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レポ 落とし物の街  作者: 智珠
第一巻 わすれもの

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第008話 名札小路

 昼のうちから、地下の通路には電気が入れてあった。


 灯は売店の前を過ぎて、細い通路へ入った。突き当たりが窓口で、その奥が処分済みの棚になる。窓口には誰もいなかった。祖母は奥の机で、届出票の束を分けていた。灯は声を掛けずに横を通った。祖母は顔を上げなかった。


 分けた束は二つ。右のほうが厚い。祖母は薄いほうを両手で持ち上げて、机の端へ寄せた。寄せてから、手のひらで上を一度押さえた。押さえてから、指をそのまま置いている。


 朝、灯の傘の柄に触る時と同じ形だった。灯は足を止めずに通った。


 棚は四段あって、下から二段目までが埋まっていた。灯は歩きながら段の物を数えた。傘が十一本。袋が四つ。箱が二つ。四日前は傘が十四本だった。三本減っていた。減ったぶんがどこへ行ったかを、灯は聞いていない。


 棚の裏の隙間に、灯は肩から入れる。幅は手のひら一つぶん残った。前の時より広く感じた。


 灯は肩を先に入れて、体を横にした。板と壁の間は、灯の肩より指二本ぶん狭かった。息を吐いて胸を薄くしてから通る。背中の布が板に擦れて、片方の肩だけ冷たくなった。


 その先に扉があった。


 押すと、下の縁が石に当たって途中で止まる。


 抜けると風が来た。四つ角の石の上を、細かい砂が一つの向きへ流れていた。灯は足を止めて目で追った。砂は西の道へ入って、途中で見えなくなる。前に来た時、この石の上には何も動いていなかった。


 空は白い。日は屋根の少し上にあった。灯は家を出た時刻を思い出して、こちらの時刻と並べた。ずれは無い。前もそうだった。


 あと三十一日。


 灯は数を口の中で言わずに、指を三本立てて下ろした。三十九から数えて、今日で八日目になる。


 キリの台が戻っていた。


 脚にしている石は四つ。置き方も板も、灯の覚えているとおりだった。端の欠けている場所が、灯の覚えているとおり右の手前にあった。灯は板の欠けを一度見てから、台のほうへ歩いた。


 「四日ぶりだな。台を出す場所は変えてない」


 板の上の物を、キリが並べ直していた。手は止めない。


 「うん。ちょうど四日」


 灯は台の前に立って、キリの顔を見た。目の高さは前のところ。首の横には日に焼けた線が一本あって、それも動いていない。灯は自分の肩の高さを、その線と並べる形で立ってみた。


 「何を見てる。品物はこっちだ」


 「背。前と同じかを見てた」


 「四日で伸びる背があるなら、俺が先に売ってる」


 キリは板の端に立てた棒を、指で押して倒した。倒れた棒は板の目に沿って転がり、縁で止まった。灯はそれを戻した。


 板の上には物が七つ並んでいた。留め金が二つ。金物の板が一枚。細いひもが束になったもの。片方だけの手袋。木を削った小さい人の形。それから、底の欠けた器。灯は左から順に指で押さえて数えた。


 「今日は少ない」


 「七つで済む日もある」


 灯は器を持ち上げて、欠けを日に向けた。欠けは縁の一箇所で、内側に細い線が三本入っていた。指でなぞると、線の底に土が詰まっていた。土は乾いていて、爪の先で押すと粉になった。


 「これ、何に使う」


 「使わない。買う奴が使い道を決める」


 灯は器を、元の位置へ戻した。板の上には物ごとに日焼けの薄い跡が残っていて、器の跡は少し大きい。灯は他の跡も見た。細長いのが手袋。同じ形が二つ並んでいるのが留め金。


 風がもう一度来た。


 台の上のひもの束が、端だけ持ち上がって落ちた。キリはそれを手で押さえて、石を一つ載せた。載せる石は台の脚と同じ形で、キリはそれを足元の袋から出した。袋の中には、同じ石が何個も。


 「風の日は石を出す」


 「そうだ。道に落ちてるのを拾えばいい」


 口の開いた袋を、灯は上から見た。石は数えられる形で入っていた。上から見えるだけで六つ。


 「六つある」


 「八つだ。下に二つ沈んでる。数えるのはいいが、数える前に持ち上げろ」


 持ち上げてみると、思ったより重かった。持ち上げた時に底の二つが動いて、音が一度した。灯は袋を下ろした。下ろした手のひらに、縄の跡。


 「重い。石だけでこれ」


 「だから風の日にしか出さない」


 「見せろ」


 キリが手を出した。灯は何を出すのか分からずに、手のひらを見た。


 「その肩に掛けてるやつだ。中身じゃない。袋のほうだ」


 灯は鞄(かばん)を肩から外して、板の上へ置いた。キリは鞄の底を持ち上げて、縫い目のところを指でたどった。それから持ち手の付け根を親指で押した。


 「布が二重だ。持ち手のところだけ三重になってる」


 「知らなかった。三重なんだ」


 「切れる場所を、作った奴が知ってる」


 キリは鞄を灯へ返した。返す時、底のほうが先に灯の手へ来る。灯は受け取って肩へ戻した。戻してから、持ち手の付け根を自分でも押してみた。指に分かる厚み。


 「これ、いくら」


 「売り物じゃない。あんたのだ」


 「値をつけたらいくら」


 キリは考える形で目を細めた。


 「輪二つと、ひもの束。この街の値でだ。持って帰れるならもっと高い」


 灯は鞄の持ち手を握った。握ると、三重のところが手のひらに当たった。


 人が来た。


 背の高い男で、腰に布を巻いていた。台の前で足を止めて、板の上を上から見た。見ている間、一度も物に触らない。


 「器はいくらだ」


 「輪が二つ。そっちの巻いてる布でもいい。布のほうが得だ」


 「これは要る」


 「じゃあ輪が一つと、あんたの持ってるひもの余りだ」


 男は腰の布の内側から、短いひもを出した。長さは灯の手のひらの倍ほど。それから指の先ほどの細い輪を一つ、板の上へ置いた。キリはひもを受け取って、指で二度しごいた。しごいてから板の下へ入れた。


 男は器を取って、袖の中へ入れた。


 「底、欠けてる」


 「欠けてるぶん、一つで済んだ」


 男は何も言わずに歩いていった。灯は男の背中を見た。急いでいない歩き方。四つ角を北へ抜けて、見えなくなった。


 「あの人、丸いほうを見てた」


 「取らなかったのは見てたからだ。そういうのは次に来る」


 「四日、何してた」


 「学校は休み。友だちの家に行った。うちの掃除もした」


 「家の中も落とし物があるのか」


 「うん。窓を全部開けた」


 キリは指を板の目へ当てて、そのまま引いた。引いた先に、細かい木の粉が寄った。


 「こっちは四日ぶんだ。雨が一度。風が二度。掃きが八度」


 灯は八度を数え直した。一日に二度なら、四日で八度になる。合っている。


 「ちゃんと同じ」


 「何が」


 「日の数。そっちとこっちで、そろってる」


 キリは指を止めた。止めてから、また滑らせた。


 「そう思っておけばいい」


 灯は寄った木の粉のほうを見た。粉は板の目に沿って、細い一本の筋になっている。


 板の下から、キリが布の包みを出した。包みは平たくて、縄で二重に縛ってあった。結び目が四つあって、四つとも向きがそろっていた。


 「配りに行く。ついてくるか」


 「うん。どこに配るの」


 「名札小路。ここから西へ入って、三つ目を北だ」


 灯は西の道を見た。砂の入っていった道。


 キリは台の物を布に包んで、板の下へ入れた。板は動かさない。脚の石も動かさない。


 「台、置いていくんだ」


 「前に一度やった。その日のうちに失くした」


 キリは包みを背に負って、縄を胸の前で結んだ。結び方は前に見た荷運びの人たちのやり方で、縄の端が二本とも上を向いた。


 灯は鞄を左の肩へ掛け直した。中には水筒と、パンが一枚と、筆箱が入っていた。筆箱を入れたのは今日が初めてだった。家を出る時、机の上に出したままになっていたのを見て、そのまま入れた。


 四つ角に人が増えていた。


 北の道から来て、南の道へ抜けていった。抱えているのは箱ではなく、布か、束か、細い棒だった。四日前とは持っている物が違う。灯はそれを見て、四日前の東の道を思い出した。あの日、東へ運ばれていったのは蓋を縛った箱ばかり。


 「今日は東へ行かないの」


 「東は月の終わりだけだ」


 「あと何日」


 「数え方が違う。あんたの数え方じゃない」


 灯は口を閉じて、指を三本立ててから下ろした。今日は札の数だけを覚えて帰りたい。


 二人は西の道へ入った。


 道は石の敷き方が四つ角より粗く、目地が広かった。目地に細かい物が挟まった跡が白く残っていた。落ちている物は一つも無かった。


 「掃きに来る人、まだ来てる」


 「朝と、日が屋根に掛かる前と、二度だ」


 道の両側は塀で、上には何も無い。灯は塀の高さを目で測った。灯は塀を左手で触りながら歩いた。石の表は乾いていて、指の腹に細かい粉が付いた。粉は白くて、払っても袖に残った。


 一つ目の角。二つ目の角に犬がいて、灯を見てから寝直した。


 三つ目の角に来た。


 角には木の柱が一本立っていて、上のほうに板が打ち付けてあった。板には字が書いてあった。灯は立ち止まって読んだ。


 名札小路、と書いてある。


 字は右から左へ流れて、三文字目の下が薄くなっていた。


 *


 壁と壁の間に、灯の肩の倍ほどの幅しか無い。


 両側の家の壁が近くて、灯とキリは並んで歩けなかった。キリが先に入って、灯が後ろに続いた。空は上に細く残っている。日は入らなかった。壁は下のほうが湿った色をしていて、触ると冷たかった。


 匂いがした。


 木が湿って乾ききらない時の匂い。学校の掃除の日、雑巾を絞ったまま置いておいた木のバケツが、同じ匂いをする。灯は口を閉じて、鼻だけで息をした。匂いは喉の奥まで入ってきた。


 戸が並んでいた。


 左に十四。右に十三。合わせて二十七。取っ手は木で、握るところだけ色が濃かった。


 戸の横に札が下がっていた。


 札は木で、上の穴にひもを通して釘(くぎ)に掛けてあった。札には名前が書いてあった。


 灯は読める札を数えた。


 十九枚。


 残りの八枚は、字が薄いか、消えていた。消えた札は木の色だけで、字のあった場所がわずかに白い。灯は一枚の前で顔を近づけた。木の目の間に、黒いものが少し。指でこすると、粉になって落ちた。


 「触るな」


 キリは振り返らずに言った。


 「見てただけ。触ってない」


 「見るのはいい。落とすのは駄目だ」


 灯は手を引いて、その札の家の戸を見た。取っ手のところに土。


 その隣の家は、戸が開いていた。


 押さえも掛かっていない。灯は中を見た。暗い。床は石で、壁沿いの棚には何も載っていなかった。床の真ん中に、布の袋が一つ落ちている。口が開いていて、中身は見えない。


 「ここ、誰も住んでないの」


 「一人も残ってない」


 キリはそれだけ言って、先へ歩いた。灯は袋をもう一度見てから、後を追った。追いながら、その家の札を見た。札は釘に掛かっている。字は無い。


 小路の真ん中あたりで、キリは足を止めた。


 戸の前に人が座っていた。灯の母より少し上に見える女の人で、膝の上に木の札を置いている。手にあるのは、黒く焦げた木の棒。書いた字は木に乗らずに、指で押した先から広がっていった。


 「ぬい。荷だ」


 キリは背の包みを、戸の前の石の上へ下ろした。女の人は棒を膝に置いて、包みの縄を見た。


 「三つ目の結びが逆さになってる」


 「そっちを上にして担いだ。ほどく時に楽だ」


 ぬいは結びをほどいた。中から布が出てきた。布は畳んであって、広げると膝の倍ほど。ぬいはそれを膝の上へ広げて、両手で押さえた。


 「値は。先に言ってくれ」


 「今日は取らない。三つ先までもらってる」


 ぬいは膝の上で布を畳み直した。四つに折って、それから二つに折る。折り目を親指の腹で押して、線を付けた。


 灯は膝の上の札を見ていた。札は新しくて、木の色が白かった。書きかけの字が一つ、真ん中でぼやけていた。


 「その棒、字がにじむ」


 ぬいは棒を持ち上げて、灯に見せた。先が炭で、押すと崩れる。


 「これしかない。焼いた木の先を削って使う」


 「他は」


 「焼いた木は小路に無い。よそからもらってくる」


 灯は鞄を足の間へ下ろして、筆箱を出した。


 鉛筆が四本。二本は削ってある。灯は削ってあるほうを一本出した。芯は丸いが、書ける。


 「これなら書ける。貸すよ」


 ぬいは鉛筆を見た。手は出さない。


 「それはあんたのだろう。減るぞ」


 「うん。あたしの」


 「じゃあ持って帰りな。減らすな」


 キリが板のほうを向いたまま言った。


 「書かせろ。この子は書ける。あんたのは書けてない」


 ぬいは膝の札へ目を落とした。真ん中のぼやけた字は、もう形になっていない。袖でこすると全部消えて、木の色だけになった。


 「書いてくれ。あんたの手で頼む」


 灯が受け取ると、木は乾いていて軽かった。膝に載せると、思ったより厚みがない。裏には何も書いていなかった。


 「名前は」


 「ぬい」


 灯が鉛筆を持ち直すと、指の形は学校で書く時と同じになった。木の目は横に流れている。灯は目に逆らわない向きで、二文字を書いた。


 鉛筆の先が木の目に一度引っかかった。灯は力を弱めて、その上をもう一度なぞった。


 書き終えて、札をぬいへ返す。


 ぬいは札を持ったまま見ていた。それから釘へ掛けて、一歩下がった。


 「濃い」


 「鉛筆で書いたから」


 「そういう名なのか」


 ぬいはそれ以上言わなかった。座り直して、膝の布を広げ直す。端をつまんだところに、小さい穴が空いていた。


 「その穴、繕うの」


 「糸はある。針だけが手に入らない」


 「針、どこで買うの」


 「広場の市に出る。次の市は三日後になる」


 ぬいは穴のところを親指で押さえた。指の下で、布の縦の糸が一本だけ浮いた。


 小路の奥から人が出てきた。


 男が一人と、その後ろにもう一人。どちらの札も古くて、字が半分消えていた。


 「聞いた。書けるって」


 「札、貸して」


 灯は札を受け取った。一枚目に書くのは、たも。二枚目は、せん。どちらも二文字。


 書いている間、二人は黙って見ていた。たもの札は木の目が縦で、字を少し細くする。せんの札は前の字が薄く残っていたので、その上をなぞらずに少し下へずらした。


 せんは札を受け取って、目の近くまで持ち上げた。


 「これでいい」


 それから釘へ掛けに行った。


 次に来たのは、札を持っていない人だった。灯の前で立ち止まって、それから戸のほうを指した。指した先の釘に、札が掛かっていた。字は無い。


 「外せない」


 「外していいのか、分からないってこと」


 「掛け直すまでに何かある気がする」


 灯は釘まで歩いた。札はひもで掛かっているだけで、持ち上げれば外れる。


 「持ったまま書く。外さない」


 灯は左手で札の下を壁へ押しつけて、右手で書いた。


 「名前は」


 女の人は答えなかった。


 灯は待った。壁に押しつけた札が、手のひらの下で少しずつ温かくなる。


 「たい」


 「た、い。二文字だね」


 「たい。それだけ」


 灯は二文字を書いた。書き終えて手を離すと、札は釘の上で一度揺れて止まった。女の人は札を見ない。戸を開けて、中へ入っていく。戸が閉まる音がした。


 灯はぬいのところへ戻った。ぬいは膝の布を畳んだままで、まだ座っている。


 「さっきの、戸の開いてる家」


 「三軒先の、戸の開いたままの家か」


 「あそこの床、袋があった」


 「落ちてない。あれが、あそこに残ったぶんだ」


 ぬいはそれだけ言って、布の折り目をもう一度押した。灯は開いたままの戸へ目を向けて、手元の札へ戻した。


 最後に来たのは小さい子供で、灯より背が低い。札を両手で持って差し出した。


 「みや」


 灯はそれも書いた。子供が下から手を離さないので、札の上のほうを押さえて書いた。返すと、子供は札を胸に当てて走っていく。足の音が壁に当たって、二度聞こえた。


 走りながら、子供が一度だけ振り返って何か言った。壁に当たって、言葉の形にならない。灯は口の中だけで、どういたしまして、と返した。


 小路の先には、札の消えている家がまだ三軒あった。一軒は戸が開いたままで、あとの二軒は閉まっていた。


 「あと三つ残ってる」


 「戻る時間だ」


 「三つだけ書かせて」


 「済まない。書いたのが伝わると、明日は十来る」


 灯は鉛筆を握ったままでいる。握っている指の腹に、六角の角が食い込んだ。


 「明日来ればいいじゃん」


 「俺は別の道にいる。あんたは一人でここへ入れない」


 指を一本ずつ開いてから、閉まっている二軒の戸を見た。土が積もっているのは、そのうちの一軒だけ。もう一軒の取っ手は色が濃くなっていた。誰かが握っている。


 「その二つ、違う」


 「あんたが見分けたなら、そっちが正しい」


 鉛筆の芯が丸くなっていた。


 灯は筆箱から削り器を出して、三度まわした。削りかすは手のひらに受けて、そのまま筆箱の隅へ入れた。小路には落とさなかった。


 キリは壁にもたれて見ていた。


 「終わったか」


 「五枚書いた」


 「戻るぞ。日が回る」


 二人は小路を戻った。


 入ってきた側へ歩くと、札が反対の順に並んで見える。灯は歩きながらもう一度読んだ。消えている札は消えたまま。読める札は読めたまま。戸の開いた家の前を通る時、灯は中を見なかった。


 ぬいの家の前まで来た。


 灯は足を止めた。


 釘に掛かった札の字は、書いた時のままの濃さ。隣の家の札は、灯が入ってきた時より薄い。灯は隣の札に顔を近づけて、それから自分の書いた札へ戻る。


 一回りして戻ると、灯の書いた字だけが濃いままだった。


 隣の名を、灯は口を動かさずに読んだ。三文字。読めるのは二文字目までで、三文字目は下の払いだけが残っている。形だけ頭に入れて、灯は書き足さなかった。


 喉が乾いた。暑い道を歩いたせいだ。壁はまだ冷たい。


 「行くぞ」


 キリは小路の入口に立って待っている。灯は歩き出した。歩きながら、覚えた二文字を頭の中でもう一度並べた。並べると、三文字目の払いの形まで一緒に出てきた。


 灯は鉛筆を筆箱へ戻した。六角の当たった指の腹が、まだ白い。


 *


 四つ角へ出ると、日が屋根の高さに掛かっていた。


 台は置いたままの形で残っていた。板も、脚の石も、包んで下に入れた物も動いていない。布の包みが板の下から出て、上へ戻った。物を並べる順は行く前と同じ。


 「あの札、なんで濃いままなの」


 「書いたのがあんただからだ。それ以上は俺も知らない」


 「なのに書かせた」


 キリは残った留め金を、四角の真ん中へ寄せた。灯は台の縁に手を掛けた。手のひらに来るのは日の温み。


 「知らないから書かせた。試すのは早いほうがいい」


 「あたしで試したんだ」


 「あんたはただで四枚書いた。俺は次から代金を取る」


 灯は手を離した。指を四本折って、一本ずつ戻した。


 板の下の帳面。キリは今日の数を炭で足した。足した先に灯の名は無い。数だけが並んでいた。


 帳面の紙は厚くて、縁が波打っていた。めくる時に、二枚が一度に持ち上がる。キリは指をなめずに、爪の先で分けた。炭の粉が紙の上へ少し落ちて、キリはそれを息で飛ばした。粉の飛んだ先から、焦げた木の匂いが薄く立った。灯は自分のノートの紙を思い出した。あちらは薄くて、鉛筆の跡が裏まで出る。


 台の下から犬の鳴く声がした。二つ角向こうの犬だ。声は一度きりで、あとは風の音だけになった。風は名札小路のほうから来ていて、湿った木の匂いを少し運んできた。


 「取るなら、あたしにも分けて」


 「書くのはあんただ。半分でいい」


 「そんなに」


 「半分。俺が客を連れてくる。あんたが書く。それで半分だ」


 板の下から小さい板が出た。キリはそこへ何か書きつける。炭の粉が板の縁に落ちて、キリはそれを指で払った。書いたのは炭の棒で、字は太くて読めない。灯は顔を寄せた。


 「その字、読めない」


 「客は読まない。俺が読める」


 「あたしのぶんは」


 「自分で覚えとけ」


 灯は口の中で数えた。ぬい、たも、せん、みや。それに、札を外せなかった人の、たい。五枚になる。灯は指を五本立ててから下ろした。


 「五枚」


 「なら五枚で覚えとけ。俺は数えない」


 順に並べると、書いた時の木の目の向きまで戻ってきた。横が四枚。縦は、たものぶんの一枚だけ。最後の一枚は子供が下を押さえていた。


 小路のほうから男が一人、台の前まで来た。手に札を持っている。札は新しくない。字は端のほうだけ残っていた。


 「書くのはこっちの子か」


 「そうだ。一枚で、あんたの持ってる金物と替える」


 「一つしか無いよ、それ」


 「一枚でいい。一枚で一枚だ」


 男は腰から薄い金物を出した。四角くて、角が丸かった。表に細かい傷が縦に走っていた。キリはそれを受け取って、日に当てて傾けた。傾けると傷の向きで光り方が変わる。


 「書いてやれ」


 灯は札を受け取った。字の残っている端を見て、そこから続きを読もうとしたが、読めなかった。


 「名前は」


 「かじ」


 灯は書いた。二文字。木の目は横だった。


 男は札を受け取って、そのまま歩いていく。振り返らない。


 キリは金物を板の上に置いて、指で真ん中に線を引く形を作った。


 「半分だ。どっちを取る」


 「そんなの、二つに割れないよ」


 「できる。割れば二枚になる。割ったほうが売りにくい」


 「じゃあ、そっち持ってて」


 「あんたのぶんだと覚えておく。市に出せば輪が一つだ」


 キリは金物を板の下へ入れた。入れる時に、他の物と分けて、板の裏の隅に置く。灯はその置き場所を目で追った。


 あれは持って帰れない。もう一度そこへ目を落としてから、灯は筆箱を開けた。


 鉛筆は四本のうち、削ってあるのが二本。使ったのは一本で、芯はまだ残っていた。


 灯は鉛筆を出して、長さを目で測った。


 新しい時は筆箱の内側と同じ長さがある。今は、内側より指一本ぶん短かった。


 今日書いたのは六枚。削ったのは一度。


 残りを指の幅で数えると、四つぶんあった。ここから削れるのは、たぶんあと三度か四度になる。三度なら十八枚。四度なら二十四枚。


 灯は数を口に出さずに、筆箱の蓋を閉めた。


 「何を数えてる」


 「何枚書けるか」


 「出たか」


 「十八か、二十四。削り方で変わる」


 板の上の留め金が、指で一つ動いた。


 「二十四で見積もれ。少なく見て断ると、客が別の台へ行く」


 「鉛筆、いつか無くなる」


 「その時に終わりだ」


 「持ってくればいい」


 「あんたの物だけだ。他のは消える」


 同じ目を、キリがもう一度なぞった。四日前に、袋の中で消えた木の玉。灯は鞄の口を握って、指で二度押した。


 日が下がって、四つ角の石に長い影が伸びた。台の影は石の目地を横切って、向かいの壁の下まで。


 キリは片づけを始めた。


 キリは重いものを先に真ん中へ置き、軽いものを外側へ回した。ひもの束は最後で、丸めずに折って入れた。灯は横で見ていて、途中から手袋を渡した。渡す時、真ん中の側から出した。


 「順番、覚えたな」


 「重いのを先に置く」


 「そうだ。逆にすると、下のが潰れる」


 包み終えると、キリは縄を上から二度巻いた。結び方は胸の前で結ぶ時と違って、端を巻いた下へ挟み込む。灯は結び目を見た。挟んだ端が下を向いている。行きの結びは、端が二本とも上を向いていた。


 「行きと結び方が違う」


 「置いていく結びだ。担ぐ結びは端が上を向く。置く結びは下を向く」


 「どっちも同じ縄なのに」


 「手が違う」


 キリは包みを板の下へ入れた。入れてから、板の縁を両手で押して、四つの石の据わりを確かめた。石は動かなかった。


 押した手のひらに、板の目が横の筋になって付いている。灯は自分の手のひらを見た。鉛筆の跡だけで、板の筋は無い。


 キリは上着を脱いだ。


 台の脚の石に、それを掛ける。


 灯はそれを見た。


 上着は厚い布で、色は褐色に近かった。襟のところが擦れて、糸が出ていた。袖の口も同じように擦れていた。裾は片方だけ長くて、そこに縫い足した跡があった。縫い足した布は色が違って、元の布より新しい。


 灯は上着の裏を見ようとした。裏は石のほうへ向いていて、めくるには手を伸ばさなければならない。灯は伸ばさなかった。


 襟には何も書いていない。


 袖の口へ目を移した。擦れた糸が二本、出ているだけ。


 裾の縫い足したところ。灯はそこから目を離した。そこにも字は無い。


 「あんたのも書こうか」


 キリは灯を見なかった。


 「いい。俺のはいらない」


 「なんで書かないの」


 「俺は物で商売する。名前のほうは要らない」


 「だったら物だよ、名前も」


 「そういうことを言う客は払わない」


 上着は石から腕へ移った。移す時に裏側が一度こちらを向いたが、キリはすぐ表へ返す。


 灯は返された表をもう一度見た。


 キリの上着には、何も書いていなかった。


 「札が消えたら、その人はどうなるの」


 板の上の物を見たままだった。


 「消えたら、俺は名前で呼ばない。それだけだ」


 「済むんだ」


 「呼ばないだけだ。それより先は俺の商売じゃない」


 キリは留め金を一つ手に取って、日に当てた。留め金の内側に、細かい傷が回っている。当てたまま、キリはそれを指の腹で一度回した。回してから、板の下へ入れた。入れた先は灯に見えない側になる。


 「次はいつ来る」


 灯は指を折った。明日が八月一日。学校は無い。母は明日が休みで、家にいる。


 「明日は来ない。あさって来る」


 「二日後だね。覚えておく」


 キリの手に金物が出た。日に当てて、また入れる。入れる場所は同じ隅だった。


 「それ、見せてるの」


 「場所をあんたに覚えさせてる。俺が居ない日でも取りに来い」


 灯は板の裏を、もう一度だけ見た。右のほう。脚の石から二つ目。覚えた。


 キリは上着を腕に掛け直した。


 日は屋根の下へ落ちて、四つ角の石の色が変わっていた。


 灯は台の縁へ身を寄せて、板の下へ顔を近づけた。金物の縁が細く一本、白く見える。


 鉄の匂いの下から、油が遅れて出てきた。

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