第009話 鑑定士メノ
二日ぶりだった。
前の日は行かなかった。母が休みで、朝から窓を拭いていた。灯は雑巾を絞る係になって、台所と、二階の三つと、玄関の脇の小さいのを拭いた。替えた水は三度ぶん。夕方には手のひらが白くふやけて、指の腹の筋が消えていた。
その日も、四つ角のことは考えていた。考えていたが、行かなかった。
窓口に人はいなかった。奥の机に届出票の束が積んであって、その横に判が一つ置いてある。判の柄のところが黒く光っていた。祖母は昼の休みで、地上の休憩室にいる時刻になる。灯はそれを知っていて、確かめずに通り過ぎた。
棚の傘は十一本のまま。二日前と同じ数で、並びも同じ。数え終える前に、灯は裏の隙間へ入った。
棚の裏を抜けると、扉の向こうから声が聞こえた。人の声で、二つ。灯は板の隙間で足を止めて、耳だけを先に出した。片方はキリで、もう片方は知らない声だった。
扉は前より重かった。押すと下の縁が石に当たって、途中で一度止まる。灯は肩で押し直した。
外へ出ると、空が二日前より高かった。日は屋根の上。風は無かった。石の上に砂が乗ったまま動かず、灯の足の裏で細かい音を立てた。
台の前に列ができていた。四人。うち三人が札を持っていた。キリは台の端に立って、順に何か言っていた。灯を見ると、顎で列の頭を指した。
「来た。書く子だ。一枚ずつ出せ」
列の頭の人が、札を差し出す。灯は鞄を下ろして、筆箱を出した。
削ってきた鉛筆は一本だけだった。もう一本は昨日、家で使って短くなった。筆箱の底に、削りかすが二つ残っていた。
「名前は」
「ほり」
灯は書いた。木の目は横。二文字がちょうど収まった。返すと、その人は札を胸の高さで持ったまま列を離れた。離れる時、札の面が日に向いた。
二人目は札を裏返して出した。裏に何か書いてあった跡があって、その跡を隠すように持っていた。
「こっちの面に書いて」
「裏は使わないの」
「前のが残ってる」
灯は言われた面を見た。字が薄く残っている。三文字ぶんだが、二文字目の上が欠けていて、読める形にならない。灯は残っている線の上をなぞった。なぞっても濃くならなかった。
三人目は札を二枚とも出した。一枚は自分ので、もう一枚は預かってきたものになる。預かってきたほうの名は、その人が口で伝えた。灯は二枚とも書いて、二枚とも同じ濃さになるように、二枚目のほうを少し強く押した。
四人目は子供だった。二日前に走っていった子ではない。札を持たずに来て、板の端に手を掛けたまま列に並んでいた。
「札は持ってないの」
「今、頼んである」
子供は板の切り口を灯へ向けた。角がまだ立っていた。
「誰に作ってもらうの」
「板を切る人。小路の奥にいる」
子供は板の切り口を親指でこすった。
こすった先が白い。粉は指に付かずに、板の上へ落ちた。
「板、いつできるの」
「分からない。頼んだのは春」
灯は春から今日までを数えた。四月、五月、六月、七月、八月。五つ目に入ったところだった。
「じゃあ、できてから」
子供はうなずいて、走らずに帰っていった。帰る方角は西。名札小路のほうだった。
キリは受け取った物を、板の下へ入れていった。入れる時に、いつもの隅ではなく、板の真ん中の下へ置いていた。
「今日は場所が違う」
「二日前のぶんと分けてる。あんたのぶんが増えた」
「いくつ増えた」
「六つ。金物が二つ。糸が一束。木の駒が三つ」
灯は布の上の六つを、指の背で一つずつ数え直した。
「一枚でいくつ」
「決まってない。払うほうが出す。出したのが半分にならない時もある」
キリは指を二本立てて、片方を折る。
「半分にならないと、どうするの」
「次に持ってこさせる。逃げる奴はいない。名前が要るからだ」
灯は板の下を見た。物は布に載せて分けてあった。灯のぶんの布は端が少し破れていた。破れた場所は、キリが折り込んで隠してあった。
「あの人たち、みんな札を持ってる」
「名札小路の外にも札は要る」
北の道から出てきた二人が、どちらも札を提げていた。
「外にも小路があるの」
「家に掛けるだけなら誰でもやる。小路じゃない」
「効かないのに」
「掛けないよりいい。目印にはなる」
「持って帰れないのに」
「その話は二日前だ。今日は数える話だ」
灯はその六つを、順に指で押さえた。金物は二つとも同じ厚みで、片方だけ角が丸い。糸の束は色が二色。木の駒は三つとも大きさが違った。一番小さいのが灯の親指の先ほど。灯は三つとも指の背で押した。
「これ、いくらになるの」
「市に出せば、輪が六つ。出さなければ、そのままだ」
「出してよ」
「出す。明日が市の日になる」
列が途切れた。四つ角を歩く何人かが台のほうを見て、通り過ぎていく。一人だけ足を止めて、灯の筆箱を見た。見てから、何も言わずに行った。灯は列の去った方角を見た。北へ二人、南へ一人、西へ一人。四つの道のうち、東へ行った者はいない。
「あの人、何」
「見に来ただけだ。明日また来る」
「市は今日じゃないの」
「市の日に来る。ついでのほうが払いがいい」
「明日は、あんたのぶんを売る。売った先も覚えとけ」
「どこに書けばいい」
「書く場所は、あんたが決めろ」
灯は肩の鞄の中を思った。筆箱と、水筒と、家から持ってきた薄いノートが一冊。
キリは板の上の空いた場所を手のひらで一度払って、片づけはじめた。木の粉が縁から落ちた。並べてあった物は、行きの結びで包んでいった。
「行くのか」
「先に寄る所がある。連れていく」
「どこにいるの」
「鑑定屋だ。西の道の、市の立つ広場の手前」
「メノっていう。あんたより四つ上になる」
「じゃあ十六だ」
「そう聞いてる。本人は言わない」
西の道は、二日前に名札小路へ入った道になる。キリは包みの縄を胸の前で結び終えて、端を二本とも上へ向けた。
「何を鑑定するの」
「拾った物だ。誰かが探してるか、探してないかを見る」
「見て、分かるの」
灯は自分の手のひらを裏返した。
真ん中に、鉛筆の芯の黒が薄く付いていた。
「触って分かる。だから触らせる相手を選ぶ」
灯は自分の手を見た。指の腹が、昨日の水仕事でまだ少し白い。
「あたしも触られるの」
「あいつは人に触らない。物にしか触らない」
キリは包みを背負った。今日の包みは昨日より大きかった。縄を胸で結ぶ時、端が二本とも上を向いた。
広場のほうから、木を打つ音が続けて聞こえた。市の枠を組んでいる音になる。
「あれ、明日の」
「枠は前の日に立てる。布は当日だ」
「手伝わないの」
「俺は台を出すほうだ。枠は枠の者がやる」
道は乾いていた。二日前より風が弱く、砂が動いていなかった。灯は塀に触りながら歩いた。指の腹に付く粉の量は、二日前より少ない。
「掃きの人、今日も来た」
「二度だ。市の前の日は三度になる」
「いつ増える」
「日が屋根に掛かってからもう一度だ。市の前は落ちる物が多い」
「明日は拾えるね」
「落ちる。人が多い日は、そのぶんだけ落ちる」
「市はいつやるの」
「明日だ。この広場に立つ」
灯は石の上を見た。目地は白く、何も挟まっていなかった。掃いた跡だけが残っていた。
道の途中で、荷車が二台すれ違った。行きの車は荷が高く、帰りの車は空だった。空の車のほうが音は高い。車輪が石の目地を拾う間が短く、三度鳴ってから一度空いた。
「明日は、この道が混む」
灯は明日の予定を、朝から順に頭へ並べた。
「混む。市の日は朝から通る」
「あたし、明日は来られない」
「来なくていい。市に子供の場所は無い」
灯は道の幅を歩数で測った。塀から塀まで、七歩。二日前は数えていなかった。数え直すには遠すぎる。灯は七歩を覚えた。
名札小路の角。柱の板の字は、二日前と同じ濃さで残っていた。灯は歩きながら中を見た。小路の入口から三軒目までが見えた。三軒とも札が掛かっていた。
「札、見えた」
「見るのはいい。今日は寄らない」
「足の音、違う」
「石が違う。広場の石は市のために替えてある」
「前は違ったの」
「替えた。俺が来る前の話だ」
その先で道が広がる。両側の塀が退がって、石の敷き方が変わる。目地が細くなり、石の一枚が大きくなった。歩く音も変わった。灯は十歩ぶん、わざと同じ強さで踏んで聞いた。目地をまたぐ時だけ音が短い。
広場に出た。
四角い場所で、真ん中に何も無い。端に木の枠が組んであって、枠の上に布が畳んで積んであった。市の日にそこへ物を並べるのだと、灯には見て分かる。
広場の手前に、屋根の低い家が一軒あった。
戸は開いていた。中は暗くなかった。窓が二つ。両方とも布を巻き上げてあった。
戸の前でキリが足を止めた。
「入る時は、触るなよ」
「何にも触っちゃだめってこと」
「人にだ。物は触っていい」
灯は口を閉じたまま、その背中を追った。
*
中は明るかった。
床は板。真ん中に低い台が一つ置いてあった。台の上に布が敷いてあって、その上に物が並んでいた。数えると十四。数えてから、灯はもう一度数えた。十四で合っている。
壁沿いに棚が四段。物は箱に入っていて、側面に字が書いてある。灯の知らない書き方だった。
箱は下の段ほど古かった。上の二段は木の色が明るく、下の二段は角が擦れて丸い。数えると、上から順に七、七、九、九。合わせて三十二。
部屋には匂いがあった。乾いた紙と、ほこりと、それに混ざって甘いもの。甘いのは台の上の皿から来ていた。灯は甘いほうの元を目で探した。探す前に見つかった。
床の板は歩くと少し沈む。台の手前の二枚だけが柔らかかった。灯はその二枚を避けて立った。
台の向こうに人が座っていた。
灯より背が高かった。髪は後ろで一つに束ねてあった。手に薄い布を巻いて、指の付け根まで覆っていた。外に出ているのは指先だけ。
その人は菓子を食べている。平たい四角の菓子で、皿の上に残りが載っていた。皿は白く、縁に細い線が一本回っている。
その人は菓子を一つ取って、二つに割る。片方を口へ入れ、もう片方は皿の端へ置いた。次に取るのはその端の半分で、それを口へ入れてから、また新しいのを一つ割った。皿の端に残る半分は、いつも一つきりだった。
灯は皿の端の半分を数えてみた。一つ。
「連れてきた」
「二日前じゃない」
メノは顔を上げずに、端の半分を口へ入れた。それから新しいのを一つ取って、二つに割る。片方を皿の端へ置いた。
「二日前だ」
「それで」
「書く。名札小路で五枚書いた。字が残ってる」
メノは初めて灯を見た。見るために少しだけ顎を引く。目が合ったのは、灯が数えて一つぶんもなかった。
「こっちの子じゃない」
「うん。こっちの子じゃない」
「残る。終わり」
メノの指は、まだ布の内側だ。
巻きは手首の上で止まっている。
「終わりって、それだけ」
「理由は要らない」
「あたしは知りたい」
灯は台の縁を指の腹で押さえた。
縁の木は冷たかった。
「知っても増えない」
灯は口を閉じた。十四のうち、名前の言えるものは一つも無かった。金物と、木と、布。
メノは皿の菓子を数え直しはじめた。
「九つ」
「八つと半分」
メノの指が止まった。もう一度、端から寄せて数える。割ったほうは皿の縁へ別に置いた。
「八つと半分」
「間違えてない。半分は半分だ」
灯は笑った。笑ってから口を押さえた。メノは顔を上げない。皿の縁の細い線を、指の背でなぞっていた。
キリは包みを下ろして、縄の結び目を外した。中から布が出てきて、布の上に物が並んでいた。灯は数えた。十二。
「見てくれ。今日のぶんだ」
「置いて。触るのはあたし」
メノは巻いた布の端を、指で少しだけ引き下げた。指の腹が出る。それから一つ目の物に触れた。
触れた時間は短い。指を離して、物を左へ寄せた。
二つ目は指を上で一度止めてから下ろす。三つ目に触れたあと、メノは自分の手のひらを見た。見てから左へ寄せた。
四つ目には触れない。指を近づけて、そのまま左へ押しやった。
「触らないのもある」
「近いと分かる」
メノの指が布の中で一度動いた。
「近づけないと、困らないの」
「そのまま置いておけばいい」
「あたしが近づかないほうがいい」
メノは指を布の内側へ引いて、次の物へ移った。
寄せる先が二つに分かれていた。左と、右。灯は分かれ方を見ていた。五つ目までで、左に三つ、右に二つ。
「左は」
「探されてないほうだ」
「右は、今も思い出されてる」
メノは布を巻き直して、巻きながら皿のほうを見ている。
「顔までは来ない」
「来るのは場所と、手の形。あとは明るさだ」
灯は台の上の十四を見た。どれも明るくは見えない。左の山を指す時も、メノの手は布の内側に入れたままだった。
「昼に持った時か、夜か」
灯は自分の手のひらを台の上に置いて、メノの布の巻いた手と並べてみた。指の長さは灯のほうが短い。爪の形も違う。並べただけで、メノは手を引かなかった。
灯は右の二つへ目を移した。二つとも小さくて、二つとも古い。誰かが今日も思い出している二つが、左の三つと同じ顔をしていた。
キリは布の端を押さえようとして、手をメノの手の近くへ出した。メノは手を引いた。引き方が速い。引いた手を膝へ置いて、そのまま動かさなかった。
「悪い」
「近づけないで」
「これで三度目だ」
「じゃあ寄るな」
灯はその引き方を見ていた。物に触れる時とは、手の動かし方が違う。
左と右へ分かれていく物を、灯は目で追った。左へ行く物は台の上を滑り、右へ行く物は一度持ち上がってから下りた。
キリは右へ寄った二つを目で追った。追う目つきが速い。灯もその二つを見た。金物が一つと、木の駒が一つ。
メノは六つ目に触れる前に、指の布を確かめた。巻きが緩んでいないかを、親指で二度押してみた。
六つ目と七つ目は速かった。八つ目で指が止まる。近づけて、離して、もう一度近づけて、それから左へ寄せた。
「今の、迷ってた」
灯は迷った物の位置を覚えた。膝の上で指を一本ずつ折って、また開く。台の下なので、誰にも見えない。
「どっちにも近い」
「両方から探されてるってこと」
「切れかけてる」
灯はその物を見た。木の柄が付いた小さい金具で、柄のところに布が巻いてあった。布は色が抜けている。
残りは手が速かった。左に七つ、右に四つ。台の上に一つだけ残った。
メノは残った一つを取った。
取ってから、指を止めた。前の四つより長い。
「これは違う」
「前のと何が」
「これは、返された物だ」
キリは手を止めた。灯も動かなかった。
メノはその物を、左でも右でもない場所へ置いた。台の縁のところ。ほかの物から離れていた。
「返された物って」
「一度返って、また落ちた」
「跡の付き方が浅い」
台の縁の一つを、灯はもう一度見た。
皿の菓子が一つ、縁のほうへ転がった。皿の縁に細い線が一本。メノは戻さなかった。
「そのままにしとくの」
「そうしとく」
メノは布の端を引いた。指先が隠れる。
「もう一度触ってみて」
「二度触ると増える」
「入ってくるものが」
メノは両手を膝へ戻した。戻す時、袖が布の巻きに触れた。
「それ、頭に来るの」
「手からだ。頭じゃない」
メノはそこで一度、指の布を押さえた。
「一度でいい」
それから両手を膝の上で組んで、その形のまましばらく動かさなかった。
組んだ手の甲に、布の縫い目が浮いている。縫い目は指の付け根を横切って、手首の内側で終わっていた。灯は自分の手の同じ場所を見た。何も無い。
「その布、いつも巻いてるの」
「外さない」
「寝る時も」
「そのままだ」
「暑くないの」
「暑い。それでも巻く」
灯は自分の指の付け根を見た。布の巻きは、メノの手首の骨の出た所で二重になっている。
巻きの端は内側へ折り込んで留めてあった。ほどけそうな場所が一つも無い。
「返された物は落ちにくい」
「じゃあ、いいことじゃん」
「二度目は探してない」
灯はその物を見た。薄い金物で、端に穴が一つ開いていた。穴の縁が丸い。何度も何かを通した穴になる。
メノは皿へ手を伸ばしかけて、途中で戻した。戻した手のひらを、灯のほうへ下に向ける。布に折り目が二本あった。
「あたしにはある」
メノは台の縁の物を、指の背で動かした。腹ではなく背のほうになる。
「これ、誰の」
「言わない」
「持ち主、生きてるの」
「その聞き方はしない」
メノは台の縁の物から指を離さないまま、続けた。
「その形だと、答えが無い」
「知らないんだ」
「知ってる。言う形が無い」
灯は膝の上で指を握った。握った手のひらに、汗が薄くたまっていた。
「どう聞けばいい」
「聞かなければいい」
「言うと探しに行く」
メノはその一つを、指の背でもう一度押した。穴の縁の丸さは、金物の厚みの半分ほど減っている。それだけの回数、何かが通った。
「あたしの落とした物も、それだったら分かる」
「手で読める」
灯は鞄のふくらみを外から押さえた。
「持ってない。落として、それきり」
「なら分からない」
メノはまた一つ割った。皿の上の数が、七つ半になった。
灯は落とした物を、口の中で並べた。
布の袋で、手のひらより小さい。刺してある字は使ううちに消えて、裏は白いままだった。祖母が持たせたもので、いつ持たせたのかを灯は覚えていない。
「表の字が消えてて、裏に何も書いてない袋。それも分かる」
「二度言った」
メノは皿を膝の上へ移した。それからキリを見た。
「右の四つを取る」
「左は市で売る」
メノは右の四つへ手のひらをかざす。指は布の内側に入ったままだった。
「あたしは触った」
*
キリが左の七つを包み直しはじめる。
包む間、メノは台の上の十四を並べ直していた。灯は並べ替える順を見ていた。左の端から右へ、大きさの順でも古さの順でもない。ある物の隣には、いつも同じ物が来た。その組は動かない。
「その並べ方、何」
「触った順」
「書けばいいのに」
メノは並べる手を止めた。少ししてから、また動かしはじめた。
「書かない」
灯は鞄を下ろして、口を開いた。
中から出したのは、薄いノートだった。表紙は青くて、角が一つ折れていた。学校で使わなくなったもの。後ろの三分の一が白いままになっている。灯はそれを持ってきていた。鞄の底で、表紙の角がもう一つぶん折れた。
ノートを膝に載せて、鉛筆を出した。膝の上のノートは、外の日で少し温まっていた。
開いた紙の上に、細い線が横に並んでいた。線と線の間は指の幅より狭い。灯は一行目の左端に鉛筆を置いて、そこから書きはじめた。
書いたのは名前だった。ぬい。たも。せん。みや。たい。かじ。六つを縦に並べて、その横に小さく、木の目の向きを書いた。横、縦、横、横、横、横。
それから今日の四人を足した。一人目のほり。二人目は名を言わず、残っている字をなぞらせただけ。三人目は二枚ぶんの名を口で伝えた。四人目は札を持っていなかった。
灯は二つを空けたまま、点を二つ打った。点の横に、覚えていることだけを小さく足す。裏に跡。札まだ。
書いてから、上の六つを見直した。二日前の六人は、全部書ける。灯は左の手のひらを、膝の横の壁へ当ててみた。当てた下が、少しずつ温かくなる。
今日の四人のうち、二つは点のままだった。
灯は点の下に線を一本引いた。引いた線の長さは、名前の並びの幅と同じにした。線の端で、鉛筆の芯が紙に浅く食い込んだ。
「何を書いてる」
声はメノだった。台の向こうから、首だけをこちらへ回していた。近づいてはこなかった。座ったままの距離。目だけが紙の上を動いていた。
「名前。書いた人の」
「意味ない」
「あるよ。次に会った時に間違えない」
灯はノートの端を親指で押さえた。
「向こうは死なない。ここは減る」
灯は鉛筆を止めた。
紙を押さえた指の先が白くなっている。力を入れすぎた。字を間違えると困る。それだけ。
鉛筆を持ち直して、また動かした。四つの点の下に、今日の日付を書いた。八月二日。
「そのノート、どこの」
「学校。使わなくなったやつ」
灯はノートを膝の上で開き直した。
「学校って」
「字を習うところ。毎日行く」
「一日も休まないの」
「毎日じゃない。字の日と、数の日がある」
メノは菓子を割る手を止めて、灯のノートの端を見ていた。触ろうとはしない。
「日付も書くの」
「いつ会ったか分かるから」
灯は書いたばかりの日付を、指の腹で軽く押さえた。
「いつか要らなくなる」
「ならないよ。数えられるもん」
メノは菓子の半分を皿の縁へ寄せた。
「数えて、増えるの」
「ページのほうは減るけど」
メノは首を戻して、皿の菓子を一つ横へ寄せた。割らないまま端に置いて、そこからは動かさない。
灯はその一つを見た。皿の上で、そこだけ形がそろっている。
「それ、食べないの」
「あとで」
「今日じゃないんだ」
「決めてない」
メノは皿を膝から台へ戻した。戻す時、皿の縁は布の上。音が出ないようにしている。
「何を数えてるの、いつも」
「間。前に会った日から、次に会う日まで」
「数えて、どうする」
灯は答えを探した。その間、鉛筆の先は紙の上で止まっていた。
「どうもしない。数えるだけ」
メノはそれ以上聞かなかった。台の十四のうち三つを並べ替えて、皿を引き寄せる。菓子の残りを指先で一つずつ端へ寄せた。七つと半分。
灯はノートの上の名前を見た。指の背で、端から一つずつ押さえていく。
「菓子が、さっきから一つ減った」
「減る。食べてるから」
「数えるのに、食べるんだ」
「分からなくなる」
「ここ、ずっと一人でやってるの」
「二人だと触る」
「触ると、どうなる」
「その話はしない」
灯は部屋の中をもう一度見た。椅子は一つしかなかった。皿も一つ。布も、巻いてあるのは一組だけだった。椅子の脚は四本とも同じ長さに削ってあった。
「明日、市に出るの」
「出ない。動かない」
「一日中ここにいるの」
「持ってくるのは向こう」
キリは包み終えて、縄を掛けていた。置く結びではなく、担ぐ結び。端が二本とも上を向いている。結び目の形は四つ角と同じだった。
「メノ。この子、字が残る」
「聞いた」
「あんたの札に書かせるか」
メノは菓子の皿を見た。それから灯を見た。見る前に、指の布を確かめる形で両手を握る。
「うちに札は無い」
「戸の横に釘があるじゃないか」
「札は無い。釘だけだ」
「掛ければいい」
「そうしない」
「なんでだ」
「その話はしない」
キリは肩をすくめて、包みの縄を持ち替えた。それ以上は言わない。
「右の四つ、値は」
「輪で八つ。市の前だ」
「市の後に売れ残ったら」
「六つに落ちる」
「置いていく。明日、輪で取りに来る」
「触ったものは動かさない」
キリはうなずいて、板の上の四つを布に包み直した。包む順は台の上と同じ。右の端のものが最初に真ん中へ来た。
メノは四つの布を、台の下へ入れた。入れる場所は棚ではなく、台の下の板の上だった。板の上には他に何も無い。
灯は戸のほうを見た。開いた戸の横に、木の釘が一本打ってある。釘の下の壁だけが、まわりより色が濃くなっていた。何かが長く掛かっていた跡だと、灯には見えた。
「前は掛かってたの」
「掛けない」
「ずっと掛けないんだ」
メノは答えなかった。
その間に、皿の菓子を三つ並べ直した。数は変わらない。半分は皿の端に残ったままだった。
灯はノートを開いたままにしていた。
名前が十並んでいる。書いてある八つと、点が二つ。灯は点の一つを鉛筆の先でつついた。その下が白い。
空いているのは、あと十八行。灯は行を数えてから、一番上の空きに鉛筆を下ろした。
そこで鉛筆が浮いた。
灯は表紙の裏を開いて、白いままの紙を見た。それから名前の並びへ戻った。
鉛筆の先が、行の頭に触れる。
「メノって、何て書くの」
台の向こうで、菓子を割る手が止まった。
メノは布を巻いた両手を膝へ置く。置いてから、初めてまっすぐ灯を見た。物へ向ける目と、当たり方が違っていた。
「いい。書かないで」
灯は鉛筆を紙から離した。
離した手は膝の上。手のひらが、紙より温かい。紙の側が先に冷えていた。
灯は手のひらを、そのままズボンへ押しつけた。押しても、温かさは移らない。爪の先だけが、机の木と同じ冷たさになっていた。
膝の上の両手は、まだ動いていない。布は指先まで巻いてある。巻いた布の端が、片方だけ少しほどけていた。
メノはその端を、親指で内側へ入れた。
紙の上に、点が一つだけ残った。当てた時に付いた点で、字にはなっていない。灯はそれを消さなかった。消さずにノートを閉じて、鞄へ戻した。
キリが包みを背負い上げた。灯は立った。
戸は開いたままで、外は明るかった。日は屋根の上から少し西へ寄っている。
広場の枠を組む音が、そこから入ってきた。板を渡す音と、それを打つ音が交互になる。灯は戸口のほうを向いたまま、打つ数を数えた。四つで一組。組の間が、一つぶんだけ空く。
「明日、あそこに物が並ぶ」
「朝の早いうちだけだ。昼には空く」
「値って、もう決まったの」
「輪で八つ。あんたのぶんは四つだ。半分の話は、こないだ決めた」
キリは指を四本立てて、すぐ下ろした。
立てた指の背に、細い傷が一本あった。灯は前に見た覚えが無い。
戸を出る時、灯はもう一度台のほうを見た。
皿の上の菓子は、七つと半分。メノは半分のほうを先に取って、口へ入れた。残りは七つになった。




