第007話 千夏とハム
目が覚めたのは、蝉の音が一段大きくなった時だった。
灯は天井を見た。板に木目が走っている。数えたことがあって、四十一本。数えたのは去年で、それから数え直していない。
起き上がって、まず鞄を引き寄せた。
鞄の底に、木の玉が無かった。
灯は口を開けて、底を上に向けた。出てきたのは水筒と、折れた鉛筆と、紙が二枚。紙の一枚は先週の学校からの手紙で、もう一枚は母の書き置き。書き置きは前に台所の机へ出ていたもので、夕飯は冷蔵庫、と大きい字で書いてある。書き出しの字が大きくて、終わりのほうが縮んでいた。木の玉は出てこない。
灯は鞄を裏返して振り、縫い目の内側に指を入れた。持ち手の付け根の隙間も見た。無い。
床に並べたものを、灯は数えた。水筒。鉛筆。手紙。書き置き。ポケットから出した鍵。
五つ。全部、家の物だった。
一昨日、灯はあの玉を鞄へ入れていた。閉める時に、持ち手の白くなっている場所へ指が触れた感じまで覚えていた。穴が一つ空いている。転がすと縁が指に当たった。軽い。
灯は四つを、順番に鞄へ戻した。戻す順番は入れた時と同じにした。鍵はポケットの中。
入れ終わってから床を見たが、木の床の目に細かいものは何も落ちていなかった。灯は床に頬を付けて、本棚の下と机の下を、低いほうから見た。ほこりの玉が二つ。それだけだった。
灯はもう一度、鞄の底へ手を入れた。指の腹で縫い目をたどって、四つの角まで行った。角に綿ぼこりが寄っている。玉の丸さは無い。
灯はそれ以上探さなかった。
「灯ー。起きてるなら、二階の窓ぜんぶ開けといてー。風を通したいから」
下から声がした。壁と床を通ってくるので、母の声は語尾だけが長く届く。
「開ける。今からやる」
布団はまだ敷いたままで、灯はそれを畳んで押し入れの下の段へ入れた。入れる時に去年の毛布の角が出てきて、それも奥へやった。
二階の窓は三つある。一つは立て付けが悪くて、下の桟を持ち上げてからでないと動かない。三つとも上げた。
この二日は、朝この窓に触っていない。上げる前に家を出ている。
外の熱が入ってきた。まだ八時前なのに、影がもう短い。向かいの家の屋根で、光が白く跳ねていた。屋根の色は灰色なのに、光の当たる面だけが白かった。
蝉が鳴いていた。一匹ではない。木の場所ごとに音の高さが違う。近いほうの一匹が止まると、その間だけ遠いほうが聞こえた。
灯は窓の縁に肘を置いた。腕の下の木が、もう温かい。
玉を鞄へ入れたのは一昨日の夕方近く、あちらの道の上になる。入れてから、鞄は机の横に立てたままだった。
水の音が下から続いていた。
台所へ下りると、母は流しの前に立っていた。夜勤明けではない日。髪をゴムでまとめていた。手首には輪の跡が付いていた。
「灯、その袋、玄関に出しといて。二つあるから」
流しの横に、口を縛った袋が二つ置いてあった。灯は両方を持ち上げてみた。片方が重い。重いほうは持ち上げた時に瓶の音がした。
「二つとも運ぶの」
「二つとも。瓶が入ってるから、ぶつけないで持っていってくれる?」
重いほうを先に運んだ。抱えると腰の横に当たった。三和土に置くと瓶が一つ動いて、底で止まった。二つ目は軽くて、片手で足りた。
置いてから、袋の口へ顔が近づいた。中の匂いが上がってくる。酢と、古い油と、昨日の魚。三つが順に来て、最後に一つへ混ざった。灯は口を閉じたまま息を吐いた。
三和土は素足に冷たい。
戻ると、母は冷蔵庫を開けていた。
「千夏ちゃんち、今日も行くの? ごはんは向こうで食べるの?」
「行く」
「泊まってきていいよ。お母さん、今夜は勤めに出るし」
「泊まらない。夕方には帰る」
冷蔵庫から麦茶の入れ物が出てきた。母はコップに一つ注いだ。注いだのは灯のぶんで、自分のは注がない。
灯はそれを飲んだ。冷たい。飲むと、のどの内側の形が分かる。飲み終えてコップを流しへ置くと、底に丸い跡が残った。
母は洗濯物の籠を床へ下ろして、畳みはじめた。畳む順番が決まっていた。大きいものから先で、靴下が一番最後だった。灯はその横に立っていた。
言葉は頭の中で最後まで出来上がっていた。出来上がっているのに、口の形にならない。
灯は指を二本立てた。立てたまま、母の背中の側で下ろした。
昨日と、今日。行かなかった日が二日ある。
前に一日あけた時のことを、灯は覚えている。どれだけになるかは分からない。
たぶん、で止まった。確かめる方法が一つも無い。
二本の指は、まだ曲がりきっていない。灯はそれを握りこんだ。指の背の骨が手のひらに当たる。
母がタオルの角を合わせて、二つに折る。折ってから、顔を上げずに言った。
「なに、突っ立って。手が空いてるなら、そっち畳んで」
「別に。見てただけ」
言いかけて、やめた。
「宿題、どこまでいった。ドリル、まだ残ってるでしょ」
「三枚目まで終わった」
「じゃあ持ってきな。向こうで一緒にやってくればいいでしょ」
返事をしないで、灯は二階へ上がった。上がってから、返事をしなかったことに気付いた。
開けたのは、机の引き出しの一番上だけ。名札があって、その下に四月のノートが入っていた。表紙は組と名前だけ。一枚目に日付を二つ書いて、その間の一つに丸を付けてある。灯はそれを開かずに、下の段からドリルを出した。
終わっているのは三枚目まで。四枚目の上の欄に、名前を書く場所が空いていた。
灯は鞄にドリルを入れた。底まで届いて、そこで止まった。
階段を下りる途中で、母が下から声を掛けた。
「傘は?」
「今日は降らないよ。空に何も無い」
母はそれ以上言わなかった。手はもう洗濯物のほうへ戻っている。
灯は玄関で靴に足を入れた。かかとを踏んで、そのまま外へ出た。
外は、家の中より二段くらい明るかった。日はもう屋根の上。
灯は門を出て、左を向いた。
右は犬の家の前を通る。その先に自転車置き場があって、工事の囲いと、ジュースの機械。橋を渡って、駅。改札の手前で右へ折れて、階段を下りれば地下になる。売店の前を過ぎて、細い通路。通路の先が窓口で、その奥が処分済みの棚。
灯は左へ曲がった。曲がってから、右の道がまだ目の中に残っていた。まばたきを二度して、消した。
千夏の家は反対側。
道は途中まで平らで、両側に低い塀が続いた。塀の上に鉢が並んでいる家が二軒。二軒とも鉢の数が違って、多いほうは十一。灯は歩きながら数えて、数え終えた。
日陰を選んで歩いた。選んでも、片側しか無い時間だった。日の当たる側の壁は白く見えて、影の側は色が濃い。同じ壁なのに、境目のところで色が切り替わっていた。
二つ目の角で、灯は足を止めた。
角に空き地がある。先週まで家が建っていた。今は無い。基礎のコンクリートだけが四角く残って、その内側の土が出ていた。
土は道の色ではない。赤に近い色をしている。何十年か知らないが、ずっと家の下にあった土が、いま日に当たっている。
屋根が何色だったか、灯は出せなかった。一週間前まで、毎日この角から見えた。門の柱の高さと、郵便受けのさびた蓋は出てくる。色が出てこない。灯は網から手を離して、首を上げた。屋根の在った高さのところに、何も無かった。
灯は囲いの網に指を掛けた。網は日に当たっていて熱い。手を離すと、指の腹に四角い跡が三つ。歩くうちに、跡は薄くなって消えた。
歩数は止めたぶんだけ数えないでおいて、続きから足した。
角を三つ曲がった。三つ目を曲がると、千夏の家が見えた。
角から三軒目。門の代わりに低い柵があって、その内側に自転車が一台。千夏のだと灯は知っていた。籠に何も入っていない。荷台のゴムは片方が外れて垂れている。
柵に手を掛けて、灯は数え終えた。
家から四百二十歩。去年の冬に一度だけ数えていて、その時は四百二十六歩だった。
家の中で、戸を引く音がした。
*
「はやい。まだ九時じゃん」
呼び鈴を押す前に戸が開いた。千夏は玄関のところに立って、片手でそれを押さえていた。もう片方の手には新聞紙。髪を上でまとめていて、その結び目が半分ほどけていた。
「九時って言ったから来た」
「言ったけどさ、あかり九時って言ったら九時ちょうどに来るじゃん。ちょっと待つとかしないの?」
千夏が笑った。笑い方が大きい。玄関の天井に当たって返ってきた。
灯は靴を脱いで、そろえて上がった。
家の中は灯の家と匂いが違っていた。何の匂いかは分からない。柔軟剤と、たぶん昨日の夕飯と、それとは別の、この家だけの匂いが混ざっていた。五分ほどで分からなくなる。
廊下は灯の家より長かった。板が新しい。歩くと足の裏に、冷たいところと、そうでないところがある。冷たいのは日の当たらない側だった。
廊下の突き当たりが千夏の部屋だった。途中の壁に写真の額が四つ並んでいる。灯は毎回そこを見ないで通る。
部屋の窓際に籠が置いてあった。金網の籠で、下が引き出しになっていて、そこへ新聞紙を敷く形をしていた。籠の横に餌の袋と、水の入れ物と、掃除に使う小さい箒が並べてあった。
「ハム、起きてるんだ」
「起きてる。今日ずっと回してた。うるさくて三時に目が覚めたんだけど、あかりも一回泊まりに来て聞いてみる?」
籠の中の回し車が止まっていた。回し車の下に、ハムがいた。
ハムは灯のこぶしより少し小さい。茶色と白で、背中の真ん中に線が一本。千夏が飼いだしたのは、去年の夏だった。
「はい、これ持って。三枚まとめてね」
千夏が新聞紙を灯へ渡した。三枚重ねになっていた。灯は受け取って、端をそろえた。
「先に出すから。ハム、こっちね」
籠の上の蓋が開いて、千夏の両手が中へ入った。ハムを持ち上げる手つきが速い。下から包むように取って、そのまま自分の腕の内側へ乗せた。ハムは動かない。動かないまま鼻だけが小刻みに動いていた。
「あかり、そっちの引き出し開けて」
籠の下の引き出しに手を掛けて、手前へ引き出した。中の新聞紙が湿っていた。端のほうが濃い色になっていて、真ん中は白いままだった。
「そこ、丸めて。ぎゅっとやると小さくなるから」
湿った紙を丸めると、手のひらが冷たくなる。袋の底で音がした。
千夏は空いているほうの手で自分のぶんを丸めようとして、途中で離した。離した紙が、床の上でゆっくり開いていく。
「あかりって丸めるの上手いよね。あたしがやるとふくらむの。なんで?」
「端から丸めると小さくなる」
「端から。あー、あたし真ん中からいってた」
新しい紙を敷いて、四隅を押した。一つだけ浮くところがあって、二度目で平らになった。
「餌、二すくいね。多いとためこむんだよ」
「ためこむと、どうなるの」
「ほっぺがこうなる。あたし一回、三日ぶん入れてるの見たことある」
千夏は片手を自分の頬へ当てて、外へふくらませて見せた。ふくらませたまま声を出そうとして、空気が抜けた。
餌の袋の口に、白い小さいさじが入っていた。灯はそれで二すくい取って、餌入れへ落とした。落ちた粒は三種類。黄色いのと、茶色いのと、平たいの。灯は平たいのを数えた。四つ。
「その平たいの、ハムいちばん最後に食べるんだよ。とっとくの。ほっぺに入れてさ、あとで出して食べるの。見たことある?」
「無い。まだ見たことない」
「じゃあ今日見れるかも。出すとこ、めっちゃ面白いよ」
「水も入れてきて。台所の蛇口でいいから」
水の入れ物を持って、廊下へ出た。
台所には誰もいなかった。窓が二つあって、灯の家の台所より奥まで明るかった。器が二つ、洗ったまま伏せてある。水の入れ物には線が引いてある。灯は蛇口から、その線より上まで注いだ。部屋へ戻って、籠へ差した。差す時に少しこぼれて、新しい新聞紙に丸い跡が付いた。
「大丈夫大丈夫。そのくらいすぐ乾くって」
籠の上へ、千夏の腕が伸びた。
ハムがそこで動いた。
腕の下から前へ出て、籠の縁に前足を掛けて、そこから外側へ落ちる。落ちた先は本棚の横だった。
「うわ」
千夏の手が下りてきた時には、もういなかった。
灯は動かずに、床を見た。
部屋の床は板で、家具の下に隙間がある。
千夏は本棚の前にしゃがんで、下をのぞきこんだ。それから机の下へ回って、椅子を横へどけた。椅子の脚が床をこすって、短く鳴った。
「ハム。ハムー。出といでってば」
呼んでも出てこない。千夏は押し入れを開けて、下の段の箱を引き出した。中は服。二つ目は去年の教科書だった。
「そっちいた? 本棚の下、見てくれた?」
「まだ。こっちにはいない」
「まずいよ。廊下出たら、うちの家じゅう行けるからね。前に一回、玄関の靴の中にいたことあるもん」
部屋の戸が閉まった。閉めてから、千夏は戸の下の隙間を見た。隙間は指が入るくらいある。
「この隙間、通れると思う?」
「通れる。指が入る」
「じゃあもう廊下かも。うち広いんだよ、無駄に」
戸が開いて、廊下を行く足音と、名前を呼ぶ声が遠のいた。
灯は部屋に残った。まだ見終わっていない場所がある。
灯は部屋の四隅を順に見た。見てから、家具の脚と床の間の高さを測っていった。本棚の下は指が二本入る。机の下は手のひらぶん。たんすの下は、指一本も入らないくらい低かった。
灯は指二本ぶんのほうから見はじめた。
千夏の部屋の床へ、灯は頬を付けた。床は冷たい。冷たさが頬から耳の後ろへ上がってきた。
灯は部屋の真ん中を見なかった。壁ぎわだけを順に見ていった。
本棚の下は暗い。窓の光の来る側から見た。奥にほこりの玉と、鉛筆が一本。ハムはいない。
机の下も同じにした。箱の角と、丸めた紙。いない。
三つ目は本棚と壁の間だった。指が入るくらいの幅で、上から見ても暗くて分からない。灯は手を入れずに、本棚の反対側へ回って、そっちの端から光の通り方を見た。通っていた。何も詰まっていない。
四つ目はカーテンの裾。
カーテンは床まで届いていて、裾が少しだけ膨らんでいた。膨らみは動かない。
灯は息を止めて、床の高さまで目を下げた。裾と床の間に、指一本ぶんの明るい線がある。線は途中で切れていた。切れているところの幅を、灯は目で測った。手のひらより狭い。
そこへ手を入れずに、隙間から中を見た。
いた。
ハムはカーテンと壁の間で、体を丸くして止まっていた。鼻だけが小さく上下した。灯のほうを見ていない。
灯も止まった。膝を寄せれば裾が揺れる。息を細く長くした。
「千夏」
大きい声を出さなかった。出せば動く。
廊下の声が止まって、足音が戻ってきた。
「え、どこにいた?」
「カーテンの裾のところ」
足音が近づくと、ハムが動いた。カーテンの裾に沿って走って、灯の手の横を通る。通る時に、毛が手の甲に触れた。温かい。思っていたよりずっと温かかった。毛の下に、もっと小さい動きがあった。灯は手をそのままにしておいた。動きは止まらない。
「取って取って取って。そっち行った」
「取れない。手より速い」
ハムは部屋を一周して、また本棚の下へ入りかけた。入りかけて、そこで向きを変えた。入口に灯の膝があった。
千夏が上から両手をかぶせた。
「つかまえた。ほら、おとなしい」
ハムを持ち上げて、胸のところで包んだ。包んでから、大きい声で笑った。息は笑い声の合間に吸っていた。
「見た? 今の、あかりの膝んとこで曲がったよ。壁だと思ったんだよあれ」
「壁じゃない。膝だった」
「膝だよね。あかりの膝が壁になってた」
笑い声はまだ続いていた。千夏は笑ったままハムを籠へ戻した。ハムはまっすぐ回し車へ入っていった。入って、回しはじめた。
回し車は片側だけが少し軋む。音の間が一定になっていった。
「ねえ、あかり、なんでカーテン分かったの。あたし絶対、本棚の下だと思ったんだけど」
「端のほうにいると思った」
「端?」
「真ん中は踏まれる。端に寄る」
黙ってから、笑い声のほうが先に戻ってきた。
「意味わかんない。でも合ってる」
ハムは回し車の中で足を止めて、また動かしはじめた。止まるのは、灯が知っている限りで一番短い時間だった。
千夏は籠の前に座って、机の下からノートを引っぱり出した。表紙にかんさつと書いてある。開いて、一番後ろの行に日付だけ書いた。書くのに三秒も掛からなかった。
「それ、何を書いてるの」
「観察日記。自由研究。毎日一行書くの」
千夏はノートを閉じて、また机の下へ入れた。入れる時に、床とノートが擦れて短く鳴った。
手の甲の、毛の触れたところがまだ温かい。灯はそこを見ていた。
温かさが消えるまでに、四つ数えた。四つで、もう分からなくなった。
*
昼はそうめんだった。
千夏が台所で茹でて、二人ぶんを大きい器に入れて持ってきた。浮いているのは氷。麦の形をした型で作ってあって、灯は前にもそれを見ていた。
「食べたら宿題ね。先やんないと絶対やんないから」
台所からめんつゆの瓶と、小さい器が二つ来た。自分のには一気に注いで、灯のには半分で止める。
「あかり、薄いのが好きでしょ」
好きだと言ったことは無い。前の夏に一度だけ、濃いほうがいいと言った。
先に食べ終わったのは千夏だった。灯のほうが遅い。
千夏は食べるのが速い。速いのに、こぼす。器の縁にめんつゆの跡が三つ付いていた。灯の器には付いていない。
器の底に、氷が一つだけ。灯はそれが溶けるまで箸を置いていた。溶けきる前に麦の形が崩れて、残ったのはただの丸。
空いた器は、千夏がまとめて台所へ運んだ。運ぶ時に、灯の器の下から水の輪が離れずについてきた。
机を分けて、ドリルを広げた。千夏は五枚目、灯は四枚目。
千夏は書きながらしゃべる。しゃべりながら書くので、字が途中から大きくなる。
「ねえ、七月の残りって何日? あたし今日で終わると思ってたんだけど、まだあるじゃん」
指を折って数えた。二十九、三十、三十一。
「三日ある」
「三日かあ。八月入ったら早いんだよね。毎年そう。なんで八月って早いんだと思う?」
「分かんない。考えたことない」
「あたしね、宿題があるからだと思う。あかりはどう?」
そこで鉛筆を止めた。
止めてから、答える言葉を探した。探している間の長さが、自分で分かる。千夏はまだこっちを見ていた。
「同じだと思う」
「同じって、どっちの同じ?」
「早いっていうほう」
「ふうん。まあいいや」
千夏の鉛筆が先に走りだした。
灯は四枚目を終わらせて、次へ進んだ。上の欄が白いままだった。埋めてあるのは三枚目までだった。
芯が丸くなっていた。灯は筆箱から削り器を出した。三回まわすと、机に細かいものが落ちる。指で集めて、手のひらへ移した。
灯は四枚目に戻って、名前を書いた。書く時だけ持ち方が変わり、鉛筆が少し立った。
五枚目にも書き足した。
欄は薄い青の線で、下の段のほうが広かった。組と、名前。
「あかり、それ何回書いた?」
「何が」
「名前。今、二回書いたでしょ」
「四枚目から戻って書いた」
「きちょうめん。あたし一枚も書いてないもん」
めくって見せたドリルは、その欄が五枚とも空いていた。
灯はそれを見てから、自分のドリルの欄へ目を移した。
書いてある。書いてあれば、返ってくる。
千夏は最後の一枚を閉じて、大きく伸びをした。それから机の下へ手を入れた。
出てきたのは、さっきのノート。
「見る? まだ誰にも見せてないんだけど」
表紙の四つの角が、どれも丸くすり減っていた。
受け取って、表紙を見た。かんさつという字は、千夏にしては小さく書いてあった。開くと、一行ずつ日付が並んでいた。
六月一日。まわした。
六月二日。まわした。
六月三日。まわした。ねた。
指で追うと、同じ字が続く。四日も、五日も、六日も、まわした、で終わっていた。
字の大きさがそろっていない。ほとんどは行の右へはみ出していて、たまに左半分で切れていた。
灯は短いほうを二つ見つけた。六月九日と、六月二十日。どちらも、次の行では字が戻っている。
「これ、どの日も同じこと書いてる」
「同じだよ。ハムだもん。毎日ちがったら逆にこわいって」
「自由研究になるの」
「なるって。だって毎日ちゃんと書いてるじゃん。先生は書いてるかどうか見るだけだから」
もう少しめくった。
六月十四日のところで、字が長くなっていた。きょう、ハムがほっぺから出したものを、もういっかいほっぺに入れた。
その次の日はまた、まわした、に戻っていた。
「六月十四日のここだけ長い」
「そこ面白かったから。出したのにまた入れんの。意味ないじゃん」
千夏が笑った。灯はもう一度その行を読んだ。読んで、日付の並びのほうを見た。
六月は三十日ぶんが全部埋まっていた。七月に入っても、抜けている日が一日も無い。
昨日の欄まで書いてあった。二十八日。まわした。
「六月から一日も空いてない」
「空けたら負けだと思ってる。ハムは休まないから、こっちも休まない」
千夏の声は変わらなかった。ノートの後ろのほうを指した。まだ白い行が、そこからずっと下まで続いていた。
「八月ぶんまで線引いてあるから。あとは埋めるだけ」
ノートを返す時に、表紙の裏を一度だけ見た。名前が書いてある。組と、名前。書き方に四月が残っていた。線の終わりが丸く止まっていて、今の千夏の字とは違った。
その後、二学期の係の話になった。
図書と、生き物と、黒板消し。あれは掃除の時間に外へ出て、機械でほこりを吸わせる。プールの日はいつか、誰と誰が同じ班か。灯は聞いた。聞いていたが、順番が入れ替わって入ってくる。
「あかり、二学期どこの係にする?」
「まだ決めてない」
「あたし生き物にしようかな。ハムで慣れてるし。あかりも一緒にやんない?」
二学期のことを、灯は一度も考えていなかった。
八月三十一日から先が、まだ何も書いていないノートのようになっていた。
「考えとく。二学期になったら」
「考えとくって、あかりそれ言って考えたことある?」
また笑って、千夏はドリルを積み直した。積み方が雑で、端がそろっていなかった。灯はそれを見て、自分のぶんは端をそろえて置いた。
「あかりのそれ、いつもそう」
「そう?」
「うん。あかり、机の上いつも直角なんだよ。あたし一回そろえてみたけど、三日で戻った」
三時を過ぎると、部屋の光の角度が変わった。
窓の下の壁に、明るい線が一本。線は少しずつ床のほうへ下りてきていた。千夏はドリルを閉じて、床に寝転がった。
「ハム、また回してる。よく飽きないよね」
回し車の音がまだ続いていた。灯はその音を聞きながら、籠のほうを見なかった。
目を閉じると、別の音が出てきた。石の目地を車輪が拾う音。荷車の、間の空いた音。あの音の間は、回し車より長い。
二日、本物のほうを聞いていない。
灯は目を開けた。
千夏が天井を見たまま話していた。話の中身は、まだ学校のこと。
「あかり」
「なに」
「聞いてる?」
「聞いてる。係の話」
起き上がって、千夏はあぐらをかいた。かいてから、両手を膝の上へ置いた。指がそろって、動かなくなった。
灯は言葉を用意した。用意したのは、扉のことでも、四つ角のことでもない。
まぶたが重くなった。
眠い、と灯は思った。
昨日の夜は九時には寝ていた。
「あかり、さ。ちょっと聞いていい?」
「最近ぼんやりしてる」
灯は顔を上げた。目が合った。
「そう? 自分では分かんない」
「そう。三年生の時、あかり鼻血出した日あったじゃん。あの日と同じ顔してる」
その日のことを、灯は覚えていない。
「そんな顔してた?」
「してた。今もしてる」
千夏が息を吸った。
吐くまでの間に、灯は千夏の手を見ていた。膝の上の指が、一度だけ開いて、閉じた。
「いいよ、別に。あかり昔からそういうとこあるもん」
立ち上がって、千夏は机の下からノートを出した。灯のほうへ差し出した。
「あかりも書きなよ、今日の」
「あたしが書くの」
「今日いたじゃん。つかまえたのあかりだし」
開いたノートと鉛筆が、まとめて灯の膝の上へ来た。
行の頭に、朝の二十九日がある。あとは白いままだった。
何を書くかは決まらなかった。決まらないまま、鉛筆の先を紙に付けた。
まわした、と書きかけて、そこで手を止めた。それは今日のことではない。
灯は書き直した。
カーテンのところにいた。
字は日付の右へ収まって、その先に隙間ができた。
「長い。千夏のより長い」
「長くていいじゃん。あたしのなんて『まわした』だし」
のぞき込んだ千夏が、その一行を読んだ。あごが下がって、そのまま止まった。
ノートを閉じて、千夏は籠のところへ行く。指を一本、金網の間へ入れた。ハムが回し車を止めて、その指の匂いを嗅いだ。
「ほら、見て。今から出すよ」
ハムが両手をほっぺへ当てた。押すと、平たい粒が一つ、口から前へ出てきた。ハムはそれを持って食べはじめた。
「ね。面白いでしょ、これ」
灯は膝で前へ寄った。
粒は端から削るように減っていく。食べ終わると、ハムはまた同じほっぺへ手をやった。中にはもう何も無いらしい。
「無いのにやるんだよね、それ」
千夏はそう言って、金網から指を抜いた。
籠のほうを見ている間に、片手が膝の横を探していた。そこに鞄は無い。
手はもう一度、同じところを探した。
また回し車が鳴りだした。
窓の明るい線は、床の真ん中まで下りていた。




