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レポ 落とし物の街  作者: 智珠
第二巻 名前をなくした街

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第046話 傘立て

 地下へ下りる階段は、上から三段目で音が変わっていた。


 冬は上のほうが冷たかった。夏は逆になる。灯は五段目で足を止めて、そこから下の空気を吸った。


 匂いは紙が先に来た。紙の下に板。古い布はその下。三つとも夏より薄い。


 売店の前の台には、餅の袋が積んであった。積んだ袋の上に紙が一枚載っていて、字は赤かった。


 積み方は家の押し入れの上の段に似ていた。奥から先に入れて、手前へ来るほど新しい。母が入れるとそうなっていた。灯が入れる時は逆で、あとで一度だけ直された。


 細い通路を曲がると、窓口の板が見えた。板は開いていた。外に立っている人はいなかった。


 川辺さんは棚の横の柱の前に立っていた。右手に鉛筆。紙は先週と同じ紙で、下のほうにまだ書く場所が残っていた。


 川辺さんは前の数へ横線を一本引いた。引いてから、その下へ日付を書く。十二月二十七日。日付の右へ数を入れた。


 六十三。


 線の下の字はまだ読めた。五十六。その上が五十一。上へ行くほど数が小さくなり、一番上は零。零の横の日付は八月三十一日になっていた。


 灯は板の前で足を止める。


 「六十三本になったんだ」


 「六十三です。数えたのは今朝」


 「先週より七本増えてる」


 「七本です。四本の日と三本の日です」


 川辺さんは鉛筆を胸の袋へ戻した。戻す時、袋の縁へ一度ぶつけてから入れる。ぶつける場所は毎回同じだった。


 机の上の時計は四時十一分。灯は腕を見た。四時十分。一分の差は去年の春から動いていなかった。


 棚は天井まであった。下から二段目に、傘が左から右へ並んでいた。柄の向きは全部そろえてある。


 上の段は台に乗らないと届かなかった。灯が数えられるのは下の三段ぶんだった。


 三段の一番下は子供用になっていた。柄の短い傘が三本入っていた。三本とも夏から動いていなかった。並びも向きも、灯が七月に見た時から動いていない。


 灯は板の内側へ入って、手前の丸い椅子へ座る。座面は固かった。この椅子は夏から一度も布を替えていない。


 隣の椅子は机の下へ入れたままで、座面には何も載っていなかった。灯はその椅子のほうを一度だけ見て、目を机へ戻した。


 「今日、手伝えることありますか」


 「札の入れ替えです。年内に終わります」


 川辺さんが机の下から浅い箱を出す。目は上げないままで、手だけが下へ落ちた。


 箱の中の札は、糸の残っているものと無いものに分けられていた。無いほうが多い。


 箱の底には紙の粉がたまっていた。粉は札より細かくて、指で触ると爪の内側へ入る。


 灯は箱を少しだけ傾けた。粉は隅へ寄って、寄った先から先へは動かなくなっていた。札は動かなかった。


 川辺さんは箱を灯のほうへ寄せた。寄せる時、箱の角が机の縁へ当たって、当たったところの板がへこんでいた。へこみは一つではない。同じ場所に三つ重なっていた。


 「戻ったぶんです。糸の無いほうを見てください」


 「見るって、何を見るの」


 「番号が読めるかどうかです。読めないのは捨てます」


 灯は箱の中へ手を入れた。札は指の腹に冷たかった。厚い紙は乾いていて、重さは一枚ずつ違っていた。


 最初の一枚は読めた。三と、七。字は濃くて、線の縁が立っていた。灯はそれを右へ置いた。


 二枚目も読めた。三枚目は下の一字がぼやけて、上の一字だけが読めた。灯はそれを左へ置いた。


 左と右を分ける間も、灯は札を裏返す癖のまま手を動かしていた。裏は白い。裏の白いところに紙の目が浮いて見えた。


 分けている間、灯は自分が何を分けているのかを一度も口に出さなかったが、手のほうは迷わずに右と左へ落ちていって、途中で戻したのは一枚だけだった。


 十枚を分けたところで、灯は左の束を持ち上げた。持ち上げてから、上から順に光へ向ける。天井の電気は白かった。


 左の束は四枚。四枚とも、紙の目が縦に走っていた。


 灯は右の束を持ち上げた。右は六枚。六枚とも、目は横だった。


 灯は左の束を机の上へ置く。右の束もその横へ並べた。二つの束の間は指の三本ぶん空いていた。


 箱の中には、まだ札が残っていた。灯は残りを全部出して、一枚ずつ裏を見た。


 出した札は、机の上で二つの山になっていた。山の高さは同じではない。低いほうが縦で、高いほうが横だった。


 灯は低いほうの山を、指で押して平らにした。押しても札は滑らなかった。


 縦は九枚。横は十四枚。


 縦の九枚のうち、番号の読めるものは二枚しかない。横の十四枚は、十四枚とも読めた。


 灯は九枚の中の一枚を手に取った。番号の跡はある。跡はあるのに、線が紙の中へ入って、そこで広がっていた。広がった先は紙の色と同じになっていた。


 夏に書いた時は入らなかった。同じ紙に、同じ鉛筆で書いて、線の縁は立っている。


 灯は自分の指で、その札の上をなぞった。なぞった向きは目と同じにした。指の腹に何も引っかからない。


 次に、目を横切る向きへなぞっていた。今度は爪の先が二度止まった。紙の目は横から触ると段になっていた。


 灯は札を置いた。置いた先は左の束の上ではない。二つの束の間の、空けてあったところだった。


 空けたところの幅は指の三本ぶんで、そこだけ机の板が見えていた。


 置いた札の下から、机の板の木の目が出ている。机の目は縦に走っていた。札の目も縦だった。二つの縦は同じ向きではなくて、少しだけずれて交わっていた。


 灯はそのずれを見た。見ている間、上の階の改札のほうから人の流れる音が来て、その音は一定の速さで続いていた。


 「川辺さん」


 「はい」


 「札って、紙は選んでるの」


 「選びません。来たぶんを使います」


 「来たぶんだと、目の向きも同じなの」


 「向きは見ていません」


 川辺さんはそれだけ言った。手は机の紙を一枚返して、白い側を上にする。上へ次の一枚が載った。


 灯はもう一度だけ聞こうとした。聞く言葉は喉のところまで来て、そこで止まっていた。止めたのは灯自身だった。


 灯は左の束を四枚ずつ数え直した。九枚。数は変わらない。


 「これ、ぜんぶ捨てるの」


 「捨てます。年内に出します」


 「これ、一枚もらっていい」


 「一枚までです。読めないものにして」


 灯は九枚の中から一枚を選んだ。選んだのは、一番跡の残っているものではない。跡が一番薄くて、それでも目の向きだけがはっきり出ている一枚だった。


 札は指の長さの半分ほどあった。厚みは一枚ぶんで、上に糸を通す穴が一つ空いていた。穴の縁は丸くなっていた。


 灯はそれを鞄(かばん)の内側の袋へ入れた。四つ折りの紙とノートの間。


 「棚のほうも見ますか」


 「見る。やってみる」


 灯は椅子から立った。立つ時、丸い椅子が半分だけ回っていた。回ったのは灯が右へ体を寄せたからで、この椅子はいつも右へ回る。


 棚の下から二段目に、傘が十九本並んでいた。十二月の十三日と同じ数。


 十九のうち、札の付いているのは十四。付いていない五本は、柄の上のところに糸の跡だけがあった。


 灯は五本の跡を、右の指の腹で順に触った。五つとも同じ高さに付いていた。触ると、跡のところだけ柄が少しへこんでいた。


 へこみの深さは五本とも違った。深いものは糸を長く付けていたことになる。


 灯は右から二本目の傘を少しだけ引き出した。骨は八本。そのうち一本が途中で曲がっていて、曲がったところで布がひきつれていた。十二月の十三日に見たものと同じ傘。


 あの日、この傘には札が付いていた。今日は付いていなかった。


 十二月の十三日に触った時、跡は七つだった。七つのうちのどれが今日の五つに残っているかは、灯には出てこない。


 夏に触った時の数は、覚えていない。覚えているのは、七つより多かったことだけだった。


 「札の付いてないのは戻ったやつ」


 「戻ったぶんと書き替えるぶん」


 「書き替えるのは、どれ」


 「読めなくなったものです」


 灯は十九本の柄を左から右へ見た。柄の色は左の端が濃い。濃い側は握るところの上だけが濃かった。


 外の階段のほうから足音が下りてきた。二人ぶん。声は届かない。


 灯は板の内側から外へ出た。出る時、机の上の時計をもう一度見た。四時二十九分。腕は四時二十八分。


 板の外では天井の電気の当たり方が違っていた。内側は上から真っ直ぐ落ちる。外は柱の影が一本、板の上を斜めに切っていた。


 灯は影の外へ立った。鞄の持ち手は左手で握り直す。握る場所は毎日そこで、布はその幅だけ薄くなっていた。


 客は二人とも大人。傘の話ではなかった。川辺さんは棚を見ずに、机の上の紙のほうを先に見た。


 灯は階段のほうへ歩いた。歩きながら鞄の内側の袋を上着の上から押さえた。押さえた下で、札の角が一度だけ布を押し返した。


 *


 地上へ出ると、風が正面から来た。改札の前の列は短い。年末は夕方が早く空いていた。


 灯は駅を出て、川沿いの道へ入った。水の上の空気は道より冷たかった。手すりの金物は指を当てると持っていかれる。灯は手袋を持っていない。


 川の水は低かった。石垣の上のほうが乾いた色を出していて、乾いた色と、まだぬれている色の境は、まっすぐ横に走っていた。


 境の線の上に、草が生えていた。生えているのは境の少し上までで、それより上には無い。草の色は根元だけが緑だった。


 匂いは水ではなくて、石のほうから来た。冷たい石の匂いは、家の風呂場の床に近かった。夏の川はこの匂いをしない。


 道の途中で、灯は一度だけ立ち止まった。立ち止まった先の店の前に、松の飾りが二つ立ててある。二つとも紙で縛ってあって、縛った紙の色は同じだった。


 店の戸には紙が貼ってある。字は太い筆で、二十九日から四日までと読めた。読めたのは灯が近づいたからで、道からでは日付までは出てこない。


 灯は紙の下のほうも見た。小さい字は近づいても読めない。上から別の紙を剥がした跡が重なっていた。


 家までは八百歩。歩幅を変えなければ、いつも八百でおさまる。今日は八百十二あった。途中で止まったぶんになる。


 最後の五十歩のところで、道は右へ折れる。折れた先の塀の下に、割れた植木鉢が去年から置いてあった。割れ目の向きは去年と同じだった。


 灯は自分の家の郵便受けを開けた。中は空。紙は玄関の中へ入れてあることになる。


 玄関を開けると、外より暖かい空気が下のほうから来た。台所の火が入っていた。


 「ただいま」


 「おかえり。灯、上着はそのまま掛けないでね」


 「外の埃(ほこり)を落としてから掛けてちょうだいね」


 「年末に持ち込んだぶんは、そのまま一年ぶんになるんだから」


 母は台所から出てこなかった。声だけが廊下を通ってくる。灯は上着を二度振ってから、掛けた。


 自分の部屋へ入って、灯は電気をつけた。机の上には昨日のままの物が三つ載っていた。定規と、消しゴムと、削っていない鉛筆が一本。


 部屋の空気は廊下より冷たかった。日のあるうちに一度も戸を開けていなかった。


 灯は窓の下の暖房のつまみを回してから、手を上の口へ当てた。出てくるものが温かくなるまでに、灯は二十数えた。


 灯は鞄を椅子の上へ置いて、内側の袋から札を出した。札を机の真ん中へ置く。それからノートを出した。


 鞄の中で、輪が四つ動いた。動いた音は布の下で消えた。この音を家の中で立てるのは、灯は好きではなかった。


 ノートは三枚目で自然に開いた。四つ角で書いた名が二十一並んでいた。下の線の太いものは九つ。


 名の横には日付があった。日付は八月からのもので、飛んでいるところが幾つもあった。飛んでいるのは灯が行かなかった日。


 二十一のうち、一番新しい一つは十二月の二十日。それより後は無い。二十六日には誰の名も書いていなかった。


 右の余白には、木の目の向きを書く欄がある。灯が十二月に作った欄で、そこだけ幅が狭かった。


 太い線の九つは、九つとも横の欄に当たっていた。夏に決めたとおりで、縦のときに下の線を太くしたことは一度も無い。


 灯はノートの後ろのほうを開いた。後ろは白い紙が残っている。灯は新しい一枚に、縦の線を一本引いた。左に番号、右に向き。


 書いた番号は一から二十七まで。名札小路の家の数だった。


 昨日の欄を見て、灯は右へ字を入れた。二十七ぶん。書き終えるまでに、鉛筆を持ち直したのは一度だけだった。


 昨日の欄の字は、鉛筆を寝かせて書いてあった。あちらで書く時はいつもそうなる。板の上で書くと、芯を立てると折れやすい。


 寝かせて書いた字は、こちらの紙の上では太く見える。同じ鉛筆で、同じ手で書いても、紙が違えば太さが変わっていた。


 灯は指の腹で欄の字をなでた。なでた先の紙に、黒が薄く移る。移った黒を、灯は机の縁でぬぐった。


 灯は上から下へ読み直した。横が十三。縦が十四。


 読み直す間、鉛筆は机の上に置いたままにした。持っていると、書きたくなる。


 二つを足すと二十七だった。足した数は合っていた。合っているのに、灯は鉛筆を置かなかった。


 二十二には横と書いてある。壁の一番湿った家で、札の字が一番濃かった番号だった。十とは八つ離れている。


 二十二の壁は一番湿っていて、二十二の札は一番濃い。灯は三日の日にもそこで足を止めていた。


 灯は鉛筆を置いた。置いてから、机の上の札のほうへ手を伸ばす。


 札を光の下へ持っていった。天井の電気は白かった。紙の目は縦に走っていて、番号の跡は紙の中へ入っていた。跡の縁はどこにも立っていない。


 灯は札を机へ戻した。戻した先はノートの右の欄の横だった。


 しばらく、灯は両方を見ていた。二十七の列と、机の上の一枚を。


 それから鉛筆を取って、字の消えた番号のところへ、上から順に印を付けた。指が止まらずに落ちていって、下の端で止まる。


 十二だった。


 印の付いた十二のうち、十一は縦の側にある。残る一つだけが横だった。


 灯は紙から目を上げた。窓は暗くて、こちらの部屋が映っていた。


 映った部屋の中で、灯の手だけが白く出る。


 灯は手を止めた。止めてから、印の無い番号のほうを上から下へたどる。


 縦は十四で、印が付いたのは十一。残る三つは四と十三と十七だった。


 十三は三日の日に替わった札で、字は三文字。読める。十七の字はまだ読めて、木の色に近いのは上の一字だけだった。


 横は十三。そのうち十二は字が濃くて、十だけが薄かった。


 十は横で、それでも薄い。灯はその番号のところで鉛筆を止めた。止めてから、何も書き足さなかった。


 灯は紙の上へ手を置いた。手のひらの下で、番号の列が隠れる。隠れても、順は頭の中に残っていた。


 番号を上から下へ読み直すと、印の並びは端に寄っていなかった。五と七と八が続いて、十で三つ空いて、十四と十五と十六が並ぶ。十九と二十と二十一。二十三。二十六。


 家の並びの順ではなかった。


 二十二は印の付いた番号に挟まれていた。前が二十一で、後ろが二十三。両方に印が付いていて、二十二だけが付いていなかった。


 灯は手をどけた。ノートの紙は、置いた手の形のところだけ温かくなっていた。温かいところは、離すとすぐに消えた。


 灯は札をもう一度持ち上げた。持ち上げて、目を横切る向きへ指の爪を当てる。爪は二度止まっていた。


 目に沿う向きへ当てると、止まらない。止まらない爪は、札の端まで行っていた。


 どうしてそうなるのかを、灯は知らない。灯はそれを、知らないなりに紙の隅へ書いた。


 「たてはとまらない」


 書いた字は小さかった。書いてから、灯はその上へ何も足さなかった。


 部屋の外で、廊下の板が二度鳴っていた。母が台所から風呂場のほうへ動いたことになる。


 灯は鉛筆を置いて、指を組んだ。組んでから、机の上の紙を上から下へもう一度読む。読む速さは、字を書いた時より速かった。


 十三のところで、目が止まっていた。あの札だけが、縦で、まだ読める。


 誰が替えたのかを、灯は知らない。ぬいは置いてく人がいると言って、それから四十年分からないとも言っていた。


 灯は十三の右の欄へ、指の爪をもう一度当てた。当てても、ノートの紙に目は出ない。爪はどこにも止まらなかった。


 二十七のうち、灯が自分の目で見たのは二十七ぜんぶになる。見ていない番号はもう無い。


 無いのに、灯は紙を閉じなかった。閉じない理由も、この紙の上には書いていない。


 灯は後ろの一枚を折ってから、ノートを閉じた。折り目は上の角で、折った角は指の爪ほどの大きさだった。


 折った角は、開いた時に指が先に触れる。触れれば、開かなくてもそこだと分かる。夏に一度、開く場所を探して二分かかったことがあった。


 机の上の札は、そのまま置いておいた。鞄へは戻さない。


 窓の外はもう暗かった。向かいの家の二階に電気が入っていて、その光がこちらの机の端まで届いていた。届いた先は定規の上で、そこだけ白く見えた。


 灯は椅子を引いて立った。立った時、椅子の脚が床を短く滑っていた。


 部屋を出る前に、灯はもう一度だけ机を見た。ノートと、その横の一枚と、削っていない鉛筆。三つとも同じ向きに置いてある。


 *


 台所は上のほうが暖かかった。火の上の空気が天井へ行って、そこから横へ広がる。床の近くは廊下と同じだった。


 母は流しの前に立っていた。前掛けの紐(ひも)は後ろで二度回してあった。回した紐の端が腰の高さで揺れていた。


 「灯、来たならそこの棚の上のほうを拭いてちょうだい」


 「あたしは背が届くけど、いま手が離せないの」


 「乗るなら丸いほうじゃなくて、四角いほうにしてね」


 灯は四角い椅子を運んだ。運ぶ時、脚の一本が敷居へ当たっていた。


 棚の上には、缶が三つ並んでいた。三つとも同じ大きさで、蓋の色だけが違う。赤と、青と、色の抜けた一つ。


 缶の並びは左から赤、青、色の抜けたもの。並べた者は色の濃い順に置いていた。


 灯は布で上をなでた。布は一度で灰色になった。缶の下だけは白く残っていた。


 「その缶はどれも空よ。中身は去年で終わってるの」


 「捨てないのは、缶のほうが丈夫だからってだけ」


 「三つとも空よ。持って振ってごらんなさい」


 灯は赤い缶を持ち上げて、耳の近くで傾けた。中で動くものは無い。青いほうも同じだった。


 「三つとも空っぽなの、ほんとに」


 母は返事をしなかった。手のほうが先に次のものへ動いていた。


 色の抜けた缶だけ、傾けた時に底で何かが滑っていた。重さは指の先ほどしかない。


 「これ、何か入ってる」


 「分かんない。でも、すごく軽い」


 母は手を止めなかった。手を動かしたまま首だけをこちらへ向ける。


 「開けないでおいて。年末に開けたら片づけが一つ増えるだけ」


 「年が明けてから、ばあちゃんに聞けばいいでしょう」


 灯は缶を棚へ戻した。戻す時、白く残っていたところへぴたりと合わせて置いた。合わせておくと、跡は見えなくなる。


 椅子から下りて、灯は四角い椅子を元の場所へ戻した。床には脚の跡が四つ薄く残っていた。


 鍋の湯が音を変える。母は火を細くした。


 湯の上に立つものが、細くしたぶんだけ低くなった。低くなった先で、天井の下のほうへ流れていった。


 「今日は早いのね。センターは年内までやってるの」


 「三十日まで。二十八も二十九も行くわよ」


 「行くならお昼を持っていきなさいよ」


 「あそこは下だから、外へ出るのが面倒でしょう」


 「おにぎりなら朝のうちに握っておいてあげる」


 灯は台所の窓を見た。ガラスの内側が下から三分の一だけ白くなっている。白いところは、外の暗さのぶんだけ濃く見えた。


 母は明日が夜勤だと言っていた。それから、三十一日は昼までだとも言っていた。灯は両方を聞いて、どちらにも返事をしなかった。


 玄関の戸が鳴った。


 音は二つになる。開ける音と、閉める音。灯は開ける音を聞いてから、閉める音までの間を数えた。


 四。


 いつもは六だった。八月からずっと六で、十月に一度だけ七になったことがある。四は初めてだった。


 灯は台所の戸口まで出た。廊下の先に玄関がある。上がり口のところに祖母が立っていた。


 祖母は上着の前を留めたままだった。手には傘を持っていた。持ち方は柄の真ん中で、先は下を向いていた。


 傘は閉じてあった。留め具は留めていない。布は乾いていた。


 「おかえりなさい」


 祖母が顔を上げた。目は灯の高さで止まる。


 「灯。今日はどこへ」


 「今日は駅に行ってた」


 祖母はうなずいた。それだけで、体は傘立てのほうへ向く。


 灯はその場から動かなかった。廊下の電気は玄関のほうが暗かった。暗いほうに祖母が立っていて、上がり口の縁の白いところだけが見えた。


 祖母は傘を傘立てへ入れた。入れる時に金物の底へ当たって、音が一度した。


 それから祖母は上がり口へ手を掛けて、体を低くした。低い姿勢はすぐに戻る。靴を脱ぐ前にいつもそうする。


 灯は五本を目で数えた。灯のと母のと父の。それに祖母のと、名前の無いのが一本。


 祖母は靴をそろえて、廊下へ上がった。灯の横を通る時、上着から外の匂いがした。冷たいものと、その下に少しだけ土。


 「ばあちゃん」


 「なんだい」


 「そこ、いつものとこじゃない」


 祖母の足が止まった。顔だけが傘立ての側へ戻る。


 「そうだったかい、灯」


 それだけだった。祖母は廊下の奥へ歩いていく。速さは行きと同じになる。


 足音は廊下の奥で止まって、戸の開く音がして、閉まる音がして、そこから先は何も来なくなったが、灯は上がり口の前に立ったままでいた。


 灯は玄関へ下りた。土間へ立って、傘立ての横で足を止める。


 下りる時、上がり口の縁へ手を掛けた。縁の木は廊下の床より冷たかった。手のひらの当たったところだけが、少し温かくなって残る。


 土間から見ると、傘立ての奥は上がり口の側。手前は戸の側。灯は奥のほうから順に見ていく。


 三和土の上には靴が四足あった。祖母のは一番手前で、そろえて置いてあった。かかとの高さは左右で同じになっていた。


 灯は自分の靴のかかとを見た。右のほうが減っていた。踏んで履く癖が右にあるからで、母には二度言われていた。


 四足のうち一足は、朝からそこに在る。母のもので、母は今日どこへも出ていない。


 祖母の靴のかかとは減っていなかった。減っていないのは、歩く速さが同じだからだった。速さの変わらない歩き方は、片方だけを削らない。


 靴の先は四足とも戸のほうを向いていた。向きをそろえるのは祖母で、灯が脱ぎ散らかした日も、次の朝には向きが直っていた。


 灯は指の腹で、傘立ての奥の縁をなでた。金物は冷たかった。指に付いたものは無かった。


 傘立ての底には細かい土がたまっていた。たまっているのは真ん中ではなく、手前の側。玄関の床がわずかに傾いているぶんだった。


 灯は指を底まで入れて、土を少しだけ取り出す。指の腹の上で、土は乾いたまま散っていた。


 灯は指を上着でぬぐう。ぬぐった先の布に、色は付いてこない。


 土間は寒かった。上がり口の板の上より、足の裏から先に来る。


 土は指の関節のところにだけ残っていた。灯はそこをもう一度こすって、こすった先を電気の下へ向ける。爪の内側に黒が入っていた。


 入った黒は、爪の白いところの縁で止まっていた。押し出そうとして、灯は途中で手を下ろした。


 奥の一本の柄には、金物の輪が二つ回してあった。母のになる。輪と輪の間のところだけ、柄の色が変わっていた。


 玄関の天井の板は、傘立ての上のところで一度切れていた。切れた先の一枚だけが、他より短くて、色が濃かった。


 廊下の奥の戸は閉まっていた。閉まった戸の下から光は出ていない。祖母は電気をつけずに部屋にいることがあって、それは夏からずっとそうだった。


 戸の向こうで物の動く音はしなかった。祖母の部屋は、いつも音が出るまでに間がある。


 聞き直すには、廊下を歩いて、奥の部屋の戸を開けて、それからもう一度同じことを言わなければならない。


 台所から母の声がした。呼んだのは灯の名前で、続きは鍋のことだった。


 おなかがすいたのだと灯は思う。


 思ってから、灯は台所のほうへ足を向けなかった。玄関の土間に立ったままでいる。


 声は一度では止まらない。二度目は言い方が短くなって、三度目は名前だけだった。三度目まで行ったのは久しぶりになっている。


 灯は返事をする前に、もう一度だけ土間の側を見た。見た時間は、四を数えるぶんになる。


 「今行く。すぐ行く」


 声は台所のほうへ返した。向こうで鍋の蓋の当たる音が一度した。


 灯は上がり口の板へ手を置いた。右の端の、色の濃いところになる。


 それから、傘立てへ手を伸ばした。三番目の柄を抜かずに、内側だけを上へ向ける。


 字はあった。祖母が書いた二文字で、角が丸かった。夏に強くこすった時から薄くなっていない。


 二文字の下には線が引いてある。線は上の字の下だけが太くて、下の字の下は細かった。


 字の上のところに、色の濃くなった場所があった。指の腹の幅で、そこだけ木が磨かれていた。


 毎朝そこへ指を置く者がいる。置く者は灯ではない。


 灯は柄を傘立てへ戻した。隣の一本が内側へ倒れかかって、自分の重さで持ち直す。


 五本の順は、さっきと変わらない。灯は一本も動かしていなかった。


 廊下の電気は、玄関の側の一つが少しだけ暗かった。暗いのは球のせいではない。上の覆いの内側に埃がたまっていた。年末に拭くのは、その覆いが最後。


 傘立ての金物は、上の縁だけが電気を返していた。中の五本は、上から見ると柄の頭が五つ並んでいた。


 五つの頭は同じ高さではなかった。二本が高くて、三本が低い。高い二本は柄の頭が丸く、低い三本はまっすぐだった。


 灯のは三番目。木の柄の先が、他の四本より少し上に出ている。


 父のは去年の春から動いていない。柄の上に埃が薄く積もる。


 祖母の傘は、一番奥ではないところに立っていた。

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