと彼のことを止めようとする者がいた。
「だめだよロバートさん!お願い、正気にもどってよ!」
アリスはその小さな体からは想像もできない力で暴走したロバートを押さえ込んでいた。
「ノックスさん、ノックスさんしっかり!」
ロバートを羽交い絞めにしたままアリスは必死でノックスに声をかけるが返事がない。殴り飛ばされた衝撃で気絶してしまったようだ。
「ガァアァァアァア」
気が逸れたアリスの腕にロバートが噛みつこうとするので、彼女は一時的に拘束を解くことを余儀なくされる。
ロバートは自らの傍に落ちていた処刑用の剣を拾い構えると、間髪入れず距離を取ったアリスに再び飛び掛かった。
しかしその凶刃が届くよりも先に、アリスは素早く横にステップをして逃れる。
『どうすればいいの!?このままじゃロバートさんを元に戻すどころか、ノックスさんをこの場から逃がすことも難しいよ……!』
内心で焦りながらも仁王立ちで雄たけびを上げるロバートと向き合い対峙するアリス。
「まーったく。だからこれ以上面倒ごとには関わるなっていったのに。なんでまた嬢ちゃんはすぐ首を突っ込んじゃうかなあ」
この状況に似つかわしくない、驚くほど気の抜けた、しかしよく通る声がその緊張を破る。
倉庫の入り口にいるであろう声の主を見なくても、その正体が分かったアリスは顔をしかめた。
なんでここにいるの、と思わずぼやきたくなる。あの憎たらしく、どうにも気に食わない赤髪の男が。
「これはどうも、初めましてだなロバートさん。随分と勇ましい顔をしていらっしゃるようで」
「ちょっとオズワルド!これ以上ロバートさんの気を引いたら……!」
アリスが危惧した通り、暴走したロバートの視線は完全にオズに向けられていた。
「ウゥガアァァァッ」
剣を大きく振り上げ、オズワルドの方に突進するロバート。
対するオズはトランクを持っているだけなのはおろか、防御をしたり逃げる素振りも見せない。
「ちょっとまってロバートさん!オズワルドは」
『オズワルドは私が殺さなきゃ意味ないのに』
アリスの制止も意味を持たず、追いかけようにもロバートの刃はすでにオズの目前に迫っていた。
「ところで‥‥この店のシーリングファン、ずいぶん洒落てるようだがどこ産だ?」
オズの上を示す人差し指と視線に釣られて天井を見た瞬間。
ズボッとロバートの真下にある床が抜け落ち、そのまま10フィートほど落下する。
「いやー、懐かしいねこの感覚。昔よく俺を追ってきた騎士団の兄ちゃんたちをこうして落っことしたもんよ」
ずでん、という鈍い落下音を尻目に、オズはぽかんと口を開けるアリスを素通りし、地面に倒れ伏しているノックスの元へ駆け寄る。
「うん。死んではないな。……おい嬢ちゃん」
起こったことに脳の理解が追い付かず、ぼうっとしていたアリスはオズの呼びかけで我に返る。
「なに?」
「俺たちでノックスを安全な場所まで運んだあと、騎士団の奴らを呼んで戻ってくるぞ。店の裏口から裏通りに出られることは確認してる。悪いが全速力だ。できるか?」
そんな言葉とともに、ノックスを担ぎ上げてアリスの元へやってきたオズからサーベルを手渡される。
「これって……」
「見ての通りサーベルだ。今回みたいなことがあると分かった以上、護身用として一応ね。それは通常よりもかなり小さいサイズだからって、売れ残っちまった分なのよ」
オズの言う通り、小柄なアリスの身体にしっかりと収まった曲刀は1.6フィートほどに見える。
「嬢ちゃん、剣士だろ?さっきの足運びを見て思い出したよ。そういや嬢ちゃんの親父は王立騎士団学校の剣術指南役だったもんな」
「オズワルドあんた、なんでお父さんのことを……?」
「グォォォォオオォォォッ」
アリスの疑問を遮って、店の入り口近くにある落とし穴からもはや人間のものではない咆哮が聞こえた。
いつの間に移動していたのか、オズはノックスを背負ったまま倉庫の奥にある裏口の前までたどり着いていた。
「い、いつのまに!?」
落とし穴のふちを鷲掴みにする、土が付着してどろどろに汚れた手が現れる。
「詳しいことは走りながら話すぞ。さっさと花屋からトンズラしねえと、落とし穴で時間を稼ぐのもそろそろ限界だ」
投げかけられた声にアリスは改めてサーベルを握りなおすと、今にもバランスを崩しそうになって揺れているオズの背中を追いかけた。
アッセルデーツの裏通りは昼間とは言え、人通りが滅多になかった。しかしそんな周囲には目もくれず、裏道を全力で走り抜けるオズたち。
「恐化病の罹患者どもは理性がなくなったことによって、誰もが本来持ってるはずのフィジカルを守るリミットが壊れてるんだ。簡単に言うと身体能力が跳ね上がってるってことね」
息を切らしてはいるものの、切羽詰まった状況とは相反する覇気のないオズの声。
とその時、二人の背後から破壊音が響き渡り、猛スピードでロバートが迫ってくるのが見えた。
「!?まずい、追いつかれたよ!」
アリスは額に冷や汗を掻きながら叫ぶ。
『ロバートが道行く人を襲ってくれたら時間稼ぎになると思ったけど、こう通行人がいないんじゃ、流石にままならないかあ』
さてどうするか、とオズが酸素の足りない頭を働かせていると、ノックスの胴を持っていたアリスが彼の身体をオズに預けた。
「私がロバートさんを足止めするよ。オズワルド、ノックスさんを連れて騎士団の所まで走って」
そう言うと彼女は、オズとノックスの前に立ちふさがる。
「おいおい正気か嬢ちゃん?いや、確かにこれが一番効率的な回答ではあると俺も思うぜ?このまま三人で逃げたんじゃ後ろから襲われるのがオチだし、かといって俺が残っても足手まといにしかならねえ。それに嬢ちゃんの実力ならあいつに負けることは考えにくいけど……」
「それに、このままだといつかは町の人たちが襲われちゃう」
アリスの言葉にオズは僅かに眉を動かすが、考える時間ももったいないとすぐに頭を振った。
「わかったわかった。けど、あー、ここでやり合うのはまずいからな。あそこの角が見えるか?さっき走ってるときにチラッと見えたんだが、おそらくそこの靴屋の裏に廃材置き場がある。ここより更に人通りの少ない廃材置き場でなら、多少暴れても大丈夫だろ」
「分かったから、さっさとノックスさんを連れて逃げてよ!」
アリスは声を張り上げる。自らの足が震えていることをオズに悟られたくなかった。
「それと、最後に一つだけいいか?」
オズはどっこいしょとノックスを背負い直すと、彼の重さによってプルプルと震える右手の人差し指を立てる。
「なに?」
「ロバートとは、まともにやり合うな。殺そうなんて思うなよ、とにかく隙を見て逃げろ。他のことは、後から考えりゃあいい」
ころす、という言葉がアリスの頭で反芻される。
『ころす?殺すの?わたしが、誰を?』
アリスが顔を上げると、剣を担いだロバートが荒い息を吐きながら激しく歯軋りしていた。
「そんじゃ嬢ちゃん、グットラック」
オズは親指を立てると、ノックスの足を引きずりつつ通りの向こうに去っていく。
しかし、今のアリスにはもう彼を睨む暇などなかった。深呼吸をして、自らの心を鎮めながらロバートを見つめる。
つい先ほどまで、冷や汗を掻き苦しそうに歪みながらも優しい光が灯っていたロバートの瞳は、今や憎悪と狂喜の色で満ち溢れ充血していた。
それがもう二度と彼が戻ってこられないことを示しているようで、アリスは息が詰まりそうになる。
『だったら、だったら私がロバートさんを終わらせてあげなきゃ』
「ごめんね」
アリスは鞘から剣を抜き、胸の前で立てて構えた。




