第005話 帰り道
扉の右の石は、上から三つ目が欠けていた。
灯は指を当てて確かめた。欠けの縁が内側へ丸い。前に来た時になぞった形と同じ。石は冷えていた。この壁には日が当たらない。
二日ぶりだった。
昨日は千夏の家にいた。朝から夕方まで、ハムの籠の新聞紙を替えて、途中から千夏の話に変わって、それで一日が終わった。帰ってから宿題を三枚。それで寝た。扉のことは一度も出てこなかった。出てこなかったことに、灯は今朝になって気付いた。
気付いてから、家を出るまでが速かった。母はまだ寝ている。弁当の無い日で、灯は台所の戸棚からパンを二枚取って鞄へ入れた。持ってきたのはそれだけ。
地下のセンターの棚の裏は、二日前のままだった。処分済みの棚。板の隙間に肩を入れて通ると、ほこりが袖に付いた。灯は袖をはたいた。はたいても、白い線が残った。
扉は内側へ開いたまま。閉めた覚えが無いままにしてある。誰も閉めていない。
灯は肩を先に入れて通った。
こちらは昼を過ぎた頃。
前の時もそう。夜に入って、出たら夕方になる。時刻が合っていないことに、灯はもう手を止めない。止めるより先に、影の向きで測った。影は短くなっていた。昼を少し回ったところ。
道の石は同じ敷き方。幅も同じ。四本の道が同じ角度で出る形。
落ちている物が少なかった。
二日前は歩く先に何かしらあった。ボタン。紙。片方の靴下。金物の破片。今日は十歩に一つあるかどうかだった。
掃きに来る者がいる。キリがそう言っていた。落ちたままでは残らない、とも言った。二日あれば掃かれる。灯はそう考えて、道の先を見た。
歩くと、靴の底が石の目地に落ちた。目地は浅い。踏むところと踏まないところで、石の色が違った。よく踏まれる真ん中だけが白く見えた。端は土の色。
道の途中で、灯は一つだけ拾った。木の留め具。片側の欠けた物。手のひらに載せると軽く感じた。灯は少し持って歩いて、それから道の端へ置いた。置いた場所を覚えるつもりで、隣の石の形を見た。
四つ角には人がいた。二日前より少ない。夕立の後ではないので、拾った物を見せ合う理由が無かった。
石を積んだ低い台がいくつか出た。売っているのは金物の破片と、留め具と、鍵。台の後ろに人が座って、通る者の手元だけを見る形。
値段を言い合う声が二つ聞こえた。数は聞き取れた。三と、五。
匂いは前と同じだった。乾いた布と、土と、日に当たった金物。地下の階段を下りた時の匂いに近かった。近いだけで、同じではない。あちらには水の匂いが混じる。ここには無い。
キリの台は同じ場所。
板を渡しただけの台。脚は石を積んで作ってあった。積み方が雑で、下から二段目の石だけが横に出た形。灯は近づいて、板の数を見た。
三枚。
二日前は二枚だった。増えた一枚は色が違う。前の二枚より白く見えた。新しく切ってある端。洗濯ばさみを足した日の物干しみたいに、新しいのだけが目に付いた。上に物は何も載っていなかった。
台の前に立って、灯は待った。
待つ間に、灯は板の白い一枚に手を置いた。板は乾いていて、まだ温かみを持っていた。日の当たっていた面。指を離すと、置いた形が少しだけ残って、すぐ消えた。
通りの奥から荷車が来た。石の目地を車輪が拾い上げた。拾い方に間があって、その間が一定の長さ。積んであるのは箱ばかりで、蓋はどれも閉じてあった。引いていた人は灯の横を素通りした。
音が消えるまでに、灯は九つ数えた。二日前は十二だった。今日のほうが速い。荷が軽いのだ。灯はそう見当をつけた。
「買わないなら退け。客の立つ場所だ」
声が後ろから来た。
灯は振り向いた。振り向いて、目の高さを直した。
キリは袋を肩に掛けて立っていた。上着も、袋も、二日前と同じ。袋の口の結び方まで同じだった。
顔の位置が違う。
灯は二日前、この台の横でキリと向き合っている。あの時、キリの頭は灯の頭より少しだけ上にあった。今はもっと上にある。
灯は台を見た。板が一枚増えていた。台が高くなったぶんだけ高く見えて、そう思いかけて、灯は台とキリの間に幅が空いているのを見た。キリは台に乗っていない。台の横の地面に立っていた。
「退かない。買わないけど、用がある」
「用があるなら値がつく。ボタンはもう無いだろ」
キリの声が低かった。前は言い終わりが少しだけ上がった。今日は上がらない。
灯はもう一度、肩の位置を見た。見て、目を離して、また見た。二度目も同じ位置。
「背が伸びた。前より上にある」
「伸びてない。おれは去年から同じだ」
「伸びてる。二日前と違う」
「あんたが縮んだ。縮む奴は三人に一人いる」
キリは台の後ろへ回って、袋を下ろした。下ろす時に、袖の先が見えた。
二日前、灯はこの袖が長すぎると思っていた。指の先しか出ていなかった。物を拾う時に、いちいちまくり上げる。まくり上げても、袖はまた下りてきた。
今は手首が出ていた。
まくり上げていない。まくり上げる必要が無くなっていた。上着は同じ上着。糸のほつれている場所も、肩の色の抜けている形も、一昨日のまま動いていない。
服は動いていない。中身が動いていた。
灯はつばを飲んだ。のどが狭くなっていて、一度目は通らない。二度目で通った。一度目の飲み方が悪かったのだと灯は思った。
「二日だ。ここへ来て数えた」
「何が二日だ。何の二か言え」
「来なかったのは一日だけ。前が一昨日で、今日」
「知らん。日は数えない。数えるのは物と値だ」
キリは袋の結び目をほどいて、中の物を出しては入れ直しはじめた。金物。留め具。木の何か。手つきが速い。速さは二日前と変わらなかった。
「数えてないのに、値段は言える」
「値段は物が決める。日は誰も決めない」
「日は勝手に決まる」
「あんたのところではそうなんだろうな」
灯はその言い方を覚えた。覚えてから、意味を後で考えることにした。
「気のせいだろ。そういう客は月に二人来る」
キリはそう言って、並べ替えるのをやめた。やめて、灯を見た。見る時の首の角度が浅い。前はもう少し上の角度。
「気のせいじゃない」
「じゃあ何だ。言えるなら言え。ただで聞く」
灯は答えなかった。返す言葉を持っていない。
持っていないことは分かっていた。分かっていて、それでも口が動きかけて、止まった。
キリは待たない。袋を肩に掛け直して、四つ角の北の道へ歩き出した。
「案内は今日は無しだ。前のは使い切った」
歩き方は変わっていなかった。端へ端へと寄っていって、数歩に一度だけ下を向く。向いた先に何も無ければ、すぐ顔を上げた。
その背中を、灯はしばらく見ていた。肩の高さが、人の間を抜けても分かる。二日前は人に混じると見失った。
灯は台に残った三枚の板を見た。新しい一枚だけが白く残った。
その白さを、灯は覚えておくことにした。
*
北の道は二日前と同じ道だった。
灯は同じ順に歩いた。二日前にキリの後ろを歩いた道。歩きながら覚えているものを一つずつ確かめていった。
水の口で一度止まった。二日前はキリが押して、飲んでから場所を空けた。今日は灯が自分で押した。水が出た。飲むと、のどの狭いところが少しゆるんだ。
道は北へ上がった。上へ行くほど建物の背が低い。二階建てが減って、平屋が残った。屋根の傘はどれも乾いて、色が薄い。もとの黒や紺が灰色に寄った。
二日前と同じに見えた。同じに見えることを、灯は確かめたかった。
屋根を直していた家。二人がかりで一枚を替えていた家。
替え終わっていた。
新しい黒が一枚、他の傘と端を重ねて葺いてあった。重なりの押さえ方が丁寧で、端の線がまっすぐに通った。はずした赤い傘は道の脇に無い。誰かが持っていったと灯は見た。
灯は立てかけてあった場所を見た。石の色が一か所だけ薄い。長く物が置いてあった跡。
二日あれば終わる。そう見て、灯は次へ行った。
石を積んだ広場。屋根の無い丸い場所。石の間から細い草が出た。
灯はしゃがんで、草の丈を指で挟んだ。二日前も同じことをしていた。あの時は指の付け根までだった。今日は第一関節の下まで来ていた。
伸びていた。二日で伸びる長さとして、おかしくはなかった。
灯は立って、広場を一周した。石の積み方も、積んだ高さも同じ。真ん中の一つだけが平らで、そこにだけ草が無い。
灯はそこへ座って、鞄からパンを一枚出した。半分食べて、残りを鞄へ戻す。石は日を吸って温かかった。あちらの物は食べていない。持ってきた物だけを食べる。それは誰にも教わっていないのに、はじめから決まっていた。
軒。雨をよけた平屋の軒。
誰もいなかった。
灯は軒の下へ入って、奥まで行った。壁に背を付ける。板は乾いていて冷たくない。雨の後ではないので、湿りを吸っていなかった。
灯は奥の乾いた地面を靴で測ってみる。六つぶん。二日前に数えたのと同じ数になった。
二日前、ここには四人いた。指を折る女の人と、男が二人と、上着をかぶって入ってきた若い男。四人とも上を向いて、雨の音を聞いていた。
降れば聞いた。降らない日は聞かない。キリはそう言った。降らないから出てこない、とも言った。
降っていない。だから誰もいない。
灯は自分の側の理屈が正しいことを、その場で確かめた。確かめても、確かめる相手がいなくなっただけだった。
あの女の人に、聞きたいことが一つあった。二日前と今日で何か変わったか。
聞く相手がいないので、聞かずに済ませた。
灯は上を見た。傘の裏側。細い骨が真ん中の一点へ集まっていて、集まったところに小さい札が縛ってあった。番号は読めた。三百四十一。
二日前は札を見ただけで、数を読んでいない。読んでおけばよかったと灯は思った。ここまで来て、番号だけが灯に読めた。
灯は道を北へ続けた。
塀。街を出る手前の低い塀。上に片方だけの物が並べてあった。靴が六つ、皿が三枚。二日前は靴が四つで、増えた二つは並びの端に足してあった。
塀の上の六つは、下駄箱の段に似ている。片方だけが残っている段。上履きを片方失くした子の名前は、四月から札のまま貼ってある。
六つとも同じ向きで、つま先が街の側を向いた。
塀の先で道が細くなる。両脇の草はまだ高く伸びていた。草の中の物も、二日前と同じ場所に同じだけ落ちた形。
石段。踏む深さが交互に変わるのも同じ。二日前は三度つまずいた。今日は二度で済んだ。
登り口の脇の木の棒。頭の平らに削った面に、細い傷が刻んであった。
二日前、灯はこの傷を数えた。十七。
灯はしゃがんで、上から順に指でなぞった。
十八。
一本増えた。増えた一本だけが浅い。他の十七本より新しくて、傷の中の木が白かった。
二日で一本。
灯はしゃがんだままでいた。
二日で一本なら、二日に一度、誰かがここへ来て刻んでいる。あるいは毎日来て、刻む日と刻まない日がある。あるいは十七本ぜんぶが去年のもので、十八本目だけが今日のものかもしれなかった。
どれかは決められなかった。
何を数えた傷なのかを、灯は知らない。日を数えたのか、人を数えたのか、物を数えたのか。
灯は指を離して、立ち上がった。棒に背を向けた。
石段を登りきると、丘の上が全部動いていた。
片方だけの手袋が斜面を埋めた。風が来ると、指が順に折れて開いた。伝わる先は風下。二日前に見た通りだった。
灯は斜面を端まで目で追う。今日も数える気になって、今日も途中で手を止めた。数える単位が分からないのは前と同じだった。
斜面の下のほうに、黄色い毛糸の手袋が一枚。指の先が二本ほつれていて、手首のゴムが伸びきっていた。灯は二日前にこの一枚を見ていた。同じ場所に、同じ向きであった。
灯はしゃがんで、その一枚を見た。
ほつれは二本のまま。ゴムの伸び方も同じ。手首の内側の毛の寝ている向きまで、覚えていた通りだった。
手袋は動いていない。
灯は丘に背を向けて、街を見下ろした。
屋根の面が乾いて白く見えた。二日前は雨の後で、白と黒が斑になっていた。今日は全部白い。斑の形を覚えておくつもりでいたのに、比べる相手が消えていた。
街は二日ぶんだけ動いていた。
草が伸びて、屋根が直って、靴が二つ増えて、傷が一本刻まれた。どれも二日で起きておかしくはなかった。
丘のものは、ほつれの二本まで二日前と同じ。
キリだけが動いていた。
灯は座って、膝を抱えた。土は乾いていて、靴が沈まなかった。二日前は沈んでいる。座ると、乾いた草が下で折れる音。
なぜキリだけなのかを、灯は考えた。
考えても、答えは出ない。
灯は膝の上で指を折った。二日前に来た。昨日は来なかった。今日また来た。
三本折って、真ん中の一本だけを伸ばした。
伸ばした一本が、昨日になる。
*
石段を下りるのは登るより速かった。段の高さがまちまちなので、下りは足を置く先を読めない。灯は二段目と七段目で足を滑らせた。二度とも鞄を右へ持ち替えて、空いた左で段に手をついた。手のひらに石の粉が付いた。
塀のところまで戻って、灯は靴の並びをもう一度見た。六つ。増えていない。当たり前のことを、灯は当たり前だと思わずに確かめた。
街へ入ると、光の色が変わっていた。屋根の白が黄色に寄りはじめた。日が傾きはじめていた。
道の途中の、木の留め具を置いた場所へ、灯は寄った。
目印は隣の石。三角に欠けた石で、その脇に置いてある。留め具はそこにあった。誰も拾っていなかった。
灯は拾って、手のひらに載せた。片側が欠けていて、軽い。二日前なら、これも掃かれていたかもしれなかった。
四つ角には人が減っていた。台を片づけている者が半分。石を積んだ脚だけ残して、板を抱えて帰る人が二人。
脚の残った四つ角は、夕方の自転車置き場のようだった。一台ずつ抜けて、枠だけが残る。
キリはまだ台の後ろにいる。板を立てかけ直しているところだった。
「戻ってきたのか。閉める前だ」
「用が残ってる」
「用が二つあるならまとめて値を上げる」
灯は留め具を台の上に置いた。
キリはそれを見た。見て、指で自分の側へ寄せる手が動いた。寄せてから、灯の顔を見た。
「片側が欠けてるから値は半分になる」
「半分でいい」
「半分で買える物はあんまり無いぞ」
「立ってて。動かないで」
キリは立った。立つと、片方の眉が上がる。
「立つのはただだ。取る理由が無い」
「取って。取らないと嫌だ」
「三年やってるがそういう客は初めてだ」
キリは留め具を袋へ入れた。入れて、口を結んだ。
灯は鞄を足元へ置いた。置いてから、台の横へ回りこんだ。二日前に立ったのと同じところ。石の積み方が雑で、下から二段目だけが横に出ていた。灯はその石に靴の先を当てて、位置を決めた。
二日前、灯はここに立っていた。ここから見て、キリの頭は灯の頭より少しだけ上にあった。
灯は前を向いた。まっすぐ見て、動かない。
目の先はキリの腕にあった。肩ではない。肩より下で、腕の上のほう。
灯は目を離さずにいた。離さずに、右手を上げて、目の高さのところで止めた。指を伸ばして、手のひらを縦にした。
キリの肩まで、指を二本並べたぶんの幅が空いていた。
「まだか。こっちはもう十まで数えてる」
「まだ。動かないで」
灯は手を下ろして、もう一度上げた。二度目も同じ幅。
三度目はやらなかった。やっても同じだと分かっていた。
「終わった。もういい」
「測るなら何を測ったか言え」
灯は答えなかった。答えるものを持っていない。持っていても、言わなかったと思う。
言えばキリは、自分の背が伸びたことを知る。知って、その後どうするのかが灯には分からない。分からないものを渡すのは、留め具を渡すのとは違った。
灯は口を開けて、閉じた。
閉じてから、鞄を拾い上げる。中でパンの袋が鳴った。一枚と、半分残っている。
灯はそれを出して、台の上に置いた。
「これも」
キリは袋の口を開けて、中をのぞいた。指は入れない。
「食い物は取らん。腐るからな」
「腐らない。今日焼いたやつだ」
「今日焼いた物が明日腐る。値がつくのは腐らない物だけになる」
早口だった。値段を言う時と同じ速さで、灯にはそれが値段の話に聞こえた。
キリは台の板の上から、パンを灯のほうへ押し戻した。押す時に、指の先が袋に当たっただけで、持ち上げはしない。
「持って帰って食え。あんたが持ってきた物だ」
灯はそれを鞄へ戻した。戻す手は思ったより速く動いた。
払えなかった、と灯は数えた。留め具は受け取って、パンは受け取らなかった。線がどこに引いてあるのかは分からない。
分からない。灯は鞄の口を閉めた。
「明日も来る」
「来れば値を言う。案内は二からになる」
キリは袋を肩へ回した。回してから、台の板を三枚とも下ろして、脚の石の上に重ねた。二日前は置いたままにして行った。今日は片づける。
台の脚の石を、灯は数えた。片側が四つ、もう片側が五つ。高さをそろえるために、低いほうへ一つ足してあった。足した石だけが白い。板と同じで、新しいものは白かった。
二日前も、灯はこの脚を見ている。数は数えていない。数えなかったので、比べられなかった。
比べられないものが多すぎる。
四つ角を出る前に、灯はもう一人を探した。
二日前、四つ角の手前の道の端に、紙を落とした男がいた。二度落として、三度目で地面へ置き、上着を脱いでその上へ集めた。上着の使い方が下手で、灯はその手つきを覚えていた。
男は南の道の端。台の後ろに座って、金物の破片を布でふいていた。
灯は近くまで行って、立ち止まった。
紙は持っていない。手つきだけを見た。布を持つ指が、あの時と同じ形をしていた。親指を外へ立てて、他の四本で押さえる持ち方。
髪の長さも同じだった。耳の下で切ってあって、片側だけ跳ねていた。跳ね方まで同じ位置だった。
男は灯に気付いて、顔を上げた。
「買うのか」
「見てるだけ。買う金が無い」
「見るのはただだ」
男はまた布を動かしはじめた。声の高さも、二日前に紙を抱えたまま言っていた言葉と変わらない。
灯は少し離れて、その後ろ姿を見た。
二日前と今日で、この人は何も動いていない。
灯は南の道から目を離した。離して、北のほうを見た。
キリの台の脚だけが残っていた。板は三枚とも重ねてある。人の姿はもう見えなかった。
灯は台に背を向けて、扉のほうへ歩いた。
歩きながら手のひらを見た。石の粉がまだ残っている。指を二本立ててみて、下ろした。
のどがまた狭くなる。今度はつばを飲まずにおいた。飲んでも通らない気がして、そのまま歩いた。
乾いた布の匂いが薄くなって、代わりに土の匂いが強く立ちのぼった。日が落ちると、この街はこういう匂いになるらしい。灯は息を吸い直して、覚えようとした。
扉の前まで来て、灯は後ろを見た。
四つ角の人はもう三人しか残っていない。三人とも自分の荷物を見ている。誰も灯を見ていなかった。
灯は右の石の欠けを、指で二度なぞった。
なぞったのは、次に来る時に間違えないためだ。間違えないためだと灯は思って、それから、二度目は要らなかったことに気付いた。
*
地下はいつもの温度。
棚の奥から出て、灯は処分済みの棚の横をすり抜けた。板の隙間に肩が引っ掛かって、一度戻ってから通り抜けた。袖に付いたほこりは、今度は落とさずにおいた。落としても残るのは、行きで分かっていた。
通路に出ると、外の音が戻ってきた。売店の前を人が通る音。改札の機械の音。頭の上を電車が過ぎて、天井の板が細かく動いた。
匂いも戻ってきた。あちらの乾いた布に、水と、板の湿りが足してある。足されたぶんだけ、こちらのほうが重い。
窓口には明かりが点いていた。
祖母が見えた。
窓口の内側で、細長い紙に何か書いている。ペンを置く気配が無かった。二日前と同じ形の紙で、同じように束にして輪ゴムで留めてあった。
灯はいつもの段ボールの箱を引いてきて、腰を下ろした。下ろしてから、そうする理由が今日は無いのに気付いた。輪ゴムの箱は出ていなかった。数える物が今日は無い。
棚の下の二段を見た。傘は同じ高さで並ぶ。柄の先だけが少しずつ違う向きを向いていた。日付と本数を書いた紙は、まだ書き直されていなかった。
祖母が顔を上げる。
「傘は、持った?」
「今日は降らないよ」
祖母は一度だけうなずいて、また紙へ戻った。
灯は祖母の手を見た。指の横が黄色い。書く時に当たる場所だけが、そういう色になっていた。爪は短く切ってあった。切り口がまっすぐで、爪切りの刃の幅がそのまま出ていた。
紙の山は二日前より低かった。何枚か減っていた。灯は数えなかった。数えても、減ったのが今日か昨日かは分からない。
「どこにいたの」
祖母の手が止まっていた。
灯は答える言葉を探した。探す間、祖母は待っていた。待ちながら灯の顔を見ていた。見ている時間が長い。二日前はこんなに長く見なかった。
「外にいた。ずっと外」
祖母はすぐには戻らなかった。ペンを持った手を紙の上に置いたままで、指先だけが少し動いた。書く形に動いて、書かずに止まる。
灯は待った。待つ間、祖母の目は灯の顔から下りて、灯の靴で止まった。靴の先に土が付いている。あちらの土で、こちらの色ではない。
祖母は靴から目を上げた。上げてから、何も言わずにペンを紙へ戻した。
「外は暑かった?」
「暑かった」
祖母はそれで戻った。書く音が続く。ペンの先が紙にこすれる音は細くて、電車の音の下に隠れた。
灯はもう少し座っていた。座って、窓口の板の内側の小さい鏡を見た。灯の頭のてっぺんが映っていた。映る位置は、来る度に同じところ。板の高さは変わっていなかった。
灯は自分の背を思う。
四月に身体測定があった。去年の紙と今年の紙を並べて見せられた。数は覚えていた。名前を覚えるのと同じ場所に入っていた。
一年で、その数だけ伸びた。
キリの肩が、灯の目の高さから、目より上へ動いていた。動いた幅は、指を二本立てたくらい。
灯は自分の指を二本立てて、目の前で見た。
二本の幅は、四月の紙の数より広い。広いか狭いかは分かる。それ以上は分からなかった。
灯は指を下ろした。
灯は箱から下りた。
「帰る」
「ごはんはあるの?」
「冷蔵庫にあるって」
祖母は顔を上げなかった。上げないままで、ペンを持ち替える音がした。
灯は通路を戻って、階段を上がる。三段目から暑さが始まった。改札の高さでは背中まで温かい。外の光は白い。
駅を出ると、日はまだ高い位置にあった。
行きは道の右を歩く。帰りは左。灯は左を歩いた。左側にも影が無い。影が出るのはもっと後で、その頃には家に着いていた。
歩きながら数えた。
家から駅まで八百歩。去年の冬は八百十六歩だった。数えたのはその一度きりで、それからは数えていなかった。今日は駅から数える。
橋の上で、灯は数を落とした。
落としたのは三十を過ぎたあたり。落としてから、もう一度三十二から続けた。続けても、それが正しい三十二かは分からない。
橋の下の川は水が減ったままで、白い石の面が広く出ていた。流れているのは真ん中だけ。石にはさまった白い蓋も二つのままだった。
灯はそれを見て、少し止まった。止まってから、数のことを思い出した。
もう一度、三十二から歩き出した。
魚屋の前で匂いが変わる。水の匂い。店の人が表に出て、おけへ水を流していた。流した水が道の端を走って、溝へ入った。
小学校の門は閉まっていた。塩素の匂いが門の外まで届く。夏休みのプールは今日もやっていて、水の中から声がした。声は重なって、誰の声かは分からない。
灯は門の前で立ち止まらずに歩いた。歩きながら、明日プールに行くかどうかを考えて、考えるのをやめた。
やめたのは、行けば一日が終わるからだ。
公園の水飲み場を過ぎた。水は飲まない。飲んだのはあちらで、まだのどが乾いていなかった。
角の家の犬が立ち上がって、座り直した。ハナ。灯が通ると必ず一度だけそうする。二日前もそうしていた。
家の前の道は日陰になっていた。灯はそこで歩数を手放した。手放したのは、八百に届く前だ。
戸を開けると、家の中は昼のままの温度をしていた。母の部屋の戸が閉まる。今夜も夜勤で、出るのは十時になる。灯は足の裏を先に下ろして通った。
台所の机に紙が一枚。夕飯は冷蔵庫、と大きい字で書いてあった。書き出しの字が大きい。母は先に書きたいことを出してしまうので、終わりのほうが縮む。
灯は麦茶をコップに一つ飲んだ。残りは冷蔵庫の元の場所へ戻した。
二階へ上がった。窓を開けると下の道の音が入ってきた。閉めても半分は残った。
灯は机の引き出しを、一番上だけ開けた。
名札はそこ。四月からずっと同じところに入れてある。名札の下に、四月に配られたノートが一冊。表紙に組と名前を書いただけで、中はまだ白い。教科の名前を入れる欄が空いたままになっていた。使う教科が決まらないうちに夏休みが来た。
ノートの表紙に、四月に書いた自分の名前があった。組と、名前。字は今より少しだけ大きい。四月の灯は、ノートの表紙に大きく書く子供だった。
灯は表紙を指でなでた。紙は薄くて、下の線の凹凸が指に伝わってきた。
灯はノートを出して、一枚目を開いた。
裏の線がうっすら透けている。灯は指で押さえて、開いた形を平らにした。
鉛筆を持って、しばらく止めた。何を書くのかを決めていなかった。
決めていないのに、書くものが一つだけあった。
灯はノートに、日付を書いた。
七月二十四日。七月二十六日。二つの間に、行かなかった日が一つ。
灯はその一つに丸を付けた。
鉛筆を置いて、灯は指で紙をなぞった。書いた字の裏側が、次の紙に跡になって残っていた。




