第004話 拾い屋キリ
灯は財布を見たままでしばらく動かなかった。
「買わない。金が要る」
「買えないの間違いだろ」
キリは財布を台の上に置いたままにした。しまわない。灯が通るなら、その横を通るしかない。
「金は無い。物も無い」
「あるだろ。青いのと、ボタンが二つ」
灯は手の中を見た。青いスコップと、木のボタンが二つ。三つとも、さっきまで灯の物ではなかった。
「ボタンはもらった物だ」
「もらった物も持ち物だ。ここの決まりになる」
灯は手を閉じた。閉じてから、開いた。ボタンは二つとも、穴の形が少しずつ違っていた。四つ穴と、二つ穴。
キリは待っていた。急かさない。急かさないことが、一番急かしてきた。
「いらない。入れる物が無い」
灯はそう言って、台の横を通った。三歩ほど行って、足を止めた。止まったのは、行き先が無いからだった。
道は四本。どれがどこへ行くのかを、灯は知らない。来た道だけは分かった。分かっても、そこへ戻ると扉に着く。扉に着いても、開けるかどうかは決めていない。
立っていると、通りの奥から荷車の音が近づいてきた。車輪が石をひろって、一定の間で鳴った。近づいて、灯の横を通って、遠ざかった。
荷台に載っているのは箱ばかり。どれも同じ大きさで、蓋が閉まっていた。引いていた人は灯を見なかった。
音が消えるまでに、灯は十二を数えた。
後ろで音がした。台の上で何かが動いた音。
振り向くと、キリが財布をしまっていた。しまってから、袋を肩に掛けた。
「案内なら受ける。金は先に取る」
「案内は頼んでない」
「街を一周する。四つ角から丘まで。道を知らん奴の半分で戻れる」
キリは指を二本立てた。値段を言う時の立て方だった。
「値は二だ。安いほうになる」
「二っていうのは何」
「ボタン二つだ。四つ穴と二つ穴で二になる」
灯はボタンを見た。もらった二つを、そのまま返すことになる。
「もらったやつを返すのは、案内料じゃない」
「案内料だ。あんたが持ってる間だけ、あんたの物になる」
言い方に隙が無い。灯は考えて、それから二つとも台の上に置いた。
キリは受け取らなかった。台の上のボタンを、指で二つとも自分の側へ寄せた。寄せて、袋には入れずに置いたままにした。
「先に払う客は珍しい」
「あとで払うほうが珍しくない」
「そうだ。だいたい払わない」
「一周でどれくらいかかる」
「歩いて戻るまでに、屋根が二回鳴るくらいだ」
時間の言い方が、灯の知っているどれとも違った。何分でも何時間でもない。屋根が二回鳴るまで、と言われても長さが分からない。
分からないままで灯はうなずいた。
キリは台の板を一枚だけ立てかけ直した。立てかけてから、位置を少しずらした。ずらした先に日陰ができる。明日そこへ座るつもりなのだと灯は考えた。
考えてから、明日という言葉が自分の中に出てきたことに気付いた。灯は明日ここに来ると決めていない。
灯は道の四本を順に見た。どれも同じ幅で、同じ石を敷いていた。看板は無い。行き先を書いた物が一つも無かった。
キリは台を置いたまま歩き出した。片づけない。板を渡しただけの台で、誰かが持っていく心配をしていないらしい。
「台は置いていって平気だ」
「取られる。取られたらその辺の板でまた作る」
灯は歩いて、後ろの台をもう一度見た。ボタンが二つ、置いたままになっていた。あの二つも取られるのだろうと思った。
通りにはまだ人が残っていた。夕立で拾った物を持ったまま立ち話をしていた。二人組が多かった。一人でいるのは、荷物の少ない人ばかり。
誰も灯を見なかった。見ているのは物のほうだけ。
歩きはじめて、灯はキリの歩き方に気付いた。まっすぐ歩かない。道の端へ寄って、二歩か三歩ごとに足元を見ていた。見て、何も無ければまた前を向く。
その動きの間も、話す速さは変わらなかった。拾いながら話すのに慣れていた。
灯も足元を見てみた。見ながら歩くと、前が遅くなった。三度目でつまずきかけて、やめた。
道は北へ上がる。上がるにつれて建物が低くなっていった。二階建てが減り、平屋ばかりが残る。
人の数が減った。四つ角には二十人ほどいたのに、上りはじめてから会ったのは五人だけになる。五人とも荷物を持っていた。持ち方はそれぞれ違っていた。頭に載せる人と、脇に抱える人と、両手で下げる人。
誰も袋を持っていない。袋を持っているのはキリだけだった。
道の途中に、水を出す口が一つ。石で組んだ小さい台に、金物の口が一つ付いていた。キリが手を伸ばして、下の板を押した。押すと水が出た。
キリは口を寄せて飲んだ。飲んでから、灯のほうへ場所を空けた。空けただけで、飲めとは言わない。
灯は飲んだ。冷たい。地下を出てから何も飲んでいなかったので、のどが二回鳴った。
「これも金を取るのか」
「水は取らない。誰の物でもないからな」
「ボタンは一つで一。鍵は三。取っ手は五。ねじは二本で一」
灯は歩きながらそう言った。言ってから、なぜ言ったのかを自分でも説明できずにいた。
キリが足を止めた。向いた先が灯。
「おれは一回しか言ってない」
「一回で覚えたからいい」
「もう一回言ってみろ」
「ボタンは一つで一。鍵は三。取っ手は五。ねじは二本で一」
順番も間違えなかった。キリは灯の顔をしばらく見ていた。
「まだ答えてない」
「何をだ」
「どこにあるか」
「歩いてりゃ分かる。それも案内料に入ってる」
「どこを歩けば分かるの」
「布は掃きに来る奴がいる。落ちたままでは残らない」
「持っていく先は」
「知らん。おれの仕事じゃない」
キリが振り向いた。袋の口を握ったままで、顔だけがこちらを向いている。
「あんた、それで金を取れる」
「取り方を知らない」
「取れるのに取らないのは損だ」
キリはまた歩き出して、少し速さを落とした。落としたことを、灯は三十歩ほどしてから気付いた。
灯は屋根を見上げた。
最初は瓦か板だと思っていた。近くで見ると違う。屋根の一枚一枚が布で、その下に細い骨が入っていた。骨は放射に広がって、真ん中で一点に集まっていた。
骨の数は一枚ごとに違った。八本のものと、十本のものと、六本しかないものが混じっていた。六本のは布がたるんでいて、真ん中がへこんでいた。
へこんだところに水がたまる。たまった水は、次の雨で押し出されていた。押し出された跡が、布に線になって残っていた。
傘だった。
開いた傘を伏せて、端を重ねてふいていた。色は薄い。もとは黒や紺だったものが、日に焼けて灰色に寄っていた。重なりの下から、まだ色の残っている部分がのぞいていた。
「屋根が全部これなんだ」
「全部だ。この街で余ってるのは傘しかない」
キリは歩きながら答えた。答えつつ、道の端の小さい物を一つ拾って袋へ入れた。歩く速さは変わらない。
「傘なのに差してない」
「差す奴もいる。でも屋根にしたほうが長く保つ」
灯は自分の傘を思い出した。家の傘立てに差してあった。柄の内側には名前を書いてある。あれを屋根にすることは、たぶん一生ない。
「誰かがふいたはずだ」
「住んでる奴がふく。自分の頭の上だけな」
「重なってるところは」
「そこは二人でやる。もめる」
キリはそれ以上言わなかった。灯も聞かなかった。聞かなかったのは、返事が短くて、聞くなと言われた気がしたからだ。
ふき方に順番。下の段から上へ重ねてある。上の段の傘は柄の先が下を向いていて、その先から水が落ちるようになっていた。落ちた先には溝。溝は道の脇まで続いていた。
「水は流してしまうんだ」
「流す。ためても使い道が無いからな」
灯は溝を目で追った。追った先に、同じ溝がもう一本。二本は合流しないで、別々に道の下へ入っていった。
途中に、屋根を直している家。二人がかりで一枚をはずし、新しいのに替えている。はずした傘は骨が折れていた。折れた側の布がめくれて、下の色が出ていた。もとは赤だったらしい。
替えの傘は黒だった。黒のほうが薄いのに、二人は迷わず黒を上げた。
「新しいほうが色が悪い」
「色は関係ない。破れてないほうを上げる」
答えたのは屋根の上の人。灯にというより、下から聞こえたから答えたという言い方をした。
灯は折れた赤い傘を見た。はずされて、道の脇に立てかけていた。誰かが持っていくのだろうと思った。それか、誰も持っていかない。
平屋の並びが切れて、広い場所に出た。
そこには屋根が無い。地面が丸く空いていて、真ん中に石を積んでいた。積んだ石の間から、細い草が出ていた。
「ここだけ何も無い」
「何もないのが要る。全部に屋根を掛けると、音が分からなくなる」
灯は聞き返さなかった。聞き返さずに、空を見た。
雲が低い。さっきまでの夕方の色が、上の方から灰色に変わりはじめていた。
*
道を歩く人の速さが変わった。誰かが走り出したわけではない。全員が半歩ずつ速くなって、それだけで通り全体の流れが変わった。
灯はその変わり方を見ていた。合図は無い。風の来る前に、雨の匂いが道の低いところへ先に来ていた。学校の裏の側溝から夏に上がってくるのと、同じ匂いだった。上を見た人が一人いて、その人の速さが移っただけに見えた。
雨は灯が空を見上げてすぐに来た。
最初の一粒が石に落ちて、色を濃くした。二粒目は灯の腕に当たった。冷たい。落とし物の夕立とは違って、当たっても痛くない。
灯は手のひらを上に向けた。水だった。
「屋根の下へ入る。走らなくていい」
キリは走らない。広場の端の平屋の軒へ、歩いたまま寄っていった。灯も同じ速さで続いた。
入る直前に、灯は道を振り返った。石の色がもう変わりきっていた。乾いた色の場所が一つも残っていない。
変わるまでの速さを、灯は覚えておこうとした。この街の雨を、灯は今日はじめて見た。
軒の下に入った時には、もう本降りになっていた。
軒は思ったより深かった。灯は奥まで入って、壁に背を付けた。壁は板で、雨の湿りを吸って冷たくなっていた。背中の一か所だけが冷たい。
外はもう白く見えた。雨の粒が細かくて、道の先がかすんでいた。四つ角の方角は、見えるかどうかの境目。
音が来た。
最初は近くの一枚だけ。頭の上の傘が、布を張った面で水を受けて、低く鳴った。太鼓ではない。もっと乾いた音で、体育館のシートを丸めて打った時に似ていた。
その音が隣へ移った。
隣の屋根が鳴り、その隣が鳴り、鳴る場所が道の先へ伸びていった。伸びた先で折り返して、別の道の屋根が鳴りはじめた。屋根と屋根の間に少しずつ隙間があるので、音は続かずに、粒になって届いた。
音の下にいると、体のどこかが一緒に動いた。胸ではない。耳の奥のほうで、鳴る度に何かが小さく押された。灯はそれを止めようとして、止め方が分からなかった。
止めるのをやめると、押されるのが気にならなくなった。
灯は数えようとした。一つ、二つ、三つ。四つ目で二枚が同時に鳴って、また分からなくなった。
鳴り方に間。屋根と屋根の隙間が広いところは、音が飛んだ。飛んだ先で急に強く鳴る。強く鳴るのは大きい屋根で、大きい屋根は道の広いところに多かった。
灯は音のする場所を、頭の中の地図に置いていった。四つ角。上りの道。屋根を直していた家。石を積んだ広場。
街全体が鳴っていた。
同じ高さの音ではない。傘の大きさで音が違っていた。大きい傘は低く、子供用は高い。骨の折れている屋根は、途中で音が抜けた。
雨の当たり方で、屋根の傾きが知れた。手前の一枚は緩くて、水が布の上をゆっくり伝った。奥の一枚は急で、当たるとすぐ端まで走った。急なほうが音が高い。
軒の先から水が落ちていた。落ちる場所は二か所。片方は細く、片方は太い。太いほうの下だけ、地面がくぼんでいた。長い間、同じところに落ちていた。
灯は手を出して、太いほうの水を受けた。手のひらにたまって、指の間からこぼれた。冷たさは家の水道と同じくらい。
軒の下には、灯とキリの他に三人いた。奥から順に女の人が一人、男の人が二人。
三人とも黙っていた。黙って、上を向いていた。目は閉じていない。閉じていないのに、見ていない目だった。
一番端の女の人が、指を折りはじめた。
折り方が速かった。五本折って、開いて、また折る。何を数えているのかは分からなかった。灯はその手を見ていた。
三度目に五本を折り終えたところで、女の人が手を下ろした。
「今日はよく思い出されてる」
言ったのは灯にではない。隣の男の人にでもない。上に向かって言った言い方だった。
男の人がうなずく。
「昨日より多い」
「昨日は少なかった」
二人はそれで黙った。
女の人はまた指を折りはじめた。折る速さは前と同じだった。
もう一人、若い男の人が軒の下へ入ってきた。頭からかぶっているのは上着。かぶったまま入ってきて、そのまま上を向いた。
三人が四人になった。人の数だけ音の聞き手が増えた。灯は自分だけが下を向いていることに気付いて、上を向いた。
上には傘の裏側が見えた。骨と、布と、骨の交わる金具。金具のところに小さい札。縛ってあるのを見て、番号だと思った。ここまで来ても番号が付いていた。
軒の下は狭くならなかった。六人が入っても、まだ二人ぶんの場所が残っていた。はじめから何人か入るように作ってある。
上から匂いが下りてきた。日に焼けた布が水を吸うと、こういう匂いになる。灯は鼻から息を入れ直した。
地面の乾いている幅を、灯は足で測ってみた。靴の長さで六つぶん。雨が斜めに降っても、一番奥までは届かない。
届かない場所に、灯は立っていた。キリは端に立っていて、袖が少しぬれていた。ぬれているのに、寄ってこない。
灯はキリを見た。キリは上を向いていない。袋の口を開けて、中の物を並べ替えていた。
「あの人は何か数えてる」
「音の数だ。数えるのは決まってる」
「音を数えてどうする」
「多い日は多いってことだ。それ以上は無い」
答えになっていない。灯はもう一度、屋根の音を聞いた。
灯は目を閉じてみた。閉じると、音の場所が分かった。近い音と遠い音。強い音と弱い音。
灯は自分の耳で同じことをしてみた。強く鳴るのを待って、鳴ったら指を一本折る。三本折ったところで二つが同時に鳴る。どちらを折るのかが分からない。
女の人は一本しか折らなかった。
どうして一本なのか。
灯はもう一度やって、同じところで止まる。女の人は四度目の五本を折り終えるところだった。
灯の手は折りかけの形のままになっていた。指を三本、伸ばすと関節が鳴った。
「毎日これを聞いてる」
「降れば聞く。降らない日は聞かない」
「降らない日は分からない」
「分からない。だから降ると出てくる」
軒の下の四人は、まだ上を向いている。四人とも同じ角度で首を上げていた。灯もそうしてみた。首の後ろが引っ張られた。三十を数えるうちに、灯は下を向く。
軒の外へ、水が線になって落ちていた。線の太さが場所で違っていた。太い線の下には小さいくぼみができていて、くぼみに水がたまると、あふれて溝へ流れた。
たまって、あふれて、またたまる。同じことを繰り返していた。灯はその繰り返しを七度見た。七度とも同じ長さだった。
灯は自分の家の屋根を思い出そうとした。二階の窓の上に、どんな屋根が載っているのか。雨の日に音がしたことは無い。したことが無いのか、聞いていなかったのかが分からなかった。
聞いていなかったのだと思った。
灯は下を向いたままで指を五本折ってみた。折ってから、何も数えていないことに気付いて開いた。
雨は強くならない。強くならないままで長く続いた。
溝を水が流れていった。屋根の柄の先から落ちた水が、一本の線になって溝へ入っていた。線は途中で切れない。
灯はその線を目で追った。追った先で線が二本に割れ、また一本に戻る。
雨の終わり方は始まり方に似ていた。粒が細くなり、音の粒も細くなる。強い音が先に消えて、弱い音が残った。
最後まで鳴っていたのは、一番大きい屋根だった。大きい面は、一粒でもよく鳴る。
その一枚が鳴りやんだ時、軒の下の四人が同時に体を戻した。四人とも、上を見るのをやめる速さが同じだった。
女の人は指を開いたままで袖をぬぐい、外へ出た。何度折ったかは言わずに済ませた。誰も聞かなかった。
「止んだら丘へ行く。案内の続きだ」
キリは袋を閉じた。
「丘は雨の後がいい。風の向きが変わる」
*
丘は街の北の端。
街を出るところに、低い塀が続いていた。塀の上に、片方だけの靴や皿を並べていた。誰かが置いたのか、落ちたまま残ったのかは分からない。
塀が切れたところから、道が細くなった。両側の草が高かった。草の中にも物が落ちていた。落ちて、そのままになっていた。ここまで拾いに来る人はいないらしい。
キリも拾わなかった。丘の道に入ってから、一度も足元を見ていない。
登り口に石段。段の高さがそろっていなかった。深く踏む段と浅く踏む段が交互に来て、灯は三度つまずいた。三度ともキリは待たなかった。待たずに、少し先で足を止めていた。
登り口の脇に、木の棒が一本立っていた。頭が平らに削ってある。削った面に、細い傷が何本も刻まれていた。数えると十七。
何の傷かは分からない。誰かがここで数えたことだけは分かった。
石段の途中で、灯は一度だけ振り返った。街が下に見えた。屋根の面が、まだぬれて光っていた。
光り方は二通りあった。乾きかけた面は白く、ぬれたままの面は黒に近い。白と黒が混ざって、街の形が斑になっていた。
灯はその斑を覚えようとした。覚えて、次に来た時に比べるつもりでいた。
次に来るかどうかは、まだ決めていない。
石段が終わって、道が土になった。土は雨を吸って柔らかい。靴の底が沈んで、抜くと音がした。
登りきる手前で、風が来た。
風は下から吹き上げてきた。灯は顔を上げた。
丘の上が全部動いていた。
最初は草だと思った。近づくと別の物。地面を覆っているのは布で、その布に指が付いていた。
手袋だった。
片方だけの手袋が、丘の斜面を埋めていた。毛のもの、革のもの、指の先が破れたもの、色の抜けたもの。大きさも形もそろっていなかった。積んであるのではなく、置いてあるように見えた。一枚一枚が、それぞれの向きで置いてある。
灯は近くの一枚を見た。毛糸で、色は薄い黄色。ほつれているのは指の先が二本。手首のところにゴムが入っていて、そのゴムが伸びきっていた。
伸びきったゴムを、灯は知っていた。学校の手袋がそうなる。三年目の冬に伸びて、四年目に外れる。
この手袋は、外れたあとにここへ来たのだと思った。
風が吹くと、指が動いた。
五本の指が、順に、内側へ折れて開く。一枚がやると、隣がやる。隣がやると、その隣がやる。それが斜面の上まで伝わって、上まで行くと、また下から始まった。伝わる先はいつも風下。
動いているのは指。灯は動けなかった。動けないままで丘の斜面を端から端まで見た。数えようとして、数える単位が分からないことに気付いた。一枚と数えるのか、一組と数えるのか。組になっているものは一つも見えない。
「枚数は数えられない」
「数えた奴はいない。数えても金にならない」
キリは丘に入らなかった。登り口の平らなところに立って、袋を下ろした。
「入ると出られなくなる。足元が全部やわらかい」
灯は一歩下がった。下がった幅は靴一つぶん。もう一度見た。
風の向きが変わると、動きの向きも変わった。さっきまで下から上へ伝わっていたのが、横へ流れた。流れの先が丘の端まで行って、そこで消えた。
止まったところの手袋だけが、しばらく動かなかった。
手袋の中に、灯の知っている形が一つ。指の先だけが色の違う、学校で配られるのと同じ形の白い手袋。給食当番が使うやつ。
灯は手袋の色を一つずつ見ていった。青いものは無い。手袋しか無い。
白い手袋のそばに、同じ形が三つあった。三つとも右で、三つとも指の先の色が違っていた。合うものは無い。
灯は三つの置いてある場所を覚えた。斜面の三分の一の高さ。細い道から数えて、七つ目のへこみの手前。次に来る日は、まだ決めていなかった。
どうしてここにあるのかは分からない。
灯はしゃがんで、その一枚に手を伸ばしかけた。伸ばして、途中で止めた。キリが入るなと言った。
風が来て、その一枚も動く。指が五本、順に折れて開く。
斜面の手前に、細い道が一本だけ通っていた。人が歩いてできた道で、両側の手袋がその幅だけよけていた。よけたのではない。踏まれて低くなった跡だった。
道の先は途中で消えていた。誰かが途中まで入って、そこで引き返したのだと分かる。引き返した跡の先に、手袋がまた同じ高さで並んでいた。
灯はその道の入口に立つ。立って、足を入れなかった。
灯は丘の上から街を見下ろした。
屋根が全部見えた。傘の面が雨の後の光を返していた。返し方がそろっていなかった。乾いた面と、まだぬれている面が混じっていた。
多いのはぬれた面。
街の形が分かった。四本の道が中心で交わって、そこから外へ広がっていた。広がった先が丘で、丘の向こうは何も無い。何も無いというより、見えない。霧でもないのに、その先の色が薄くなっていた。
「向こうには何がある」
「夜しか無いところだ。行かないほうがいい」
キリはそれだけ言って、袋の中を数えはじめた。
丘の上は風がずっと吹いていた。止む間が無い。街では感じなかった風が、ここでは一つの向きを持って流れていた。
灯は髪を押さえた。押さえても、押さえた指の間から抜けていった。押さえるのをやめると、髪は全部後ろへ流れた。向きが一つにそろう。
流れた向きは、手袋の折れる向きと重なった。
風の音の中に、別の音が混じった。低くて、続く。金物がこすれる音に近い。
灯は音の来る方を探した。上だった。
空を、影が横切った。横切ったのは長い影。
灯は見上げた。
箱だった。大きさは人が二、三人ぶん。細い骨で組んである。骨の並び方が、学校の傘立ての底に落ちていた、布の無い傘と同じだった。下に何も無いのに、まっすぐ空を渡っていく。
箱の後ろに、もう一つ小さい箱が付いていた。布を掛けてある。布は端が留めてあって、風でも開かなかった。
灯は目で追った。前の箱には人影。後ろの小さい箱には何も見えない。
「箱が空を渡ってる」
「乗り物だ。頼めば乗せてくれる。ただし金を取る」
「後ろにもう一つある」
キリは空を見なかった。見ないまま答えた。
「見ないほうがいい。おれも見たことが無い」
箱は丘の上を越えて、街のほうへ下りていった。下りながら小さくなって、屋根の重なりの向こうへ消えた。
灯は消えた場所をしばらく見ていた。
風がまた向きを変えた。手袋の指が、今度は丘の上から下へ折れていく。
灯は自分の手を見た。ボタン二つは台の上に置いてきた。青いスコップだけが左手に残っていた。左の指の白い輪ゴムを、灯は一度だけ回した。
右手は空。空いている手を、灯は一度だけ握って開いた。手袋の指と同じ動きをしていた。
やってから、手を下ろした。耳の先が熱い。風のせいにした。
箱が消えたあとの空は、来た時より明るい。雲が薄くなって、切れ目から光が下りていた。光の当たっている場所と、当たっていない場所が、丘の斜面をはっきり分ける。
当たっている側の手袋は、色が見えた。当たっていない側は、全部が灰色に見えた。同じ物なのに、光の側だけが元の色を持っていた。
灯は光の境目を目で追った。動いた先の手袋が、順に色を持ちはじめる。
キリは丘の下の道を見ていた。街ではない。街の外れの、細い道の続く先。
その先には何も無い。何も無いところを、キリはしばらく見ていた。灯はその横顔を見て、何も聞かなかった。
灯は丘の下の街をもう一度見た。乾いた面が増えて、屋根の斑がさっきより白いほうへ寄っていた。
あの人たちが何を数えていたのか、灯はまだ知らない。折り方だけを覚えた。親指から順に、内側へ倒す。
灯は空のもう一方を見た。箱の消えた先は、屋根の重なりだけ。
あの箱が毎日通るのかどうかを、灯は知らなかった。知らないままで、通った時刻を覚えた。丘の風が横へ流れて、手袋の指が下から上へ伝わっていた頃。
時計は無い。
「そろそろ戻る。日が落ちると道が分からん」
キリは袋を担いだ。担いでから、街のほうではなく、丘の東を見た。
東の空だけ、色が違っていた。夕方の色でも、夜の色でもない。灰色が縦に一本、地面まで下りていた。
「今日は東が近い。近い日は早く仕事を終える」
灯はその線を見た。近いかどうかは分からない。分からないが、キリの声が少し低くなっていた。
「東のあれが分からない」
「回収人だ。名前はサビっていう」
キリは丘を下りはじめた。下りながら言った。
「物に戻ったやつを持っていく。悪い奴じゃない。仕事だ」
灯は線をもう一度見た。動いていない。動いていないのに、さっきより太く見えた。
キリが石段の手前で足を止めた。止まって、灯が追いつくのを待った。待ったのは、この日はじめてだった。
「あいつが来たら終わりだ」
風が向きを変えた。
丘の手が全部こちらを向いた。




