一応、夜通し見張ってるのよ
嫌な夢を見て、ルドウィグは飛び起きる。
ここがどこかわからず、周囲を見回してから、次いで現状を思い出してゆらゆらと頭を揺らした。
「…………あ、ああ、そうか、私は……」
弟に売られたのだったな、と茫洋とした思考で呟いて、虚しさに自嘲じみた笑いを吐いた。思考がまだグラグラしている、薬の効果が残っているようだ。
まだ日が登る前だと言うのに、再び毛布の中へ潜り込む気にはなれなかった。眠ることが恐ろしい。
「……っ」
ベッドから床に足を付け、四つん這いに地面を這う。無様極まりない格好ではあったが、誰も見ていないのだからもはや、どうでも良いと思える。
感覚の薄い足を引きずり、何とか窓際へと辿り着く。膝立ちで窓を開ければ、ふわりと室内に風が巡り、髪を揺らした。
眼下に見下ろす事ができるのは、無骨な城塞都市であるゼルツの町並み。右手に大結界で覆われた山脈、左手に見渡す限りの荒野が拝める風景は、見知らぬ異国の匂いを運んでくる。カラッと乾いたそれは、自由気質なここの住人のような気儘さを感じた。
石材建築を主とした無骨な町並みは静まり返り、それを眺めるように煌々とした月が一つ、夜空の向こうで顔を出している。
「…………」
実家と違って、鉄格子はない。
視線を下ろせば、遠く地面が見える。
「…………」
今、ここから飛び降りれば、今度こそ死ねるだろうか。
そんな事を脳裏で呟く。
「言っておくけど、飛び降りても死ねないから」
不意の声にバッと顔を上げれば、窓の向こう、隣室の窓からこちらを眺めている女の顔があった。窓枠に腰掛け、片足をブラブラとさせる姿に、落ちるかもしれないという恐れは微塵もない。
不意打ちのような相手の出現に、ルドウィグは不快そうに端正な眉を歪めた。
「……貴様、なぜ」
「言っておくけど、一応は夫婦でしょ? じゃあ部屋が隣室なのは当然じゃない? ああ、それと寝室は別だけど部屋を出れば共有スペースだから」
「…………何が言いたい」
「アタシが忘れて裸で出てきたらゴメンね?」
その発言に不愉快そうな顔をして、ルドウィグは吐き捨てる。
「貴様のような女としての魅力もない奴に、私が僅かでも心動かされると思っているのか」
「いえ? でも貴方、女性嫌いでしょう?」
古傷を突くような言葉に、思わず身構える。
「だから、何だ。男として不出来だとでも言うつもりか」
「ん~、別に良いんじゃないの? アタシも男に興味とか無いし。あ、別に女にも無いんだけどねぇ? ほら、戦いこそが我が人生、伴侶は戦女神で十分だわ」
戦いと勝利の女神は、ゼルツでも信仰厚い存在だ。それを伴侶と言い切る戦士は多く、眼の前の女もまた同じであるようだった。
「…………貴様は、」
深く、長い沈黙の後に、彼はボソリと言う。
「手に入れようとは、しないのか」
気色の悪い物を思い出す。
テーブルの上の、吐き気を催す皿と、猫なで声の女の甘ったるい声。
同じく、別の女の笑い声が。
──男としても出来損ないな貴方なんて、もういらない
「アタシ、貴方の事情は表面しか知らされていないわ。貴方がどんな目に遭って、どんな苦しみを抱えているかなんて、アタシにはわかりようがない。次期侯爵として育てられた貴方が、それを取り上げられたときの思いがどれほどの物で、どれほどの絶望だったかなんて、外様が語るべき事ではないでしょう」
でもね、と、髪を下ろしている黒髪の女は含み笑うように、こちらへ声を投げかけてくる。
「アタシは胸糞の悪い話が嫌い。だから、貴方を傷つけた元婚約者ってのも、小さい貴方を誘拐した悪趣味なクソババアも、反吐が出るほど大嫌い。眼の前にいたら挽き肉に変えてやりたい程度には嫌悪の対象だわ」
訥々と、恐ろしいことを言っている。
「デリケートな部分まで理解し合う必要は無いけども、それでも歩み寄れば、良い関係を築けるかもしれないと思わない?」
「…………良い関係? 家同士の利害関係でいるだけの間柄で、何を」
「別に夫婦の形だけが良い関係ってモンでもないでしょ。夫婦で子供が出来ていても、友人関係のような間柄の男女は居るものよ。特に貴族はねぇ、感情抜きで書類上の夫婦になって、愛人をそれぞれ作って別居生活、なんてところもあるし。……まあつまり、無理して夫婦を演じる必要なんざ無いってことよ。っていうかアタシが嫌だわ」
ズバッと言い切る相手に、文字通りに異性への感情など欠片も見当たらない。それに、ルドウィグは初めて困ったような顔をした。
迷子の子供のような相手へ、レオは悠然と笑いかける。
朝日が昇り始める白光の中で、赤い瞳が、灯火にように一瞬だけ煌めいた。
「だから、まずはお友達から始めてみない? 貴方もアタシも、互いの事は何も知らないんだし、嫌いようが無いじゃないの」
血のような赤は、されど、今この瞬間だけ、太陽のように美しく映えた。
「…………、……気が、向いたらな」
そうとだけ答えて、ルドウィグは窓を閉めた。
訳が分からない、心底からそう呟き、眉を歪めてずるずると床に座り込んだ。
「…………」
しばしの暁光は、己が心の氷を浮き彫りにさせたかに見えたが、
「…………女なんて」
されど、長年の間に積もり積もった凍える雪は、またたく間にその光すらも覆い隠してしまう。
「信用できない」
そうポツリと呟き、彼は子供のように膝を抱えて、目を伏せた。
・・・
「不器用ねぇ」
レオは一人、窓枠から足をブラブラさせつつ眼下の情景を眺める。毎日のようにここから眺める風景は、何年が過ぎても飽きが来ない。
レオにとってルドウィグは守るべき対象で、それ以上では無い。だからズカズカと、相手の胸の内へと荒々しく踏み込んで聞き出す気にはなれない。どうでもいい相手なら気にすらしない。
しかし、レオは確かにルドウィグを気にし始めていた。
「……暗い部屋、たった一人で過ごすってのは、退屈よねぇ」
──響く足音は自分を蝕む連中のものだ、それが近づく度に、嗚呼またか、と諦念と覚悟を決めていたものだった。
いつ死ぬかわからない恐怖、理不尽と苦痛が当然だと宣う、自分にとっての地獄でしかない世界への憎しみ。
動く物は等しく敵だ、敵は殺さねば、さもなくば食べられてしまう。自分を摘み食いに来た連中を何度も殺す痛みと返り血の中で、レオは薄暗い部屋の中で一人、憎悪を磨き続けたのだ。
それは例えようもなく、退屈な作業でしかない。
「助けてほしいって言えばいいのにね。まあ、アタシも言えなかったっけか」
自嘲気味に苦笑する。誰が信頼できて誰が裏切るのか、そんなものは神でなければ分からないのだ。
自分は、剣を振るうことしか出来ない。誰かを慰めたり、涙を止める方法なんてこれっぽっちも知らない。
けれども、迷子の幼子のような、あの姿が放って置けないのだ。
かつての自分とよく似た、奈落の底に居る瞳を陽の元に晒した時、彼はいったいどんな煌めきを魅せてくれるのだろうか。
「あの瞳は、好きだわ。青い空のように自由で、美しい」
未だ、茜の色に染まる世界に見惚れながら、レオノーラは時間までずっとそこで、美しい世界を眺め続けていた。




