第050話 綴じ穴
教室の戸は開いていた。灯は自分の席へ行って、鞄を机の横の鉤へ掛けた。
窓側の列の後ろから二番目。後ろの壁までは机が一つぶん空いていた。掛けた鞄の紐は、金具の上で二度ねじれた。
並びは去年と同じで、後ろの三つだけが埋まっていなかった。
机の上は空。前の日の帰りに拭いてあって、指を滑らせても何も付かなかった。
窓の外は曇っていた。灯は椅子を引いて座り、鞄の中の教科書の位置を直した。
教科書は五冊で、背の高さが二種類ある。低いほうを手前にすると、鞄の口が閉まりやすかった。
二年になってから増えたのは一冊で、その一冊だけ表紙の紙が違う。触ると滑っていた。
教室の後ろの棚には、去年の学級日誌が二冊。背の紙が日に焼けて、上のほうだけ色が薄くなっていた。
一冊目の背には一年三組の字。二冊目は途中で終わっていて、背に何も書かれていなかった。
灯は席から棚のほうを見た。二冊の間に、指が一本入るくらいの隙間。
多田が前の戸から入ってきた。手に厚い紙の束を持っていた。
「名簿を配ります」
束は一列目の一番前から後ろへ動いた。前から後ろ、次の列はまた前から後ろ。
灯の列は最後で、来た時には残りが七枚になっていた。
一枚取って、後ろへ回した。
手に残った紙は新しかった。指の腹に残る粘り。印刷の匂いがした。
匂いが強かったのは紙の面ではなく端のほうで、灯は端を鼻の近くまで持ち上げ、それからすぐ下ろした。
冬の間、教室の紙はこの匂いをしていない。二月に配られた進路の紙も、三月の通知表も、匂いは無かった。
「一枚ずつ取ってください」
二列目の後ろで二枚取った者がいた。多田はそちらを見て、同じことをもう一度言う。
最後の三つの席は空いているので、三枚が余った。前へ戻される三枚。
多田はそれを二つに折って、上着の内側へ入れた。折る手つきは、朝の会で紙を配る時と同じ。
灯は名簿を裏返して、また表へ戻した。それから光のほうへ向けてみた。
裏の字が透けて、表の字と重なって見えた。重なったところだけ黒が濃くなっていた。
名前が縦に三十三。番号は一から三十三まで打ってあった。灯の番号は十四。
名前は五十音の順に並んでいた。灯の二つ上が小島で、三つ下が関だった。
千夏の名前は上から十番目。灯より四つ上。
名前と名前の間は、指の腹の幅より狭かった。三十三を一枚に収めるぶんの詰まり方。
行の左の端に、番号が小さく打ってある。名前の字より一回り小さく見えた。
去年もこの順。順を決めるのは名前で、間に誰が入っても前後は入れ替わらずにいた。
番号のほうは動く。一年の時、灯は十三番目だった。組の顔ぶれが替わったぶん、一つ下がっている。
灯は名簿の左の端を見た。
穴が四つ空いていた。上と下に一つずつ。
その内側にも二つ空いていた。上の穴の下、指の一本ぶん内側に一つ。下の穴の上にも一つ空いていた。
合わせて四つ空いていた。
外側の二つには紐が通っていなかった。内側の二つに、白い紐。
紐は綿で、より糸が緩んで先がほつれていた。ほつれた先は裏側で結んであった。結び目は二つ重なっていた。
一つ目の結び目は固く、二つ目はその上へ乗せただけの緩い形。二つ目を結んだ手は、一つ目より急いでいた。
紐を指で押すと、紐は動かず、紙のほうが持ち上がった。
「学級日誌に綴じます。棚です」
多田の声は教室の後ろまで届く大きさをしていた。それより大きくならなかった。
多田は黒板の左の端へ回って、日誌の表紙を持ち上げて見せた。表紙は厚い紙で、色は薄い緑。
持ち上げた時、表紙の下から中の紙が少し覗いた。中の紙は白く、線だけが薄く入っている。
表紙の左の端にも穴が四つ空いている。外側の二つは空で、内側の二つに紐が通っていた。
「去年のは抜きました」
多田はそれだけ言って、日誌を後ろの棚へ置いた。去年の二冊の横へ、新しいのが三冊目として立った。
立てても埋まらない、二冊の間の隙間。三冊目はその外側へ入っていた。
なぜ内側へ空け直したのかは言わなかった。誰も聞かずにいた。
灯は自分の名簿の外側の穴へ、指の先を入れてみた。指は途中で止まった。穴は指より小さい。
入ったのは爪の先までで、そこから先は紙の縁が指の腹に当たった。
「それ、四つあるでしょ」
横の通路にみずきが立っていた。灯は顔を上げた。
「四つある。二つは通ってない」
「去年もそうだった。二つは使ってない」
みずきの声は上がらない。ほかの席へ向けて話す時は上がっていた。
「去年の名簿はどこにあるの」
「捨てたよ。四月に捨てる」
「捨てるって決まってるの」
「決まってない。母さんが四月に捨てるだけ」
「去年のも捨てたの」
「捨てた。一昨年のも捨ててる」
自分の席へ戻るみずきの背を、灯は見ていた。
名簿は机の上へ戻す。戻した紙の下で、机の木の目が横に走っていた。
灯は目の細かい側へ名簿の端をそろえた。
灯は指を三本折って、四本目のところで穴の数と合わなくなるのを見た。
窓の掛け金は四つ付いていて、下りているのは上から二番目だけ。
ほかの三つは上がったままで、風が入る度に枠が細く鳴った。
鳴るのは掛け金の上がっているところで、下りているところは鳴らずにいた。灯は下りている一つを指で押した。押しても動かなかった。
黒板の右の端には席替えの表がある。四月の初めに貼ったもので、月の頭までは替わらない。
表は机の並びをそのまま四角で写してあった。四角の中に名前が入っていて、最後の列の三つだけが白いまま。
白い三つは去年の紙のまま。誰も名前を入れていなかった。
表の紙は名簿より薄い。角の画鋲のところが少し破れて、下へ垂れていた。
窓の外は曇っていた。四月の雲は、朝のうちだけ低いところに来て、昼にはたいてい上がるもの。
今日の雲は動かなかった。屋根の上の物干しの竿と同じ高さで止まって、そこから下りも上がりもしなかった。
千夏は廊下側の列の一番前にいた。灯の席からは机が四つと通路が一つ挟まっていた。
名簿を見ていない千夏。机の上に伏せたまま、前の黒板のほうを向いていた。
伏せた紙の端が、机の縁から指の一本ぶん出ていた。出たところが窓からの風で一度だけ持ち上がって、また落ちた。
それを押さえない千夏。押さえないまま、二度目も落ちた。
多田が出席を取り始めた。名簿の順ではなく、机の並びの順で読んだ。窓側の列から始まって、廊下側へ移り、また窓側へ戻る順で読んでいた。
名前は一人ずつ、番号のあとに名だけを読む。多田は一度も読み間違えなかった。
「灯」
多田が名字で呼ばないのは灯だけ。小学校の時からそうで、理由は聞いたことがなかった。
「はい」
多田は名前を読んでから、返事を聞いて、次へ移る。読むのと聞くのの間は毎回同じだけ空いた。
その空きの間に、灯は自分の名簿の番号を目で追った。十一の次は十二で、十二の次は十三。番号は一つずつ増えていた。
出席は三十三で止まった。欠席は無かった。
多田は出席簿を閉じて、後ろの棚のほうを見た。
「日誌は今日から新しいのです。当番は名簿の順です」
名簿の順なら、灯は十四番目。一日に一人なら、次に当たるのは三週間ほど先になった。
五週間先の日付を、灯は指で数えかけた。数えかけて、机の上の名簿へ目を戻した。
やめてから、名簿の左の端をもう一度。
外側の穴は、光に当てると向こう側が見えた。紙の下は机の木の色で、穴のところだけ色が濃く見えた。
穴の縁は丸く、毛羽が立っていた。指でなぞると引っかかりが来た。内側の二つの縁は毛羽が寝ていて、引っかからなかった。
通してある紐が、縁を押さえて寝かせる形。押さえるものの無い側だけが起きていた。
朝の会が終わって、多田は前の戸から出ていった。
教室の音が一度大きくなり、それから机の動く音に変わった。
後ろの棚の前に三人。日誌の表紙を代わる代わる開けては閉じていた。また開ける手。
中の紙は白いままでいた。誰もまだ書いていない紙。三人は開け終わると、そのまま棚から離れた。
名簿は教科書の間へ挟んだ。挟むと、外側の二つの穴は教科書の紙で塞がって、見えなくなった。
挟んだ紙の場所は、表紙から数えて三十枚ほど内側になる。
一時間目に開いたのはその十枚ほど先で、名簿のところまでは指が届かなかった。
一時間目は国語。教科書を開くと、挟んだ名簿が前の紙のほうへずれた。
灯は名簿を奥まで押し込んだ。押し込んだぶん、教科書の背が少し膨らんだ。
膨らんだところを手で押さえて閉じると、閉じ切らずに指の一本ぶん開いたままになった。
*
昼の給食は、パンと汁と魚だった。魚は骨を抜いてあるほうで、皿の上で二つに割れていた。
配膳の当番は今週が四班で、灯の班は来週になる。当番の日は白い上着を着ることになっていた。上着は教室の後ろの籠に畳んで入れてある。
汁は温かい。器の縁を持つと、指の腹に熱が来た。持ち替えると、来る場所も移っていった。
牛乳の紙の口は、右の端から開ける形。灯は左から開けて、開いた口を指で押し戻した。
灯はパンの端から食べた。端は焼いた側で、内側より硬い。
千夏は皿を持ったまま、灯の机の横へ来て立った。中学の給食は前を向いたまま食べるので、机は寄せない。
立ったままの千夏の皿は、灯の机の縁より高いところにあった。上から見ると、魚の割れ方がよく見える。
「あかり、それ先に食べるんだ」
「硬いところから食べてる」
「あたしは中から食べる。中のほうが早く無くなるから」
「早く無くなるほうがいいことあるの」
「いいよ。硬いところは最後でも硬いままだし」
笑い声が台詞の後ろに付いて、言葉と一続きになった。
みずきは別の机の側で食べている。こちらを一度見て、それからまた向こうを向いた。
みずきの机には四人。そのうち二人は去年別の組だった。話し声は途中で何度も上がった。
上がる度に、笑いが一拍遅れて付いてきた。付いてくるのは同じ二人。残りの二人は笑わなかった。
教室の前のほうで、誰かが皿を落とした。割れる音はしていない。落ちたのはプラスチックの器で、床で二度跳ねて止まっていた。
拾ったのは落とした本人だった。その子は器を持ったまま少し立っていて、それから配膳の台のほうへ歩いていく。
「引っ越しの日って、もう決まったの」
パンを持ったままの手が、少しの間だけ動きを止めていた。
「まだなんだよね。うちは荷物のほうが先に動くから、そこが決まらないと」
「引っ越しの日って、荷物で決まるの」
「荷物のほうが先に行くんだって」
灯の手にはパンが残っていた。皿の上の魚は半分。
「先に行くって、いつ」
「お父さんが六月に行くの。部屋を決めて、荷物を入れて、それからあたしたち」
汁の器が持ち上がって、一口ぶん下がって、机の縁へ戻る。千夏の指は器の縁から離れなかった。
パンの中のところがちぎれて、口へ入った。端はまだ皿の上。
「箱って、だいたい何個くらいなの」
「知らない。前は十二個だったって。あたしはその時、生まれてない」
「十二個って、どのくらい」
「分かんない。大きさによるでしょ。お母さんは大きいのだったって」
「じゃあ千夏は数えてないんだ」
「数えてないよ。十二って、覚えやすいから覚えてたんだと思う」
魚の骨のあったところを、灯は箸で押した。骨は抜いてあるので、押したところは沈むだけになった。
九十六。今朝の数はそれになっていた。前に書いたのは百三で、七つぶんの減りになる。
その数を灯は口に出さなかった。ノートも出さない。
口の中の右側が、舌を当てると熱を持った。
パンの耳で切ったのだと灯は決めた。
決めてから、汁を一口飲んだ。汁は温かかった。
「あかり、今日ずっと名簿見てるでしょ」
「そんなに見てない」
「見てたよ。朝から三回」
数えていたことになる。灯があとで思い出すのは、そちらのほうだった。
「あかりは、名簿どこから見た」
「上から順に見た」
「あたし十番目でしょ。去年も十番目だった」
鞄から出てきたのは千夏の名簿になる。左の端にも穴が四つ空いていた。
「これ、四つあるの気づいた」
「気づいた。四つとも見た」
「あたしは去年気づいた。去年は三つだったの。一年生のは三つで、二年生のは四つ」
外側の二つは空で、内側の二つに紐が通っていた。灯のと同じだった。
「三つのときは何がどうなったの」
「真ん中の一つが余った。余ったところに鉛筆を刺して遊んでた」
「刺したら破れなかったの」
「破れなかった。鉛筆のほうが穴より細かったから」
「先生に見つかった?」
「見つかったよ。でも何も言われない。もう一枚あるからって」
また笑う千夏。笑ってから、皿の魚を全部口へ入れた。
口へ入れてから、少しの間、黙っていた。飲み込んでも、すぐには言わなかった。
「あかりのは、まだ四つのままだよね」
「まだ四つのまま」
「じゃあ来年は五つになるのかな」
「増えるかどうか分かんない」
「増えるよ。去年三つで今年四つでしょ」
名簿は鞄の中へ戻された。戻す時、角が中の何かに当たって、少し折れる。
給食が終わって、机を元へ戻す。戻す時、千夏の椅子の脚が灯の机の脚に当たって、一度止まった。
当たった脚のゴムは、片方だけ潰れている。潰れた側が下になるように、千夏は椅子を回してから持ち上げた。
千夏は皿を持ち上げ、自分の席へ戻っていった。
昼のあと、掃除の時間に灯は廊下の担当になった。担当は月の頭に決まって、四月は廊下のままになっていた。
箒を持って端から掃くと、ごみは同じところで一度たまる。たまるのは戸のすぐ外で、床の継ぎ目が一本走っていた。
同じ担当の子が二人いて、二人は途中から掃かずに話していた。話の中身は昨日のテレビのこと。
灯は聞きながら掃いた。分からない話で、分からないまま最後まで続く。
箒を戻す時は、柄の先の穴に紐を通して掛ける。掛ける穴は一つで、紐も一本。
午後の授業は二つ。灯は二つとも窓の外を三度見た。雲は朝と同じ高さで止まっていた。
六時間目の途中で、廊下を誰かが走った。走る音は教室の前から後ろへ動いて、階段のところで消えた。
多田はこの時間、教室にいない。廊下を見に行く者もいなかった。
帰りの会は短かった。連絡は二つで、明日の持ち物と、日誌の当番の順。灯は二つとも覚えて教室を出た。
放課後、昇降口へ下りた。
昇降口の左の端は、雨の日には二十四の穴が全部ふさがっていた。今日は四つしかふさがっていなかった。
入っていたのは、手前に二つと奥に二つ。どこへ入れるかを決めた者はいなかった。
金の縁は朝に白く光り、夕方は鈍る。今日は朝から曇っていたので、どちらの時も同じになる。
灯の傘はここに無い。朝の空が曇っていても、雲が低いだけの日は持たない。
入っている四つを、端から見ていった。二つは柄が細く、二つは太かった。細いほうが手前で、太いほうが奥になっていた。
小学校の傘立ては、奥の列の左から四番目が灯の場所。六年二組の全員がそれぞれの場所を知っていた。
灯は思い出した奥の列の左から四番目へ、目を当ててから靴箱のほうへ歩いた。
みずきが後ろから来て、横へ並んだ。
「傘、持ってきてないんだ」
「今日は降らないと思ったから」
「降るって。見なかったの?」
「見てない」
「夜の八時からだって。貸そうか?」
「いい。走れば平気」
みずきはそれ以上言わずに、自分の靴箱のほうへ行っていた。行く途中で、二年三組の傘立てを一度見た。
「今日は四つだけ」
「四つだけ」
「去年は右だったよね? なんで」
「知らない」
「みんな見てないんだね」
最後の一つだけ、みずきの語尾は上がらなかった。灯はそれに答えなかった。
答えないまま、傘立ての四つをもう一度見る。一本だけ、柄の先の留め具が外れていた。
外れた留め具は柄の途中で止まっていた。落ちもせず、掛かりもしない。
靴箱の前で、灯は自分の名の入った札の高さへ手を上げた。上から二段目の、右から四つ目。
札は活字を印刷した紙を差し込む形になっている。差した紙はまだ傾いていなかった。
靴の中に、朝入った砂。逆さにして振ると、三粒だけ出た。
灯は靴を履いた。履いてから、名札をもう一度見た。
名札の紙は、去年のより少し厚くなっていた。指で押すと、下の板まで沈まずに止まった。
去年のは押すと沈んだ。沈んだところが戻るまでに、指を離してから一つ数えるくらいかかっていた。
名札の紙の右の下の角だけが、差し込みの縁から少し出ていた。
灯は出ている角を指で押し込んだ。押し込むと平らになって、押した指を離すとまた少し出た。
二度目も同じだけ出た。三度目はやらなかった。
昇降口の床の境目には、黒い線が一本。靴の裏で削れて、真ん中だけ細くなっていた。
灯はその線を踏まずにまたいだ。またぐ時、上履きを入れた袋が膝に触れた。
*
家までの道は、四月に入ってから七度目になった。曲がる角は三つで、途中に踏切が一つ。
踏切は下りていなかった。灯は止まらずに渡って、渡ってから遮断機の錘のところを見た。錘には雨に濡れた跡が黒く残っている。
跡は上のほうだけで、下は乾いていた。雨は昨日の夜に降って、朝には上がっている。
みずきは夜の八時と言った。降るのは今日の夜で、昨日の雨とは別になる。
家に着いて、灯は上がってすぐ自分の部屋へ入った。鞄を机の横へ置いて、上着を椅子の背へ掛けた。
下の階で水の音がしていた。台所の蛇口を細く出す音で、皿を洗う時の音とは長さが違う。
テレビは点いていない。四月に入ってから、夕方のこの時間は点かなくなった。
点かなくなった理由を、灯は聞いていない。聞かないうちに、点かないほうが普通になった。
部屋の窓は昼のうちに開けたままになっていた。空気は外と同じ温さで、動いていない。
灯は靴下を脱いで、裏返して丸めた。丸めたのを籠へ入れる時、片方が縁に当たって落ちた。落ちたほうを拾って入れ直す。
机の上には昨日出したままの下敷きが乗っていた。角の一つが少し反っている。反った側を下にして置き直した。
それから、灯は机の引き出しを開けた。
一番下の引き出しには、去年の紙が入れてあった。四月に配られたものから順に、上へ上へと重なる。
上から順に抜いた。三月の通知表。二月の進路の紙。十二月の予定表。
十一月の紙は残っていなかった。夏の間のものは、去年のうちに一度まとめて捨てている。
抜いた紙は、抜いた順に机の上へ重ねた。重ねると、机の面の三分の一ほどが埋まる。
一番下に、去年の四月の名簿。一年三組。三十四人。
紙の下の角が折れていた。折り目は一度伸ばしてある。伸ばしたところが白く筋になっていた。
折ったのは自分だと灯には分かる。伸ばしたのがいつかは思い出せなかった。
二年になって三十三なので、一人減っている。
三十四の名前を、灯は上から目で追った。半分ほどが今年の名簿にも在る。残りは別の組へ行っている。
千夏の名前は去年も十番目にあった。今年と同じ場所になる。
灯は去年の紙のその行へ指を置いた。置いてから、今年の紙の同じところへ指を移した。
二枚の間で、指はほとんど動かなかった。
去年の名簿を机の上へ置いた。
左の端に穴が三つ空いていた。上と下と、その間に一つ。
真ん中の一つは、上と下のちょうど中間には無かった。上寄りに、指の半分ぶんのずれ。
ずれているのに、上下の二つと同じ大きさで開いていた。同じ道具で開けたもの。
千夏の言ったとおりだった。一年生のは三つ。
灯は今年の名簿を教科書の間から出して、去年のに重ねた。
上の端をそろえて重ねると、一番上の穴だけが合った。
二枚を持ち上げて、窓のほうへ向けた。曇った空の光が、合った穴を通って手のひらに落ちた。ほかの穴は下の紙で塞がって、光は来なかった。
落ちた光は丸くない。紙を傾けたぶん、手のひらの上で細長く伸びていた。
真っすぐに戻せば丸い。戻すと今度は、手のひらのどこに落ちているのかが分かりにくい。
灯は紙を下ろした。
下の階の水の音が止まって、代わりに戸の開く音がした。それから何も聞こえなくなる。
少しして、油の匂いが階段のほうから上がってきた。今日は魚ではないと灯には分かった。
匂いは階段の途中までで止まって、部屋の中までは来ない。戸を開ければ来る。灯は開けなかった。
給食も魚だった。同じ日に二度は出ない献立になっている。
引き出しの奥に、二穴の紙挟みが入っていた。去年の夏に使って、それきり。
出してみると、金具は二本。間は指の四本ぶんあった。
今年の名簿の外側の二つは、間が同じ四本ぶん。灯は外側の穴を金具へ通した。
名簿は二本の金具に通って、平らに落ちた。落ちる時に一度たわんで、それから伸びる。
伸びた紙の下で、金具の根元の板が見えた。板には前に挟んだ紙の跡が残っている。四角い跡で、今年の名簿より一回り小さい。
去年の名簿を、今年のに重ねて通そうとした。上の穴は入る。下の穴は入らない。
去年の上下の間は指の五本ぶんで、金具のほうが一本ぶん狭かった。
金具の先が紙の縁に当たって、そこから先へは行かない。灯は紙を強く押さなかった。押せば破れる穴。
去年の名簿を金具から抜いて、机の上へ置いた。
置いた紙の上から、指で三つの穴の位置をなぞった。上、真ん中、下。
なぞる指の腹に、紙の面の乾いた感じが伝わってきた。去年の紙は今年のより乾いている。
舌の先で、口の中の右側をなぞってみた。なぞったところは平らで、切れているような手触りは無い。
筆箱から鉛筆を出して、真ん中の穴へ先を入れてみた。芯の先が穴を通って、机の木に当たった。
当たったところで鉛筆は止まる。回すと、穴の縁が削れて、白い粉が少し出た。
粉は細かく、冬の朝に窓の下の桟へたまる霜に似ていた。
灯は途中で回すのをやめる。鉛筆を抜いて、粉を指で払い、机の端へ落とした。
落ちた粉は、机の縁のところで一度止まって、それから下へ消えた。床に落ちた音は聞こえない。
鉛筆を筆箱へ戻す時、ほかの二本の上へ乗せる形になった。
筆箱の中の鉛筆は三本で、長さが三つとも違う。一番短いのは去年の秋から入っている。
削る度に短くなるので、長さは使った量になる。三本のうち二本は同じ日に買ったものだった。
短いのは持ちにくいので使わない。使わないのに捨てないのは、削れば使えるからになる。
灯はその一本を出して、削らずに戻した。
窓の外はまだ曇っていた。四月の雲は昼に上がることが多い。今日は上がらないまま夕方になった。
物干しの竿は昼のうちに取り込まれていて、金具だけが残っていた。金具は二つとも上向き。
風は無い。竿の無い金具は動かなかった。動かないものを、灯はしばらく見ていた。
下の階から名前を呼ばれた。灯は返事をして、立たなかった。もう一度呼ばれるまでは立たない。
返事の声は自分の部屋の中で少し響いた。響いたぶんだけ、下へは小さく届く。
二度目は来なかった。呼んだほうも、すぐには来ないと分かっている。
窓を閉めてから、灯は机の引き出しの青い表紙のノートを出した。
一番後ろの紙に、六日前に書いた数があった。百三と書いてある。その下に横線が一本。
線は定規を当てずに引いたので、右の端が少し下がっていた。引いた時は真っすぐのつもりでいた。
その紙を開いて見た。数は百三のまま。線も一本。
灯は何も書かなかった。書かずにノートを閉じて、引き出しへ戻した。
閉じる時に、一番後ろの紙の右の下の角が少し折れる。折れた角を伸ばしてから閉じ直した。
抜いた紙を、灯は引き出しへ戻す。戻す順は抜いた順の逆。十二月の予定表が一番下になった。
去年の四月の名簿だけを戻さずに残す。
残ったのは、紙挟みと、去年の名簿と、白い粉の跡。
去年の名簿は、明日また引き出しへ戻ることになる。今日だけ机の上に出ている紙になった。
紙挟みへ入れるには、内側の紐が邪魔になる。通ったままでは板の間で厚みが出る。
灯は今年の名簿の内側の二つに通っている白い紐へ、指を掛けた。
結び目は二つ。上の一つを解くと、下の一つは独りでに緩んだ。
紐は穴の中を通ってくる時に一度引っかかって、そこを過ぎると急に軽くなった。
抜いた紐を、灯は机の上へ置いた。
紐が抜けたぶん、名簿の内側の二つは外側の二つと同じになった。四つとも、何も通っていない穴。
紙挟みを閉じると、今年の名簿は二枚の板の間へ入って、外から見えなくなる。
紙挟みの表は硬い紙で、表面に細かい布の目。指の腹でこすると、縦と横で手触りが違う。
去年の夏にこれを使ったのは、自由研究の紙をまとめるためだった。まとめた紙は九月に出して、返ってこない。
返ってこないものを、灯は一度だけ聞いた。聞いたら、そういうものだと言われた。
縦にこすると引っかかり、横にこすると滑る。灯は縦に三度、横に三度こすった。
電気を点けた。机の上が明るくなって、去年の名簿の穴のところに影ができる。
影は穴の形をしていない。天井の電気が真上に無いので、影は穴より少し横へ寄っていた。
寄った先は机の木で、木の目のところで影の縁が一度細くなった。
机の上の紐は、通っていた時の形のまま曲がっていた。
灯は指で伸ばした。離すと、同じところでまた曲がった。
二度伸ばして、二度とも同じところで曲がる。三度目はやらずに、そのまま机の端へ寄せた。




