第048話 百三日
傘立ての傘は三本。
母のと灯のと、一番奥に父のと。祖母のは無い。四月に入ってから、祖母は一度も持って出ていない。
灯は自分のを抜いた。抜くと二本になった。柄の内側の名前を親指でこすった。字は消えない。祖母の字で、角が丸い。
外は寒くない。手袋は三月の終わりにしまってある。手の甲に当たる空気だけが冷たかった。
玄関の戸を閉める時、内側で母の声がした。戸の厚みで言葉のかたちまでは届かない。返事をするには開け直さなければならなかった。灯は開け直さずに戸から手を離した。
塀の根もとに細い草が並んでいた。踏むと沈み、離すと戻る。三本に一本は寝たまま残った。
駅までは八百歩。数えなくても体のほうが覚えている。
魚屋の前を過ぎると川の匂いがした。橋の上で風が変わる。四月の風は川下から来て、渡る三十歩ぶんだけ横から当たった。
駅の前で流れが割れる。改札のほうへ曲がる人の背中を、灯は右に見ながら通った。
改札の上の時計は八時六分をさしていた。この時計は一分進めてあった。灯はその一分を毎朝そのまま受け取ってきた。灯は毎朝ここで一度だけ顔を上げて、上げても足は止めない。
地下の階段の入口は、上の三段までしか外の光が届かない。四段目から下は色が変わっていた。今日は下りない。あちらへ行った次の日は行かないと決めていて、決めたのは灯の側だった。
駅を過ぎると、六百歩ぶんの道が始まる。花屋の前と、塾の看板の下を通った。花屋は歩道へ桶を三つ出していた。三月までは二つ。増えた一つは右の端に置いてある。
中学の門はその先に在った。
二年三組の傘立ては、昇降口の左の端へ移っていた。一年の時は右の端。二列に十二本ずつ。
二年三組は三十三人。二十四より九人多い。早く来た者から順に入れて、入らないぶんは壁へ立てかけた。
灯は手前の列の左から五本目に入れた。差し込みながら隣の柄の色を見ておいた。左は黒で、右は薄い緑だった。
覚えるのは朝の一度で足りた。
傘立ての端に、番号を書いた紙を貼った跡が四つ残っていた。剥がした跡の内側だけ金の色が濃い。一年の時と同じ数で、同じ間だった。
数は四つ、間も四つぶん。
灯は自分の傘の柄を一度だけ押し込み直した。押すと下の受けの水皿に当たる音がした。水皿の底は乾いていた。
靴箱の名札は入れ替わったばかりで、紙はまっすぐに入っている。灯の名は上から二段目の右から四つ目。
教室は同じ階の反対の端に移っていた。廊下の長さは五十二歩。一年の時に一度だけ数えて、その数を覚えていた。
廊下の壁に、去年の学級写真が一枚残っていた。下の名前の欄は右の端が二人ぶん切れていて、切れた先の壁が白い。
二年三組の戸は開いていた。机は縦に六列、横に六つずつ。三十三人なので、最後の列だけ三つ空いていた。
黒板の右の端に、四角い紙が貼ってあった。席替えの表になる。中学は月の頭に一度替える。四月だけは始業式の次の日にやるので、この紙は昨日の放課後に貼られたものだった。
灯は自分の名を探した。窓側の列の、後ろから二番目。
その場所を、灯は指で押さえてから顔を上げた。実際の席の位置を目でたどった。窓から二つ目の列で、後ろの壁までは机が一つぶん空いていた。
窓側には日が当たった。四月の朝は左の腕にだけ当たって、昼を過ぎると机の右の縁まで届く。去年の窓側の子が、六月の初めに席を替えてほしいと言ったのを灯は覚えていた。
窓の下の桟に、消しゴムのかすを寄せた跡が残っていた。かすはもう無い。寄せた形だけが白かった。
灯は自分の席へ行って、鞄を机の横のフックへ掛けた。掛けてから、机の上を手のひらでこすった。木の目は横に走っていた。指を当てると、真ん中あたりに浅い彫りが一つあった。
彫りは字ではない。三本の線が斜めに並んでいるだけで、深さはどれも同じ。彫った者は最後まで彫らずにやめている。
灯はその三本を指の腹で二度なぞった。二度とも同じところで爪が止まった。
「その机、去年もそこにあった」
みずきの声が後ろから来た。灯は振り向いた。
「二年になって動かしてないの」
「動かしてない。机は動かさないで、人だけ替える」
みずきは自分の席へ歩いていった。窓から三つ目の列の、前から四番目。灯の斜め前を二つ通り過ぎたところだった。
灯はもう一度、席替えの紙を見た。千夏の名は廊下側の列の一番前に在った。窓側から数えると六つ目の列で、灯の席からは机が四つと通路が一つ挟まっていた。
一年の時は斜め前へ二人ぶん。
灯は数えるのをやめて、机の上の三本の彫りへ指を戻した。
朝の会の前に、多田が戸から中を見た。数えているのだと灯には分かる。多田はいつも入る前に一度だけ人数を数えた。
「三十三人。全員います」
多田はそう言ってから中へ入った。名簿を教卓へ置いて、上から順に名を読んだ。灯の名は十四番目に来た。一年の時は十三番目だった。
名簿の紙は綴じてあった。左の端に穴が二つ空いていて、そこへ金の輪が通っていた。多田はめくる時に必ず紙の右下をつまむ。
読み終わってから、多田は名簿を閉じずに教卓の上へ伏せた。
「今日から二年です」
「去年の名簿は職員室です」
それだけ言って、多田は次の紙を出した。
一時間目の前に、灯はシャーペンを出した。芯を三度送り、机の彫りの上へ紙を置いて字を書いてみた。三本の線のところで、鉛筆の先が一度だけ引っかかった。
紙をずらすと引っかからない。灯は紙を彫りの外へずらしたままで、その時間を過ごした。
二時間目と三時間目の間に、みずきが窓を開けた。幅は手のひら二つぶんで、それ以上は開けない。去年もそうだった。
「風、入る?」
「入る。前の席より入る」
「あたしのところは入らない」
みずきは自分の腕を見せた。腕の内側だけが少し赤くなっていた。日は窓から入って、みずきの列までは届いていない。
「そっちの席は日が当たるの」
「三つ目までは当たる。四つ目からは当たらない」
灯は自分の腕を見た。左の腕の外側に、窓の枠の影が一本乗っていた。影の幅は指の二本ぶんで、時間が進むと机の上へ移る。
昼になる。給食の献立表が黒板の左に貼ってあった。四月のぶんで、月曜から金曜まで縦に五つ、上から下へ日付が並んでいた。数字は一日ずつ増えて、飛んでいるところが無かった。
灯は献立表の並びを一度目でたどる。上から下へ、左から右へ。並びの形はカレンダーと同じだった。
「あかり」
千夏の声だった。灯は顔を上げた。
千夏は灯の机の横に立っていた。手にパンの袋を持っていた。袋の口はまだ開いていない。
「久しぶりに近くなったね。廊下側だけど」
千夏は笑った。笑い声が言葉の終わりに混ざった。
「席、去年より遠い」
「遠いよ。机が四つと通路ぶん離れてる」
千夏はそこで袋を持ち替えた。
「あかり、昨日いた? 朝の集まりのとき」
「いた。並んでた」
「ちゃんと聞いてた? 前のほうにいたでしょ」
灯はうなずいた。
昨日の朝、体育館で並んでいる時に、担任ではない先生が前で紙を読んだ。読んだ中に千夏の名が入っていた。七月の終業式の日に転校する、と紙は言った。
灯はその時、体育館の床の板の目を見ていた。板は横に走っていて、目の向きが自分の机と同じ。そう思ってから、名を聞いた。
「聞いてた。名前のところ」
「じゃあ、あたしから言わなくていいや」
千夏はもう一度笑った。それから、少しだけ真面目な言い方へ移る。
「言おうと思ってたんだけどね。あかりに先に言うつもりだったの。紙のほうが早かった」
「うん」
「怒ってない? あかり、そういうとき黙るから」
「怒ってない。紙のほうが早いだけ」
灯は本当に怒っていなかった。腹の底のあたりで何かが動いた感じはあるが、それは怒りの動き方ではない。
千夏はパンの袋の口を指で開けた。開けてから、開けたまま持っていた。
「七月の二十日。終業式の日に出てくの」
「知ってる。日にちも聞いた」
「知ってるの? 紙、日にちまで言ってた?」
「言ってた。七月の二十日って」
千夏は首を横へ倒して、灯の机の上を見た。机の上に在るのは紙が一枚と、シャーペンが一本。
「あかりは、そういうの数えるからさ」
千夏はそう言って、自分の席のほうへ戻っていった。歩きながら袋からパンを出して、廊下側の列の一番前で座り、前の席の子と話しはじめた。声は灯のところまで届いた。
灯は自分の手を見た。シャーペンを持っている指が、机の上で止まっていた。
書こうとして止まったのではない。書くつもりが無いのに、指のほうが先に握っていた。
芯が出てこなかった。灯は送りを二度押した。押しても出てこない。
芯が切れたのだと灯は決めた。それから筆箱の中の替え芯の管を出して、机の上へ置いた。管の中の芯は七本。
*
帰りの傘立てで、灯は自分の傘を左から五本目から抜いた。抜く時に隣の黒い柄が倒れかけて、灯は手の甲でそれを戻した。
戻すと、黒い柄は元の傾きに落ち着かずに、隣へもたれた。もたれた先の透明なビニールの傘が、その重さで少し開いた。
灯は開いたぶんを押して閉じた。手を離すと、また同じだけ開く。三度目に灯は押すのをやめた。
「まだ帰らないの」
みずきが横に立っていた。鞄は胸の前で両手に。
「帰る。この傘が倒れそう」
「倒れても、その子が入れ直すよ」
「入れ直さないと思う」
みずきは自分の傘を奥の列から抜いた。それから灯の押していた透明な傘の柄を指で一度だけ持ち上げて、下の受けの別の穴へ入れ直した。入れると開かなくなった。
「入るとこ、そこじゃなかったんだよ」
「どこを見たら分かるの」
「柄の太さ。太いのは奥の列。細いのは手前」
灯は手前の列の柄を左から順に見た。五本目まで細くて、六本目から急に太くなっていた。奥の列は端から端まで太い。
誰かが決めたのではなかった。太い柄は手前の穴に入りきらないので、入れた者が自分でやめたことになった。
「知ってた?」
「知らなかった。四月から入れてたのに」
「あたしも今知った」
みずきは笑わずにそう言って、先に昇降口を出ていく。灯は自分の傘の柄を見た。細いほうだった。
昇降口を出ると、外の光は朝より強く差していた。
門のところで、三年の男子が二人、走って追い抜いていった。二人とも鞄を持っていない。持っていない手のほうが大きく振れる。
灯は自分の鞄を左手に持ち替えた。持ち手の布は握るところだけ色が薄くなっていた。薄いところの幅は指の四本ぶんで、去年の暮れに見た時より広がっていた。
門を出て、塾の看板の下を通った。看板の下の端に、四月から新しい紙が一枚足されていた。紙は白くて、まわりの三枚より角が立っていた。
花屋の桶は朝と同じ三つ。中の水の高さが下がっていた。
左の桶だけ、花が二本抜けている。抜けたところに水が見えて、そこだけ桶の底の色が出ていた。
店の人は外に出ていなかった。桶の横に、値を書いた札が三枚立ててあった。三枚とも同じ手の字で、下の線は細い。
灯はその三枚を左から順に読んだ。読んでから、下の線の太さをもう一度見た。四つ角で書いた字ではなかった。
こちら側の字は、木の目のことを考えずに書ける。紙の上ではどちらの向きに書いても、字は同じ濃さで残っていた。
六百歩を歩く間、灯は歩数を数えずにいた。数えていたのは別の数だった。
どこから数えるか。それを決めないうちは、数が出てこない。
歩道のタイルは同じ大きさの四角が並んでいて、灯の一歩はそのタイルより少し短い。二歩でタイルが一つと少し進んだ。
一年の時は、二歩でタイル一つだった。合っていたのはいつまでかを、灯は覚えていなかった。
合わなくなったことに気づいたのは今日で、変わったのは今日ではない。
紙が読まれたのは昨日の朝で、今日ではない。
千夏の声は、言い終わりのところだけ高くなる。あかりはで一度上がって、数えるからさ、でもう一度上がった。
二度上がる言い方を、灯は一年の時から聞いてきた。聞いていた場所は斜め前で、いまは廊下側の一番前へ移っていた。
声の届き方は変わっていない。届く距離だけが変わっていた。
昨日の朝に、七月二十日という日は決まった。灯が知ったのもその時になる。今日から数えると、昨日のぶんが落ちる。
キリは冬から百三日と言った。あれは灯が最後に来た日から数えた数で、キリが言った日から数えた数ではない。
同じ数え方にする。灯はそう決めた。
四月八日を頭の中に置く。四月は三十日まであった。八日を引くと二十二日残った。五月は三十一日。六月は三十日。七月は二十日まで数えた。
二十二と三十一と三十で八十三。八十三に二十を足して百三。
灯は指を折らずにいた。頭の中に数が並んだままで、道の先を見ていた。
百三。
もう一度、後ろから足し直した。七月が二十で、六月を足して五十。五月を足して八十一。四月の残りを足して百三。
二度とも同じ数が出た。二度出たので、灯はその数を置いた。
置いても、置いた先は昨日の四つ角と違う。四つ角では、数を口に出す相手が前に立っていた。ここにはいなかった。
千夏に言えば、千夏は数える側へ回る。灯は言わないほうを選んだ。選んだ理由は自分でも分からなかった。
塾の看板の下で、灯は一度だけ足を止めた。四枚の紙の並びを目で追う。
左から三枚は角が丸くなっていて、四枚目だけ角が立っていた。四枚目は今月足されたものだった。
角は日に当たると先に丸くなる。四枚目も、来月には三枚目と同じくらいになる。
灯はその四枚目の角を指で押した。押すと紙は少ししなって、離すと戻った。
橋の上で風が横から当たった。朝と同じ向きで、朝より弱い。川の水は朝より色が濃く見えた。
橋の欄干に、細い鉄の柱が等しい間で並んでいた。灯は歩きながらその柱を数えた。三十四本。
一年の時に数えた数と同じ。数えた日は覚えていなかった。数だけが残っていた。
線路は橋の下をくぐっていた。電車が一本通って、下の風が上へ抜けた。抜ける間だけ、灯の髪が横へ動く。
灯は欄干へ手を掛けて、電車が過ぎるまでそこに立っていた。手のひらに鉄の冷たさが残った。四月の鉄は早く温まって、離すとすぐ元へ戻る。
欄干の三十四本のうち、下から二本目だけ塗りが剥げていた。剥げた地の鉄は、まわりより赤い。
灯はその一本の前で足を止めて、剥げた面へ手のひらを当てた。当てたところだけ、鉄が手の熱を受け取った。
手を離すと、熱はすぐに逃げた。逃げた先は分からない。
橋を渡り終える手前で、灯は下を覗いた。線路は二本で、その間に細い草が出ていた。草は枕木の間からだけ出ていて、石の敷いてあるところには一本も無かった。
電車が通る側にも出ていた。出ているのに折れていない。灯は折れない高さがどのくらいかを目で測ろうとして、遠くて測れなかった。
帰りの駅前でも、流れは同じところで割れた。灯は同じ側を歩いた。
地下の階段の入口で、灯は足を止めた。下りずにそこへ立っている。手すりの上のほうだけが光っていた。
朝と同じ場所が光っている。光り方の幅も同じだった。
灯は階段の一段目へ靴の先を乗せて、乗せたまま体は下ろさなかった。二秒か三秒そうしてから、靴を戻した。
あちらへ行けば、キリは百三日を数える側に立っている。こちらの百三日を数えるのは灯のほうになる。
同じ数が二つあることを、灯は口に出さなかった。出さないまま階段の前を通り過ぎた。
通り過ぎてから、灯は歩く速さを落とした。落としてから、また戻した。
あちらの百三日は、キリの側では六年ぶんになる。こちらの百三日は百三日のままで動かなかった。
どちらの数も減っていった。減り方だけが違っていた。減り方だけが違う。
その違いを、灯はうまく言えずにいた。言えないままで、駅の建物の上の時計を見た。四時二十七分。この時計も一分進めてある。
進めてあるぶんを引くと四時二十六分だった。灯は引かなかった。引くと、進めてある側の数のほうが本当に見えてくる。
八百歩の道は行きと同じ形で、日の当たる側だけが反対になっていた。行きは右の塀が明るく、帰りは左の塀が明るかった。
塀の根もとの草は、朝に灯が踏んだところだけ寝ていた。灯は寝ているところを数えた。四本。
四本のうち二本は、もう先が起きかけていた。
灯はしゃがんで、寝たままの二本の根もとを見た。折れてはいなかった。土の際で曲がっているだけで、切れ目は入っていない。
立ち上がる時に、膝の裏が引っぱられる感じがした。去年の四月には無かった感じで、いつからあるのかは思い出せなかった。
同じ塀の同じ場所を、灯は一年ぶん通っている。通っている間に草は二度枯れて、二度出た。
魚屋の前で氷の匂いがした。朝はしなかった匂いで、昼のうちに氷を出したのだと分かった。
*
角を曲がると、家の屋根の上に電線が三本渡してある。三本のうち真ん中の一本だけが、少し下へたるんで見えた。
家の前の郵便受けに、紙が三枚入っていた。灯は取り出して、そろえて、玄関の下駄箱の上へ置いた。
傘立ての傘は二本のままだった。母のと父の。灯は自分のを一番手前へ入れた。入れると三本になった。
入れる場所は決めずにきた。玄関の傘立ては、手前が一つと、その奥に二つ入る。三本なら余りは出ない。
四本の時は、一番奥がいつも同じ傘。いまは奥に父のが一本だけ在って、その隣が空いていた。
祖母のは無かった。
灯は自分の傘の柄の内側を、もう一度だけ親指でこすってみた。字は消えていない。
台所からだしの匂いがした。母は流しの前に立っていた。
「おかえり。灯、そこの袋を冷蔵庫へ入れておいてちょうだいね」
「入れる。下でいいの」
「上の段じゃなくて、下の引き出しのほう。上は明日の朝までもたないから」
灯は袋を下の引き出しへ入れた。入れると引き出しは半分までしか閉まらずに止まった。押すと閉まる。
「灯、二年の担任は」
「多田先生。去年と同じ」
「去年と同じね。よかったじゃない。名前を間違えない人だったでしょう」
「間違えない。一度も間違えてない」
母は流しの水を止めて、手を布で拭いた。
「学校で何かあった?」
「ない」
灯はそう言った。言ってから、言ったことを直さない。
「席替えは」
「あった。窓側の後ろから二番目」
「窓側なら、五月の終わりごろから暑いわよ。上着を薄いのに替えておいてちょうだいね」
「替える。日曜に出す」
母は鍋の蓋を持ち上げて、中を見てから戻した。戻す時に蓋の縁が鍋に当たって、その音の高さは冷たい時より低く落ちた。
「灯、ばあちゃんのぶんも一緒に出しておいてくれる? お盆は下の棚の右のほう」
「出す。二枚とも出す」
だしの匂いは鍋の側から来ていた。灯はお盆を出した。下の棚の右には二枚重ねてあって、上の一枚を取ると、下の一枚の縁に丸い跡が残っていた。
跡は湯呑みの底の形。跡の内側だけ、木の色が濃く沈んでいた。
「灯、ばあちゃんのは薄いほうでいいから。濃いのを出すと、夜に眠れないって言うのよ」
「薄いのにする。二番目の急須で」
「急須の二番目のほうを使ってちょうだいね。一番目は濃く出るから」
灯は棚から急須を二つ出して、右のほうを流しへ置いた。二つは形が同じで、注ぎ口の先だけが違う。右のは先が少し欠けていた。
欠けたところに指を当てると、断面はもう白くなかった。割れてから日が経っていた。
急須の蓋を取ると、内側に茶の粉が薄く貼りついていた。指でこすると取れる。取れた粉は指の腹に残った。
灯は指を流しで洗った。水は少しだけ温い。日のあるうちは、蛇口の水がぬるく出る。
母は火を弱めてから、こちらを見ずに言った。
「灯、七月に何かあるの」
灯は湯呑みを持つ手を止めた。
「ない」
「そう。学校からの紙に、七月の予定を早めに出しますって書いてあったから」
母はそれ以上を聞かずにいた。聞かないままで、鍋の火を止めて、蓋を斜めにずらした。
ずらした隙間から湯気が上がって、天井の手前で消えた。消える高さは、天井から手のひら一つぶん下。
台所の壁にカレンダーが掛かっていた。四月のぶんで、数字は月曜から日曜まで横に七つ、上から下へ五段。数字は一日ずつ増えて、飛んでいるところが無かった。
並びの形は、教室の献立表に似ていた。献立表は縦に五つ、カレンダーは横に七つで、数の増え方だけが同じだった。
灯は八日の升目を見た。昨日の升目になる。母が丸を付けた印は無い。四月の升目に印が付いているのは十七日の一つだけで、そこには母の字で「ごみ」と書いてあった。
九日の升目には何も無かった。今日の升目になる。
灯は八日から指を右へ動かした。九から順に指を右へ送って、行の終わりで下の行の頭へ戻る。七つ進むと一段下がった。
カレンダーの紙は四月の一枚だけがめくってあって、下に何枚も重なっていた。灯は左の下の隅を指でつまんで、厚みを測った。三月までのぶんが上へめくり上げてあるので、下に残っているのは五月から十二月まで。
厚みは指の一本ぶんより薄い。八枚でその厚さだった。
七月の紙は、下から六枚目。
灯はめくらなかった。めくると、七月の升目が並んで見えてしまう。
湯呑みを二つ、灯はお盆へ乗せた。乗せてから、二つの間を指の幅ぶん空ける。近づけすぎると、運ぶ途中で縁が当たった。
階段を上がる途中で、祖母の部屋の戸の前を通った。戸は閉まっていた。中で音はしない。
灯はそのまま自分の部屋へ上がった。
鞄を床へ置いて、机の上へノートを出した。ノートの表紙は角のところだけ白く擦れていた。開くと、後ろのほうにメノの紙が挟んであった。
紙は薄い。持ち上げると、下の紙の線が透けて見えた。角は四つとも切ってある。切った面だけ、白さの色味が違って見えた。
灯はその紙を机の上へ置いた。それからシャーペンを持った。
書かなかった。
シャーペンの先は紙の上で一度だけ止まって、そこから動かない。動かないままで、灯は先を紙から離した。
この紙は書く相手のいない紙だった。数は相手ではない。
メノは一枚しか出さないと言った。二枚目の値は言っていない。ここへ数を書いて間違えたら、二枚目を買いに行くことになった。
買いに行くには、階段を下りる日を選ばなければならない。灯はまだその日を決めていない。
灯は紙をノートの後ろへ戻した。戻してから、ノートの一番後ろまでめくった。
一番後ろの紙は白いまま。灯は右下の隅へ、百三と書いた。
書いた字は小さい。ノートの升目の一つぶんに収まった。
書いてから、灯はその数の下へ横線を一本引いた。線は数の幅より少し長くなった。
明日は百二になる。明後日は百一になる。数は毎日減っていって、七月の二十日に零へ着く。
零へ着いた日に何があるかを、灯は書かなかった。
書く代わりに、百三の右の余白へ小さく点を一つ打った。点は数の高さの半分の位置に来た。
明日はその点の下へ百二と書く。書く場所を先に決めておけば、書く時に迷わずに済む。
迷わずに済むと、書く手が止まらない。止まらなければ、数は毎日並んでいく。
ノートを閉じて、机の引き出しへ入れた。引き出しは奥まで入って、そこで止まった。
机の引き出しの底に、去年の時間割の紙が一枚残っていた。灯はそれを取り出して、二つに折ってから紙くずの箱へ落とした。
落ちる時に紙は一度だけ横へ振れて、底で止まった。
窓の外は屋根の色。灯は窓を開けた。四月の夕方の風は、朝より温んでいた。開けた幅は手のひら二つぶんで、それ以上は開けなかった。
みずきは教室で同じ幅だけ開けた。窓の大きさは違うのに、開ける幅だけが同じになる。
開ける幅を決めているのは窓ではなく、開ける手のほうだった。
窓の下の道を、自転車が一台通っていく。かごに白い袋が乗っていて、通り過ぎるまでに音は三度した。
灯は机の上の替え芯の管を手に取った。振ると、中の芯が動く音がした。音は一つではない。二つか三つが、管の中で別々に当たっている。
音は昼に振った時と同じ高さで鳴った。中の本数が変わっていないので、高さも変わらない。
管を開けて、芯を一本出した。シャーペンの後ろから入れて、送りを二度押す。
芯は出た。
灯は出た芯の長さを見た。爪の半分ほど出ていた。昼に出なかったのは、切れていたからではない。
灯はそのシャーペンを筆箱へ戻した。戻す時に、筆箱の中で消しゴムが横へ滑った。滑った先で、定規の縁に当たって止まった。
定規は透明で、目盛りは一ミリずつ入っている。一つの幅は、灯の爪の半分より狭い。灯は定規を出して、ノートの百三の下の横線へ当ててみた。
線は二十六ミリあった。指の二本ぶんというのは、二十六ミリのこと。
灯は定規を戻して、机の上に何も残っていないことを確かめた。
窓の外はまだ明るさが残っていた。四月の日は六時を過ぎても残る。祖母の部屋の窓にも、同じ明るさが入っているはずだった。
灯は自分の手を見た。指はもう止まっていない。
机の引き出しを開けて、ノートをもう一度出した。一番後ろまでめくって、百三の下の横線を見た。
線の下へ、灯は何も書き足さずにいた。
書き足さずに、線の下の白いところを見た。白いところは紙の下の端まで続いていた。
百二から零まで並べると、数は百三ある。灯は一つぶんの高さを指で押さえて、それを下へ順に送っていった。
送る手は途中で止まらない。
紙の下の端で、指は止まった。止まったところに、まだ一つぶんの白さが残っていた。




