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第63話:霧の臨界点

 霧が、意思を持っているかのように濃密に渦を巻く。

 視界はわずか三メートル。その白い闇の向こうで、アリーナの観客たちが固唾を呑んで見守る中、デジタルな世界で二つの「理」が真っ向からぶつかり合おうとしていた。


「――信じられない光景だ! ヨハンがライフルを置き、サブマシンガンを抜いた! 遠距離での完封を信条とする彼が、自分からTrinity Raidとの至近距離戦闘を選択したというのか!?」

 実況ジャックが椅子を蹴り飛ばさんばかりの勢いで叫ぶ。

 『……いいえ、ジャック。選ばされたんですよ。レイ選手の「振動感知」が、ヨハンの隠れ場所を奪い尽くした。隠れられないのなら、敵が霧から顔を出す瞬間に、その喉元を食い破るしかない。――これは、氷の狙撃手が「飢えた狼」に変貌した瞬間です』


 バッ、と霧を裂いてねねが突進する。

「そこだもん! 逃がさないもん!」

 ねねのフルオート・ショットガンが、レイが指し示した座標へ向けて容赦のない火力を叩き込む。豪快な発射音と、木々を粉砕する着弾音が霧の中に不快な反響を生む。


 だが、その射線を予測していたかのように、ヨハンは最小限のステップで弾丸の嵐をすり抜けた。

「……直線的すぎる。それでは僕の『リズム』は乱せない」

 ヨハンの冷徹な呟きと共に、霧の中から短い火花が散る。

 

 ――タタン!


「っ、ねねちゃん下がって!」

 レイの警告と同時に、ねねの肩口に鮮血が舞う。ヨハンの正確無比な二点バースト(ダブルタップ)。一発目がアーマーを削り、二発目が肉体を捉える。ねねの体力が一気にイエローゾーンまで削られた。


「……させるわけないでしょ」

 霧のさらに外周。ほむらの狙撃銃が、ヨハンの銃口の光(マズルフラッシュ)だけを頼りに、その頭部へ正確な弾丸を送り込む。

 ヨハンの頬を弾丸が掠める。ほんの数ミリの狂いが、死と生を分かつ。


「……いい連携だ。だが、情報の中心(レイ)が止まっている」

 ヨハンは、ねねやほむらの攻撃を「ノイズ」として切り捨てた。彼の狙いはただ一人。この霧の中で自分を「視ている」少女、レイだった。


 レイは、キーボードを叩く指が震えるのを感じていた。

 地面から伝わる振動が、ヨハンの激しい動きによって複雑な波形へと変わる。さらに、周囲にヨハンが誘い出した他チームの足音も混ざり、脳が処理しきれないほどの「情報の不協和音」がレイを襲う。


(……うるさい。……耳が、頭が、全部壊れそう……!)

 モニターの端が赤く明滅する。集中力の限界による「スタミナ切れ」がキャラクターに現れ始めた。

 その時、レイの視覚が、霧の奥に浮かび上がる「青い影」を捉えた。


 ヨハンだ。

 彼はあえて霧の濃い場所を抜け、レイとの距離を一気にゼロへと詰めてきた。

 

 眼鏡の奥の、凍てついた瞳と目が合う。

「……おやすみ、ゴースト。君の歌はここで終わりだ」

 ヨハンのサブマシンガンの銃口が、レイの眉間を捉える。


 ――だが。

 レイの唇が、わずかに動いた。


「……捕まえた。……コーチ、私、今だけ耳を捨てるよ」


 レイはヘッドセットを片耳だけ外し、アリーナを揺らす「リアルな観客の地鳴り」を、あえて生音で脳に流し込んだ。

 デジタルの(ノイズ)を、現実の(エネルギー)でかき消す。

 一ヶ月間のアナログ合宿。葉月が最後に言った、最大の矛盾にして最強の教え。

 『感覚に頼りすぎるな。最後は、お前という存在の「重さ」で撃て』


 レイはマウスを大きく、力強く振り切った。

 画面が180度旋回する。

 ヨハンが引き金を引く、そのコンマ一秒前。

 レイのサブマシンガンが、ヨハンの懐に食い込むようにして、至近距離からの掃射を開始した。


「――うわああああ!! ゼロ距離での撃ち合いだ!! レイとヨハン、互いの火花が霧を真っ赤に染め上げている!!」

 「どっちだ!? どっちが先に落ちる!?」


 硝煙と霧が混ざり合い、視界が完全に遮断されたその中心で。

 一発の、重い銃声が響いた。


 [ TR_Rei eliminated Vlk_Johan ]


 一瞬の静寂。

 そして、アリーナが、ロンドンの夜を吹き飛ばすほどの絶叫に包まれた。


 ヨハンのキャラクターが膝をつき、デジタルな粒子となって霧に消えていく。

 崩れ落ちるように椅子にもたれかかるレイ。その右耳からは、外したヘッドセットから流れる「勝利のジングル」が、小さく、しかし誇らしげに響いていた。


「……コーチ。……うるさすぎて、何も聞こえなかったよ」

 レイが笑う。

 コーチ席の葉月は、黙って、彼女たちに向けて力強い親指を立てた。


 北欧の狙撃手、撃沈。

 しかし、その喜びも束の間、霧の向こうからは、ヨハンが呼び寄せた「次の獲物たち」の足音が、死の行進のように近づいていた。

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