第006話 三十九日
道に、落ちている物が一つも無かった。
灯は十歩を三度数えた。三十歩ぶんの石の上に、ボタンも紙も金物の破片も無い。目地に細かい物が挟まっていた跡だけが、白く残っていた。
前の日は十歩に一つあった。その前は歩く先に何かしらあった。
掃きに来る者がいる、とキリは言っていた。落ちたままでは残らない、とも言っていた。灯はそれを覚えていて、今日もそう思った。
地下から出た時刻は昨日と近い。影は短く、昼を少し回ったところ。
家を出るのが早かった。母は夜勤から戻って、台所の椅子に座ったまま眠っていた。灯は戸を静かに引いて出た。持ってきたのはパンが一枚と、麦茶を入れた水筒。水筒は鞄の中で横になって、歩く度に背中の同じ場所に当たった。
処分済みの棚の裏は昨日のまま。板の隙間に肩を入れて、今日は一度で通り抜けた。扉は昨日と同じ角度で開いていた。
四つ角には人がいた。数は昨日より多い。ただし立ち止まっている者がいなかった。全員が何かを持って、同じ向きへ歩いていった。抱えている者と、背負っている者と、二人がかりで持っている者。
物は箱と、束と、袋。箱は蓋を縄で縛ってあった。縛り方は同じ形で、縄の端が四本とも上を向いていた。
キリの台が無かった。
板も、脚の石も。昨日は脚の石と、その上に重ねた板が残っていた。今日は石の敷き方がそのまま見えて、そこに台があったことを言うものが何も無かった。四角く濃い石の色。物を置いていた場所だけ、日に焼けていなかった。
灯はその四角の中に立ってみた。立ってから、そこに立つ用が無いのに気付いて外へ出た。
荷車が通った。昨日と同じ車輪の音。ただし間が短い。速く引いていた。積んであるのは箱で、蓋はどれも閉じていた。灯は荷車を目で追った。荷車は東の道へ入っていった。
東の道は灯がまだ入っていない道になる。
人の流れも東へ向いていた。四つ角から四本出る道のうち、北と南と西から出てきて、東へ入っていく。入っていった人は手ぶらで戻ってきた。戻ってきた人は、また別の物を持って出ていった。
灯は近くにいた一人に声を掛けた。荷を下ろして縄を結び直している人。
「これ、何の片づけ」
「片づけじゃない。運んでる」
その人は縄の端を歯で押さえて、もう一方を引いた。結び終えると、灯を見ずに荷を担ぎ上げた。膝を先に伸ばして、それから背を起こす持ち上げ方。
灯はもう一度聞こうとした。相手はもう歩き出していた。
東の道へ入る背を、灯は少しだけ見送った。道の先は建物の影で暗い。
灯は東へは行かなかった。キリを探すほうが先になる。昨日、明日も来ると言ってある。言ったから、行く。
灯は西の道へ入った。
西の道は両側の建物が近かった。幅は他の三本と同じで、近いぶんだけ上が狭い。見上げると空が一本の帯になる。帯の幅は、灯が腕を広げた幅より狭い。
道の石は北や南と同じ敷き方。ただし目地が深い。踏む足が少ないのだと灯は考えた。
匂いが変わった。
油の匂い。機械の油ではなかった。もっと重くて、少し甘い。それに、かびの匂いが混ざっていた。奥へ行くほど強くなった。灯は口で息をした。口で息をすると匂いは薄くなって、代わりに舌に残った。
匂いの出どころは、道の左の一軒。
戸が無い。壁の一面がそのまま口を開けていて、中が全部見えた。
傘だった。
畳んだ傘が、壁に立てて並んでいた。床から天井まで、段に分けて。段は横板を渡して作ってあって、板の高さは灯の膝と、腰と、肩と、手を伸ばして届くところ。四段。
体育館の掃除用具入れに似ていた。ただし中身は全部、傘。
灯は入口で止まった。止まってから、一段目を見た。柄の向きがそろっていなかった。上を向いているものと、下を向いているものが混ざっていた。
二段目は骨だけの傘が並んでいた。布の無いもの。骨の本数は傘によって違った。十本のものが多い。途中で折れて、数の分からないものも混じっていた。
「そこ、どいて」
声が下から来た。
灯は下を見た。床に人が座っていた。膝を立てて、その膝の上に傘を一本、横にして載せていた。
小さい人。背丈は座っているので分からなかった。手が小さくて、指の関節だけが太い。髪は短くて白く、頭の形にそって寝ていた。
灯は入口の横へ寄った。
その人は灯を見なかった。膝の上の傘の、骨の一本を指でたどっていた。たどって、途中で止めた。止めたところに継ぎ目がある。
「そこ、持って」
傘の先のほうを、顎で示された。
灯は少し迷ってから、しゃがんで、示された場所を握った。傘は思ったより重かった。骨が太い。布は厚くて、手のひらに硬さが伝わってきた。
「もっと下」
灯は握る位置を下げた。
「離さないで」
その人は継ぎ目のところに細い針金を回して、両端を指でねじった。ねじる指の動きが速かった。ねじり終えると、余った端を折り込んで、爪で押さえた。
「もういいよ」
灯は手を離した。手のひらに、骨の跡が横に一本。
その人は傘を膝から下ろして、床に置いた。置いてから、次の一本を引き寄せた。壁の二段目の、骨だけの一本。
「これも持てばいいの」
「持って」
灯はまたしゃがんだ。
二本目は軽い。布が無いぶんだけ軽かった。骨は八本で、そのうち二本が途中で曲がっていた。曲がっているほうを、その人は先に伸ばした。伸ばす時に、傘の全体が短く鳴った。金物どうしが擦れる音。灯はそれを聞いて、自分の傘の骨のことを思い出した。
灯の傘も、骨が一本だけ短い。それでも開けば形になる。
「これ、直したらどうするの」
「置いとく」
「これ、取りに来るの」
「来ないよ」
その人は針金をねじり終えて、指を止めた。止めてから、灯を初めてまっすぐ見た。歯が無い。口を閉じると、唇の内側が奥へ入る形になった。
「あんた、こっちの子じゃないね」
灯は答えを探した。出てこないままうなずいた。
その人はうなずき返さなかった。次の傘へ手を伸ばした。
「ばあや、二本もらうよ」
入口から声。通りかかった人が、一段目から傘を二本抜いていった。抜き方が慣れている。抜いた後の隙間を、その人は直しに来なかった。
灯はその名前を聞いた。聞いて、口の中で一度だけ言ってみた。
「ばあや」
「なんだい」
「ここの名前を知らない」
「レポだよ」
ばあやは針金の束から一本を抜いた。抜いた長さを目で測って、少し戻した。
「レポ」
「そう」
灯はもう一度、口の中で言った。二文字。二文字なら忘れない。名前を知らない場所を、灯は三日歩いていたことになる。
ばあやは手を止めなかった。
「そこの端、押さえてて」
灯は押さえた。布の端。厚くて、日に焼けた匂いがした。押さえていると、日の当たっていた面の温かさが手のひらに来た。
「いつからここにいるの」
「忘れたよ」
「傘、直してるの、いつから」
「それも忘れた」
ばあやは針を布に通した。糸は太くて、縫い目が大きかった。一針ごとに、糸を引く音が短く響いた。縫い方は速くない。速くないが、止まらなかった。
灯は押さえたまま壁の四段を見上げた。一段目に何本あるのかを数えはじめて、七で見失った。二段目の途中で列が二重になっていた。手前と奥で本数が違う。奥の列は暗くて数えられなかった。
「何本あるの」
「数えたことない」
ばあやは糸を引ききって、玉を作る。作り方が速い。指の腹で二度回して、それで留まった。
「取りに来ないのに、直すんだ」
「直しとけば、すぐ渡せる」
ばあやは布の端を灯の手から引き取った。引き取る時に、ばあやの指が灯の指へ触れた。冷たい。日の当たる場所に座っているのに、指の先だけが冷たかった。
灯は自分の手を見た。手のひらの骨の跡が二本。
外の通りを、また誰かが東へ歩いていった。荷を担いだ足音。道の細さのぶんだけ大きく聞こえた。
「あの人たち、東に何しに行くの」
ばあやは針を止めなかった。
「持ってくんだよ」
「どこに持ってくの」
「東」
答えの形をしていない、と灯は考えた。
「ばあやは持ってかないの」
「あたしのは、ここに置く」
ばあやは次の傘を引き寄せた。引き寄せる時に、床の上を柄が擦れた。
「夜のほうの人が来る前にね」
「夜のほうって」
「歩き方が違うんだよ」
灯は道の東を見た。建物の影で、そこから先は見えない。
「その人、何しに来るの」
「書きに来る」
ばあやは針の先を布に立てて、そこで一度止めた。止めてから、続けた。
「何を書くかは知らないよ」
灯はそれ以上聞かなかった。
ばあやは縫い終えた傘を、壁の一段目へ戻した。戻す位置は決まっているらしい。柄の向きを上に直して、隣との間を指の幅ぶんだけ空けた。
日が細く入るぶんの隙間。
*
灯は西の道を戻った。
戻る時、道の石の目地が行きより浅く見えた。同じ道なのに、帰りは違う。灯は自分の目のせいだと思った。
四つ角から南へ入る道は平らだった。石の敷き方が同じで、上りも下りも無い。灯は行きにそこを見ていた。
四つ角に人はもういなかった。荷車の音も止んでいた。四本の道のうち、まだ動いているのは東の一本だけ。
キリは南の道の入口にいた。
地面に膝をついて、荷を縛っていた。縛っているのは箱ではなく、布でくるんだ長いもの。中身は分からなかった。縛り方は朝に灯が見た人たちと同じ形をしていた。縄の端が四本、上を向いている。
「台、どうしたの」
キリは顔を上げなかった。
「片づけた。三枚とも売った。板は板で値がつく」
灯はキリの横にしゃがんだ。しゃがむと、手元がよく見えた。指の腹が黒くなっていた。縄をこすった跡。
「明日もまた台を出すの」
「明日のことに値をつける奴はいない」
キリは縄をもう一巻きして、端を輪の中へ通した。通した先を握って引く。引く時に袖が上がった。灯はそこを見た。
手首が出ている。出ている幅は昨日と変わっていなかった。骨の出っ張りのところまでで、それより上は袖の中にあった。
灯は昨日、ここを覚えている。まくり上げなくても手首が出た、という覚え方をした。
今日は動いていなかった。
灯は少し息をついた。ついてから、なぜ息をついたのかは考えなかった。
「水筒、いる」
「中身は何だ」
「麦茶」
「入れ物ごとか」
「入れ物は返してほしい」
「なら値がつかない。返す物に値はつかない」
キリは荷を立てて、上から二度たたいた。中で何かが移動する感じは無い。詰め方がきつい。
灯は荷に手を置いてみた。布は日を吸って温かく、押すと硬さが手のひらに来た。押すと、中が詰まっていた。指の先が少し沈んで、それ以上は入らない。長いものが何本か、まっすぐ並んで入っているのが手のひらに来た。
「触るな。売り物だ」
「触ったら値がつくの」
「下がる。手の脂が付く」
灯は手を離した。離した跡は残っていない。残っていないのを確かめてから、手を鞄の持ち手へ戻した。
「それ、何が入ってるの」
「聞くのは一からだ」
「一って、何が一なの」
「一が何かを聞くのも一だ」
灯は口を閉じた。閉じた後で、キリの言い方が昨日と同じ速さなのに気付く。値段を言う時だけ速くなる。今のは速かった。
東の道の方から、荷車がもう一台出てきた。空だった。車輪の音が高い。積んでいないので跳ねた。
灯は鞄の口を開けて、中を見た。パンが一枚。水筒。それと、家から持ってきていない物が一つも無い。
「あたし、探してる物がある」
「拾い屋は探さない。拾う」
「探すのは、いくらになるの」
「値がつかない。無いものに値はつかない」
キリは縄の余りを短く切って、端を指で丸めた。上着の内側へ入れる。見ずに入れた。入れる先を指が覚えていた。
「青い布の、小さいやつ。結び目が固い。糸が細い。字が書いてあったけど、もう読めない」
灯はそこまで言って、止まった。学校で聞かれた時は、お守り、とだけ答えている。
キリは顔を上げた。上げて、灯の鞄の持ち手を見た。持ち手には、糸の色が付いていたところだけ白く残っている。キリはそこを一秒見て、目を戻した。
「布だな。布に番号は付かない」
「前にも言われた」
「二度言った。番号の無い物は、どこにあるか言えない」
キリが立ち上がる。膝の土を払った。払い方が雑。上着の裾にも土が付いた。付いたぶんは払わなかった。
「持つの、手伝おうか」
「いらん。一人で足りる」
「二人で持ったら速い」
「速くても値は同じだ。半分持たせたら半分払うことになる」
灯は上げかけた手を下ろした。
キリは荷の位置を肩の上で直しながら指を三本立てた。
「あんたが置いてったのは、ボタンが二。木の留め具が半分」
「三つめは」
「足の跡が一。しめて三と半分になる」
「足の跡って何」
「道を歩けば石が減る。減ったぶんは誰かが払う」
冗談なのか、そうでないのかは分からない。キリの顔は変わらなかった。値段を言う時と同じ顔をしていた。
「じゃあ、あたし借りてるの」
「借りてない。案内は二で、あんたは先に二置いてった。貸し借りは無い」
「丘、連れてってくれた」
「連れてったぶんは、その二で払ってある。前のは使い切った」
灯はそれを覚えておくことにした。覚えても、使い道は思い付かなかった。
通りをまた一人、東へ歩いていった。抱えているのは籠で、上に布が掛けてある。布の下から、細いものの先が何本か出ていた。
「みんな、東に運んでる」
「運ぶ。今日は全部だ」
「なんで」
「そういう日だからだ。今日は値が動く」
「そういう日って、何の日」
「運び終える日だ。積んだら、あとは待つだけになる」
「待つと、どうなるの」
「片がつく」
「片がつくって」
「取りに来ない物は、置いておく理由が無くなる」
キリの言い方は速くなかった。値段の速さでもなかった。
「あたしのは、いつ」
「落ちた日を言え」
「七月の二十三日」
キリは荷を担いだ。担いでから、指を折らずに答えた。
「なら三十九日目だ。もう四日過ぎてる。残りは自分で数えろ」
三十九。三と、九。四十より一つ少ない。
灯はその数を頭の中で置き直した。置き直しても、置く先が無い。
昨日、灯はノートに日付を書いた。七月二十四日と、七月二十六日。二つの間に、行かなかった日が一つ。あの時に灯が数えていたのは、自分の来た日。
「その日、何が起きるの」
「置く場所が空く」
「置いてあった物はどうなるの」
「無くなる。次のぶんが入る」
「東に運んだやつは、戻ってこない」
「戻ってきた物は見たことがない」
キリが荷を担ぎ直す。途中で一度だけ動きが止まって、それから続いた。
「あんたの物がここにあるとは言ってない」
「言ってない」
「言ってないことを聞くな。値がつかない」
灯は立った。キリの顔の位置を見上げる。昨日より上でも下でもない。今日は動いていなかった。
「昨日、なんで言わなかったの」
「聞かれてない。それだけだ」
「聞かなきゃ言わないんだ」
「ただで言う話じゃない」
「あたし、ここに三回来てる」
「三回来た奴には三回ぶん売る。それで終いだ」
灯は息を吸って、そのまま止めた。止めてから吐いた。吐く時に、音。
灯は自分の指を見た。二本立てて、そのまま下ろした。
灯はキリの上着の、糸のほつれている場所を見た。昨日と同じ場所がほつれている。同じ場所を三日見ていたことになる。
キリは、知っていて言わなかった。
灯はその場から歩き出した。
歩き出して、五歩めで足の速さが変わった。石の目地を靴の底が拾わない。拾わないくらい速い。
坂だから速いのだと灯は思った。
四つ角へ戻る道は、坂ではない。
「おい」
後ろから声が来た。灯は止まって、振り向く。
キリは荷を担いだまま、同じ場所に立っていた。荷の重さで、肩が片方だけ落ちている。落ちているほうの手は下げたまま動かさなかった。
「東へ行くのか」
「行く」
「札を見ろ。番号が四つ並んでる。頭の一つが落ちた日だ」
灯はその言葉を頭の中で二度なぞった。二度目でも、意味の全部は取れない。取れたぶんだけを覚えた。
「それ、いくら」
「今日はいい。明日は一だ」
キリは荷を担ぎ上げ直した。直してから、南の道の奥を見た。灯のほうは見なかった。
「言っとくが、あんたに教えたんじゃない。ただの独り言だ」
「独り言でも聞こえた」
灯は南の道の入口に立ったまま、その背が細くなるまで見ていた。荷は肩の左に載っていて、歩く度に上下した。上下の幅が小さい。持ち方が上手いのだと灯は思った。
背が角を曲がって見えなくなると、通りの音が一段下がった。
灯は手のひらを見た。骨の跡はもう消えている。
角を曲がった先から、もう一度だけ声がした。
「日が落ちる前に出ろ」
*
東の道は、両側の建物が低かった。
幅は同じで、低いぶんだけ上が開いている。見上げると空が全部見えた。
道の石に跡が付いていた。
引きずった跡。細いものが何本も、道の端に寄せて付いていた。灯はしゃがんで、指で確かめた。石の上の薄い土が、線になって削れている。削れた線の底は、まだ湿っていた。
跡は全部、同じ向きを向いている。
灯は跡をたどりはじめた。歩くほど跡は増えた。増えて、途中から重なって、どれが一本かは分からなくなった。
道の先で、車輪の音が止まった。
荷車が一台、片側へ傾いていた。車輪の一つが石の目地へ落ちて、抜けなくなっている。目地は浅いのに、輪の縁がちょうどはまる幅をしていた。積んだ箱の上の二つが崩れて、中身が道へ散っていた。
人が寄ってきた。四人。誰も何も言わずに動いていた。二人が車輪の側へ回り、一人が荷台の縁の下へ肩を入れた。残る一人は散った物を拾いはじめた。
灯も拾った。
拾ったのは、木の枠と、金具の付いた革の帯と、片方だけの靴。枠は日に焼けて軽く、持つと角が手のひらに当たった。革の帯は重い。金具のところだけが冷たかった。靴は乾いていて、中に砂が入っていた。傾けると、砂が石の上へ出た。
灯は砂を出しきってから、三つとも荷台へ載せた。
誰も礼を言わなかった。灯を見る者もいなかった。
肩を入れた人が息を吐いて、腰を落とす。落としてから、一度で上げた。車輪が目地から抜けて、荷車がまっすぐに戻る。引いていた人が縄を持ち直した。四人はそれぞれ別の方へ散っていく。
荷車はまた東へ動きはじめた。車輪の音が、さっきより高い。
道の石の上に、砂だけが残った。
その先に、木の玉が一つ落ちていた。糸を通す穴が空いている。灯は拾って、手のひらに載せた。軽い。転がすと、穴の縁が指に当たった。
灯はそれを道の端へ置こうとして、置く場所に跡が付いているのを見た。置けば、また誰かが東へ持っていく。
灯は木の玉を鞄へ入れた。
入れてから、鞄の口を閉めた。閉める時に、持ち手の白くなっている場所に指が触れた。
道の先が開けた。
建物が途切れて、そこだけ石が敷いていない。土がむき出しで、平らにならしてある。広さは運動場よりは狭くて、体育館よりは広い。
物があった。
箱と、束と、袋。積んである。積み方に段があって、下から順に大きいものが置いてあった。高さは灯の背より上まで来ている。列は三つ。三つとも、灯が立っている側から奥へ向かって伸びていた。
匂いが違った。
湿った紙の匂い。それに古い布と、金物が混ざっていた。西の道の油とも、四つ角の乾いた布とも違う。地下の階段を下りた時の匂いに、これが一番近い。
運んできた者たちは、列の手前で荷を下ろした。下ろすと、すぐ戻っていく。誰も口をきかなかった。荷を置く前に、全員が一度、列の端を見た。見てから置く順が同じになる。
灯は一列目の横を歩いた。
歩幅で数えた。列の端まで六十二歩。六十二歩は、地下の棚を端から端まで三度歩くのより短い。それが三列。
箱の蓋には縄が掛かっていた。縛り方はどれも同じ。灯は結び目の形を見て、朝に四つ角で見たのと同じだと分かった。ばあやの店で押さえた布の端も、こういう向きをしている。
灯は箱の一つに手を掛けた。縄が硬い。指を入れる隙間は無かった。二つ目も、三つ目も同じ。
中は見えない。
灯は近くで荷を下ろした人に聞いた。
「これ、中を見ていいの」
「開けてどうする」
「探してる物がある」
「なら札で探せ。中身は札に書いてある」
その人は自分の荷の縄を指した。縄の下に、細い札が挟んであった。灯はしゃがんで、それを見た。
番号だった。数字が四つ。文字は無い。
「これ、番号しか書いてない」
「番号で足りる」
その人は戻っていった。
頭の一つが落ちた日だ、とキリは言った。灯は頭の数字を見た。二。次が九。その次が二つ。
二と、九。
灯は自分の落とした日を思った。七月二十三日。二と、三。
合わない。
どう数えれば合うのかが分からなかった。この街の日の数え方を、灯は知らない。
灯は一列目の札を順に見た。二十まで数えて、やめる。頭の数字だけを見ていくと、同じ数が続いて、途中で一つ増えた。
増えたところに、灯は指を当てて、離した。
列の間に、箱へ入っていない物が寄せてあった。小さい物ばかりだった。ボタン。ひも。金具。布の切れ端。灯はしゃがんで、その山を上から見た。
青いものが一つあった。
灯は手を伸ばした。指の先で挟んで、引いた。出てきたのは紙だった。青く刷ってある紙で、端が破れていた。厚みも硬さも、布のものではない。
灯はそれを山へ戻した。戻す時に、山が少し崩れた。崩れた形を元に戻そうとして、途中でやめた。元の形を覚えていなかった。
積んである物の間から、傘の柄が出ていた。
灯は立ち止まった。柄は一本ではない。束にして縛ってあって、そこから外へ出ていた。灯は手を伸ばして、一本を抜いた。抜けた。
傘だった。畳んである。布は色が抜けていて、元が何色かは分からない。持つと軽い。ばあやの店で持った一本より、ずっと軽かった。
骨の真ん中に、札が縛ってあった。
灯は札を裏返した。番号。数字が四つ。頭は三。灯は読んで、覚えた。名前を覚えるのと同じ場所へ入った。
傘を開いてみた。
開いた。骨は全部そろっている。布に穴も無い。直す必要のある傘ではなかった。
灯はその傘を持ったまま少し立っていた。ばあやの店の壁の、骨の曲がった一本。
灯は傘を閉じて、元の束へ挿した。挿す時に束の縄が少し緩んで、隣の一本が外へ落ちた。灯は拾って、同じ向きに直した。
教室の後ろに、忘れ物を入れる箱がある。学期の終わりに中を全部出して、机の上に並べる。並べても、取りに来る子は半分もいない。残った物を、先生はまた箱へ戻す。戻して、置く。
灯は列の奥へ歩いた。
奥へ行くほど、積んである物が古かった。布が薄くなっていた。木のものは色が濃かった。金物は表が白く粉をふいていた。一番奥の列は、もう形の分からないものが多い。
奥の手前で、灯は止まった。止まって、来た道を戻りはじめた。
六十二歩を戻りきる手前で、足が止まった。
列の切れ目の向こうに、人が立っていた。
運んできた人たちではない。荷を持っていない。手ぶらで、まっすぐ立っていた。その人の周りだけ、人がいなかった。荷を下ろす者は手前で下ろして、離れたところから回っていった。
箱を四つはさんだくらいの近さ。
背が高い。上着が長くて、膝まである。この街の誰の服とも違う形。布に折り目が付いていた。畳んで持ち歩いた物を、出して着ている折り目。
その人は手に小さい本を持っていた。
開いて、何かを書いていた。書く手は速くなかった。一行書いて、顔を上げて、また書いた。顔を上げる時に、首が動かない。
灯は動かずに見ていた。見ている間に、荷が三つ。三人とも、その人の前を通らなかった。
その人が顔を上げた。
目が合う。
合ったが、その人は何もしなかった。灯を見て、それから本へ目を落とした。書く速さは変わらない。
灯は一歩下がった。理由は、下がってから探しても出てこない。声を掛けようとは思わなかった。何を聞けばいいのかも、出てこない。
近くを人が通った。灯はその人に聞いた。
「あの人、誰なの」
「近寄るな」
「なんで」
「近寄るなって言われてる」
その人は列の間へ入っていった。
灯は入口の側へ目を戻した。あの人は本を閉じて、上着の内側へ入れるところ。入れてから、列の端をもう一度見た。見て、それから歩き出した。
歩幅が同じ。どの一歩も同じ長さで、土に付く音の間が変わらない。灯はそれを七つ数えた。七つとも同じ。
あの人は東の建物の影へ入っていく。影に入ると、上着の長さのぶんだけ形が長く見えて、それから見えなくなった。
灯はその場を離れて、来た道へ戻りはじめた。
戻る途中で、東の空を見た。
灰色が縦に一本、地面まで下りていた。三日前に丘の上から見たものと同じ形をしている。灯は腕を伸ばして、指の幅で測った。二本ぶん。三日前は測っていない。
近い、と灯は思った。
近い日は早く仕事を終える、とキリは言っていた。
灯は空から目を下ろした。
道の跡の上を歩いた。跡は行きと同じ向きを向いている。灯が来たほうから、物を置いてあるほうへ。
鞄の中で、木の玉が水筒に当たった。当たる音が二歩に一度した。灯は歩幅を変えて、当たらないようにした。変えると、跡の間隔と足が合わなくなった。
掃いているのではない。集めている。
四つ角まで戻ると、日が屋根の高さまで下りた。
石の上を、引きずった跡が何本も横切っている。跡は東へ細くなって、道の入口で一本にまとまった。
灯は跡をまたいで、扉へ歩いた。




