第047話 六年ぶん
扉は冬より軽かった。
押した手のところの板は、去年の暮れに触った時と同じ高さで色が薄い。押す者の背が伸びれば、薄いところも上がるはずだった。灯は自分の手の位置を見た。薄い帯の、上の縁に指が届いていた。
向こう側の空気が先に来た。土と、その上を通った草の匂い。十二月は土だけだった。
灯は肩から入って、そのまま二歩進んだ。二歩目で足の裏の感じが変わった。石ではなく、乾いた土になっていた。
扉の内側の枠に、去年の暮れには無かった傷が一本入っていた。横に走っていて、深さは爪の先ほど。木の色が中で白く出ていた。
灯は傷へ指を当てた。指はそのまま端まで滑って、傷の切れたところで止まった。その先は元の木の色へ戻っていた。
誰かが荷を通した跡。荷の角が枠に当たると、こういう入り方をした。
傷の白さから見て、通したのはそう前ではなかった。灯は指の先に付いた粉を、上着の裾でこすり落とした。
空は高い。屋根の傘の骨のあたりに、まだ幅が残っていた。
屋根の傘は、低いところの五本まで数えられた。五本とも布が張っている。風が来ても、どれも鳴らなかった。
布の色は左から灰が二本、青が一本、灰と赤が一本ずつ。赤の一本だけ骨の先が一つ外を向いて曲がっていて、そこに下の道の壁が細く映っていた。
道の右の壁は下から三分の一が濡れた色をしていて、触ると冷たい。指を離しても、指の腹には何も付かなかった。
濡れているのは境から下。境目は横にまっすぐ走っていた。灯はその線に沿って指を滑らせ、板の合わせ目のところで止めた。
日は反対側の壁に当たっていた。
四つ角までは三十歩ある。灯は歩きながら数えた。二十八で角が来た。
二十八は冬にも出た数で、あの時は雨のあとで土がゆるんでいた。今日の土は固い。固いのに、二つ足りない。
道の左の家は、戸が三軒とも閉まっていた。二軒目の戸の下には、冬に無かった細い草が二本。
三軒目の戸には札が下がっていた。字は三文字で、木の目は横。下の線が太い。灯が夏に書いた札。
灯は札の前で足を止め、字の面へ顔を近づけた。三文字とも、書いた時と同じ濃さで残っている。薄れた字は一つも無かった。指を当てると、木は乾いていて温かった。
この家の者の名は、八月に灯が書いた。木の目が横に走っていたので下の線を太くした。太くした線は、三文字のうちで一番濃く残っていた。
指を離すと札は風で一度だけ回って、元の面へ戻る。
角を曲がる手前で、板の音が聞こえた。板を土へ置く音が二度した。二度目のほうが低かった。置いた先の土が柔らかい。
灯はそこで一度足を止めて、音の来たほうへ耳を向けた。三度目は来なかった。
来ないと分かってから、灯はまた歩きだした。歩幅は止まる前より狭くなっていた。
角を曲がった。
四つ角の台には、天板が三枚渡してあった。
灯はそこで立ち止まる。冬の台は二枚。板を二枚重ねて四本の脚に載せるのが冬の形だった。今日は三枚が横に並んで、幅が灯の腕一本ぶん広くなっている。
三枚は長さがそろっていなかった。左の一枚が右の一枚より指二本ぶん長くて、長いぶんが脚の外へ出ている。
はみ出したところへ、灯は手のひらを乗せた。押しても板は動かない。下で何かがかんでいた。
台の右の端には木の釘が二本、頭を同じ高さに並べて打ってあった。冬はそこへ札を掛けていた。今日は二本とも空いていた。
灯は釘の頭を指で押した。二本とも同じ深さまで入っていた。
脚の下の石は三つ。四つ目の脚だけ石が無くて、そこだけ土へめり込んでいた。
去年の暮れは四つあった。四つのうち一つだけ、まわりの土が湿っていた。キリがその脚の根元を掘って、埋め直した日の跡だった。
石の無いのが、その脚になる。灯はしゃがんで、めり込んだ側の土へ指を当てた。土は乾いていて、指は入らなかった。
台の上に札は一枚も出ていない。十二月の二十六日に見た時は四枚出ていた。あれは市の次の日で、次の日は落とし物が動くのでキリは台を出す。
市の枠は無かった。東の道の入口に立っていた二本の柱と、上と下の横木。
今日は柱の穴だけが残っていた。二つ。穴の縁は丸くなっていて、中に土がたまっていた。灯は片方へ指を入れた。第二関節まで入って、そこで止まった。
指を抜くと、爪の先に土と、土ではないものが付いていた。細いひもの切れ端で、色は木と同じところまで抜けていた。
冬の枠には、切れ端が上の横木に七つと、下の横木に一つ。灯は八つとも数えていた。左から四つ目だけが二重の結び目だった。
枠は無い。切れ端が残っていたのは、穴の中の一つだけ。
灯はもう一方の穴へも指を入れた。こちらの土は浅くて、指は第一関節で止まる。中には何も無い。
残りの七つがどこへ行ったのかは、掘っても出てこなかった。
四つ角には、灯のほかに誰も立っていなかった。冬の市の次の日は、台の前に三人並んだことがある。三人のうち札を持っていたのは二人。
今日は台の前の土が平らで、靴の跡が一つも無い。灯は自分の靴の先を、跡の無いところへ置いた。
枠が無いぶん、東の道の入口は広く見えた。道は四つ角の土からそのまま続いていて、どこからが東の道なのかが分からなかった。入口の幅は、灯の腕を横に二本ぶん。灯は穴の一つへ靴の先を当てて、そこを境にした。
「四月は出さん。枠のぶんだけ道が狭くなる」
声は台の後ろから来た。
灯は穴から手を抜いて、指に付いた土を上着の裾で拭いた。
台の後ろに男が立っていた。背は天板の上の端より頭一つ高い。上着は膝の下まであって、前は留めていなかった。袋は肩に掛けたまま。
灯はその顔を見た。
目の上の骨のところに、冬には無かった線が一本あった。横に走っていて、端が下へ折れていた。口の横にも同じ向きの線が二本。
髪は前より短くて、短いぶん耳の上のところが白く見えた。
「キリ。久しぶり」
「来たか。冬から百三日だ」
灯は袋の口を見た。ひもの結び目は二つで、二つ目が一つ目の上に重ねてあった。結び方は冬と同じ。
「今、何歳になった」
「三十八だ。冬から六つ増えた」
声は冬より低かった。低いというより、出てくるところが下になっていた。十二月のキリの声は喉のあたりから出ていた。今日は胸のあたりから来る。
灯は指を折った。親指から順に、内側へ倒していく。六本目で右手が終わって、左手の親指が一本だけ余った。
最後にここへ来たのは十二月の二十六日で、今日は四月の八日。
六。灯はその数を口の中へ入れた。数は口の中で広がらずにいた。
「六日で、六年になるの」
「六日だ。あとの九十七は届いとる」
灯は左手の親指を見たままでいた。九十七。学校へ行って、給食を食べて、傘立てに傘を入れる。家の傘立ては四本で、十二月から本数は変わっていない。変わったのは並びのほうになる。
「今日は三枚出てる」
「四月は三枚だ。春は書く奴が増える」
灯は台の下をのぞいた。前はそこに袋が置いてあって、袋の口はいつも壁の側を向いていた。今日は何も置いていなかった。土の上に、袋の底の丸い跡だけが薄く残っていた。
跡の縁は雨で流れかけていた。置かれていたのは今日ではない。
「なんで春だけ増えるの」
「増えるからだ。理由は俺も知らん」
灯は三枚の天板の縁を、左から順に指でなぞった。一枚目の縁は角が立っていた。二枚目も同じ。三枚目だけ、右の端のところが丸くなっていた。
丸いところに指を当てると、そこだけ木の粉が付いた。指の腹でこすると落ちた。
「真ん中のが、薄くなってる」
「削れた。この一枚は二年ぶん使った」
二年。灯はその語を口の中に置いた。百三日で、あちらでは六年になる。二年ぶん削れたなら、その二年は三か月半のどこかに入る。
灯は三枚の天板を、もう一度端から端まで目で追った。冬の二枚は厚みが違っていて、薄いほうを持つと端が下がった。三枚になった今日は真ん中の一枚だけが薄いぶん、上の面に浅い段ができている。
段の深さは爪の半分ほど。指を滑らせると、そこで一度だけ止まる。
二年ぶん削れたのは、この一枚になる。あとの二枚は削れていなかった。同じ台の上で一枚だけが二年ぶん先に減っていて、そこだけ手のひらが沈んだ。
喉の奥のところが狭くなった。息を吸うと、その狭いところで音が鳴る。
扉のところで嗅いだ草の匂いが、まだ鼻の奥に残っていた。そのせいだと灯は決めた。
決めてから、灯は鼻から息を入れた。草の匂いは、さっきより濃くなっている。
*
西の道は乾いていた。
十二月の轍は残っていない。土が一度ならされて、その上を何度も歩かれた形になっていた。真ん中が低くて、両側が高かった。
灯は低いところを歩いた。キリは高いほうを歩く。歩幅はキリのほうが広くて、それでも速さは合っていた。
冬の道は逆だった。轍が二本、両側に深く残っていて、その間だけが踏まれずに高いまま残っていた。
高いところと低いところが入れ替わったことに、灯は五歩ぶん歩いてから気づいた。気づいてからも、歩く場所は変えなかった。
合わせているのだと灯は思う。冬は合っていなかった。あの時のキリは先へ行って、角のところで一度止まって待つ。止まる場所は毎回同じ。
今日は止まらない。止まらないぶん、灯は遅れずに済んでいた。遅れないのは楽なのに、灯は道の先ばかり見ていた。
道は先へ行くほど下る。両側の建物が低くなって、空の幅が広がった。
「今日は札、書かないの」
「今日は客が来ん。来る日は朝のうちに分かる」
「朝のうちに、どうやって分かるの」
「道の土だ。朝の轍を見れば足りる」
キリは足を止めずに、道の右のほうを顎で示した。示した先の土に、細い筋が二本入っていた。二本とも同じ向きで、間の幅は灯の肩幅より少し広い。
灯はしゃがんで、その筋を指でなぞった。筋の底は乾いていて、指に何も付かなかった。
「それ、荷車が通った跡」
「そうだ。朝の早いうちに一台通っとる。一台の日は客が来ん」
「二台通った日は来る」
「来る。昼前だ」
「三台の日はどうなの」
キリは轍から目を離さずにいた。
「そこから先は輪で一つだ。先に言え」
「それ、高い」
「安い。冬は二つ取っていた」
灯は口の中で二と一を並べた。値は下がっている。下がっているのに、買えない。
「値が下がったら、みんな買うんじゃないの」
「買わん。下がった物には、下がった理由がある」
「どういう理由なの」
「それも輪で一つだ。まとめて二つでいい」
灯は声を出して笑った。笑うと喉の奥が広がって、朝からそこに在った狭いところが一度どいた。
キリは笑わない。笑わないまま道の先へ足を出した。
灯は鞄の口へ手をやらなかった。やらずに、二本の筋の間の幅をもう一度目で測った。測っても、次の数は出てこない。
立ち上がると、キリはもう五歩ぶん先にいた。灯は追いついて、歩幅を戻す。
追いつくまでの間、灯は自分の足音とキリの足音がずれていくのを聞いた。二つの音は五歩に一度だけ重なって、重なった時だけ土が一度に鳴った。
冬は三歩に一度だった。朝、扉の板の薄い帯に指が届いたのと、この二つが同じ一つのことだと灯は思わない。
道の左に、板の壁の家が四軒並んでいた。冬は三軒。四軒目は木が新しくて、合わせ目のところだけが白かった。まだ日に焼けずにいた。
屋根は板を重ねてあった。重なりは下から上へ。三軒目までと同じ組み方。
窓は一つ。内側から布が掛かっていて、色は薄い茶。下の端が少しほつれていた。ほつれ方は左のほうが大きくて、そこから布が下がり、下がったところだけ内側の暗さが細く見えた。
灯はその窓を三つ数える間見ていた。内側で何も動かない。
窓の下に、木の桶が一つ伏せて置いてあった。底に穴が二つ空いていて、穴の縁は内側から欠けている。水をためる向きではない。
灯は伏せたままの底へ手を当てた。日の当たっていた側だけが温かかった。
掛けるのは春からで、日が高くなると内側が焼けるのだと、去年の夏にぬいが言っていた。
言われた時の灯は、焼けるという語を布の話として聞いていなかった。いま窓の前に立って、下の端のほつれ方が左だけ大きいのを見ると、下がっている側から先に日が入るのだと分かる。
四軒目の戸には札が掛かっていた。字は二文字。書いた手は灯の知らない手で、下の線が太くなかった。木の目は縦に走っていた。
縦の目に書かれた字は、上の一字の縁がもう少しにじんでいた。二字目のほうは、まだ縁が立ったままだった。
同じ日に同じ手で書かれたはずの二字で、にじみ方が違う。灯は顔を近づけて、上の一字の下の線を見た。線の下側だけが、木の中へ入りかけていた。
灯は指の爪を、目を横切る向きへ当てた。爪は二度止まった。止まる場所は二度とも同じ。間の幅は爪の半分ほどで、目に沿う向きへ当てると爪はどこにも止まらなかった。
鞄からノートを出しかけて、灯は手を戻した。ここは四つ角ではない。ノートの角は鞄の口の内側へ戻った。
「これ、誰が書いたの」
「知らん。四つ角で書いた字じゃない」
冬の名札小路で先に薄くなっていたのは、木の目に沿って書かれた字だった。この二文字も目に沿っている。ここは小路ではない。同じことが起きるかどうかは、灯にも分からない。
「四つ角じゃないところでも書ける」
「書ける。俺の仕事が減るだけだ」
灯は札の縁へ指を掛けて、少しだけ手前へ引いた。札は釘から外れず、引いたぶんだけ傾いて、離すと元の向きへ戻ってきた。ひもは新しかった。結び目のところがまだ固くて、指で押すと戻ってきた。
結んだ者は、結び方を四つ角で習っていない。二重に回してから片方だけを引く形は、灯の知らない結び方に見えた。
キリは道の先へ目を向けた。
四軒目の前の土は、ほかの三軒の前より踏まれていなかった。三軒目までの土は真ん中がへこんでいて、四軒目の前だけ平らに残っていた。灯はへこみの端に靴の先を置いて、へこんでいるところと平らなところの差を測った。指の一本ぶん。
平らなほうの土に、細い草が一本だけ出ていた。踏まれていないので立っている。灯は靴の先を近づけて、当てずに戻した。
下りの道で、二人のほかに誰も歩いていなかった。冬のこの道は市の前後に人が上ってきて、灯は端へ寄って三度よけた日がある。今日は寄る要がない。
道の幅がそのぶん広く感じられた。広いのに、灯はキリの歩く高いほうへは上がらなかった。
下りの途中で、キリは足を止めた。道の脇に平らな石が一つ在って、上の面だけが白く乾いていた。十二月にも同じ場所に在った石。
キリは袋を石の上へ下ろし、口のひもをほどいた。ほどく手は速かった。冬より速かった。
速いのは指の動く数が減っているからになる。前は結び目を二つとも指でたどってからほどいていた。今日は上の一つを引くだけで、下の一つが自分でゆるむ。
結び方が変わったのだと灯は思った。変わった結び方を、灯は教わっていない。
夏に一度、灯はキリの結び目をほどく役をもらったことがあって、あの時は二つの結び目を順にたどらないとほどけなかった。たどる順を間違えると下の一つが締まって固くなり、指の先が入らなくなる。
中から出したのは輪。一つ。指でつまんで、灯のほうへ押し出す。
押し出した輪は石の面を滑って、灯の靴の先の手前で止まった。滑った距離は指の三本ぶん。止まったところの石には、輪の丸みに合った浅いくぼみが先から在った。くぼみの横には四角い跡が一つ。角が丸くなっていて、袋の底の形ではない。
灯はその跡へ指を当てた。深さは輪のくぼみより浅かった。誰かが同じ石の上へ何かを一度置いて、持って帰っている。
灯はそれを見た。取らなかった。
「あたし、今日は何もしてない」
「取っとけ。数えなくていい」
灯は輪から目を上げた。キリは袋の中を見ていて、こちらを見ていない。
冬なら、こういう時にキリは灯の手のほうを見ていた。取るまで見ていて、取ってから初めて次のことをした。その後に来るのは必ず数。今日は何枚、いくつ、いくつ。
灯は手を伸ばして、輪を取った。指の腹に冷たい。石の温度をそのまま持っていた。
鞄の底へ入れる。入れると五つ。
鞄の底で輪が動いた時の音は四つの時より短かった。灯はその短さを自分の耳で先に受け取ってから、五つになったのだと口に出した。
「これで五つになった」
「そうか。五つなら春の値で札二枚ぶんだ」
キリは袋の口を結び直していた。結び目は二つで、二つ目を一つ目の上に重ねた。目はこちらへ来なかった。
灯は鞄の口を閉めた。閉める指が、途中で一度止まる。
止まったのは閉める前に数を言う癖が体に残っていたからで、言う相手が今日は聞いていない。
*
広場の手前で、道は平らに戻った。
平らになった先の土は、下ってきた道の土より色が薄かった。踏まれた跡が縦横に重なっていて、どの跡がいつのものなのかを灯は分けられずにいた。
メノの店の押し戸は、冬と同じところ。戸の下の縁が土にこすれて、開ける時に一度だけ引っかかった。引っかかり方は、駅前の店のシャッターが下り切る手前で止まるのに似ていた。灯は肩で押した。
中の匂いは冬より薄かった。乾いた紙の下から油の匂いが上がってきていて、その油は奥のほうから来ていた。奥に金物が置いてある。
外の光は戸の幅だけ床へ入って、そこで切れていた。切れた先の床は影。奥のほうは、目が慣れてから形になる。
台の上の布に、物が並べられていた。並べ方は冬と同じで左が小さく、右へ行くほど大きくなっていた。
前に来た日、灯はその並びを右から左へ数えて、途中で一度数え直した。真ん中あたりに同じ大きさのものが二つ続いていて、右へ行くほど大きくなるという決まりに合わなかった。
今日は同じ大きさが並んでいない。左の端から右の端まで、一つずつ大きくなっていた。
メノは台の後ろにいた。灯が入っても顔を上げなかった。
台の下から手を出す時だけ、メノの指は戸の光に入る。入ったところだけ色が薄く見えた。
「そっち、冬以来だ」
「うん」
ここへ来たのは十二月の十二日で、あの日は皿だけが出ていて菓子は無かった。皿の縁は一か所欠けている。断面は白くなかった。
「五つになってる」
灯は鞄を見た。開けていない。外から押してもいない。
十二月に一度、灯が何も言わないうちに、メノは皿の菓子が二つ減っていると言ったことがある。あの時も灯は鞄を左手に提げたままだった。
「なんで見ないで分かる」
「音だ。四つより短い」
灯は鞄の口へ手を掛けて、そこで止めた。開けて確かめれば済むのに、確かめると数えたことになる。
手は口の上で止まったままで、指だけが二度動いた。
メノは布の上の物を一つ動かした。動かした先の布に、四角い跡が残っていた。跡の内側で、布の毛が寝ていた。
跡は動かした物より一回り小さかった。物の底が布へ触れていたのは、そこだけ。
灯は指で跡の縁をなぞって、毛の向きが変わるのを確かめた。内側は寝ていて、外側は立っていた。境目は指の腹で分かるほど細かった。
灯は輪を一つ、台の上へ置いた。置いてから、指を離さない。
「輪が五つで、何が買えるの」
「輪一つで紙が一枚」
四つ角では五つで札二枚ぶんだった。ここでは一つで紙が一枚になる。灯はその二つを並べて、どちらが高いのかを出せなかった。
「紙」
「書く紙だ」
灯は指を離した。輪は布の目に入って転がらない。前に台の上へ置いた輪も同じところで止まって、あの時のメノは輪の止まる場所が布の織り方で決まるのだとは言わなかった。言わないまま輪を箱へ落とした。
メノは輪を取らずに、台の下から紙を一枚出した。出す時に台の下の板が一度鳴って、その音は冬に聞いたのと同じ高さだった。灯のノートの紙より薄くて、光へ向けると向こう側が透けた。角は四つとも切ってある。
「今日は菓子、出てないの」
「焼いてない」
「いつになったら焼くの」
「焼く日に焼く」
「じゃあ一枚でいい」
「一枚しか出さない」
灯は両手を出して、その紙を受けた。手に乗った紙は、思っていたより重かった。薄いのに重かった。
両手で持って、端を軽く曲げてみた。曲げた先は折れずに戻る。ノートの紙なら、この曲げ方で折り目が付いた。
光へ向けると、紙の内側に細い筋が縦に並んでいるのが見えた。筋の数は指の幅に四本。筋の間の幅はそろっていて、そろっているぶん、どちらが表なのかが分からずにいた。
紙の端を鼻へ近づけると、乾いた草の匂いがした。扉のところで嗅いだのと同じ匂いで、こちらは薄かった。
「この紙、引っぱったら破れる」
「破れる。値は返さない」
「返してくれる店もあるの」
「なら、そっちで買え」
灯は口の端が動いた。メノのほうは動かずにいた。
「この紙は、何に使う」
「知らない」
メノは輪を箱へ入れた。輪は底まで落ちずに、先に入っていた一つの上へ乗っている。
灯は鞄の底を外から押した。四つの形が布の上へ出た。並びは左に三つ、その右に一つ。冬に押した時と同じ並びだった。
もらった輪は、もらった日のうちに無くなったことになる。
「書く相手はいるのか」
「いない」
「なら当分そのままだ」
灯は紙の角を指でつまんだままでいた。四つ角で書いた札は、書いたその日のうちに客が持って帰る。白いままの時間は、いつも短かった。
メノはそれ以上言わない。言わないで、台の布の四角い跡を指で押した。押した跡は戻らなかった。
灯は紙を鞄のノートの間へ入れた。ノートの表紙は角だけ白くなっていて、その白さは冬に見た時より広がっていた。広がった先は、角から指一本ぶん。灯は紙を白い角に当たらない側へ寄せ、鞄の口を閉めて店を出た。
外の光は入る前より強かった。目が慣れるまで灯は押し戸の前に立っていた。
立っている間に、鞄の中で紙がノートの表紙とこすれる音がした。薄い紙の音は、ノートの紙が動く時より高かった。
灯は鞄を左手で持ち直した。底へ手のひらを当てると、音は止まる。
上りの途中で灯は後ろを見た。押し戸は閉まっていた。
戻りは上り。上り口の土は柔らかくて、灯は足の裏を先に置いた。置いてから体を送る。この上り方は夏に自分で決めたもので、春の土には合っていなかった。
二歩目で足の裏が少し滑る。滑った先で止まって、灯は歩幅を戻した。
三歩目でまた滑りかけて、灯は片手を土へ着いた。着いた手のひらに細かい石が二つ食い込んで、離すと跡だけが残った。
「そう歩くな。春は踵から入れ」
灯は踵から入れてみた。土は沈むが、沈んだ先で止まる。滑らなかった。
「なんで冬とちがうの」
「冬は上が固い。春は上が柔らかい」
キリは灯の足元を見ないで言った。冬の坂では、見てから言っていた。
上りきったところで、四つ角の台が見えた。天板の三枚は、この距離だと一枚に見える。上の面の段は、近くまで来ないと分からなかった。冬の二枚は厚みが違ったので、遠くからでも二枚に見えていた。
キリは台の後ろへ回って、袋を石の上へ置いた。置いてから、上着の袖を肘まで上げる。
上げた腕は日に焼けていて、肘から先だけ色が濃かった。境目は袖の丈のところで横に切れていた。前に見た腕には境目が無く、冬のキリは袖を上げなかった。
灯はその腕を見た。
袖の口の内側に糸が見えた。一度縫い直してある。糸は上着より薄い色で、近くで見ないと分からなかった。
灯は顔を寄せた。縫い目は五つ。糸と糸の間は爪の一つぶんほど空いていて、その幅は五つとも同じだった。
冬に破れていたのは裾の右の端で、そちらの糸は本体より濃かった。縫い目の間は広く、端の毛羽は切りそろえていない。灯はあの継ぎの数を数えていない。数えなくても、急いだ手だと分かる縫い方だった。
袖のほうは急いでいない。急いでいないのに五つで済ませてある。
灯は自分の上着の袖を見た。去年の四月に母が一度だけ直したところがあった。その縫い目は六つで、糸の色は上着とほとんど同じだった。母の縫い目は六つが多い。
五つは母でもなく、冬に裾を縫った手でもない数になる。
五つのうち、三つ目だけ糸の向きが逆になっていた。ほかの四つは右上から左下へ流れている。三つ目だけが左上から右下へ入っていた。灯は指の先でその一つをたどった。二度たどっても向きはそのままの形。
六年の間に、誰かが一度この袖を縫っている。その手が誰の手なのかを、灯は聞かなかった。
灯は袖から目を上げた。上げた先でキリは天板を数えていた。一、二、三。数え終わって、三枚の縁を左から順にそろえた。
そろえてから、真ん中の一枚だけを半分ずらした。
灯は扉のほうへ歩いた。歩きながら袖の糸の色と、逆になった三つ目を思い出した。色は最初に見た時より薄くなっている。
思い出す度に薄くなるなら、明日はもっと薄い。灯はそこで思い出すのをやめた。
やめてから、逆になった三つ目だけを、もう一度だけ目の裏へ置いた。薄くなったのは色。向きのほうは薄くならなかった。
扉の板に手を掛けると、朝と同じ高さの薄い帯に指が当たった。帯の幅は指の三本ぶん。そこだけ木が滑らかで、押し返してくる力も朝と変わらない。
扉の前で振り返った。
キリは台の後ろに立って、ずらした一枚を指の腹で押していた。押しても、板は戻らなかった。
灯は扉を押した。押した手を離すと、薄い帯の上の縁に指の跡が四つ残った。土は西の道の色で、今朝そこには何も付いていない。
指の跡は灯の手の幅のぶんだけ帯からはみ出していた。




