第43話:霧の街の招待
網の上で脂の乗ったハラミが弾け、香ばしい煙が立ち上る。
予選突破の熱気が冷めやらぬ中、葉月のポケットでスマホが短く、重く震えた。
画面を確認した葉月の目が、鋭く細められる。
「……来たか」
彼は無造作にスマホをテーブルの中央に置いた。液晶には、英語のヘッダーが並ぶ一通のメールが表示されている。
『OFFICIAL INVITATION: FGC 『FPS Global Championship』 - London, UK』
「えっ、英語……? コーチ、これって……」
レイが箸を止め、画面を覗き込む。ほむらがその横から、流暢な発音で文面をなぞった。
「……開催地、イギリス。ロンドン……。会場は『エクセル・ロンドン』アリーナ。……えっ、完全オフライン形式!?」
ほむらの声が裏返り、ねねが口に運ぼうとしていた白米を落としそうになる。
「ロ、ロンドン!? 海外なの!? 飛行機に乗らなきゃいけないの!? 英語喋れないもん! センキューしか言えないもん!」
「……落ち着け。英語は俺がどうにかする。問題はそこじゃない」
葉月は冷えたカルピスソーダを一口飲み、三人を真っ直ぐに見据えた。
「半年後。お前たちはこの慣れ親しんだ自室を飛び出し、数千人の観客が詰めかけるステージに立つことになる。……オフラインだ。画面の向こう側の熱狂が、物理的な『振動』としてお前たちのマウスを握る手を狂わせに来る」
店内の騒がしさが、一瞬だけ遠のいたように感じられた。
今までは、どれだけ荒れ狂う戦場でも、モニターの一枚向こう側にある「他人の出来事」のように処理できた。だが、オフラインは違う。
数千人の視線に晒され、ステージを照らす照明の熱に焼かれ、隣のブースには殺気立った「本物の化け物」たちが座っている。
「……オンラインでの勝利は、所詮『予習』に過ぎない。ロンドンの地を踏んだ瞬間、お前たちは本当の意味で『プロ』としての洗礼を受ける。……逃げ場はないぞ」
葉月の冷淡な、だがどこか期待を孕んだ言葉に、レイが震える拳を握りしめた。
恐怖か、それとも武者震いか。
「いいか。世界は、日本代表なんて名ばかりの『Vごっこ』が、ロンドンの霧に消えるのを待っている。……それを上書きしに行くんだ。分かっているな?」
「…………っ、はい!」
レイの力強い返事が、店内の活気に負けない熱量で響いた。
その様子を横で見ていた姉・Mintyが、ニヤリと笑って追加のビールを注文した。
「いいわね、ロンドン! 紅茶より熱い戦いになりそうじゃない。……でも葉月、このメールの末尾、見た? コーチの『実名登録義務化』。……あんたの顔出し、運営は本気で狙ってるわよ?」
スマホの画面に映る青白い「London」の文字。
「声」だけの師弟関係は、半年後、数千人の前で「実体」としての試練を迎えることになる。
店を出ると、夜風は驚くほど冷たかった。
タクシーに押し込まれたねねと、上機嫌で夜の街へ消えていったMintyを見送った後。街灯の下、ほむらが葉月の隣に音もなく並んだ。
「……コーチ。少し、いいかしら」
眼鏡の奥の瞳が、いつになく真剣な光を湛えている。
「なんだ。肉が足りなかったか?」
「冗談はやめて。……レイちゃんのことよ」
ほむらは、数歩先を歩くレイの背中を顎で示した。
普段なら「世界大会だー!」とはしゃいでいるはずの彼女が、今は自分の足元を見つめたまま、一言も発さずに歩いている。
「あの子、さっきのメールを見てから一度も目が合わないわ。……『準優勝のミス』を、まだ引きずってる。そこに『オフラインの重圧』が上書きされた。……今のあの子、自分を信じきれていないわよ」
理論派のほむららしい、冷徹で正確な分析だった。
「……コーチ。戦術を教えるのがあなたの仕事なら、あの子の折れそうな心を繋ぎ止めるのも、あなたの仕事なんじゃない?」
それだけ言い残すと、ほむらは「おやすみなさい」と短く告げ、駅の方へと歩いていった。
残されたのは、街灯に照らされたアスファルトと、少し先で立ち止まっているレイ、そして葉月の二人だけだ。
「……レイ」
葉月の声に、レイの肩が小さく跳ねた。
「……あ、コーチ。……すみません、ぼーっとしてて」
振り返った彼女の顔は、街灯の逆光でよく見えない。だが、その声は今にも消えてしまいそうなほど細かった。
「……怖いか。ロンドンが」
「…………。……はい。怖いです。……画面の向こうなら、ミスしても、誰も私の顔なんて見てない。でも、あのアリーナに行ったら……数千人の前で、またあんなミスをしたら……」
彼女が握りしめた拳が、小刻みに震えている。
「世界最弱」と笑われていた頃の彼女ではない。今は、期待を背負ってしまったからこその恐怖。
「……いいか、レイ。よく聞け」
葉月はゆっくりと歩み寄り、彼女の視線の高さに合わせて言葉を置いた。
「お前がミスをしたのは、お前が『勝ちたい』と願って、誰よりも先に一歩を踏み出したからだ。……戦わない奴はミスもしない。だが、そんな奴に世界は変えられない」
「コーチ……」
「お前の横には、計算を狂わせないほむらがいて、理屈をぶっ壊すねねがいる。……そして、お前の後ろには、この俺がいる。……お前が何度ミスをしても、それを『正解』に変えるために俺はそこに座っているんだ」
葉月の言葉に、レイがゆっくりと顔を上げた。
その瞳には、不安を押し流すような、静かで強い光が戻り始めていた。
「……半年だ。ロンドンのアリーナでお前がマウスを握る時、世界中が『日本のリーダーは誰だ』と震える。……その景色、一緒に見に行くぞ」
「…………。……はい! はい、コーチ!!」
震えていた声に、力が宿る。
夜の静寂を切り裂くような、真っ直ぐな返事。
半年後、霧の街ロンドン。
そこは彼女たちが「Vの皮を被った少女」ではなく、一人の「戦士」として完成される場所になる。
その確信を胸に、二人はそれぞれの家路へと足を踏み出した。




