第62話:不協和音の森
「――見てください、戦況はさらに混沌を極めています! 逃げるヨハン、追うTrinity Raid! しかし、ヨハン選手が消えた霧の先には、まだ他のチームも潜んでいるはずだあああ!」
実況ジャックの絶叫がアリーナを揺らす。
深い霧が立ち込める森の深部。視界は数メートル先すらおぼつかない。
レイは走る足を止めず、耳を澄ませる。だが、先程まで掴んでいたヨハンの「空白」が、突如として無数の「破片」に分裂したような感覚に陥った。
(……右? 違う、左からも。……足音が、増えてる?)
ザッ、ザザッ。
霧の向こう側、複数の方向から「走る音」が聞こえ始める。それはヨハン一人のものではない。
「ねねちゃん、止まって。……周囲に別の気配が多すぎる」
鋭く制したのは、ほむらだった。彼女の冷徹な声が、昂ぶりかけたチームの空気を一度、氷点下まで引き戻す。
「……レイ、これを見て」
ほむらが低く構えた銃の先、霧の中から現れたのは、ヨハンではない「別のチーム」の偵察員だった。
「……罠ね。ヨハンは逃げながら、わざと周囲のチームを刺激して、私たちの進路に引き摺り出したんだわ」
ほむらはスコープを覗くことなく、周囲の地形から最短の迎撃ルートを瞬時に計算する。
「あいつ、わざと音を立てて誘導してる。……無音を武器にする男が、今度は『過剰な音』を操って、私たちを他のチームと衝突させようとしているのよ。極めて効率的で、悪趣味なやり方ね」
『……驚異的な戦術眼です、ヨハン! 彼は自分一人で戦うことを捨てた。この森に潜む全チームを「自分の楽器」として使い、Trinity Raidという不協和音をかき消そうとしています!』
防音ブース内。レイの耳には、霧に反射して増幅された偽物の足音と、他チームが放つ警戒の銃声が入り混じり、巨大なノイズの嵐となって襲いかかっていた。
(……頭が、割れそう……。……どれがヨハン? ……どれが、あいつの影なの……!)
過負荷に陥りかけたレイの視界が、ぐらりと歪む。情報の奔流に飲み込まれ、マウスを握る手の感覚が消失しかけたその時、コーチ席の葉月が、ガラス越しにレイを射抜くような視線を送った。
葉月は何も言わない。マイクも入っていない。
ただ、彼は自分の「耳」を指差し、それから「地面」を強く踏みしめる仕草を繰り返した。
(……耳じゃない。……地面?)
レイはハッとした。空気中を伝わる音は、霧の濃度や木々の密度に反射して偽物を作る。デジタルな処理を経るほど、そのノイズは正確さを欠いていく。だが、地面を伝わる「物理的な振動」だけは、嘘をつけない。
一ヶ月の暗闇合宿。葉月が深夜、寝静まった宿舎の周囲を歩き回り、その「歩幅」と「重心」の違いを振動だけで当てさせた、あの地獄の訓練の意味が、今ここで結実する。
(……ヨハンの歩幅は、他の誰よりも正確で、軽い。……軍隊のような規律正しい、一定のビート……。他チームの焦った足音とは、波形が違う)
レイは深く息を吐き、しゃがみ込んで右手を土に触れるようなイメージで、指先をキーボードに添えた。ノイズの嵐を脳の奥に押し込み、地表を伝わってくる微かなパルスだけに全神経を集中させる。
――ト、ト、ト、ト。
見つけた。
他のチームがドタバタと霧の中を彷徨う不規則な振動とは一線を画す、メトロノームのように正確な刻み。
「……ねね、前方30メートル。……木々の間を縫うように、北西へ向かってる」
「信じるもん! レイちゃんがそう言うなら、そこがゴールだもん!」
ねねが霧を切り裂くように突進し、目くらましのフラッシュバンを投擲した。
「……フォローするわ。ねね、右は任せて」
ほむらが最小限の動きでカバーに入り、霧の中へ正確な牽制射撃を叩き込む。
霧の奥で、初めてヨハンの動きが止まる。
(……まさか、地中の振動を? ……アナログにも程があるな、葉月さん。データに現れない『感覚』で僕を追い詰めようというのか)
ヨハンが眼鏡のブリッジを押し上げ、アサルトライフルのセレクターをフルオートに切り替えた。
「――ついに捉えた! 霧の最深部、ついに『死神』と『氷の狙撃手』が、ゼロ距離で激突するううう!!」
もはや狙撃の距離ではない。
静寂を捨てたヨハンと、ノイズを克服したレイ。
二人の銃口が、霧を焼く閃光を放とうとしていた。




