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レポ 落とし物の街  作者: 智珠
第一巻 わすれもの

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9/50

第009話 鑑定士メノ

 二日ぶりだった。


 前の日は行かなかった。母が休みで、朝から窓を拭いていた。灯は雑巾を絞る係になって、台所と、二階の三つと、玄関の脇の小さいのを拭いた。替えた水は三度ぶん。夕方には手のひらが白くふやけて、指の腹の筋が消えていた。


 その日も、四つ角のことは考えていた。考えていたが、行かなかった。


 窓口に人はいなかった。奥の机に届出票の束が積んであって、その横に判が一つ置いてある。判の柄のところが黒く光っていた。祖母は昼の休みで、地上の休憩室にいる時刻になる。灯はそれを知っていて、確かめずに通り過ぎた。


 棚の傘は十一本のまま。二日前と同じ数で、並びも同じ。数え終える前に、灯は裏の隙間へ入った。


 棚の裏を抜けると、扉の向こうから声が聞こえた。人の声で、二つ。灯は板の隙間で足を止めて、耳だけを先に出した。片方はキリで、もう片方は知らない声だった。


 扉は前より重かった。押すと下の縁が石に当たって、途中で一度止まる。灯は肩で押し直した。


 外へ出ると、空が二日前より高かった。日は屋根の上。風は無かった。石の上に砂が乗ったまま動かず、灯の足の裏で細かい音を立てた。


 台の前に列ができていた。四人。うち三人が札を持っていた。キリは台の端に立って、順に何か言っていた。灯を見ると、顎で列の頭を指した。


 「来た。書く子だ。一枚ずつ出せ」


 列の頭の人が、札を差し出す。灯は鞄(かばん)を下ろして、筆箱を出した。


 削ってきた鉛筆は一本だけだった。もう一本は昨日、家で使って短くなった。筆箱の底に、削りかすが二つ残っていた。


 「名前は」


 「ほり」


 灯は書いた。木の目は横。二文字がちょうど収まった。返すと、その人は札を胸の高さで持ったまま列を離れた。離れる時、札の面が日に向いた。


 二人目は札を裏返して出した。裏に何か書いてあった跡があって、その跡を隠すように持っていた。


 「こっちの面に書いて」


 「裏は使わないの」


 「前のが残ってる」


 灯は言われた面を見た。字が薄く残っている。三文字ぶんだが、二文字目の上が欠けていて、読める形にならない。灯は残っている線の上をなぞった。なぞっても濃くならなかった。


 三人目は札を二枚とも出した。一枚は自分ので、もう一枚は預かってきたものになる。預かってきたほうの名は、その人が口で伝えた。灯は二枚とも書いて、二枚とも同じ濃さになるように、二枚目のほうを少し強く押した。


 四人目は子供だった。二日前に走っていった子ではない。札を持たずに来て、板の端に手を掛けたまま列に並んでいた。


 「札は持ってないの」


 「今、頼んである」


 子供は板の切り口を灯へ向けた。角がまだ立っていた。


 「誰に作ってもらうの」


 「板を切る人。小路の奥にいる」


 子供は板の切り口を親指でこすった。


 こすった先が白い。粉は指に付かずに、板の上へ落ちた。


 「板、いつできるの」


 「分からない。頼んだのは春」


 灯は春から今日までを数えた。四月、五月、六月、七月、八月。五つ目に入ったところだった。


 「じゃあ、できてから」


 子供はうなずいて、走らずに帰っていった。帰る方角は西。名札小路のほうだった。


 キリは受け取った物を、板の下へ入れていった。入れる時に、いつもの隅ではなく、板の真ん中の下へ置いていた。


 「今日は場所が違う」


 「二日前のぶんと分けてる。あんたのぶんが増えた」


 「いくつ増えた」


 「六つ。金物が二つ。糸が一束。木の駒が三つ」


 灯は布の上の六つを、指の背で一つずつ数え直した。


 「一枚でいくつ」


 「決まってない。払うほうが出す。出したのが半分にならない時もある」


 キリは指を二本立てて、片方を折る。


 「半分にならないと、どうするの」


 「次に持ってこさせる。逃げる奴はいない。名前が要るからだ」


 灯は板の下を見た。物は布に載せて分けてあった。灯のぶんの布は端が少し破れていた。破れた場所は、キリが折り込んで隠してあった。


 「あの人たち、みんな札を持ってる」


 「名札小路の外にも札は要る」


 北の道から出てきた二人が、どちらも札を提げていた。


 「外にも小路があるの」


 「家に掛けるだけなら誰でもやる。小路じゃない」


 「効かないのに」


 「掛けないよりいい。目印にはなる」


 「持って帰れないのに」


 「その話は二日前だ。今日は数える話だ」


 灯はその六つを、順に指で押さえた。金物は二つとも同じ厚みで、片方だけ角が丸い。糸の束は色が二色。木の駒は三つとも大きさが違った。一番小さいのが灯の親指の先ほど。灯は三つとも指の背で押した。


 「これ、いくらになるの」


 「市に出せば、輪が六つ。出さなければ、そのままだ」


 「出してよ」


 「出す。明日が市の日になる」


 列が途切れた。四つ角を歩く何人かが台のほうを見て、通り過ぎていく。一人だけ足を止めて、灯の筆箱を見た。見てから、何も言わずに行った。灯は列の去った方角を見た。北へ二人、南へ一人、西へ一人。四つの道のうち、東へ行った者はいない。


 「あの人、何」


 「見に来ただけだ。明日また来る」


 「市は今日じゃないの」


 「市の日に来る。ついでのほうが払いがいい」


 「明日は、あんたのぶんを売る。売った先も覚えとけ」


 「どこに書けばいい」


 「書く場所は、あんたが決めろ」


 灯は肩の鞄の中を思った。筆箱と、水筒と、家から持ってきた薄いノートが一冊。


 キリは板の上の空いた場所を手のひらで一度払って、片づけはじめた。木の粉が縁から落ちた。並べてあった物は、行きの結びで包んでいった。


 「行くのか」


 「先に寄る所がある。連れていく」


 「どこにいるの」


 「鑑定屋だ。西の道の、市の立つ広場の手前」


 「メノっていう。あんたより四つ上になる」


 「じゃあ十六だ」


 「そう聞いてる。本人は言わない」


 西の道は、二日前に名札小路へ入った道になる。キリは包みの縄を胸の前で結び終えて、端を二本とも上へ向けた。


 「何を鑑定するの」


 「拾った物だ。誰かが探してるか、探してないかを見る」


 「見て、分かるの」


 灯は自分の手のひらを裏返した。


 真ん中に、鉛筆の芯の黒が薄く付いていた。


 「触って分かる。だから触らせる相手を選ぶ」


 灯は自分の手を見た。指の腹が、昨日の水仕事でまだ少し白い。


 「あたしも触られるの」


 「あいつは人に触らない。物にしか触らない」


 キリは包みを背負った。今日の包みは昨日より大きかった。縄を胸で結ぶ時、端が二本とも上を向いた。


 広場のほうから、木を打つ音が続けて聞こえた。市の枠を組んでいる音になる。


 「あれ、明日の」


 「枠は前の日に立てる。布は当日だ」


 「手伝わないの」


 「俺は台を出すほうだ。枠は枠の者がやる」


 道は乾いていた。二日前より風が弱く、砂が動いていなかった。灯は塀に触りながら歩いた。指の腹に付く粉の量は、二日前より少ない。


 「掃きの人、今日も来た」


 「二度だ。市の前の日は三度になる」


 「いつ増える」


 「日が屋根に掛かってからもう一度だ。市の前は落ちる物が多い」


 「明日は拾えるね」


 「落ちる。人が多い日は、そのぶんだけ落ちる」


 「市はいつやるの」


 「明日だ。この広場に立つ」


 灯は石の上を見た。目地は白く、何も挟まっていなかった。掃いた跡だけが残っていた。


 道の途中で、荷車が二台すれ違った。行きの車は荷が高く、帰りの車は空だった。空の車のほうが音は高い。車輪が石の目地を拾う間が短く、三度鳴ってから一度空いた。


 「明日は、この道が混む」


 灯は明日の予定を、朝から順に頭へ並べた。


 「混む。市の日は朝から通る」


 「あたし、明日は来られない」


 「来なくていい。市に子供の場所は無い」


 灯は道の幅を歩数で測った。塀から塀まで、七歩。二日前は数えていなかった。数え直すには遠すぎる。灯は七歩を覚えた。


 名札小路の角。柱の板の字は、二日前と同じ濃さで残っていた。灯は歩きながら中を見た。小路の入口から三軒目までが見えた。三軒とも札が掛かっていた。


 「札、見えた」


 「見るのはいい。今日は寄らない」


 「足の音、違う」


 「石が違う。広場の石は市のために替えてある」


 「前は違ったの」


 「替えた。俺が来る前の話だ」


 その先で道が広がる。両側の塀が退がって、石の敷き方が変わる。目地が細くなり、石の一枚が大きくなった。歩く音も変わった。灯は十歩ぶん、わざと同じ強さで踏んで聞いた。目地をまたぐ時だけ音が短い。


 広場に出た。


 四角い場所で、真ん中に何も無い。端に木の枠が組んであって、枠の上に布が畳んで積んであった。市の日にそこへ物を並べるのだと、灯には見て分かる。


 広場の手前に、屋根の低い家が一軒あった。


 戸は開いていた。中は暗くなかった。窓が二つ。両方とも布を巻き上げてあった。


 戸の前でキリが足を止めた。


 「入る時は、触るなよ」


 「何にも触っちゃだめってこと」


 「人にだ。物は触っていい」


 灯は口を閉じたまま、その背中を追った。


 *


 中は明るかった。


 床は板。真ん中に低い台が一つ置いてあった。台の上に布が敷いてあって、その上に物が並んでいた。数えると十四。数えてから、灯はもう一度数えた。十四で合っている。


 壁沿いに棚が四段。物は箱に入っていて、側面に字が書いてある。灯の知らない書き方だった。


 箱は下の段ほど古かった。上の二段は木の色が明るく、下の二段は角が擦れて丸い。数えると、上から順に七、七、九、九。合わせて三十二。


 部屋には匂いがあった。乾いた紙と、ほこりと、それに混ざって甘いもの。甘いのは台の上の皿から来ていた。灯は甘いほうの元を目で探した。探す前に見つかった。


 床の板は歩くと少し沈む。台の手前の二枚だけが柔らかかった。灯はその二枚を避けて立った。


 台の向こうに人が座っていた。


 灯より背が高かった。髪は後ろで一つに束ねてあった。手に薄い布を巻いて、指の付け根まで覆っていた。外に出ているのは指先だけ。


 その人は菓子を食べている。平たい四角の菓子で、皿の上に残りが載っていた。皿は白く、縁に細い線が一本回っている。


 その人は菓子を一つ取って、二つに割る。片方を口へ入れ、もう片方は皿の端へ置いた。次に取るのはその端の半分で、それを口へ入れてから、また新しいのを一つ割った。皿の端に残る半分は、いつも一つきりだった。


 灯は皿の端の半分を数えてみた。一つ。


 「連れてきた」


 「二日前じゃない」


 メノは顔を上げずに、端の半分を口へ入れた。それから新しいのを一つ取って、二つに割る。片方を皿の端へ置いた。


 「二日前だ」


 「それで」


 「書く。名札小路で五枚書いた。字が残ってる」


 メノは初めて灯を見た。見るために少しだけ顎を引く。目が合ったのは、灯が数えて一つぶんもなかった。


 「こっちの子じゃない」


 「うん。こっちの子じゃない」


 「残る。終わり」


 メノの指は、まだ布の内側だ。


 巻きは手首の上で止まっている。


 「終わりって、それだけ」


 「理由は要らない」


 「あたしは知りたい」


 灯は台の縁を指の腹で押さえた。


 縁の木は冷たかった。


 「知っても増えない」


 灯は口を閉じた。十四のうち、名前の言えるものは一つも無かった。金物と、木と、布。


 メノは皿の菓子を数え直しはじめた。


 「九つ」


 「八つと半分」


 メノの指が止まった。もう一度、端から寄せて数える。割ったほうは皿の縁へ別に置いた。


 「八つと半分」


 「間違えてない。半分は半分だ」


 灯は笑った。笑ってから口を押さえた。メノは顔を上げない。皿の縁の細い線を、指の背でなぞっていた。


 キリは包みを下ろして、縄の結び目を外した。中から布が出てきて、布の上に物が並んでいた。灯は数えた。十二。


 「見てくれ。今日のぶんだ」


 「置いて。触るのはあたし」


 メノは巻いた布の端を、指で少しだけ引き下げた。指の腹が出る。それから一つ目の物に触れた。


 触れた時間は短い。指を離して、物を左へ寄せた。


 二つ目は指を上で一度止めてから下ろす。三つ目に触れたあと、メノは自分の手のひらを見た。見てから左へ寄せた。


 四つ目には触れない。指を近づけて、そのまま左へ押しやった。


 「触らないのもある」


 「近いと分かる」


 メノの指が布の中で一度動いた。


 「近づけないと、困らないの」


 「そのまま置いておけばいい」


 「あたしが近づかないほうがいい」


 メノは指を布の内側へ引いて、次の物へ移った。


 寄せる先が二つに分かれていた。左と、右。灯は分かれ方を見ていた。五つ目までで、左に三つ、右に二つ。


 「左は」


 「探されてないほうだ」


 「右は、今も思い出されてる」


 メノは布を巻き直して、巻きながら皿のほうを見ている。


 「顔までは来ない」


 「来るのは場所と、手の形。あとは明るさだ」


 灯は台の上の十四を見た。どれも明るくは見えない。左の山を指す時も、メノの手は布の内側に入れたままだった。


 「昼に持った時か、夜か」


 灯は自分の手のひらを台の上に置いて、メノの布の巻いた手と並べてみた。指の長さは灯のほうが短い。爪の形も違う。並べただけで、メノは手を引かなかった。


 灯は右の二つへ目を移した。二つとも小さくて、二つとも古い。誰かが今日も思い出している二つが、左の三つと同じ顔をしていた。


 キリは布の端を押さえようとして、手をメノの手の近くへ出した。メノは手を引いた。引き方が速い。引いた手を膝へ置いて、そのまま動かさなかった。


 「悪い」


 「近づけないで」


 「これで三度目だ」


 「じゃあ寄るな」


 灯はその引き方を見ていた。物に触れる時とは、手の動かし方が違う。


 左と右へ分かれていく物を、灯は目で追った。左へ行く物は台の上を滑り、右へ行く物は一度持ち上がってから下りた。


 キリは右へ寄った二つを目で追った。追う目つきが速い。灯もその二つを見た。金物が一つと、木の駒が一つ。


 メノは六つ目に触れる前に、指の布を確かめた。巻きが緩んでいないかを、親指で二度押してみた。


 六つ目と七つ目は速かった。八つ目で指が止まる。近づけて、離して、もう一度近づけて、それから左へ寄せた。


 「今の、迷ってた」


 灯は迷った物の位置を覚えた。膝の上で指を一本ずつ折って、また開く。台の下なので、誰にも見えない。


 「どっちにも近い」


 「両方から探されてるってこと」


 「切れかけてる」


 灯はその物を見た。木の柄が付いた小さい金具で、柄のところに布が巻いてあった。布は色が抜けている。


 残りは手が速かった。左に七つ、右に四つ。台の上に一つだけ残った。


 メノは残った一つを取った。


 取ってから、指を止めた。前の四つより長い。


 「これは違う」


 「前のと何が」


 「これは、返された物だ」


 キリは手を止めた。灯も動かなかった。


 メノはその物を、左でも右でもない場所へ置いた。台の縁のところ。ほかの物から離れていた。


 「返された物って」


 「一度返って、また落ちた」


 「跡の付き方が浅い」


 台の縁の一つを、灯はもう一度見た。


 皿の菓子が一つ、縁のほうへ転がった。皿の縁に細い線が一本。メノは戻さなかった。


 「そのままにしとくの」


 「そうしとく」


 メノは布の端を引いた。指先が隠れる。


 「もう一度触ってみて」


 「二度触ると増える」


 「入ってくるものが」


 メノは両手を膝へ戻した。戻す時、袖が布の巻きに触れた。


 「それ、頭に来るの」


 「手からだ。頭じゃない」


 メノはそこで一度、指の布を押さえた。


 「一度でいい」


 それから両手を膝の上で組んで、その形のまましばらく動かさなかった。


 組んだ手の甲に、布の縫い目が浮いている。縫い目は指の付け根を横切って、手首の内側で終わっていた。灯は自分の手の同じ場所を見た。何も無い。


 「その布、いつも巻いてるの」


 「外さない」


 「寝る時も」


 「そのままだ」


 「暑くないの」


 「暑い。それでも巻く」


 灯は自分の指の付け根を見た。布の巻きは、メノの手首の骨の出た所で二重になっている。


 巻きの端は内側へ折り込んで留めてあった。ほどけそうな場所が一つも無い。


 「返された物は落ちにくい」


 「じゃあ、いいことじゃん」


 「二度目は探してない」


 灯はその物を見た。薄い金物で、端に穴が一つ開いていた。穴の縁が丸い。何度も何かを通した穴になる。


 メノは皿へ手を伸ばしかけて、途中で戻した。戻した手のひらを、灯のほうへ下に向ける。布に折り目が二本あった。


 「あたしにはある」


 メノは台の縁の物を、指の背で動かした。腹ではなく背のほうになる。


 「これ、誰の」


 「言わない」


 「持ち主、生きてるの」


 「その聞き方はしない」


 メノは台の縁の物から指を離さないまま、続けた。


 「その形だと、答えが無い」


 「知らないんだ」


 「知ってる。言う形が無い」


 灯は膝の上で指を握った。握った手のひらに、汗が薄くたまっていた。


 「どう聞けばいい」


 「聞かなければいい」


 「言うと探しに行く」


 メノはその一つを、指の背でもう一度押した。穴の縁の丸さは、金物の厚みの半分ほど減っている。それだけの回数、何かが通った。


 「あたしの落とした物も、それだったら分かる」


 「手で読める」


 灯は鞄のふくらみを外から押さえた。


 「持ってない。落として、それきり」


 「なら分からない」


 メノはまた一つ割った。皿の上の数が、七つ半になった。


 灯は落とした物を、口の中で並べた。


 布の袋で、手のひらより小さい。刺してある字は使ううちに消えて、裏は白いままだった。祖母が持たせたもので、いつ持たせたのかを灯は覚えていない。


 「表の字が消えてて、裏に何も書いてない袋。それも分かる」


 「二度言った」


 メノは皿を膝の上へ移した。それからキリを見た。


 「右の四つを取る」


 「左は市で売る」


 メノは右の四つへ手のひらをかざす。指は布の内側に入ったままだった。


 「あたしは触った」


 *


 キリが左の七つを包み直しはじめる。


 包む間、メノは台の上の十四を並べ直していた。灯は並べ替える順を見ていた。左の端から右へ、大きさの順でも古さの順でもない。ある物の隣には、いつも同じ物が来た。その組は動かない。


 「その並べ方、何」


 「触った順」


 「書けばいいのに」


 メノは並べる手を止めた。少ししてから、また動かしはじめた。


 「書かない」


 灯は鞄を下ろして、口を開いた。


 中から出したのは、薄いノートだった。表紙は青くて、角が一つ折れていた。学校で使わなくなったもの。後ろの三分の一が白いままになっている。灯はそれを持ってきていた。鞄の底で、表紙の角がもう一つぶん折れた。


 ノートを膝に載せて、鉛筆を出した。膝の上のノートは、外の日で少し温まっていた。


 開いた紙の上に、細い線が横に並んでいた。線と線の間は指の幅より狭い。灯は一行目の左端に鉛筆を置いて、そこから書きはじめた。


 書いたのは名前だった。ぬい。たも。せん。みや。たい。かじ。六つを縦に並べて、その横に小さく、木の目の向きを書いた。横、縦、横、横、横、横。


 それから今日の四人を足した。一人目のほり。二人目は名を言わず、残っている字をなぞらせただけ。三人目は二枚ぶんの名を口で伝えた。四人目は札を持っていなかった。


 灯は二つを空けたまま、点を二つ打った。点の横に、覚えていることだけを小さく足す。裏に跡。札まだ。


 書いてから、上の六つを見直した。二日前の六人は、全部書ける。灯は左の手のひらを、膝の横の壁へ当ててみた。当てた下が、少しずつ温かくなる。


 今日の四人のうち、二つは点のままだった。


 灯は点の下に線を一本引いた。引いた線の長さは、名前の並びの幅と同じにした。線の端で、鉛筆の芯が紙に浅く食い込んだ。


 「何を書いてる」


 声はメノだった。台の向こうから、首だけをこちらへ回していた。近づいてはこなかった。座ったままの距離。目だけが紙の上を動いていた。


 「名前。書いた人の」


 「意味ない」


 「あるよ。次に会った時に間違えない」


 灯はノートの端を親指で押さえた。


 「向こうは死なない。ここは減る」


 灯は鉛筆を止めた。


 紙を押さえた指の先が白くなっている。力を入れすぎた。字を間違えると困る。それだけ。


 鉛筆を持ち直して、また動かした。四つの点の下に、今日の日付を書いた。八月二日。


 「そのノート、どこの」


 「学校。使わなくなったやつ」


 灯はノートを膝の上で開き直した。


 「学校って」


 「字を習うところ。毎日行く」


 「一日も休まないの」


 「毎日じゃない。字の日と、数の日がある」


 メノは菓子を割る手を止めて、灯のノートの端を見ていた。触ろうとはしない。


 「日付も書くの」


 「いつ会ったか分かるから」


 灯は書いたばかりの日付を、指の腹で軽く押さえた。


 「いつか要らなくなる」


 「ならないよ。数えられるもん」


 メノは菓子の半分を皿の縁へ寄せた。


 「数えて、増えるの」


 「ページのほうは減るけど」


 メノは首を戻して、皿の菓子を一つ横へ寄せた。割らないまま端に置いて、そこからは動かさない。


 灯はその一つを見た。皿の上で、そこだけ形がそろっている。


 「それ、食べないの」


 「あとで」


 「今日じゃないんだ」


 「決めてない」


 メノは皿を膝から台へ戻した。戻す時、皿の縁は布の上。音が出ないようにしている。


 「何を数えてるの、いつも」


 「間。前に会った日から、次に会う日まで」


 「数えて、どうする」


 灯は答えを探した。その間、鉛筆の先は紙の上で止まっていた。


 「どうもしない。数えるだけ」


 メノはそれ以上聞かなかった。台の十四のうち三つを並べ替えて、皿を引き寄せる。菓子の残りを指先で一つずつ端へ寄せた。七つと半分。


 灯はノートの上の名前を見た。指の背で、端から一つずつ押さえていく。


 「菓子が、さっきから一つ減った」


 「減る。食べてるから」


 「数えるのに、食べるんだ」


 「分からなくなる」


 「ここ、ずっと一人でやってるの」


 「二人だと触る」


 「触ると、どうなる」


 「その話はしない」


 灯は部屋の中をもう一度見た。椅子は一つしかなかった。皿も一つ。布も、巻いてあるのは一組だけだった。椅子の脚は四本とも同じ長さに削ってあった。


 「明日、市に出るの」


 「出ない。動かない」


 「一日中ここにいるの」


 「持ってくるのは向こう」


 キリは包み終えて、縄を掛けていた。置く結びではなく、担ぐ結び。端が二本とも上を向いている。結び目の形は四つ角と同じだった。


 「メノ。この子、字が残る」


 「聞いた」


 「あんたの札に書かせるか」


 メノは菓子の皿を見た。それから灯を見た。見る前に、指の布を確かめる形で両手を握る。


 「うちに札は無い」


 「戸の横に釘(くぎ)があるじゃないか」


 「札は無い。釘だけだ」


 「掛ければいい」


 「そうしない」


 「なんでだ」


 「その話はしない」


 キリは肩をすくめて、包みの縄を持ち替えた。それ以上は言わない。


 「右の四つ、値は」


 「輪で八つ。市の前だ」


 「市の後に売れ残ったら」


 「六つに落ちる」


 「置いていく。明日、輪で取りに来る」


 「触ったものは動かさない」


 キリはうなずいて、板の上の四つを布に包み直した。包む順は台の上と同じ。右の端のものが最初に真ん中へ来た。


 メノは四つの布を、台の下へ入れた。入れる場所は棚ではなく、台の下の板の上だった。板の上には他に何も無い。


 灯は戸のほうを見た。開いた戸の横に、木の釘が一本打ってある。釘の下の壁だけが、まわりより色が濃くなっていた。何かが長く掛かっていた跡だと、灯には見えた。


 「前は掛かってたの」


 「掛けない」


 「ずっと掛けないんだ」


 メノは答えなかった。


 その間に、皿の菓子を三つ並べ直した。数は変わらない。半分は皿の端に残ったままだった。


 灯はノートを開いたままにしていた。


 名前が十並んでいる。書いてある八つと、点が二つ。灯は点の一つを鉛筆の先でつついた。その下が白い。


 空いているのは、あと十八行。灯は行を数えてから、一番上の空きに鉛筆を下ろした。


 そこで鉛筆が浮いた。


 灯は表紙の裏を開いて、白いままの紙を見た。それから名前の並びへ戻った。


 鉛筆の先が、行の頭に触れる。


 「メノって、何て書くの」


 台の向こうで、菓子を割る手が止まった。


 メノは布を巻いた両手を膝へ置く。置いてから、初めてまっすぐ灯を見た。物へ向ける目と、当たり方が違っていた。


 「いい。書かないで」


 灯は鉛筆を紙から離した。


 離した手は膝の上。手のひらが、紙より温かい。紙の側が先に冷えていた。


 灯は手のひらを、そのままズボンへ押しつけた。押しても、温かさは移らない。爪の先だけが、机の木と同じ冷たさになっていた。


 膝の上の両手は、まだ動いていない。布は指先まで巻いてある。巻いた布の端が、片方だけ少しほどけていた。


 メノはその端を、親指で内側へ入れた。


 紙の上に、点が一つだけ残った。当てた時に付いた点で、字にはなっていない。灯はそれを消さなかった。消さずにノートを閉じて、鞄へ戻した。


 キリが包みを背負い上げた。灯は立った。


 戸は開いたままで、外は明るかった。日は屋根の上から少し西へ寄っている。


 広場の枠を組む音が、そこから入ってきた。板を渡す音と、それを打つ音が交互になる。灯は戸口のほうを向いたまま、打つ数を数えた。四つで一組。組の間が、一つぶんだけ空く。


 「明日、あそこに物が並ぶ」


 「朝の早いうちだけだ。昼には空く」


 「値って、もう決まったの」


 「輪で八つ。あんたのぶんは四つだ。半分の話は、こないだ決めた」


 キリは指を四本立てて、すぐ下ろした。


 立てた指の背に、細い傷が一本あった。灯は前に見た覚えが無い。


 戸を出る時、灯はもう一度台のほうを見た。


 皿の上の菓子は、七つと半分。メノは半分のほうを先に取って、口へ入れた。残りは七つになった。

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