第045話 一年
四つ角の板の上には、札が四枚出ていた。四枚とも字の書いてある側が上を向いている。
板の右の端に木の粉が寄っていた。粉は昨日のものではない。指で押すと、固まりのまま動いた。
キリは板の脚のところにしゃがんでいた。めり込んだ一本の根元を、また掘っている。
穴は前より広かった。掘った土は右へ寄せてあり、山は灯の靴の甲ほどの高さがあった。
「今日は台を出すんだ」
「出す。二十六日は市の次の日だ」
「市って、東の道の」
「東の道のだ。次の日は落とし物が動く。動く日は台を出す」
キリは掘る手を止めた。それから、穴の底へ手のひらを当てる。当てている時間は、灯が四つ数える間。
「乾いてる」
「昨日はどうだった」
「昨日も乾いてた。二日続くのは久しぶりだ」
キリは立った。立つ時、右の膝へ手を置いた。置いてから体を起こして、途中でもう一度、同じ膝へ手を置いた。
灯はそれを見ている。二度だった。
四日前に見た時は、置く手は一度で、置いてからそのまま立ち上がっていた。二日前も一度。
灯は自分の指を折らなかった。折る代わりに、口の中で二と置いた。
「昨日の札、どうなった」
「昨日は出さん。二十五日は誰も出さん日だ」
「なんで出さないの」
「出しても来ん。来ん日に出すと、札のほうが先に古くなる」
キリは板の上の四枚を裏返した。四枚とも裏は白いままでいた。裏返した四枚をそのまま表へ戻す。
戻す手は速かった。速いのを、灯は横から見ていた。
「小路、今日も行くのか」
「行く。今日も数える」
「数えるだけなら誰も止めん」
キリは袋を肩へ掛けた。掛けた袋の底が板の脚へ当たって、当たった脚は掘ったほうだった。
灯は西の道へ入った。道は四つ角と同じ幅で、そこから先が細くなる。細くなる境で石の色が変わる。
名札小路の入口は、その細いところの右へ開いていた。小路は一つだけ。二十七軒の戸が向かい合って並んでいた。
入口の柱には釘が一本だけ余分に打ってあった。八月に灯が初めて来た時から、その釘には何も掛かっていなかった。
小路の土は真ん中だけ色が薄くなっていた。人の通る幅は灯の肩幅より狭い。
真ん中だけが低いのは、人の通るところだけ石のへこんだ駅の改札の前に似ていて、あれは何十年でそうなったと多田が前に言っていたが、ここが何年かは灯も知らない。
取り立ては月の頭に来て、その後は来ていなかった。輪を板へ置く音を、灯は三日の日に一度だけ聞いていた。今日はその音がしていない。
小路の匂いは木と、その下に湿った石。石のほうが強く立っていた。灯は鼻から二度吸って、口から出した。
息は白くならない。あちらの冬はそこが軽くできていた。
灯は入口から一枚ずつ見ていった。一軒目の札は二文字で、字は濃い。二軒目は三文字。三軒目は二文字で、上の一字の下の線が太かった。灯の字だった。
三軒目の札には下の縁に土が付いていた。落ちたことのある札。
札の高さはどの家も灯の頭より少しだけ上にあった。八月は背伸びをしないと下の縁に届いていなかった。
今日は背伸びをしないで届いた。届いてから、灯はそれに気づいた。
四軒目は三文字だった。書いた手は二軒目のものに近い。
五軒目のところで、灯は足を止めた。
札は釘に下がっていた。字は無かった。木の色だけが、板の面いっぱいに出ていた。
五軒目の戸は開いていた。
小路で戸の開いた家を、灯は八月に一軒だけ見ている。床に布の袋が一つ落ちていて、キリは一人も残っていないと言った。三日の日は、どの戸も閉まっていた。
灯は戸の前まで歩いた。三歩。歩く間、小路の奥から物の音は来なかった。
開いた戸の内側は暗かった。目が慣れるまでに、灯は六つ数えた。
中は狭い。床は土のままで、板は張っていなかった。奥の壁までは灯の五歩ぶん。
壁には何も掛かっていなかった。釘の跡も見えない。床の隅に、埃の寄った線が壁に沿って一本入っていた。
線は四方のうち三方にあって、戸の側だけ切れていた。
物は一つだけあった。
床の真ん中に、木の椅子が一つ置いてあった。脚は四本で、そのうち一本だけが短い。短い脚の下には木の切れ端がかませてある。
切れ端の厚みは指一本ぶん。縁が二度削ってある。
灯は中へ入らなかった。戸の枠のところで足を止めて、そこから見ていた。
椅子の座面には、布が敷いてある。布は四つに折ってあって、折り目のところだけ色が濃くなっていた。
灯はその布の色を覚えた。次に、目を椅子の脚へ戻した。
布の縁は片側だけ細く裂けていた。裂けた先は繕っていない。
外の光は戸の口の幅のぶんだけ土の上へ入っていた。光の届く先は椅子の脚の手前。
灯は戸の枠から手を引いた。手のひらに木の粉が付いている。白い粉で、黒いものは混ざっていなかった。
粉の出どころは戸の枠の下で、そこだけ木が薄く欠けていた。欠けは縦に五つ並んでいて、真ん中の一つが一番深かった。
名前を、灯は知らない。八月に書いた五人の中にも、十二月に書いたうめにも、この家の者は入っていなかった。
灯の唇が先に動いて、音の出る前で閉じた。
小路には誰もいない。
灯は五軒目の前を離れて、六軒目へ移る。そこの札は三文字で、字は濃かった。
七軒目と八軒目は、十二月の三日と同じだった。札は下がっていて、面は木の色のままだ。
十九日の日、キリは十一のままだと言っていた。十一のうち四つは灯が自分で数えた数で、あとの七つは取り立ての数えた数。
灯は数えはじめた。字の消えた札を、入口から順に。
五。七と八。十。十四と十五。十六。十九と二十と二十一。二十三。
十一枚。
灯はそこで止めなかった。止めずに、二十四軒目から二十七軒目までを見る。二十四は在る。二十五も在る。二十七も在っていた。
二十六軒目の札は、木の色だけになっていた。
字の跡はある。縁はどこにも立っていない。
十二枚。
灯は口の中で数を二度繰り返した。繰り返してから、間のほうを取っていた。
二、一、二、四、一、一、三、一、一、二、三。
そろっていなかった。十二月の三日に取った八つの間と、そろうのは頭から四つ目まで。五つ目から先は別の並びだった。
灯は五軒目のほうへ目を戻した。開いた戸の口は、ここからは細い線に見える。線の幅は指一本ぶんより狭く見えた。
三日の日、五軒目の札はもう木の色。八月に来た時は、字が読めた。
いつ読めなくなったのかは、数えていた日の間かもしれないし、数えていなかった日の間かもしれない。
灯は二十六軒目の壁を見た。入口の側は乾いていて、奥へ行くほど下が暗くなっている。二十六軒目は小路の奥のほうで、壁の下が暗くなっていた。
一番暗いのは二十二軒目の壁で、そこの札は今日も残っていた。三日の時と同じで、字も濃いままだった。
灯は二十二軒目の前まで歩いた。壁に手を当てる。手のひらのほうが先に冷たくなって、離しても温さは戻ってこなかった。
歩いた先の土も、真ん中だけ踏まれて低い。
この壁が一番湿っていた。この家の札は、今日も一番濃い。
灯は札を見上げた。木の目は横に走っていて、字はその目を横切っていた。
それから、奥の一枚へ目を戻す。二十六の壁は、二十二より乾いていた。
灯は指を折って数え直した。左の親指から順に、五、七、八、十、十四、十五。右へ渡って、十六、十九、二十、二十一、二十三。
両手が終わっても、二十六が残っていた。灯は右の親指をもう一度折り直した。折り直した指は、さっきと同じ指。
灯は手を下ろした。袖の内側では、指が冷えているのが分かった。
灯はノートを出した。右の余白には、木の目の向きを書く欄があった。
灯は入口から順に、二十七ぶんの向きを書いていく。字の在る札も、木の色だけの札も、同じように書いていった。
何のために書いているのかを、灯は決めていない。決めないで、鉛筆は上から下へ落ちていった。
三十一日まで、あと五日。書いても、日は同じ速さで減っていった。
十三軒目のところで、鉛筆が一度止まっていた。あの札は三日の日に替わっていた。字は三文字で、下の線が太くない。灯はそこにも向きを書いた。
小路の奥から人が一人出てきた。灯より背が高くて、両手には何も持っていない。上着の丈は膝まで届いていた。
その人は五軒目の前を通っていた。通る時、開いた戸のほうを見なかった。見ないまま速さも変えないで、そのまま入口のほうへ歩いてきた。
灯は道の端へ寄った。すれちがう時、その人の上着の裾が灯の靴の先に触れた。触れた側は右。
灯は振り返った。その人は入口で細い道へ折れて、見えなくなっていた。
小路を出る手前で、灯はもう一度だけ振り返った。五軒目の戸は開いたまま。開いた口の暗さは、入口から見ると小路の壁と同じ色をしていた。
*
東の道は上りきったところで一度だけ平らになっていた。灯はそこで足を止めて、来た側を振り返った。
小路の入口は、この高さからだと壁の切れ目にしか見えない。二十七軒ぶんの戸は一枚も見えていない。
市の日の枠は、入口のところに立ったままだった。上の横木のひもの切れ端は六つ。灯は数え直した。二度目も六つ。
振り返ったぶん、下りは急に来る。灯は歩幅を短くして、靴の外側から先に下ろした。
匂いの変わり目は、平らな道の半ばになる。油と、その下に焦げたもの。三日前より濃かった。
灯は吸った息を口から出した。白くなったぶんは、すぐに散る。
通りへ入る手前で、灯は数えるのをあとにした。今日は先に戸まで行くと決めていた。
板の道は歩くと一枚ずつ沈んでいた。沈み方まで数えると、また止まる。灯は端の二枚の上だけを選んで歩いた。
端は沈まない。沈まない板の上を歩くと、靴の底が乾いた音を返してきた。
突き当たりの取引所の戸は木で、押すと内側へ開いた。
入って、灯は上を見た。天井の近くの空気が動いていて、動いているところだけ埃が見えていた。
床の上は外と変わっていなかった。机は一列に八つ。座っているのは二つだった。三日前は三つ。
一番奥の机の脚のところに、椅子が一つ横向きに置いてある。引いた者は戻していない。
灯は手前の机の前に立った。書記は顔を上げない。手元の紙を左から右へ移していた。
「見学をお願いしに来ました」
書記の手が止まって、それから顔が上がった。
「線の外からですか」
「線の内側でお願いします」
「輪で二つになります」
灯は鞄の底へ手を入れた。輪は六つ。指の腹で二つを分けて、机の上へ置いた。
その二つは、他の四つより縁が滑らかになっている。
書記は輪を引き出しへ落とす。落ちた音は一度きり。それから机の下から薄い帳面を出して、後ろから四枚目のところで指を止めた。
引き出しの中は、輪の当たる音がしない。下に布が敷いてあることになる。
「二十六日、見学、輪二つ。支配人を呼びます」
書記は椅子から立った。机の横へ二歩出て、そこで止まっていた。奥の戸の横の柱を、指の背で二度たたいた。
灯は床の白い線を見た。線の粉は踏まれたところだけ薄くなっていた。白いままのところの幅は、灯の靴の三足ぶん。三日前は三足ぶんだった。
線の内側の床は、外側より暖かく感じられた。上履きの底ごしに、下から一拍おくれてくる温さで、朝の一本目の電車の床に似ていた。灯は線を越えて、机の縁まで二歩寄った。
「灯さん。小屋から二日ぶりになります」
ヨルは奥の戸から出てきた。上着の丈は膝まであって、前は留めていなかった。歩いても、裾が足に触れていない。
「三日前の帳面を見に来た」
「内側でしたら、お見せします。輪はもういただいております」
ヨルは机の上へ帳面を置いた。黒い表紙で、真ん中だけ色が抜けていた。抜けているところの形は手のひらに近かった。
表紙を開くと、七日前に見たのと同じ紙が出た。色は白くなかった。薄い黄で、下へ行くほど濃い。
左端に細い線が縦に引いてあった。線の左が数、右が字。数は上から下へ一つずつ増えて、飛んでいるところが見えない。
一枚に入るのは三十行で、下の余白は指二本ぶん。右の字は二つか三つで、四つのものは見あたらなかった。
紙の綴じ側には糸が通っている。糸の色は紙より濃くて、綴じ穴のまわりだけ紙が波打っていた。波打ちは下へ行くほど強くなっていた。開いた回数のぶんだと灯は思った。
灯は紙を上から下まで一度たどった。字の下に空きが三行。七日前は五行だった。
灯は右の欄を下から数えた。同じ手に見える行を、下から一つずつ。
十二。
もう一度、下から数え直した。二度目も十二。
「下から十二で、増えてない」
「今日のところは、まだ一行も増えておりません」
「三日前は十二だった」
「そうでしたか」
「空いてる行は減ってる」
「右の欄と左の欄が、同じ数で増えることはありません」
「左のほうが速いんだ」
「左の欄は日付です。入る日と、入らない日があります」
灯は左の列を見た。上から下へ、数が一つずつ増えていた。増え方は上のほうと同じで、飛んでいるところは無かった。
一番下の日付の数には値がつく。輪で一つ。灯は三日前にそれを聞いていた。
灯は下から三つ目の行へ目を落とした。夏に自分が書いた二文字と、形が同じになる。場所も動いていない。
「これ、あたしが買い戻せる」
「買い戻すという言い方を、こちらの帳面では使いません」
「じゃあ、なんて言うの」
「消す、になります。ただし、うちの帳面には消す欄がありません」
「無いのに、消せるの」
「消せます。欄が無いだけです」
ヨルは指を一本立てた。値を言う時の立て方。
「消す値はいくら」
「この欄の値は、輪では払えません」
灯は鞄の底を布の上から押した。四つの形が出る。四つとも縁は丸かった。
押した指の下で、四つは重なりを変えなかった。動かしても音は立たない。輪と輪の間には布が挟まっていた。
「輪ならまだ四つある」
「輪をいくつ数えていらっしゃいますか」
「四つでも足りないんだ」
「輪はこちらの帳面に載る物ではございません」
「三日前は輪で払った」
「あれは見学の代で、見学と帳面の中身は別の欄になります」
ヨルは指を立てたままにしていた。立てた指は一本で、二本目へは行かなかった。
「じゃあ何で払うの」
「こちら側で、灯さんのお家の者が覚えていることを一つになります」
灯は口を開けた。声は出なかった。
灯は開けた形のまま机の縁へ指を掛けた。掛けた先の木は、床より温かい。
「あたしのじゃだめなの」
「灯さんのぶんでしたら、もう入っております」
ヨルは左の欄を指した。指は紙に触れていなかった。触れない高さで止まっていた。
「家の者っていうのは、誰のこと」
「灯さんと同じ屋根の下で寝ておられる方になります」
灯は口の中で三つ数えた。母。祖母。それから、いない一人。
三つ目は同じ屋根の下では寝ていない。灯はそれを、三つ目に数えてから知った。
三つ目を数えたところで、灯は数えるのをやめた。やめても、三つは口の中に残る。
「どれになるの」
「どれになるかは、こちらでは選べません」
「選べるやりかたもあるんだ」
「選べる欄は輪で四十になります。灯さんは今日お持ちではありません」
灯は袖の内側を握った。布は昼より冷たかった。
灯は数を口の中で置いた。十九。今朝の四つ角の二と、この十九は並ばない。
並ばない二つを、灯は両方とも置いておいた。片方を消すと、もう片方だけが残る。
「払ったら、どれが無くなったか分かるの」
「分かりません。こちらにも分かりません」
「本人にも分からない」
「ご本人にも分からないことになります」
「なんで買うの。ヨルはなんで買うの」
「買った名を捨てたことは、一度もございません」
高さも速さも、値を読み上げる時のままだった。
灯の指は紙の手前で止まっていた。紙との間は、爪の長さより近かった。
灯は帳面の下から三つ目の行をもう一度見た。夏に書いた二文字と同じ形が、そこにあった。
書いたのは八月で、書いた場所は四つ角の板の上。木の目は横に走っていて、下の線を太くした。
その札は小屋の二列目の、上から二枚目に在った。二日前に灯が自分で起こしていた。
灯の口は開いたままだった。開いた形から音は出てこない。
やめてから、灯は机の縁から指を上げた。指の先に、木の温さが残っている。
「払う」
ヨルは何も言わずに、上着の内側から筆を出した。
筆は短くて、持つところが細い。黒いのは二か所だけで、他は木の色のままだった。
先は割れていない。毛は一本ずつ立つ。
ヨルは帳面の右の欄の一番下の行の下へ筆を置く。それから、上から下へ一度だけ動かした。
字は二つだった。
二つの間は詰まっていて、一つ目の終わりと二つ目の始まりが触れていた。
触れているところの墨は、両側より濃く沈んでいる。
灯は目を細めた。この距離では形まで出てこない。ヨルの手で字の上の半分が隠れている。
ずるいことをした、と灯は思った。自分のぶんでは払っていない。
書き終わると、ヨルは筆を上着の内側へ戻す。袖の口が机の縁を一度こすった。
こすった先の板は、そこだけ色が薄かった。同じところを何度もこすっていた。
「終わったんだ」
「はい。たしかに終わりました」
灯は自分の手を見た。手には何も無かった。
「あたしからは何も減ってない」
ヨルは帳面を閉じた。閉じる時、紙の端が机の板をこすって、こすった先だけ色が変わる。
「増えたのは一行です。書いたのはこちらの手になります」
*
外は入った時より暗かった。板の道の先の街灯は、行きより数えやすくなっていた。
戸を閉める時、灯は内側を一度だけ見た。書記は書く手を止めていなかった。ヨルは机の並びの向こう側へ下がって、そこで止まっている。
線の白い粉は、灯が越えたところだけ薄くなっていた。越えたのは二度で、行きと帰りで同じ場所を踏んでいた。
白いまま残っているところの幅は、行きに見た時と同じだった。
灯は板の道を戻った。歩くと一枚ずつ沈んで、真ん中の四枚が同じ順で沈む。
行きは端の二枚を選んで歩いた。帰りは選ばなかった。
沈む板の音は、行きより低くなっていた。踏む前に足を止める間が、行きより長い。
板が湿ったのだと灯は思った。
通りに入るところで、灯はあとにしていた数を取り戻した。柱は道の両側に立っていて、間はどれも同じ幅。
火は右に九。左に八。
右の三本目の柱の前を通る時、受け皿の中の火が一度だけ細くなっていた。
灯はそちらを見た。
道の向こう側に人が二人いた。二人とも歩く速さを変えていなかった。速さはそのままで、顔だけを反対の側へ向けた。
右の三本目の火は、細くなってから元へ戻らなかった。受け皿の中の明るいところが、下から順に小さくなっていく。
小さくなる間、灯は自分が息を止めているのに気づいた。気づいてから、吐いた。
小さくなる速さは、灯が三つ数える間に半分になった。半分から先は速い。
半分から下は、数える間が要らないほどだった。二つ数えるつもりで、一つで終わる。
灯は最後まで見た。通りにいる者は、誰もそちらへ顔を向けていない。
顔を向けていない者は、ほかにもいる。向かいの店の戸の内側にも人がいて、その人は棚のほうを向いたまま動かなかった。
棚の上には物が並んでいる。並べ直す手つきが、火の消える間ずっと同じ速さだった。
向こう側の二人のうち、背の低いほうは荷を抱えていた。抱えた荷の角が上着から出ていて、その角だけが柱の側を向いていた。
二人は壁のほうを向いたまま同じ速さで柱の前を過ぎていく。過ぎてから、顔をもとへ戻した。
戻すほうが、向けた時より速かった。
板の道の側から来た男は柱の手前で道を横へ渡って、そのまま歩いていく。
火が消えたあとの受け皿は、まだ明るく見えた。明るいところは縁の内側だけになる。
色は下のほうから抜けていった。抜けきるまでに、灯は十二数えた。
十二のうち、後ろの四つは口の中でも動かさなかった。動かすと、数える側。
灯は柱の前に立ったままでいた。立っている灯を、通りの誰も見ていない。
柱の木は温かくなかった。冷たくもない。土と同じ温さになる。灯は手のひらを当てて、すぐに引いた。
手のひらに、付いたものは無い。
灯は柱の下から上を見た。受け皿の縁までは手が届かなかった。届くのは柱の途中までだった。
柱の下の土には、細かいものが落ちていた。指で拾うと、黒くて硬い。押しても割れなかった。
灯はそれを元の土の上へ戻して、戻した先を靴の先で均した。
火の消えた柱の前を通り過ぎてから、灯は自分がさっきまで数えていた数を思い出そうとしたが、出てくる数はどれも今日のもので、昨日のぶんは一つも出てこなかった。
灯は通りを出るところまで歩いた。出る前に、もう一度だけ柱の列を目でたどる。たどる向きは、来た時と逆にした。
左の列の火は八つ。八つとも、受け皿の隙間から同じ幅で出ていた。隙間の幅は指一本ぶんに見えた。
右の列はいま消えた一本を抜くと八つになっていた。八つのうち、一番奥の一つだけが他より低い位置で光っている。受け皿が前へ傾いていた。
灯は板の道の入口の石へ手を置いた。石は行きより冷たかった。腕の重さだけを掛けて押すと、手のひらの真ん中が白く残っていた。
元の色へ戻るまで、灯は三つ数える。数え終わってから、手を上着の袖へ入れた。
袖の内側は温かった。温いのは腕の側だけで、布の外側は歩く度に冷たさを取り込んでいた。
板の道を出たところで、灯は一度だけ後ろを見た。通りの奥は、火が一本減っても暗くなっていなかった。
東の道の上りは、下りより長く感じる。
四つ角に戻ると、台はもう組んでいなかった。板は壁の下へ寄せてあった。キリはいない。
畳む時、キリは脚を先に外す。外した脚は板の裏へ差し込んで持って帰る。今日は脚が四本とも見えなかった。
寄せた板の木の目は、この向きだと縦に走って見えた。昼は横だったものになる。
灯は面へ指を当てた。板は土より冷えていて、冷たさは第一関節までで止まった。そこで灯は数を三つ置いた。十九。二。十二。
三つとも今日の数。三つのうち、どれが一番大きいかは決まっている。決まっているのに、灯には一番重い数がどれかが決められなかった。
灯は指を離した。離した先の板に、指の跡は残らなかった。
板の脚のところに、札が一枚落ちていた。字の側を下にして、土に触れていた。
灯はしゃがんで、それを裏返した。二文字。下の線が太かった。八月に灯が書いたものだった。
土は字の上には乗っていない。落ちた時に、字の側が先に着いていた。
灯は札の土を袖で払って、立てかけた板の面へ立て掛け直した。倒れないところまで押してから、手を離す。
押している間、指の下で札が二度すべっていた。三度目で止まる。
離しても倒れなかった。灯はそれを見てから、坂のほうへ向いた。
坂の上り口は、昼に踏んだ時より固い。日が落ちたぶん、上のほうから順に締まっていた。
灯は歩幅を狭くした。足の裏から先に置くと、細かいものが底の下で割れた。
音は一つずつ違っていた。同じ坂で、同じ靴で、同じ歩き方をしても、そろわない。
そろわないのに、灯は同じ歩き方を変えなかった。
壁の切れているところから、四つ角が下に見えた。板の白い面が、暗さの中で一つだけ浮いていた。
上りきる手前で、上着の内側の熱が背中の側だけ残っているのが分かった。前は冷えていた。
背中の熱は、坂の上で止まると先に抜ける。灯は止まらずに上りきった。
坂の上の土は、途中よりやわらかい。日の当たる時間が長い。
やわらかい土は、靴の底へ細かいものを付けて離さなかった。
坂を上る時はいつもそうなる。下る時は逆。
扉の前は風が来なかった。壁が三方に立っていて、上だけが開いている。灯は上を見た。何も無かった。
鞄の口を開けると、上履きの甲が先に指へ当たっていた。昨日から入れたままで、内側の字は今日も読めなかった。
灯は上履きを右の側へ寄せて、その下からノートを出した。上履きの下に置いたのは、昨日の自分。
ノートは三枚目で自然に開いた。四つ角で書いた名が二十一。名の右に日付。日付の右に木の目の向き。
灯は今日の欄を上から下へ読み直した。横。横。縦。二十七ぶんが並んでいた。
二十七のどれにも、名前は書いていなかった。書いていないのは、灯が名を知らないからだった。
小路で名を書いたのは八月の五人と、十二月のうめ。六人とも、この二十七のどこかに立っていた。
どこかは分からなかった。灯は分かるところまで書いて、そこで止めていた。
ノートを閉じる前に、灯は下の線の太い字を数えた。九つ。二日前と同じ。
九つのうち、どれが八月のものかは、この紙からは出てこなかった。日付の欄は飛んでいて、飛んだところの前後がつながらなかった。
灯はノートを鞄へ戻した。戻した先は上履きの下ではなく、輪の反対の側。
鞄の口を締めると、中の四つが一度だけ動いた。それきり、また止まる。
灯は鞄を肩へ掛け直した。掛けたひもの長さは、八月から一つも詰めていなかった。
肩の骨のところに、ひもの当たる場所があった。そこだけ上着の布が薄くなっていた。
灯は歩き出した。歩きながら口の中で数を置いた。
右に八。左に八。




