第008話 名札小路
昼のうちから、地下の通路には電気が入れてあった。
灯は売店の前を過ぎて、細い通路へ入った。突き当たりが窓口で、その奥が処分済みの棚になる。窓口には誰もいなかった。祖母は奥の机で、届出票の束を分けていた。灯は声を掛けずに横を通った。祖母は顔を上げなかった。
分けた束は二つ。右のほうが厚い。祖母は薄いほうを両手で持ち上げて、机の端へ寄せた。寄せてから、手のひらで上を一度押さえた。押さえてから、指をそのまま置いている。
朝、灯の傘の柄に触る時と同じ形だった。灯は足を止めずに通った。
棚は四段あって、下から二段目までが埋まっていた。灯は歩きながら段の物を数えた。傘が十一本。袋が四つ。箱が二つ。四日前は傘が十四本だった。三本減っていた。減ったぶんがどこへ行ったかを、灯は聞いていない。
棚の裏の隙間に、灯は肩から入れる。幅は手のひら一つぶん残った。前の時より広く感じた。
灯は肩を先に入れて、体を横にした。板と壁の間は、灯の肩より指二本ぶん狭かった。息を吐いて胸を薄くしてから通る。背中の布が板に擦れて、片方の肩だけ冷たくなった。
その先に扉があった。
押すと、下の縁が石に当たって途中で止まる。
抜けると風が来た。四つ角の石の上を、細かい砂が一つの向きへ流れていた。灯は足を止めて目で追った。砂は西の道へ入って、途中で見えなくなる。前に来た時、この石の上には何も動いていなかった。
空は白い。日は屋根の少し上にあった。灯は家を出た時刻を思い出して、こちらの時刻と並べた。ずれは無い。前もそうだった。
あと三十一日。
灯は数を口の中で言わずに、指を三本立てて下ろした。三十九から数えて、今日で八日目になる。
キリの台が戻っていた。
脚にしている石は四つ。置き方も板も、灯の覚えているとおりだった。端の欠けている場所が、灯の覚えているとおり右の手前にあった。灯は板の欠けを一度見てから、台のほうへ歩いた。
「四日ぶりだな。台を出す場所は変えてない」
板の上の物を、キリが並べ直していた。手は止めない。
「うん。ちょうど四日」
灯は台の前に立って、キリの顔を見た。目の高さは前のところ。首の横には日に焼けた線が一本あって、それも動いていない。灯は自分の肩の高さを、その線と並べる形で立ってみた。
「何を見てる。品物はこっちだ」
「背。前と同じかを見てた」
「四日で伸びる背があるなら、俺が先に売ってる」
キリは板の端に立てた棒を、指で押して倒した。倒れた棒は板の目に沿って転がり、縁で止まった。灯はそれを戻した。
板の上には物が七つ並んでいた。留め金が二つ。金物の板が一枚。細いひもが束になったもの。片方だけの手袋。木を削った小さい人の形。それから、底の欠けた器。灯は左から順に指で押さえて数えた。
「今日は少ない」
「七つで済む日もある」
灯は器を持ち上げて、欠けを日に向けた。欠けは縁の一箇所で、内側に細い線が三本入っていた。指でなぞると、線の底に土が詰まっていた。土は乾いていて、爪の先で押すと粉になった。
「これ、何に使う」
「使わない。買う奴が使い道を決める」
灯は器を、元の位置へ戻した。板の上には物ごとに日焼けの薄い跡が残っていて、器の跡は少し大きい。灯は他の跡も見た。細長いのが手袋。同じ形が二つ並んでいるのが留め金。
風がもう一度来た。
台の上のひもの束が、端だけ持ち上がって落ちた。キリはそれを手で押さえて、石を一つ載せた。載せる石は台の脚と同じ形で、キリはそれを足元の袋から出した。袋の中には、同じ石が何個も。
「風の日は石を出す」
「そうだ。道に落ちてるのを拾えばいい」
口の開いた袋を、灯は上から見た。石は数えられる形で入っていた。上から見えるだけで六つ。
「六つある」
「八つだ。下に二つ沈んでる。数えるのはいいが、数える前に持ち上げろ」
持ち上げてみると、思ったより重かった。持ち上げた時に底の二つが動いて、音が一度した。灯は袋を下ろした。下ろした手のひらに、縄の跡。
「重い。石だけでこれ」
「だから風の日にしか出さない」
「見せろ」
キリが手を出した。灯は何を出すのか分からずに、手のひらを見た。
「その肩に掛けてるやつだ。中身じゃない。袋のほうだ」
灯は鞄を肩から外して、板の上へ置いた。キリは鞄の底を持ち上げて、縫い目のところを指でたどった。それから持ち手の付け根を親指で押した。
「布が二重だ。持ち手のところだけ三重になってる」
「知らなかった。三重なんだ」
「切れる場所を、作った奴が知ってる」
キリは鞄を灯へ返した。返す時、底のほうが先に灯の手へ来る。灯は受け取って肩へ戻した。戻してから、持ち手の付け根を自分でも押してみた。指に分かる厚み。
「これ、いくら」
「売り物じゃない。あんたのだ」
「値をつけたらいくら」
キリは考える形で目を細めた。
「輪二つと、ひもの束。この街の値でだ。持って帰れるならもっと高い」
灯は鞄の持ち手を握った。握ると、三重のところが手のひらに当たった。
人が来た。
背の高い男で、腰に布を巻いていた。台の前で足を止めて、板の上を上から見た。見ている間、一度も物に触らない。
「器はいくらだ」
「輪が二つ。そっちの巻いてる布でもいい。布のほうが得だ」
「これは要る」
「じゃあ輪が一つと、あんたの持ってるひもの余りだ」
男は腰の布の内側から、短いひもを出した。長さは灯の手のひらの倍ほど。それから指の先ほどの細い輪を一つ、板の上へ置いた。キリはひもを受け取って、指で二度しごいた。しごいてから板の下へ入れた。
男は器を取って、袖の中へ入れた。
「底、欠けてる」
「欠けてるぶん、一つで済んだ」
男は何も言わずに歩いていった。灯は男の背中を見た。急いでいない歩き方。四つ角を北へ抜けて、見えなくなった。
「あの人、丸いほうを見てた」
「取らなかったのは見てたからだ。そういうのは次に来る」
「四日、何してた」
「学校は休み。友だちの家に行った。うちの掃除もした」
「家の中も落とし物があるのか」
「うん。窓を全部開けた」
キリは指を板の目へ当てて、そのまま引いた。引いた先に、細かい木の粉が寄った。
「こっちは四日ぶんだ。雨が一度。風が二度。掃きが八度」
灯は八度を数え直した。一日に二度なら、四日で八度になる。合っている。
「ちゃんと同じ」
「何が」
「日の数。そっちとこっちで、そろってる」
キリは指を止めた。止めてから、また滑らせた。
「そう思っておけばいい」
灯は寄った木の粉のほうを見た。粉は板の目に沿って、細い一本の筋になっている。
板の下から、キリが布の包みを出した。包みは平たくて、縄で二重に縛ってあった。結び目が四つあって、四つとも向きがそろっていた。
「配りに行く。ついてくるか」
「うん。どこに配るの」
「名札小路。ここから西へ入って、三つ目を北だ」
灯は西の道を見た。砂の入っていった道。
キリは台の物を布に包んで、板の下へ入れた。板は動かさない。脚の石も動かさない。
「台、置いていくんだ」
「前に一度やった。その日のうちに失くした」
キリは包みを背に負って、縄を胸の前で結んだ。結び方は前に見た荷運びの人たちのやり方で、縄の端が二本とも上を向いた。
灯は鞄を左の肩へ掛け直した。中には水筒と、パンが一枚と、筆箱が入っていた。筆箱を入れたのは今日が初めてだった。家を出る時、机の上に出したままになっていたのを見て、そのまま入れた。
四つ角に人が増えていた。
北の道から来て、南の道へ抜けていった。抱えているのは箱ではなく、布か、束か、細い棒だった。四日前とは持っている物が違う。灯はそれを見て、四日前の東の道を思い出した。あの日、東へ運ばれていったのは蓋を縛った箱ばかり。
「今日は東へ行かないの」
「東は月の終わりだけだ」
「あと何日」
「数え方が違う。あんたの数え方じゃない」
灯は口を閉じて、指を三本立ててから下ろした。今日は札の数だけを覚えて帰りたい。
二人は西の道へ入った。
道は石の敷き方が四つ角より粗く、目地が広かった。目地に細かい物が挟まった跡が白く残っていた。落ちている物は一つも無かった。
「掃きに来る人、まだ来てる」
「朝と、日が屋根に掛かる前と、二度だ」
道の両側は塀で、上には何も無い。灯は塀の高さを目で測った。灯は塀を左手で触りながら歩いた。石の表は乾いていて、指の腹に細かい粉が付いた。粉は白くて、払っても袖に残った。
一つ目の角。二つ目の角に犬がいて、灯を見てから寝直した。
三つ目の角に来た。
角には木の柱が一本立っていて、上のほうに板が打ち付けてあった。板には字が書いてあった。灯は立ち止まって読んだ。
名札小路、と書いてある。
字は右から左へ流れて、三文字目の下が薄くなっていた。
*
壁と壁の間に、灯の肩の倍ほどの幅しか無い。
両側の家の壁が近くて、灯とキリは並んで歩けなかった。キリが先に入って、灯が後ろに続いた。空は上に細く残っている。日は入らなかった。壁は下のほうが湿った色をしていて、触ると冷たかった。
匂いがした。
木が湿って乾ききらない時の匂い。学校の掃除の日、雑巾を絞ったまま置いておいた木のバケツが、同じ匂いをする。灯は口を閉じて、鼻だけで息をした。匂いは喉の奥まで入ってきた。
戸が並んでいた。
左に十四。右に十三。合わせて二十七。取っ手は木で、握るところだけ色が濃かった。
戸の横に札が下がっていた。
札は木で、上の穴にひもを通して釘に掛けてあった。札には名前が書いてあった。
灯は読める札を数えた。
十九枚。
残りの八枚は、字が薄いか、消えていた。消えた札は木の色だけで、字のあった場所がわずかに白い。灯は一枚の前で顔を近づけた。木の目の間に、黒いものが少し。指でこすると、粉になって落ちた。
「触るな」
キリは振り返らずに言った。
「見てただけ。触ってない」
「見るのはいい。落とすのは駄目だ」
灯は手を引いて、その札の家の戸を見た。取っ手のところに土。
その隣の家は、戸が開いていた。
押さえも掛かっていない。灯は中を見た。暗い。床は石で、壁沿いの棚には何も載っていなかった。床の真ん中に、布の袋が一つ落ちている。口が開いていて、中身は見えない。
「ここ、誰も住んでないの」
「一人も残ってない」
キリはそれだけ言って、先へ歩いた。灯は袋をもう一度見てから、後を追った。追いながら、その家の札を見た。札は釘に掛かっている。字は無い。
小路の真ん中あたりで、キリは足を止めた。
戸の前に人が座っていた。灯の母より少し上に見える女の人で、膝の上に木の札を置いている。手にあるのは、黒く焦げた木の棒。書いた字は木に乗らずに、指で押した先から広がっていった。
「ぬい。荷だ」
キリは背の包みを、戸の前の石の上へ下ろした。女の人は棒を膝に置いて、包みの縄を見た。
「三つ目の結びが逆さになってる」
「そっちを上にして担いだ。ほどく時に楽だ」
ぬいは結びをほどいた。中から布が出てきた。布は畳んであって、広げると膝の倍ほど。ぬいはそれを膝の上へ広げて、両手で押さえた。
「値は。先に言ってくれ」
「今日は取らない。三つ先までもらってる」
ぬいは膝の上で布を畳み直した。四つに折って、それから二つに折る。折り目を親指の腹で押して、線を付けた。
灯は膝の上の札を見ていた。札は新しくて、木の色が白かった。書きかけの字が一つ、真ん中でぼやけていた。
「その棒、字がにじむ」
ぬいは棒を持ち上げて、灯に見せた。先が炭で、押すと崩れる。
「これしかない。焼いた木の先を削って使う」
「他は」
「焼いた木は小路に無い。よそからもらってくる」
灯は鞄を足の間へ下ろして、筆箱を出した。
鉛筆が四本。二本は削ってある。灯は削ってあるほうを一本出した。芯は丸いが、書ける。
「これなら書ける。貸すよ」
ぬいは鉛筆を見た。手は出さない。
「それはあんたのだろう。減るぞ」
「うん。あたしの」
「じゃあ持って帰りな。減らすな」
キリが板のほうを向いたまま言った。
「書かせろ。この子は書ける。あんたのは書けてない」
ぬいは膝の札へ目を落とした。真ん中のぼやけた字は、もう形になっていない。袖でこすると全部消えて、木の色だけになった。
「書いてくれ。あんたの手で頼む」
灯が受け取ると、木は乾いていて軽かった。膝に載せると、思ったより厚みがない。裏には何も書いていなかった。
「名前は」
「ぬい」
灯が鉛筆を持ち直すと、指の形は学校で書く時と同じになった。木の目は横に流れている。灯は目に逆らわない向きで、二文字を書いた。
鉛筆の先が木の目に一度引っかかった。灯は力を弱めて、その上をもう一度なぞった。
書き終えて、札をぬいへ返す。
ぬいは札を持ったまま見ていた。それから釘へ掛けて、一歩下がった。
「濃い」
「鉛筆で書いたから」
「そういう名なのか」
ぬいはそれ以上言わなかった。座り直して、膝の布を広げ直す。端をつまんだところに、小さい穴が空いていた。
「その穴、繕うの」
「糸はある。針だけが手に入らない」
「針、どこで買うの」
「広場の市に出る。次の市は三日後になる」
ぬいは穴のところを親指で押さえた。指の下で、布の縦の糸が一本だけ浮いた。
小路の奥から人が出てきた。
男が一人と、その後ろにもう一人。どちらの札も古くて、字が半分消えていた。
「聞いた。書けるって」
「札、貸して」
灯は札を受け取った。一枚目に書くのは、たも。二枚目は、せん。どちらも二文字。
書いている間、二人は黙って見ていた。たもの札は木の目が縦で、字を少し細くする。せんの札は前の字が薄く残っていたので、その上をなぞらずに少し下へずらした。
せんは札を受け取って、目の近くまで持ち上げた。
「これでいい」
それから釘へ掛けに行った。
次に来たのは、札を持っていない人だった。灯の前で立ち止まって、それから戸のほうを指した。指した先の釘に、札が掛かっていた。字は無い。
「外せない」
「外していいのか、分からないってこと」
「掛け直すまでに何かある気がする」
灯は釘まで歩いた。札はひもで掛かっているだけで、持ち上げれば外れる。
「持ったまま書く。外さない」
灯は左手で札の下を壁へ押しつけて、右手で書いた。
「名前は」
女の人は答えなかった。
灯は待った。壁に押しつけた札が、手のひらの下で少しずつ温かくなる。
「たい」
「た、い。二文字だね」
「たい。それだけ」
灯は二文字を書いた。書き終えて手を離すと、札は釘の上で一度揺れて止まった。女の人は札を見ない。戸を開けて、中へ入っていく。戸が閉まる音がした。
灯はぬいのところへ戻った。ぬいは膝の布を畳んだままで、まだ座っている。
「さっきの、戸の開いてる家」
「三軒先の、戸の開いたままの家か」
「あそこの床、袋があった」
「落ちてない。あれが、あそこに残ったぶんだ」
ぬいはそれだけ言って、布の折り目をもう一度押した。灯は開いたままの戸へ目を向けて、手元の札へ戻した。
最後に来たのは小さい子供で、灯より背が低い。札を両手で持って差し出した。
「みや」
灯はそれも書いた。子供が下から手を離さないので、札の上のほうを押さえて書いた。返すと、子供は札を胸に当てて走っていく。足の音が壁に当たって、二度聞こえた。
走りながら、子供が一度だけ振り返って何か言った。壁に当たって、言葉の形にならない。灯は口の中だけで、どういたしまして、と返した。
小路の先には、札の消えている家がまだ三軒あった。一軒は戸が開いたままで、あとの二軒は閉まっていた。
「あと三つ残ってる」
「戻る時間だ」
「三つだけ書かせて」
「済まない。書いたのが伝わると、明日は十来る」
灯は鉛筆を握ったままでいる。握っている指の腹に、六角の角が食い込んだ。
「明日来ればいいじゃん」
「俺は別の道にいる。あんたは一人でここへ入れない」
指を一本ずつ開いてから、閉まっている二軒の戸を見た。土が積もっているのは、そのうちの一軒だけ。もう一軒の取っ手は色が濃くなっていた。誰かが握っている。
「その二つ、違う」
「あんたが見分けたなら、そっちが正しい」
鉛筆の芯が丸くなっていた。
灯は筆箱から削り器を出して、三度まわした。削りかすは手のひらに受けて、そのまま筆箱の隅へ入れた。小路には落とさなかった。
キリは壁にもたれて見ていた。
「終わったか」
「五枚書いた」
「戻るぞ。日が回る」
二人は小路を戻った。
入ってきた側へ歩くと、札が反対の順に並んで見える。灯は歩きながらもう一度読んだ。消えている札は消えたまま。読める札は読めたまま。戸の開いた家の前を通る時、灯は中を見なかった。
ぬいの家の前まで来た。
灯は足を止めた。
釘に掛かった札の字は、書いた時のままの濃さ。隣の家の札は、灯が入ってきた時より薄い。灯は隣の札に顔を近づけて、それから自分の書いた札へ戻る。
一回りして戻ると、灯の書いた字だけが濃いままだった。
隣の名を、灯は口を動かさずに読んだ。三文字。読めるのは二文字目までで、三文字目は下の払いだけが残っている。形だけ頭に入れて、灯は書き足さなかった。
喉が乾いた。暑い道を歩いたせいだ。壁はまだ冷たい。
「行くぞ」
キリは小路の入口に立って待っている。灯は歩き出した。歩きながら、覚えた二文字を頭の中でもう一度並べた。並べると、三文字目の払いの形まで一緒に出てきた。
灯は鉛筆を筆箱へ戻した。六角の当たった指の腹が、まだ白い。
*
四つ角へ出ると、日が屋根の高さに掛かっていた。
台は置いたままの形で残っていた。板も、脚の石も、包んで下に入れた物も動いていない。布の包みが板の下から出て、上へ戻った。物を並べる順は行く前と同じ。
「あの札、なんで濃いままなの」
「書いたのがあんただからだ。それ以上は俺も知らない」
「なのに書かせた」
キリは残った留め金を、四角の真ん中へ寄せた。灯は台の縁に手を掛けた。手のひらに来るのは日の温み。
「知らないから書かせた。試すのは早いほうがいい」
「あたしで試したんだ」
「あんたはただで四枚書いた。俺は次から代金を取る」
灯は手を離した。指を四本折って、一本ずつ戻した。
板の下の帳面。キリは今日の数を炭で足した。足した先に灯の名は無い。数だけが並んでいた。
帳面の紙は厚くて、縁が波打っていた。めくる時に、二枚が一度に持ち上がる。キリは指をなめずに、爪の先で分けた。炭の粉が紙の上へ少し落ちて、キリはそれを息で飛ばした。粉の飛んだ先から、焦げた木の匂いが薄く立った。灯は自分のノートの紙を思い出した。あちらは薄くて、鉛筆の跡が裏まで出る。
台の下から犬の鳴く声がした。二つ角向こうの犬だ。声は一度きりで、あとは風の音だけになった。風は名札小路のほうから来ていて、湿った木の匂いを少し運んできた。
「取るなら、あたしにも分けて」
「書くのはあんただ。半分でいい」
「そんなに」
「半分。俺が客を連れてくる。あんたが書く。それで半分だ」
板の下から小さい板が出た。キリはそこへ何か書きつける。炭の粉が板の縁に落ちて、キリはそれを指で払った。書いたのは炭の棒で、字は太くて読めない。灯は顔を寄せた。
「その字、読めない」
「客は読まない。俺が読める」
「あたしのぶんは」
「自分で覚えとけ」
灯は口の中で数えた。ぬい、たも、せん、みや。それに、札を外せなかった人の、たい。五枚になる。灯は指を五本立ててから下ろした。
「五枚」
「なら五枚で覚えとけ。俺は数えない」
順に並べると、書いた時の木の目の向きまで戻ってきた。横が四枚。縦は、たものぶんの一枚だけ。最後の一枚は子供が下を押さえていた。
小路のほうから男が一人、台の前まで来た。手に札を持っている。札は新しくない。字は端のほうだけ残っていた。
「書くのはこっちの子か」
「そうだ。一枚で、あんたの持ってる金物と替える」
「一つしか無いよ、それ」
「一枚でいい。一枚で一枚だ」
男は腰から薄い金物を出した。四角くて、角が丸かった。表に細かい傷が縦に走っていた。キリはそれを受け取って、日に当てて傾けた。傾けると傷の向きで光り方が変わる。
「書いてやれ」
灯は札を受け取った。字の残っている端を見て、そこから続きを読もうとしたが、読めなかった。
「名前は」
「かじ」
灯は書いた。二文字。木の目は横だった。
男は札を受け取って、そのまま歩いていく。振り返らない。
キリは金物を板の上に置いて、指で真ん中に線を引く形を作った。
「半分だ。どっちを取る」
「そんなの、二つに割れないよ」
「できる。割れば二枚になる。割ったほうが売りにくい」
「じゃあ、そっち持ってて」
「あんたのぶんだと覚えておく。市に出せば輪が一つだ」
キリは金物を板の下へ入れた。入れる時に、他の物と分けて、板の裏の隅に置く。灯はその置き場所を目で追った。
あれは持って帰れない。もう一度そこへ目を落としてから、灯は筆箱を開けた。
鉛筆は四本のうち、削ってあるのが二本。使ったのは一本で、芯はまだ残っていた。
灯は鉛筆を出して、長さを目で測った。
新しい時は筆箱の内側と同じ長さがある。今は、内側より指一本ぶん短かった。
今日書いたのは六枚。削ったのは一度。
残りを指の幅で数えると、四つぶんあった。ここから削れるのは、たぶんあと三度か四度になる。三度なら十八枚。四度なら二十四枚。
灯は数を口に出さずに、筆箱の蓋を閉めた。
「何を数えてる」
「何枚書けるか」
「出たか」
「十八か、二十四。削り方で変わる」
板の上の留め金が、指で一つ動いた。
「二十四で見積もれ。少なく見て断ると、客が別の台へ行く」
「鉛筆、いつか無くなる」
「その時に終わりだ」
「持ってくればいい」
「あんたの物だけだ。他のは消える」
同じ目を、キリがもう一度なぞった。四日前に、袋の中で消えた木の玉。灯は鞄の口を握って、指で二度押した。
日が下がって、四つ角の石に長い影が伸びた。台の影は石の目地を横切って、向かいの壁の下まで。
キリは片づけを始めた。
キリは重いものを先に真ん中へ置き、軽いものを外側へ回した。ひもの束は最後で、丸めずに折って入れた。灯は横で見ていて、途中から手袋を渡した。渡す時、真ん中の側から出した。
「順番、覚えたな」
「重いのを先に置く」
「そうだ。逆にすると、下のが潰れる」
包み終えると、キリは縄を上から二度巻いた。結び方は胸の前で結ぶ時と違って、端を巻いた下へ挟み込む。灯は結び目を見た。挟んだ端が下を向いている。行きの結びは、端が二本とも上を向いていた。
「行きと結び方が違う」
「置いていく結びだ。担ぐ結びは端が上を向く。置く結びは下を向く」
「どっちも同じ縄なのに」
「手が違う」
キリは包みを板の下へ入れた。入れてから、板の縁を両手で押して、四つの石の据わりを確かめた。石は動かなかった。
押した手のひらに、板の目が横の筋になって付いている。灯は自分の手のひらを見た。鉛筆の跡だけで、板の筋は無い。
キリは上着を脱いだ。
台の脚の石に、それを掛ける。
灯はそれを見た。
上着は厚い布で、色は褐色に近かった。襟のところが擦れて、糸が出ていた。袖の口も同じように擦れていた。裾は片方だけ長くて、そこに縫い足した跡があった。縫い足した布は色が違って、元の布より新しい。
灯は上着の裏を見ようとした。裏は石のほうへ向いていて、めくるには手を伸ばさなければならない。灯は伸ばさなかった。
襟には何も書いていない。
袖の口へ目を移した。擦れた糸が二本、出ているだけ。
裾の縫い足したところ。灯はそこから目を離した。そこにも字は無い。
「あんたのも書こうか」
キリは灯を見なかった。
「いい。俺のはいらない」
「なんで書かないの」
「俺は物で商売する。名前のほうは要らない」
「だったら物だよ、名前も」
「そういうことを言う客は払わない」
上着は石から腕へ移った。移す時に裏側が一度こちらを向いたが、キリはすぐ表へ返す。
灯は返された表をもう一度見た。
キリの上着には、何も書いていなかった。
「札が消えたら、その人はどうなるの」
板の上の物を見たままだった。
「消えたら、俺は名前で呼ばない。それだけだ」
「済むんだ」
「呼ばないだけだ。それより先は俺の商売じゃない」
キリは留め金を一つ手に取って、日に当てた。留め金の内側に、細かい傷が回っている。当てたまま、キリはそれを指の腹で一度回した。回してから、板の下へ入れた。入れた先は灯に見えない側になる。
「次はいつ来る」
灯は指を折った。明日が八月一日。学校は無い。母は明日が休みで、家にいる。
「明日は来ない。あさって来る」
「二日後だね。覚えておく」
キリの手に金物が出た。日に当てて、また入れる。入れる場所は同じ隅だった。
「それ、見せてるの」
「場所をあんたに覚えさせてる。俺が居ない日でも取りに来い」
灯は板の裏を、もう一度だけ見た。右のほう。脚の石から二つ目。覚えた。
キリは上着を腕に掛け直した。
日は屋根の下へ落ちて、四つ角の石の色が変わっていた。
灯は台の縁へ身を寄せて、板の下へ顔を近づけた。金物の縁が細く一本、白く見える。
鉄の匂いの下から、油が遅れて出てきた。




