第50話:再接続――世界を視る目
「――一ヶ月だ。長かったな」
葉月の声が、静まり返った『Minty Agency』最上階に低く響いた。
窓の外、深夜の東京は無数の光が蠢いているが、このフロアだけは深海のような静寂に包まれている。三人の少女たちは、電源の落ちたモニターの前に、彫像のように座っていた。
この一ヶ月、彼女たちが触れたのは、マウスの摩擦、キーボードの打鍵音、そしてお互いの呼吸音だけだ。インターネットという情報の奔流を断たれ、暗闇の中で音を追い、気配を撃ち、自分たちの神経を一本の細い糸にまで研ぎ澄ませてきた。
葉月が、震える指先でメインサーバーの実行キーを叩いた。
「カウントダウンを始める。……三、二、一。――接続」
ドクン、とフロアが脈動した。
一ヶ月間、死んでいたはずのPCたちが一斉に産声を上げる。壁一面の巨大モニターには、世界中のサーバーから届く膨大なログが滝のように流れ落ち、三人の視界を青白い光がジャックした。
「……あ」
ヘッドセットを装着したレイが、小さく息を漏らす。
視界が開けた瞬間、彼女を襲ったのは、圧倒的な「情報の遅さ」だった。
「コーチ……これ、設定間違ってませんか? 映像が、カクついて見える……」
「いや、レイちゃん。私のもよ。……まるでスローモーションを見てるみたい」
ほむらが困惑したように眼鏡を拭う。ねねもまた、自分の指を動かしながら首を傾げた。
「ねね、マウスを動かしてから画面が動くまで、すっごく時間がかかる気がするもん。これじゃあ、ボット撃てないよ!」
葉月はコーヒーの香りを深く吸い込み、不敵に笑った。
「……設定は最高値だ。遅延などない。遅いのは、世界の方だ」
驚愕する三人に、葉月は冷徹な「正解」を突きつける。
「お前たちはこの一ヶ月、一切の視覚情報に頼らず、脳内に三次元の戦場を構築する癖をつけた。……物理的な光が目に届き、脳がそれを『敵』だと認識する0.1秒。その間に、お前たちの神経はすでに『音』と『気配』で着弾地点を確定させている。……今のお前たちの脳にとって、モニターの映像は、一歩遅れて届く『過去の答え合わせ』に過ぎない」
これこそが、かつてOUKAが極致まで突き詰め、そして自分自身を壊した「神の領域」の入り口だった。
三人は、震える手でマウスを握り直す。
画面を流れる144fpsの映像が、彼女たちの目にはパラパラ漫画のように止まって見える。圧倒的な情報優位。
その時。
静寂を切り裂くように、一通の通知音が鳴り響いた。
一ヶ月ぶりに繋がった、世界からの最初の「挨拶」だ。
[ New Message from : BLACK LOTUS_Viktor ]
フロアの空気が、一瞬で氷点下まで凍りついた。
Black Lotus。世界ランク1位。そして、葉月を「Ghost」と呼び、執拗にその影を追う北米の怪物、ヴィクター。
『 Ghostの愛弟子たちへ。
日本の闇で一ヶ月。牙を研ぐには十分な時間だったかな?
今夜、ロビー「カスタム部屋」で待つ。
ロンドンの霧に消える前に、君たちの「正解」が、僕の「暴力」に耐えられるか試してあげよう。』
「……ヴィクター」
葉月の目が、かつてないほど鋭く細められた。
「コーチ。……この人、私のこと『 Ghostの弟子』って言ってます」
レイが画面を見つめる。その瞳には、恐怖ではなく、静かな殺意が宿っていた。
「……傲慢な人ね。私たちの名前すら、覚える価値がないと思っているのかしら」
ほむらが冷たく言い放ち、キーボードの設定を一瞬で完了させる。
「ねね、この人のこと嫌いだもん。……叩いていいよね、コーチ。フライパン、ネット経由でも痛いかな?」
葉月はキャップを深く被り直し、三人の背後に立った。
「……挨拶代わりだ。一ヶ月間、暗闇で培った牙……世界1位の喉元で試してこい。……いいな、一発も外すなよ」
「「「了解!!」」」
三人の指が、一斉にログインシーケンスを走らせる。
ネット開通からわずか十五分。
Trinity Raidは、いきなり世界の頂へと、その剥き出しの牙を向けた。
ログインしたロビーには、すでに数千人の観戦者と他のプロチームが集まっていた。
2チームでバトロワは無理があったのだろう。
伝説の「OUKA」の弟子と、現世界王者「Black Lotus」の非公式戦。
チャット欄は、世界中の言語で埋め尽くされている。
『TRが生きてた!?』
『一ヶ月も潜伏して、今さら世界王者に勝てるわけがない』
『JAPのVごっこがどこまで通用するか見ものだな』
罵詈雑言、期待、嘲笑。
だが、今の彼女たちには、そのノイズすら心地よい子守唄のように聞こえた。
「……レイ。ほむら。ねね」
葉月の低い声が、ヘッドセットを通じて彼女たちの魂を繋ぐ。
「……お前たちの『正解』は、もう誰にも、上書きさせない。……行ってこい」
カウントダウンが、ゼロを刻む。
一ヶ月の沈黙を経て、Trinity Raidという名の死神が、ついに世界という名の戦場へ、再降臨を果たした。




