↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
レポ 落とし物の街  作者: 智珠
第三巻 いてもいい場所

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
50/50

第050話 綴じ穴

 教室の戸は開いていた。灯は自分の席へ行って、鞄(かばん)を机の横の鉤(かぎ)へ掛けた。


 窓側の列の後ろから二番目。後ろの壁までは机が一つぶん空いていた。掛けた鞄の紐は、金具の上で二度ねじれた。


 並びは去年と同じで、後ろの三つだけが埋まっていなかった。


 机の上は空。前の日の帰りに拭いてあって、指を滑らせても何も付かなかった。


 窓の外は曇っていた。灯は椅子を引いて座り、鞄の中の教科書の位置を直した。


 教科書は五冊で、背の高さが二種類ある。低いほうを手前にすると、鞄の口が閉まりやすかった。


 二年になってから増えたのは一冊で、その一冊だけ表紙の紙が違う。触ると滑っていた。


 教室の後ろの棚には、去年の学級日誌が二冊。背の紙が日に焼けて、上のほうだけ色が薄くなっていた。


 一冊目の背には一年三組の字。二冊目は途中で終わっていて、背に何も書かれていなかった。


 灯は席から棚のほうを見た。二冊の間に、指が一本入るくらいの隙間。


 多田が前の戸から入ってきた。手に厚い紙の束を持っていた。


 「名簿を配ります」


 束は一列目の一番前から後ろへ動いた。前から後ろ、次の列はまた前から後ろ。


 灯の列は最後で、来た時には残りが七枚になっていた。


 一枚取って、後ろへ回した。


 手に残った紙は新しかった。指の腹に残る粘り。印刷の匂いがした。


 匂いが強かったのは紙の面ではなく端のほうで、灯は端を鼻の近くまで持ち上げ、それからすぐ下ろした。


 冬の間、教室の紙はこの匂いをしていない。二月に配られた進路の紙も、三月の通知表も、匂いは無かった。


 「一枚ずつ取ってください」


 二列目の後ろで二枚取った者がいた。多田はそちらを見て、同じことをもう一度言う。


 最後の三つの席は空いているので、三枚が余った。前へ戻される三枚。


 多田はそれを二つに折って、上着の内側へ入れた。折る手つきは、朝の会で紙を配る時と同じ。


 灯は名簿を裏返して、また表へ戻した。それから光のほうへ向けてみた。


 裏の字が透けて、表の字と重なって見えた。重なったところだけ黒が濃くなっていた。


 名前が縦に三十三。番号は一から三十三まで打ってあった。灯の番号は十四。


 名前は五十音の順に並んでいた。灯の二つ上が小島で、三つ下が関だった。


 千夏の名前は上から十番目。灯より四つ上。


 名前と名前の間は、指の腹の幅より狭かった。三十三を一枚に収めるぶんの詰まり方。


 行の左の端に、番号が小さく打ってある。名前の字より一回り小さく見えた。


 去年もこの順。順を決めるのは名前で、間に誰が入っても前後は入れ替わらずにいた。


 番号のほうは動く。一年の時、灯は十三番目だった。組の顔ぶれが替わったぶん、一つ下がっている。


 灯は名簿の左の端を見た。


 穴が四つ空いていた。上と下に一つずつ。


 その内側にも二つ空いていた。上の穴の下、指の一本ぶん内側に一つ。下の穴の上にも一つ空いていた。


 合わせて四つ空いていた。


 外側の二つには紐(ひも)が通っていなかった。内側の二つに、白い紐。


 紐は綿で、より糸が緩んで先がほつれていた。ほつれた先は裏側で結んであった。結び目は二つ重なっていた。


 一つ目の結び目は固く、二つ目はその上へ乗せただけの緩い形。二つ目を結んだ手は、一つ目より急いでいた。


 紐を指で押すと、紐は動かず、紙のほうが持ち上がった。


 「学級日誌に綴(と)じます。棚です」


 多田の声は教室の後ろまで届く大きさをしていた。それより大きくならなかった。


 多田は黒板の左の端へ回って、日誌の表紙を持ち上げて見せた。表紙は厚い紙で、色は薄い緑。


 持ち上げた時、表紙の下から中の紙が少し覗(のぞ)いた。中の紙は白く、線だけが薄く入っている。


 表紙の左の端にも穴が四つ空いている。外側の二つは空で、内側の二つに紐が通っていた。


 「去年のは抜きました」


 多田はそれだけ言って、日誌を後ろの棚へ置いた。去年の二冊の横へ、新しいのが三冊目として立った。


 立てても埋まらない、二冊の間の隙間。三冊目はその外側へ入っていた。


 なぜ内側へ空け直したのかは言わなかった。誰も聞かずにいた。


 灯は自分の名簿の外側の穴へ、指の先を入れてみた。指は途中で止まった。穴は指より小さい。


 入ったのは爪の先までで、そこから先は紙の縁が指の腹に当たった。


 「それ、四つあるでしょ」


 横の通路にみずきが立っていた。灯は顔を上げた。


 「四つある。二つは通ってない」


 「去年もそうだった。二つは使ってない」


 みずきの声は上がらない。ほかの席へ向けて話す時は上がっていた。


 「去年の名簿はどこにあるの」


 「捨てたよ。四月に捨てる」


 「捨てるって決まってるの」


 「決まってない。母さんが四月に捨てるだけ」


 「去年のも捨てたの」


 「捨てた。一昨年のも捨ててる」


 自分の席へ戻るみずきの背を、灯は見ていた。


 名簿は机の上へ戻す。戻した紙の下で、机の木の目が横に走っていた。


 灯は目の細かい側へ名簿の端をそろえた。


 灯は指を三本折って、四本目のところで穴の数と合わなくなるのを見た。


 窓の掛け金は四つ付いていて、下りているのは上から二番目だけ。


 ほかの三つは上がったままで、風が入る度に枠が細く鳴った。


 鳴るのは掛け金の上がっているところで、下りているところは鳴らずにいた。灯は下りている一つを指で押した。押しても動かなかった。


 黒板の右の端には席替えの表がある。四月の初めに貼ったもので、月の頭までは替わらない。


 表は机の並びをそのまま四角で写してあった。四角の中に名前が入っていて、最後の列の三つだけが白いまま。


 白い三つは去年の紙のまま。誰も名前を入れていなかった。


 表の紙は名簿より薄い。角の画鋲(がびょう)のところが少し破れて、下へ垂れていた。


 窓の外は曇っていた。四月の雲は、朝のうちだけ低いところに来て、昼にはたいてい上がるもの。


 今日の雲は動かなかった。屋根の上の物干しの竿(さお)と同じ高さで止まって、そこから下りも上がりもしなかった。


 千夏は廊下側の列の一番前にいた。灯の席からは机が四つと通路が一つ挟まっていた。


 名簿を見ていない千夏。机の上に伏せたまま、前の黒板のほうを向いていた。


 伏せた紙の端が、机の縁から指の一本ぶん出ていた。出たところが窓からの風で一度だけ持ち上がって、また落ちた。


 それを押さえない千夏。押さえないまま、二度目も落ちた。


 多田が出席を取り始めた。名簿の順ではなく、机の並びの順で読んだ。窓側の列から始まって、廊下側へ移り、また窓側へ戻る順で読んでいた。


 名前は一人ずつ、番号のあとに名だけを読む。多田は一度も読み間違えなかった。


 「灯」


 多田が名字で呼ばないのは灯だけ。小学校の時からそうで、理由は聞いたことがなかった。


 「はい」


 多田は名前を読んでから、返事を聞いて、次へ移る。読むのと聞くのの間は毎回同じだけ空いた。


 その空きの間に、灯は自分の名簿の番号を目で追った。十一の次は十二で、十二の次は十三。番号は一つずつ増えていた。


 出席は三十三で止まった。欠席は無かった。


 多田は出席簿を閉じて、後ろの棚のほうを見た。


 「日誌は今日から新しいのです。当番は名簿の順です」


 名簿の順なら、灯は十四番目。一日に一人なら、次に当たるのは三週間ほど先になった。


 五週間先の日付を、灯は指で数えかけた。数えかけて、机の上の名簿へ目を戻した。


 やめてから、名簿の左の端をもう一度。


 外側の穴は、光に当てると向こう側が見えた。紙の下は机の木の色で、穴のところだけ色が濃く見えた。


 穴の縁は丸く、毛羽が立っていた。指でなぞると引っかかりが来た。内側の二つの縁は毛羽が寝ていて、引っかからなかった。


 通してある紐が、縁を押さえて寝かせる形。押さえるものの無い側だけが起きていた。


 朝の会が終わって、多田は前の戸から出ていった。


 教室の音が一度大きくなり、それから机の動く音に変わった。


 後ろの棚の前に三人。日誌の表紙を代わる代わる開けては閉じていた。また開ける手。


 中の紙は白いままでいた。誰もまだ書いていない紙。三人は開け終わると、そのまま棚から離れた。


 名簿は教科書の間へ挟んだ。挟むと、外側の二つの穴は教科書の紙で塞がって、見えなくなった。


 挟んだ紙の場所は、表紙から数えて三十枚ほど内側になる。


 一時間目に開いたのはその十枚ほど先で、名簿のところまでは指が届かなかった。


 一時間目は国語。教科書を開くと、挟んだ名簿が前の紙のほうへずれた。


 灯は名簿を奥まで押し込んだ。押し込んだぶん、教科書の背が少し膨らんだ。


 膨らんだところを手で押さえて閉じると、閉じ切らずに指の一本ぶん開いたままになった。


 *


 昼の給食は、パンと汁と魚だった。魚は骨を抜いてあるほうで、皿の上で二つに割れていた。


 配膳の当番は今週が四班で、灯の班は来週になる。当番の日は白い上着を着ることになっていた。上着は教室の後ろの籠に畳んで入れてある。


 汁は温かい。器の縁を持つと、指の腹に熱が来た。持ち替えると、来る場所も移っていった。


 牛乳の紙の口は、右の端から開ける形。灯は左から開けて、開いた口を指で押し戻した。


 灯はパンの端から食べた。端は焼いた側で、内側より硬い。


 千夏は皿を持ったまま、灯の机の横へ来て立った。中学の給食は前を向いたまま食べるので、机は寄せない。


 立ったままの千夏の皿は、灯の机の縁より高いところにあった。上から見ると、魚の割れ方がよく見える。


 「あかり、それ先に食べるんだ」


 「硬いところから食べてる」


 「あたしは中から食べる。中のほうが早く無くなるから」


 「早く無くなるほうがいいことあるの」


 「いいよ。硬いところは最後でも硬いままだし」


 笑い声が台詞の後ろに付いて、言葉と一続きになった。


 みずきは別の机の側で食べている。こちらを一度見て、それからまた向こうを向いた。


 みずきの机には四人。そのうち二人は去年別の組だった。話し声は途中で何度も上がった。


 上がる度に、笑いが一拍遅れて付いてきた。付いてくるのは同じ二人。残りの二人は笑わなかった。


 教室の前のほうで、誰かが皿を落とした。割れる音はしていない。落ちたのはプラスチックの器で、床で二度跳ねて止まっていた。


 拾ったのは落とした本人だった。その子は器を持ったまま少し立っていて、それから配膳の台のほうへ歩いていく。


 「引っ越しの日って、もう決まったの」


 パンを持ったままの手が、少しの間だけ動きを止めていた。


 「まだなんだよね。うちは荷物のほうが先に動くから、そこが決まらないと」


 「引っ越しの日って、荷物で決まるの」


 「荷物のほうが先に行くんだって」


 灯の手にはパンが残っていた。皿の上の魚は半分。


 「先に行くって、いつ」


 「お父さんが六月に行くの。部屋を決めて、荷物を入れて、それからあたしたち」


 汁の器が持ち上がって、一口ぶん下がって、机の縁へ戻る。千夏の指は器の縁から離れなかった。


 パンの中のところがちぎれて、口へ入った。端はまだ皿の上。


 「箱って、だいたい何個くらいなの」


 「知らない。前は十二個だったって。あたしはその時、生まれてない」


 「十二個って、どのくらい」


 「分かんない。大きさによるでしょ。お母さんは大きいのだったって」


 「じゃあ千夏は数えてないんだ」


 「数えてないよ。十二って、覚えやすいから覚えてたんだと思う」


 魚の骨のあったところを、灯は箸で押した。骨は抜いてあるので、押したところは沈むだけになった。


 九十六。今朝の数はそれになっていた。前に書いたのは百三で、七つぶんの減りになる。


 その数を灯は口に出さなかった。ノートも出さない。


 口の中の右側が、舌を当てると熱を持った。


 パンの耳で切ったのだと灯は決めた。


 決めてから、汁を一口飲んだ。汁は温かかった。


 「あかり、今日ずっと名簿見てるでしょ」


 「そんなに見てない」


 「見てたよ。朝から三回」


 数えていたことになる。灯があとで思い出すのは、そちらのほうだった。


 「あかりは、名簿どこから見た」


 「上から順に見た」


 「あたし十番目でしょ。去年も十番目だった」


 鞄から出てきたのは千夏の名簿になる。左の端にも穴が四つ空いていた。


 「これ、四つあるの気づいた」


 「気づいた。四つとも見た」


 「あたしは去年気づいた。去年は三つだったの。一年生のは三つで、二年生のは四つ」


 外側の二つは空で、内側の二つに紐が通っていた。灯のと同じだった。


 「三つのときは何がどうなったの」


 「真ん中の一つが余った。余ったところに鉛筆を刺して遊んでた」


 「刺したら破れなかったの」


 「破れなかった。鉛筆のほうが穴より細かったから」


 「先生に見つかった?」


 「見つかったよ。でも何も言われない。もう一枚あるからって」


 また笑う千夏。笑ってから、皿の魚を全部口へ入れた。


 口へ入れてから、少しの間、黙っていた。飲み込んでも、すぐには言わなかった。


 「あかりのは、まだ四つのままだよね」


 「まだ四つのまま」


 「じゃあ来年は五つになるのかな」


 「増えるかどうか分かんない」


 「増えるよ。去年三つで今年四つでしょ」


 名簿は鞄の中へ戻された。戻す時、角が中の何かに当たって、少し折れる。


 給食が終わって、机を元へ戻す。戻す時、千夏の椅子の脚が灯の机の脚に当たって、一度止まった。


 当たった脚のゴムは、片方だけ潰れている。潰れた側が下になるように、千夏は椅子を回してから持ち上げた。


 千夏は皿を持ち上げ、自分の席へ戻っていった。


 昼のあと、掃除の時間に灯は廊下の担当になった。担当は月の頭に決まって、四月は廊下のままになっていた。


 箒(ほうき)を持って端から掃くと、ごみは同じところで一度たまる。たまるのは戸のすぐ外で、床の継ぎ目が一本走っていた。


 同じ担当の子が二人いて、二人は途中から掃かずに話していた。話の中身は昨日のテレビのこと。


 灯は聞きながら掃いた。分からない話で、分からないまま最後まで続く。


 箒を戻す時は、柄の先の穴に紐を通して掛ける。掛ける穴は一つで、紐も一本。


 午後の授業は二つ。灯は二つとも窓の外を三度見た。雲は朝と同じ高さで止まっていた。


 六時間目の途中で、廊下を誰かが走った。走る音は教室の前から後ろへ動いて、階段のところで消えた。


 多田はこの時間、教室にいない。廊下を見に行く者もいなかった。


 帰りの会は短かった。連絡は二つで、明日の持ち物と、日誌の当番の順。灯は二つとも覚えて教室を出た。


 放課後、昇降口へ下りた。


 昇降口の左の端は、雨の日には二十四の穴が全部ふさがっていた。今日は四つしかふさがっていなかった。


 入っていたのは、手前に二つと奥に二つ。どこへ入れるかを決めた者はいなかった。


 金の縁は朝に白く光り、夕方は鈍る。今日は朝から曇っていたので、どちらの時も同じになる。


 灯の傘はここに無い。朝の空が曇っていても、雲が低いだけの日は持たない。


 入っている四つを、端から見ていった。二つは柄が細く、二つは太かった。細いほうが手前で、太いほうが奥になっていた。


 小学校の傘立ては、奥の列の左から四番目が灯の場所。六年二組の全員がそれぞれの場所を知っていた。


 灯は思い出した奥の列の左から四番目へ、目を当ててから靴箱のほうへ歩いた。


 みずきが後ろから来て、横へ並んだ。


 「傘、持ってきてないんだ」


 「今日は降らないと思ったから」


 「降るって。見なかったの?」


 「見てない」


 「夜の八時からだって。貸そうか?」


 「いい。走れば平気」


 みずきはそれ以上言わずに、自分の靴箱のほうへ行っていた。行く途中で、二年三組の傘立てを一度見た。


 「今日は四つだけ」


 「四つだけ」


 「去年は右だったよね? なんで」


 「知らない」


 「みんな見てないんだね」


 最後の一つだけ、みずきの語尾は上がらなかった。灯はそれに答えなかった。


 答えないまま、傘立ての四つをもう一度見る。一本だけ、柄の先の留め具が外れていた。


 外れた留め具は柄の途中で止まっていた。落ちもせず、掛かりもしない。


 靴箱の前で、灯は自分の名の入った札の高さへ手を上げた。上から二段目の、右から四つ目。


 札は活字を印刷した紙を差し込む形になっている。差した紙はまだ傾いていなかった。


 靴の中に、朝入った砂。逆さにして振ると、三粒だけ出た。


 灯は靴を履いた。履いてから、名札をもう一度見た。


 名札の紙は、去年のより少し厚くなっていた。指で押すと、下の板まで沈まずに止まった。


 去年のは押すと沈んだ。沈んだところが戻るまでに、指を離してから一つ数えるくらいかかっていた。


 名札の紙の右の下の角だけが、差し込みの縁から少し出ていた。


 灯は出ている角を指で押し込んだ。押し込むと平らになって、押した指を離すとまた少し出た。


 二度目も同じだけ出た。三度目はやらなかった。


 昇降口の床の境目には、黒い線が一本。靴の裏で削れて、真ん中だけ細くなっていた。


 灯はその線を踏まずにまたいだ。またぐ時、上履きを入れた袋が膝に触れた。


 *


 家までの道は、四月に入ってから七度目になった。曲がる角は三つで、途中に踏切が一つ。


 踏切は下りていなかった。灯は止まらずに渡って、渡ってから遮断機の錘(おもり)のところを見た。錘には雨に濡(ぬ)れた跡が黒く残っている。


 跡は上のほうだけで、下は乾いていた。雨は昨日の夜に降って、朝には上がっている。


 みずきは夜の八時と言った。降るのは今日の夜で、昨日の雨とは別になる。


 家に着いて、灯は上がってすぐ自分の部屋へ入った。鞄を机の横へ置いて、上着を椅子の背へ掛けた。


 下の階で水の音がしていた。台所の蛇口を細く出す音で、皿を洗う時の音とは長さが違う。


 テレビは点いていない。四月に入ってから、夕方のこの時間は点かなくなった。


 点かなくなった理由を、灯は聞いていない。聞かないうちに、点かないほうが普通になった。


 部屋の窓は昼のうちに開けたままになっていた。空気は外と同じ温さで、動いていない。


 灯は靴下を脱いで、裏返して丸めた。丸めたのを籠へ入れる時、片方が縁に当たって落ちた。落ちたほうを拾って入れ直す。


 机の上には昨日出したままの下敷きが乗っていた。角の一つが少し反っている。反った側を下にして置き直した。


 それから、灯は机の引き出しを開けた。


 一番下の引き出しには、去年の紙が入れてあった。四月に配られたものから順に、上へ上へと重なる。


 上から順に抜いた。三月の通知表。二月の進路の紙。十二月の予定表。


 十一月の紙は残っていなかった。夏の間のものは、去年のうちに一度まとめて捨てている。


 抜いた紙は、抜いた順に机の上へ重ねた。重ねると、机の面の三分の一ほどが埋まる。


 一番下に、去年の四月の名簿。一年三組。三十四人。


 紙の下の角が折れていた。折り目は一度伸ばしてある。伸ばしたところが白く筋になっていた。


 折ったのは自分だと灯には分かる。伸ばしたのがいつかは思い出せなかった。


 二年になって三十三なので、一人減っている。


 三十四の名前を、灯は上から目で追った。半分ほどが今年の名簿にも在る。残りは別の組へ行っている。


 千夏の名前は去年も十番目にあった。今年と同じ場所になる。


 灯は去年の紙のその行へ指を置いた。置いてから、今年の紙の同じところへ指を移した。


 二枚の間で、指はほとんど動かなかった。


 去年の名簿を机の上へ置いた。


 左の端に穴が三つ空いていた。上と下と、その間に一つ。


 真ん中の一つは、上と下のちょうど中間には無かった。上寄りに、指の半分ぶんのずれ。


 ずれているのに、上下の二つと同じ大きさで開いていた。同じ道具で開けたもの。


 千夏の言ったとおりだった。一年生のは三つ。


 灯は今年の名簿を教科書の間から出して、去年のに重ねた。


 上の端をそろえて重ねると、一番上の穴だけが合った。


 二枚を持ち上げて、窓のほうへ向けた。曇った空の光が、合った穴を通って手のひらに落ちた。ほかの穴は下の紙で塞がって、光は来なかった。


 落ちた光は丸くない。紙を傾けたぶん、手のひらの上で細長く伸びていた。


 真っすぐに戻せば丸い。戻すと今度は、手のひらのどこに落ちているのかが分かりにくい。


 灯は紙を下ろした。


 下の階の水の音が止まって、代わりに戸の開く音がした。それから何も聞こえなくなる。


 少しして、油の匂いが階段のほうから上がってきた。今日は魚ではないと灯には分かった。


 匂いは階段の途中までで止まって、部屋の中までは来ない。戸を開ければ来る。灯は開けなかった。


 給食も魚だった。同じ日に二度は出ない献立になっている。


 引き出しの奥に、二穴の紙挟みが入っていた。去年の夏に使って、それきり。


 出してみると、金具は二本。間は指の四本ぶんあった。


 今年の名簿の外側の二つは、間が同じ四本ぶん。灯は外側の穴を金具へ通した。


 名簿は二本の金具に通って、平らに落ちた。落ちる時に一度たわんで、それから伸びる。


 伸びた紙の下で、金具の根元の板が見えた。板には前に挟んだ紙の跡が残っている。四角い跡で、今年の名簿より一回り小さい。


 去年の名簿を、今年のに重ねて通そうとした。上の穴は入る。下の穴は入らない。


 去年の上下の間は指の五本ぶんで、金具のほうが一本ぶん狭かった。


 金具の先が紙の縁に当たって、そこから先へは行かない。灯は紙を強く押さなかった。押せば破れる穴。


 去年の名簿を金具から抜いて、机の上へ置いた。


 置いた紙の上から、指で三つの穴の位置をなぞった。上、真ん中、下。


 なぞる指の腹に、紙の面の乾いた感じが伝わってきた。去年の紙は今年のより乾いている。


 舌の先で、口の中の右側をなぞってみた。なぞったところは平らで、切れているような手触りは無い。


 筆箱から鉛筆を出して、真ん中の穴へ先を入れてみた。芯の先が穴を通って、机の木に当たった。


 当たったところで鉛筆は止まる。回すと、穴の縁が削れて、白い粉が少し出た。


 粉は細かく、冬の朝に窓の下の桟へたまる霜に似ていた。


 灯は途中で回すのをやめる。鉛筆を抜いて、粉を指で払い、机の端へ落とした。


 落ちた粉は、机の縁のところで一度止まって、それから下へ消えた。床に落ちた音は聞こえない。


 鉛筆を筆箱へ戻す時、ほかの二本の上へ乗せる形になった。


 筆箱の中の鉛筆は三本で、長さが三つとも違う。一番短いのは去年の秋から入っている。


 削る度に短くなるので、長さは使った量になる。三本のうち二本は同じ日に買ったものだった。


 短いのは持ちにくいので使わない。使わないのに捨てないのは、削れば使えるからになる。


 灯はその一本を出して、削らずに戻した。


 窓の外はまだ曇っていた。四月の雲は昼に上がることが多い。今日は上がらないまま夕方になった。


 物干しの竿は昼のうちに取り込まれていて、金具だけが残っていた。金具は二つとも上向き。


 風は無い。竿の無い金具は動かなかった。動かないものを、灯はしばらく見ていた。


 下の階から名前を呼ばれた。灯は返事をして、立たなかった。もう一度呼ばれるまでは立たない。


 返事の声は自分の部屋の中で少し響いた。響いたぶんだけ、下へは小さく届く。


 二度目は来なかった。呼んだほうも、すぐには来ないと分かっている。


 窓を閉めてから、灯は机の引き出しの青い表紙のノートを出した。


 一番後ろの紙に、六日前に書いた数があった。百三と書いてある。その下に横線が一本。


 線は定規を当てずに引いたので、右の端が少し下がっていた。引いた時は真っすぐのつもりでいた。


 その紙を開いて見た。数は百三のまま。線も一本。


 灯は何も書かなかった。書かずにノートを閉じて、引き出しへ戻した。


 閉じる時に、一番後ろの紙の右の下の角が少し折れる。折れた角を伸ばしてから閉じ直した。


 抜いた紙を、灯は引き出しへ戻す。戻す順は抜いた順の逆。十二月の予定表が一番下になった。


 去年の四月の名簿だけを戻さずに残す。


 残ったのは、紙挟みと、去年の名簿と、白い粉の跡。


 去年の名簿は、明日また引き出しへ戻ることになる。今日だけ机の上に出ている紙になった。


 紙挟みへ入れるには、内側の紐が邪魔になる。通ったままでは板の間で厚みが出る。


 灯は今年の名簿の内側の二つに通っている白い紐へ、指を掛けた。


 結び目は二つ。上の一つを解くと、下の一つは独りでに緩んだ。


 紐は穴の中を通ってくる時に一度引っかかって、そこを過ぎると急に軽くなった。


 抜いた紐を、灯は机の上へ置いた。


 紐が抜けたぶん、名簿の内側の二つは外側の二つと同じになった。四つとも、何も通っていない穴。


 紙挟みを閉じると、今年の名簿は二枚の板の間へ入って、外から見えなくなる。


 紙挟みの表は硬い紙で、表面に細かい布の目。指の腹でこすると、縦と横で手触りが違う。


 去年の夏にこれを使ったのは、自由研究の紙をまとめるためだった。まとめた紙は九月に出して、返ってこない。


 返ってこないものを、灯は一度だけ聞いた。聞いたら、そういうものだと言われた。


 縦にこすると引っかかり、横にこすると滑る。灯は縦に三度、横に三度こすった。


 電気を点けた。机の上が明るくなって、去年の名簿の穴のところに影ができる。


 影は穴の形をしていない。天井の電気が真上に無いので、影は穴より少し横へ寄っていた。


 寄った先は机の木で、木の目のところで影の縁が一度細くなった。


 机の上の紐は、通っていた時の形のまま曲がっていた。


 灯は指で伸ばした。離すと、同じところでまた曲がった。


 二度伸ばして、二度とも同じところで曲がる。三度目はやらずに、そのまま机の端へ寄せた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。