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第53話:亡霊の残響、そして産声

 大会初日の朝、ロンドンの街は予報通りの深い霧に包まれていた。

 アリーナ裏、Trinity Raidに割り当てられた個人控室。最新のゲーミングPCが放つ排熱の匂いと、ねねが持ち込んだエナジードリンクの甘い香りが混ざり合い、独特の緊張感を生んでいる。


「……準備はできたか。そろそろ時間だ」

 扉をノックするスタッフの声が響く。

 レイは、いつもの部屋着ではない、スポンサーロゴの入った真新しいユニフォームの袖をぎゅっと握りしめた。モニターの中の「アバター」という鎧を脱ぎ捨て、今日、彼女たちは自分自身の肉体で世界と対峙する。


 ふと視線をやると、部屋の隅で葉月がパイプ椅子に深く腰掛けていた。

 キャップを深く被り、組んだ両手の隙間から床を凝視している。その姿は、教え子を導く「コーチ」ではなく、五年前のあの日、アリーナの裏側で独り立ち尽くした「裏切り者」のまま、時を止めているように見えた。


「……ねえ。コーチ、朝から何も食べてないもん。これ、半分こする?」

 ねねがおずおずと差し出したパンにも、葉月は反応しない。

「ねねちゃん、やめておきなさい。……今のコーチには、私たちの声すら届いていないわ」

 ほむらが冷徹に、だがどこか寂しげに呟いた。

「……マキナの言葉が、呪いみたいに効いてるのね。かつての相棒を捨てた罪悪感が、コーチの『正解』を曇らせている。このままじゃ、あのステージの熱気に飲み込まれるわ」


 その時、控室のスピーカーから地鳴りのような歓声が漏れ聞こえてきた。

 アリーナに詰めかけた数万人の熱狂。それは五年前、葉月が背を向けて逃げ出した「音」そのものだった。

 

 レイは、ゆっくりと葉月の前まで歩み寄り、その膝に、自分の震える手をそっと重ねた。


「……コーチ。聞こえてますか」

 葉月の肩が、微かに跳ねた。

「……マキナさんは言いました。コーチが五年前、仲間を捨てて逃げたって。……でも、そんなの私には関係ありません」

 レイは、伏せられた葉月の顔を覗き込むようにして、真っ直ぐに続けた。

「私たちが今日、あのまばゆいステージに立つのは、五年前のコーチのためじゃない。……一ヶ月間、ネットもない暗闇の中で、私たちの手を引いてくれた今の葉月さんのためです」


 葉月が、ゆっくりと顔を上げた。キャップの影に隠れたその瞳は、絶望に濁り、激しく揺れている。

「……レイ。……俺は、お前たちもいつか、あいつと同じように……」

「捨てません。……私たちが、コーチを世界一のコーチにするって決めたんです。……五年前の『正解』が壊れたなら、私たちが新しい『正解』を今、アリーナの真ん中で作ります」


 ねねがレイの隣に並び、ぐっと拳を握る。

「そうだよ! コーチがいないと、ねね、誰に怒られていいかわかんないもん!」

 ほむらも眼鏡を指先で直し、不敵に笑った。

「計算外の事態には慣れているでしょう? ……あなたの教え子が、かつてのあなたを超える。……それが、私たちが用意した唯一のロジックよ」


 三人の「生の声」が、葉月の凍りついた心に届く。

 五年前、彼に届かなかったのは仲間の恨み節ではなく、自分を信じてくれる者の「産声」だったのだ。

 葉月は、震える手で自分の顔を一度強く覆い、そして――勢いよく立ち上がった。


「…………ふぅ。……長く、悪い夢を見ていたようだな」

 キャップの鍔を上げ、現れた瞳。

 そこには「裏切り者」の卑屈さはなく、世界を震撼させた指揮官・OUKAの鋭さと、教え子を預かる「師」としての誇りが宿っていた。


「……いいか、お前たち。……作戦は一つだ。……アリーナの熱狂を、お前たちの銃声で切り裂け。……一発でも外せば、帰りの飛行機は自腹だ。分かっているな?」

「「「はいっ!!」」」


 控室のドアが勢いよく開かれる。

 通路の先には、数万人のフラッシュと歓声が渦巻く、まばゆいばかりのメインステージが待っている。

 四人の亡霊と死神は、今、本物の戦場へと足を踏み出した。

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