第049話 軽いもの
台の上の物が風で少しずつ右へ寄っていた。
灯が着いた時、キリは天板の左の端へ石を置いていた。石は三つ。並べる間も物は動き、置いた石の手前で止まる。
「押さえてくれ。そっちの端が先に飛ぶ」
右の端へ乗せた手のひらの下で、紙が三枚重なった。一番上だけが指の間から出ようとする。
紙は薄かった。押さえた重さでは足りずに、端が持ち上がる。
「石をもう一つ出す。紙の上へ乗せろ」
キリは袋から丸い石を出して、灯の手の横へ置いた。石は紙の上に乗った。それでも紙は石の下で鳴る。
「四月は毎日こうなの」
「毎日だ。三月の終わりから毎日こうなる」
台の上に並ぶのは紙と布で、金物は右の端に三つ。冬は金物が多かった。
台の上の匂いも変わっていた。冬は油と土。今日は乾いた紙で、下に草が薄く混じる。
灯は数えた。紙が十九枚、布が六枚、金物が三つ。二十八のうち二十五が軽いほうだった。
「金物、冬より減ってる」
「減った。春は軽いものが降る。値は下がる」
キリは石をもう一つ足して、一番軽い布の上へ乗せた。布は緑で、端が二か所ほつれていた。
「軽いと値が下がるの」
「下がる。持って帰るのが楽だからな。楽な物は誰でも運べる」
灯は緑の布の端をつまんだ。石の下から引くと、布は音もなく出てきた。出た布は灯の指の間で、風のほうへ伸びた。
「引くなら先に値を言え。あとからは受けん」
「見てるだけ。取らない」
「見るのはただだ。触るのは輪で一つになる」
布は石の下へ戻った。手は膝の横へ下りた。
キリはそれを見ていた。見てから、石の位置を指一本ぶん動かす。
「取らんのか。値を聞いてから決めろ」
「取らない。値を聞いてない」
「なら次だ。板を一枚立てる」
キリは台の下から板をもう一枚出して、天板の左の端へ立てかけた。風の当たる側へ板を置くと、台の上の風が半分になる。
半分になっても、一番上の紙は動いた。
灯は台の後ろへ回って、キリの顔を見た。
目の上の骨のところの線は、四日前と同じ位置に在った。線の数も同じで、増えていない。
増えていないのに、首のところの皮が少しゆるんで見えた。
灯は自分の指を握った。握って、開く。
台の左の端の板を、キリはもう一度押さえ直した。押さえた指の下で板は動かず、上の紙だけが鳴った。
キリの手の甲に細かい傷が二本増えていた。二本とも新しくて、縁のところがまだ白い。
灯はその二本を見た。見てから、目を台の上へ戻した。
「四日ぶりだな。前は百三日だった」
「四日ぶり。前は百三」
「三十九になった。冬から七つだ」
灯は何も言わなかった。言わずに、台の上の紙をもう一度見た。
四日で一つ。灯は指を一本だけ立てて、すぐ下ろした。
「値は下がったけど、数は増えてるの」
「増えた。冬の倍は出る。倍出て、値は半分だ」
「じゃあ、結局は同じ」
「同じじゃない。運ぶ手間は倍になる」
キリは板を立てかけ直した。立てかけた板の下に、風で入った紙が一枚。
灯はそれを抜いた。抜くと、紙は指の間で二つに折れかけた。二つ折りの筋を、灯は逆へ曲げて戻した。
紙には字が無い。裏も無い。両面とも白かった。
「これ、両面とも字が無い」
「そういうのが春はいちばん多い」
「字が無いのに落とし物なの」
「落とした奴がいる。それだけだ」
その白い紙は石の下へ入れた。灯は石を指で一度押さえた。
押さえた指の下で、紙は動かなくなった。
台の右の端の金物を、灯は一つずつ見た。三つとも小さい。輪の金具が一つ、平たい留め金が一つ、先の折れた針が一つ。
冬はここに鍵や鎖や器の破片が並んでいた。置き方も同じで、右から左へ大きさの順になる。
今日は三つで並びが終わって、その左は紙だった。並びの切れ目のところだけ、天板の木の色が見えていた。
風は東の道の入口のほうへ抜けていた。冬はそこに市の枠。
柱の穴は二つとも土がたまったままだった。灯はしゃがんで、片方の穴へ指を入れた。中の土は四日前より乾いていた。
抜いた指の腹に、細かい砂が付いた。息を吹くと飛んだ。飛んだ先は見えなかった。
「風は何日続くの」
「知らん。去年は十日続いた」
「去年も台の上に石を置いたの」
「置いた。石は毎年同じ石だ」
台の脚の下の石は三つのままで、四つ目の脚は土へめり込んでいた。
台の上の石は五つ。脚の下のとは別の石だった。
「上の石と下の石、別なの」
「別だ。下のは動かさん。上のは毎日動かす」
「同じ石じゃだめなの」
「だめだ。下のを取ったら台が傾く」
灯は台の上の石を一つ持ち上げてみた。手のひらに乗る大きさで、思っていたより重い。
持ち上げた下から、紙が二枚同時に浮いた。
浮いた二枚は、灯の顔の高さまで来てから横へ流れた。灯は手を伸ばした。一枚は取れて、もう一枚は指をすり抜ける。
すり抜けた一枚は、東の道のほうへ低く飛んでいく。
「あ」
「取ってこい。台の上のは俺の売り物だ」
灯は走った。紙は先で一度落ちて、着く前にまた浮く。浮いた高さは灯の膝より少し上で、そこから先は同じ高さのまま進んだ。
紙は東の道の入口を出て、道の右の壁へ当たり、そこから壁に沿って上がった。
灯は壁の下で足を止め、上を見た。
紙は壁の上の縁で一度止まって、そこから向こう側へ消えた。
「無理だった。壁を越えてった」
灯は戻ってそう言った。キリは台の上の石を並べ直しているところで、こちらを見ていない。
「あの紙、値はいくら」
「白い紙だ。値は零になる」
「じゃあ、走らなくてよかった」
「走らんと零だと分からん」
台の縁へ手を掛けて、息を整えた。喉の奥に土の味が残っていた。
東の道のほうをもう一度見た。壁の上に紙はもう無い。
「僕のじゃないかな、それ」
声は台の下から来た。灯はしゃがんだ。
台の下の土に片方だけの手袋が一つ落ちていた。指の側をこちらへ向けて、親指のところだけが少し立っていた。
「トト。なんでここにいるの」
「運ばれたんだよ。丘の段から。誰にかは見てない。ずっと下を向いてたからね」
「その紙、僕のかもしれないと思ったんだ。相方が白い紙を持ってたかもしれないでしょ。無いかもしれないけどさ」
「白い紙は東へ飛んでった」
「じゃあ追いかけよう。得意っていうか、軽いから勝手に追いかけることになるんだけどね」
風が土の上のトトの下へ入った。トトはそのまま横へ二十歩ぶん転がる。
灯は追いかけて、途中で拾い上げた。トトは軽い。片手で持てる重さで、持つと風のほうへ引かれた。
「ね。得意でしょ」
「いまのは転がっただけじゃん」
「転がるのも追いかけるうちだよ。おねえさんは走って追いつかなかった。僕は走らないで同じところまで行ったよ」
「壁のところで止まってたじゃん」
「止まってない。あれは待ってたんだ」
灯はトトを台の上へ置いた。途端に、トトは石の横で少し浮く。
キリが袋から石を一つ出して、トトの上へ乗せた。
「重い」
「台に乗ったら売り物と同じ扱いだ」
「僕、売り物じゃないよ。売り物の無い落とし物は、落とし物じゃないって言いたいわけ?」
「言ってない」
灯が石をどけると、トトはまた浮きかける。キリはその石を袋へ戻した。灯は指でトトの端を押さえた。
「久しぶりだね、おねえさん。僕は三百年だからさ。三百年から見たら冬なんて、瞬きの半分もないよ」
「三百年、数えたの」
「数えてないよ。数えたら三百年じゃなくなるでしょ」
「なら三百年もうそ」
「うそじゃないよ。数えてないだけだよ」
灯は指でトトの端を押さえ直した。押さえた下で、布は一度沈んで戻った。
風が強くなった。台の上の紙の束が、石の下でまとめて鳴る。鳴った音は乾いていて、冬の板の音より高い。
キリは石をもう一つ足した。台の上の石は六つになった。それでも一番上の紙は動き続ける。
「飛んだら誰の」
「拾え。拾って俺に売れ。値は半分だ」
トトが石の横で笑った。
足した石は六つのうちで一番小さい。小さい石は紙の角にだけ乗って、真ん中は浮いたままになった。
浮いた真ん中へ風が入ると、紙は石を軸にして回る。回る先は毎回同じで、東の道のほうを向いて止まった。
灯は台の上の紙を数えた。石の下に十四枚。外に三枚。
三枚のうち二枚は、端が台の縁から出ていた。出たぶんだけ風が入って、めくれる。
灯はその三枚を石の下へ入れ直した。入れ直すと、十七枚になった。
「十七」
「十九だ。台の下に二枚落ちてる」
台の下の板の影に、紙が二枚重なって落ちていた。
拾って戻すと、十九になった。
*
名札小路の入口は、四つ角から西の道を下りきったところに在る。
入口の幅は狭かった。狭いぶん風はそこで速くなる。
小路の中から布が一枚出てきた。灯は入口の手前で立ち止まった。
布は白くて四角い。角の一つに糸で縫った印が付いていた。
灯は手を伸ばして、その布を取って、印のところを指で押さえた。
印は三本の糸で、縦に並んでいた。同じ長さの糸が三本で、間の幅もそろっていた。
「あんた、それ、うちの裏に干してあったやつじゃないかい」
小路の入口から声がした。ぬいが立っている。手に木の桶を一つ提げていた。
「風で飛んだ」
「飛んだよ。今朝は三枚干して、二枚しか残らなかった。あんた、どこで拾ったんだい」
「入口のところ」
「そんな近くかい。あの角を曲がると風が変わるんだよ。あんた、見てたかい」
「曲がる前」
「そうかい。曲がる前かい」
ぬいは桶を持ち替えた。持ち替える時、左の手が一度下がって、桶の底が土に当たった。
当たってから、ぬいは灯の手の布を指差した。
「持っていきな。三枚のうちの一枚だよ。二枚あれば足りるからね」
「いらない」
「いらないのかい。じゃあ、あんたはなんで拾ったんだい」
灯は答えなかった。答えずに、布をぬいのほうへ差し出す。
ぬいは受け取らない。受け取らずに、桶を地面へ置いた。
「置いておくよ。今朝は二枚しか取り込んでないからね」
ぬいはそう言って、小路の中へ戻っていった。桶は入口の内側に置いたままになった。
灯は布を持ったままで、その桶を見た。桶の底に水は無い。
濡れた木の匂いがした。小路の側から来る匂いで、四つ角の乾いた紙の匂いとは別のものだった。
「その布、僕の相方じゃないよね」
トトは灯の肩のところから言った。四つ角からここまで、灯の上着の肩に引っかかったままついてきている。
「布だよ」
「知ってるよ。でも一応聞くんだ。聞かないで通り過ぎたら、あとで悔しいでしょ」
「数えてないって言ったばっかり」
「言ったよ。だから多いと思う、で止めてるんだ」
布は四つに畳むと、手のひらより小さくなる。
小さくなっても、風は入った。折り目のところが持ち上がって、また落ちた。
入口の土に、飛んだ紙の擦れた跡が二本残っていた。二本とも同じ向きで、間の幅は指の一本ぶん。
跡は途中で切れている。切れた先から、紙は土を離れて浮いた。
小路の中から、もう一つ音がした。板を戸へ打ちつける音で、二度続いてから止まる。
灯は入口から中を覗いた。三軒目の家の前に人が立って、戸の上のほうへ板を渡していた。渡した板は横に一枚。
風の入る側だけに板を打っていた。打たない側は開けたままになっていた。
広場は名札小路の入口の先に在った。道はそこで平らに戻る。石を敷いた面が広い。風はそこで一番強くなった。
灯が下りていくと、広場の真ん中あたりに人が三人いた。三人とも下を向いて、何かを拾っていた。
拾っていたのは紙だった。石の面に紙が散っていて、風が来る度に端から順に動いた。
石の面は四角い石を並べてある。目地の幅は指の一本ぶんで、そこへ紙の端が入ると動かなくなった。
入らなかった紙だけが、風の度に少しずつ東へ寄っていく。寄った先は広場の端の段で、段の下には落ちていなかった。
「これ、誰の」
灯は一番近くにいた男に聞いた。男は顔を上げずに答えた。
「知らん。落ちてたぶんは拾った奴のだ」
男は拾った紙を胸の前で押さえて、そのまま西のほうへ歩いていった。
残りの二人も同じようにして、次々に紙を押さえていく。押さえた紙は服の内側へ入れる。手に持ったままの者は一人もいなかった。
三人は互いに口をきかなかった。拾う向きはそれぞれ別。
「あの人たち、速いね」
「速いよ。三百年見てるけど、四月がいちばん速い」
「三百年、四月を見たの」
「見たよ。だいたい同じだった。だから四月は退屈なんだ」
一人が先に広場を出た。出た一人の胸のところは、入れた紙のぶんだけ膨らんでいた。
灯は畳んだ布を上着の内側へ入れ、石の面の紙を一枚拾った。
拾った紙は少し厚かった。厚いぶん、風で動きにくい。
紙の真ん中に四角い穴が二つ空いていた。穴の縁は切ったのではなく、破けている。
「おねえさん、それ、穴が空いてるよ」
「見れば分かる。穴が二つ」
「僕は穴の空いてるものが好きなんだ。片方だけの手袋には、いつも片方ぶんの空きがあるしね。あ、いまのうまいこと言ったかも」
「言ってない。聞いてた」
「言ったよ。おねえさん、聞き逃したんだ」
紙の穴へ指を通すと、指の先が向こう側へ出た。
出た指を、灯は動かさなかった。動かさずに、風の入る向きを見た。
風は西から来ていた。石の面を渡って、名札小路の入口のほうへ抜けていく。
紙は風の来る側から順に動いていた。動く順は決まっている。一番軽いものから先に浮いた。
灯は自分の足元の紙を見た。三枚あって、三枚とも動かなかった。
灯は指の穴の紙を離した。
離した紙は、灯の膝の高さまで上がる。上がってから横へ流れた。
広場の西の端に、木の枠が三つ立ててあった。下の端が土へ深く入っていて、押しても動かない。
枠に布は無い。
灯は真ん中の枠の上の辺へ指を当てた。三つとも同じところが減っていて、真ん中のが一番深い。
「これ、見たことある」
「布を干すやつだよ。掛けるところを見たことはないけどね。三百年見てて、一度もないんだ」
「三百年、ここにいたの」
「いないよ。丘だよ。見たっていうのは、そういう言い方なんだ」
「おねえさん、僕を投げてみてよ」
「投げない。落ちてこない」
「投げてよ。軽いほうが遠くまで行けるんだよ。おねえさんが石を投げるより、僕を投げるほうが絶対に遠い」
「石のほうが遠いに決まってる」
「じゃあ試そう。試さないと分からないでしょ」
足元の石を一つ拾った。指の三本ぶんの大きさで、片手に収まる。
石を投げた。石は広場の石の面を二度跳ねて、四十歩ほど先で止まった。
「四十。石はここまで」
灯は数えた。それからトトを肩から取って手のひらへ乗せる。
トトを投げた。
トトは灯の手を離れてすぐ風に入って、上へ上がる。上がりながら横へ流れて、流れた先でまた上がった。
石の止まったところを越えた。そこでも止まらない。
広場の端の建物の屋根の高さまで上がって、そこで一度傾く。傾いた先で風が切れて、トトは屋根の縁に引っかかった。
灯は屋根を見上げた。
「トト」
「聞こえてるよ。ねえ、何歩だった」
「数えてない。歩いてない」
「数えてよ。数えないと僕の勝ちにならないでしょ」
灯は石のところまで歩いて、そこから屋根の下まで歩いた。数えると三十二だった。四十に足して七十二になる。
「七十二。四十と三十二」
「ほらね」
「落ちてこないなら勝ちじゃない」
「そこは別の話なんだよ、おねえさん」
灯は屋根を見上げたまま立っていた。屋根の縁は灯の背の三倍ほど上に在って、手は届かない。
屋根は板を重ねてあった。重なりは下から上へ。縁の一枚だけ、端が少し反り上がっていた。
トトはその反った端の内側に入っていた。風が来ると少し動き、動いた先でまた同じところへ戻った。
建物の戸は閉まっていた。押しても開かない。
「これからどうするの」
「風を待つよ。風が来たら落ちる。来なかったら来るまで待つ」
「屋根の上で三百年待つの」
「三百年は相方のぶんだよ。屋根のぶんは別に数えるんだ」
灯は建物の壁に手を当てた。板の壁で、目は縦に走っていた。爪を当てると、爪が目の中へ落ちた。
落ちる感じは、家の押し入れの奥の板に指を当てた時に似ていた。あそこも目が縦で、爪が同じところで沈んだ。
落ちた爪を、灯はそのまま上へ滑らせた。爪は途中で止まらない。
登れる壁ではない。
灯は壁から手を離して、屋根をもう一度見上げた。その時に、耳の奥で音が薄くなった。
風の音が遠かった。トトの声も、さっきより遠いところから来ていた。
上を向いていたからだと灯は決めた。
灯は口を開けて息を吸った。吸った息は喉を通って、耳のほうへは行かない。
*
灯は四つ角まで戻った。キリは台の左の端を押さえたまま。
「縄、ある」
「ある。台を空けることになる」
「空けたら飛ぶの」
「石を足せば飛ばん。石は俺が足す。持つのはそっちだ」
キリは台の下から石を三つ出して、灯の腕へ順に乗せた。両手がふさがる重さ。
灯は石を抱えて広場まで歩いた。歩幅は行きより狭い。石は硬くて、腕の内側の一点だけに当たり続けた。
広場の石の面へ三つとも下ろすと、腕の内側に赤い跡が三つ残っていた。
キリはあとから来て、屋根を見上げた。
「あそこか。縁の内側に入っとる」
「うん。屋根の縁のところ」
「投げて落とすには遠い。当てたら破れるぞ」
「石が当たると破れるの」
「布だ。石を当てれば裂ける。糸の目から先にな」
キリは袋から縄を出した。縄の先に、細い金物が結んである。金物は鉤の形をしていて、先が二つに割れていた。
「縄を使うなら輪で二つだ」
「四つしかない」
「知っとる。今日のところは貸しにしとく」
キリは縄の先を回し、屋根の縁へ向けて投げた。
鉤は縁に当たって、そのまま落ちた。二度目も同じ。三度目で縁の内側へ入って、引くと止まった。
キリは縄を引いた。引くと、屋根の縁の板が少し鳴った。
「トト。縄が来たら掴め」
「掴む手が無いんだよ、僕。手袋だからね。手袋は手を入れる側であって、掴む側じゃないんだ」
「なら乗れ。鉤の割れ目に落ちろ」
「乗るのはできる。乗るのは得意なんだ」
キリは縄をゆるめて、鉤を屋根の上で少し滑らせる。その先へトトが転がって、鉤の割れ目のところで止まった。
「引け。止まったら止めろ」
キリは縄の手前を灯へ渡した。縄は思っていたより太くて、握ると指が全部は回らない。
灯は引いた。引くと、屋根の板の上で鉤の滑る手応えが縄を通って手のひらまで来た。
途中で手応えが重くなる。灯はそこで止めた。止めてからもう一度引いた。
トトは屋根の縁まで来て、そこで一度引っかかった。引っかかったところで風が入って、トトは縁から離れた。
離れたトトは、縄の下を通って落ちてくる。
灯は両手を出した。その手のところへは来ないで、トトは灯の三歩ぶん横の石の面へ落ちた。
「取り損ねた。三歩ずれた」
「僕は落ちたんじゃないよ。降りたんだ」
灯はトトを拾い上げた。落ちたところに残ったのは、手袋の形の砂の跡。
「縄の貸しは輪で二つだ。次に来た時に払え」
「払う。次に来た時に」
「利子は取らん。七日以内に来ればな」
灯はうなずいた。うなずいてから、指を五本立てて、六本目を立てずに手を下ろした。
日が傾くにつれて、風は弱くなる。
弱くなり方は一度ではなかった。強く来て、次までの間が長くなり、来た時の強さも落ちる。
灯は間を数えた。一度目と二度目の間が十二、二度目と三度目の間が十九。三度目のあとは、数え終わる前に日が雲へ入った。
広場の石の面に残った紙は、動かなくなっていた。
灯は挟まっている紙を三枚抜いた。三枚を重ねて、上から手で押さえる。
押さえた下で、三枚は一枚の厚さになった。
「重ねると飛ばないの」
「飛ばん。重ねたぶんだけ重くなるからな」
「じゃあ、みんな重ねればいいのに」
「重ねる手間がある。手間は値に入らんからな」
灯は三枚を重ねたままで、上着の内側へ入れた。中には畳んだ白い布が先に入っている。
布の上へ紙を重ねると、内側の膨らみが手のひら一つぶんになった。
帰りの上りで、灯は三度足を止めた。止まる度に広場のほうを振り返る。
残っていた一人は石の面に座って、拾った紙を膝の上で数えていた。
数える指が上から下へ動いて、下まで行くとまた上へ戻った。三度目に振り返った時には、その人もいなくなっていた。
四つ角へ戻ると、台の上の石は七つに増えていた。紙の束は石の下でまとまっていて、一番上の一枚も動いていない。
「石、増やしたの」
「増やした。風が止んでから増やすのは楽になる」
「止む前に増やせばよかったのに」
「止む前は、増やしても飛ぶ。石ごと飛ぶわけじゃないが、置く手が追いつかん」
台の縁に手を掛けた。手の下で、天板の木の目が横に走っていた。
三枚の天板のうち、真ん中の一枚だけが薄かった。指を滑らせると、段のところで一度止まった。
四日前と同じ場所で止まる。
台の下の袋の跡が四日前より濃くなっていた。丸い跡の縁が前よりはっきり出ている。
袋は今日も置かれていなかった。キリは袋を肩に掛けたままだった。
灯は台の下から目を上げた。その先で、キリは石の位置を指一本ぶんずつ直している。動かす順は左から右。
「トトは今日、何回飛んだの」
灯はそう聞いた。トトは台の上の石の横に置いてある。
「七回。おねえさんが投げたのが一回で、勝手に転がったのが六回」
「六回も転がったの」
「転がったよ。転がるたびに、これが最後かなと思うんだ。思うだけで、たいてい違うんだけどね」
キリは石を並べ直しながらこちらを見ずに言った。
「その手袋を売るなら、値は付く。安くはならん」
「売らない」
「聞いただけだ。売らんなら次の話だ」
トトは何も言わなかった。石の横で、指の側だけがこちらを向いている。
輪一つで紙が一枚。触るだけでも輪が一つ。
灯は上着の内側から布を出した。四つに畳んだままの白い布で、角に三本の糸の印が付いていた。
「これ、置いていく」
「うちの物じゃない。台には乗せられん」
「小路の人がくれた」
「なら持って帰れ。こっちには置かん」
灯は布を持ったままで、しばらく立っていた。
持って帰れば、こちらの側に布が一枚増える。増えた布は、次に来る時にはここに無い。
灯は布を上着の内側へ戻し、重ねた紙のほうを台の上へ置いた。
「これは置いていく」
「三枚か。値は零だが、置いていけ」
「知ってる。零でいい」
キリは三枚を受け取って、石の下へ入れた。入れると、束は二十二枚になった。
「おねえさん、明日も来る?」
「来ない。次は市の日」
「七日ってさ、僕は瞬きの半分だけど、おねえさんは七日でしょ。長さが違うのって変じゃない?」
「しない。七日は七日」
「僕はするよ。するっていうか、たぶんしてるんだと思う」
トトの指の側には、広場の砂がまだ付いていた。付いたところだけ色が薄い。
灯は台の上のトトを見た。見てから、指で一度だけその端を押さえた。
押さえた下で、トトは動かない。
「トトは軽いから飛ぶんじゃなくて、掴まってないから飛ぶんだと思う」
「同じことじゃないの? 軽いのと掴まってないのって、僕には同じに聞こえるんだけどな」
「違う。同じじゃない」
「どこがどう違うのか、三百年ぶん考えてから聞けばよかったよ」
灯は答えを持っていなかった。持っていないままで、指を離した。
離した指の先で、トトは動かなかった。風はもう来ていない。
灯は広場へ運んだ石を三つとも抱えて帰ってきた。腕の内側の赤い跡は、行きより長く残った。
キリは三つのうち一つを天板へ乗せた。台の上の石は七つになった。残りの二つは台の下へ入れた。
キリは板の立てかけを外して、台の下へ入れた。板の縁が脚に当たって、乾いた音がする。
台の下へ入れた板の上に、キリは縄を巻いて置いた。巻き方は外から内へで、最後の一巻きを内側へ差し込む。
差し込んだ先が抜けないので、持ち上げても巻きは崩れない。冬は一度ゆるんだ。
灯は縄の巻きへ指を掛けなかった。掛ければ触ったことになる。
「次の市は七日後だ」
「見に来ていいの」
「来い。市の日は人手が要る」
「輪はどうなるの」
「働いたぶんは払う。縄の二つはそこから引く」
灯は指を折った。折った指を見て、途中でやめる。
やめてから、上着の内側の布に手を当てた。布は薄い。当てた手のひらの下で、体の熱がそのまま返ってきた。
その内側は、学校へ持っていく紙を入れる側になる。今朝は入れずに出てきた。
入れていないぶん、布は平らに当たった。
扉までの道で、灯は壁の下の濡れた帯をもう一度見た。四日前より高さが下がっていた。下がったぶん、乾いた側が広い。
乾いた側へ手を当てると、板は温かかった。日の当たっていた側の熱がまだ抜けていなかった。
塀の上に、紙が二枚並んで乗っていた。二枚とも端が塀の目地へ入っている。
道の右の壁の下にも一枚挟まっていた。灯はそれを抜かなかった。抜けば飛ぶ。
灯は扉のほうへ歩いた。
歩きながら上着の内側の膨らみを一度だけ押さえ直した。押さえると、布は形を変えて、手を離すと元へ戻った。
扉の前で振り返った。
四つ角の台の上に、石が七つ並んでいた。石の下の紙の束は動かない。
束の右の端に、トトが置いてあった。上に石は乗っていない。
灯は扉を押した。板の閉じる間に、四つ角は板の幅のぶんずつ細くなって、最後に木の目だけが残った。




