第044話 拾い納め
朝の玄関は昨日より一つぶん狭い。
傘立ての前に段ボールの箱が置いてあった。中身は新聞で、上まで詰まっていた。出したのは母で、昨日の夜。
箱の横に紙が貼ってあった。朝のうちに出す、と書いてあった。紙は貼り直した跡があって、角が二重になっていた。
灯は箱を横へ寄せた。動かした先で、箱の底が土間の縁に当たる。音は一度きり。
傘立てには傘が五本。灯のは三番目で、木の柄の先が他の四本より少しだけ上に出ていた。柄の内側には祖母の字があった。字は柄の同じところにあって、そこだけ色が濃くなっていた。
五本のうち、動いた跡があるのは二本だけだった。祖母のと、母の。あとの三本は底の位置が昨日と同じところにあった。
灯は自分の傘の柄へ指を掛けて、上へ少しだけ引く。引いた先で手を離すと、金物の底へ落ちて、落ちた音が一度した。
祖母は上がり口にいた。手は上着の前で合わせてあった。
上着の前は昨日と同じところで留めてある。留め具は上から三つ目までで、四つ目から下は開いていた。
「今日も学校かい」
「うん。箱の日だから」
祖母は傘立てのほうを見なかった。見ているのは灯の靴の先で、そこから目を上げなかった。
「弁当はいるかい」
「いらない。すぐ帰る」
祖母はうなずいた。それから、上がり口の縁へ手を掛けて、少しだけ体を低くする。低くしてから、また戻した。
灯は靴のかかとを土間の縁へ二度当てた。二度とも同じ高さの音がした。
外は昨日より明るくなっていた。空の色は薄くて、雲の切れ目が東のほうに一本だけ入っていた。切れ目の幅は指三本ぶん。
切れ目の中は、まわりの雲より白く見えた。白いところの端は、右のほうだけがぼやけていた。
門の前で、灯は一度だけ振り返った。玄関の戸は閉まっていた。閉まった戸の下の隙間から、土間の明かりが細く出ていた。
祖母はまだ上がり口に立っている。立っているのは足の影で分かった。影は隙間の幅のところで二度切れていて、切れ目の間が動かない。
道は八百歩ぶんある。灯は数えなかった。数えるのは学校のある日だけになっていた。
数えないと、道は短くなる。同じ角を二つ曲がって、二つ目で塀が終わる。
塀の終わりで、道は駅前の広いところへ出た。年末の朝の広場には人が四人いて、四人とも荷を持っていた。
荷はどれも同じ紙の袋で、袋の口だけが違う。
改札の時計は八時六分。腕の時計は八時五分。差はいつも同じ向きに出る。
灯は改札の手前で足を止めた。学校のある日はここで止まらない。止まれば、そのぶん遅れる。
今日は間に合わせるものが無かった。
改札の向こうは階段で、階段の上がホームだった。上から音が下りてきた。鉄が鳴って、それから風が来ていた。
風は改札を通って、灯の前まで届いた。トンネルの中の空気は外より温いはずで、当たったものは温くない。
灯はもう一度、改札の向こうへ目を上げた。
電車が入ってくる音は、止まる手前で一度だけ上がった。それから、下がる。
戸の開く音は届かなかった。届いたのは、人の足が階段を下りてくるほうになる。
下りてきたのは七人。七人とも改札を出て、広場のほうへ散っていった。向きは四つに分かれていた。
四つのうち一つは、灯の立っているほうへ向いた。その人は灯の横を通って、そのまま後ろへ抜けていった。
上着の裾が灯の鞄へ当たった。左の側になる。
灯はその七人を最後まで目で追う。後ろから来る者はいなかった。
電車の出ていく音は、入ってきた時より長かった。細くなって、途中で切れる。
灯は改札の前から動かずにいた。上の音はしばらくするともう一度そろい直す。次のが来るまでの間、駅は静かになるらしい。
灯は地下への階段の口を見た。今日は下りない。多田が言った時刻は午前で、下りて上がる時間は入らない。
灯は改札に背を向けて歩き出した。
校門の内側の掲示板には、四枚の紙が貼ってあった。十二月の一枚は右から二番目。四日前に読んだ紙で、日付は二十日のままだった。
灯はその下の小さい字をもう一度読んだ。置き場所のことが書いてある。字の下の縁が波を打っていた。紙が湿ってから乾いていた。
四枚の紙は画びょうの数が違う。十二月のは四つ、あとの三枚は二つずつ。
昇降口の戸は片側だけ開く。冬休みは片側で足りる。開いていないほうの戸の下に、砂が細く寄っていた。
開いた側の戸の車輪が、下のところで一度だけ音を返した。
寄せたのは風。人の手なら、境がまっすぐに切れていた。
砂の中に、青い紙の切れ端が一つ交ざっていた。灯はそれを拾わなかった。
灯は自分の名前の下から上履きを出した。甲の内側の字は二十一日に書き足したままだった。上と下の二つは小さくて、真ん中の一つより濃い。
灯はそれを履いた。かかとを指で起こす。減っているのは内側のほうだった。
廊下の窓は北を向いていた。朝のうちは日が入らない。床の色は端から端まで同じ暗さに見えた。
昇降口の内側で、みずきが上履きを履いていた。冬休みの三日目に学校で会ったのは、灯は初めてだった。
「おはよう」
「おはよう。箱、見に来たの」
「箱。見にきただけ」
「あたしは部活。今日は二時間だけ」
みずきはしゃがんだ姿勢でかかとを指で二度起こしていた。
みずきは立って、上履きの先で床を一度こすった。こすった跡に色は付かない。
こする音のほうが、みずきの声より高く聞こえた。
こする音は、廊下の側へ抜けていった。冬休みの校舎は、音の行く先が決まっていた。
みずきの上履きのかかとは、外側だけが減っていた。灯のは内側から減る。二人の減り方は四月から逆のままだった。
教室の戸は開いていた。机はいつもの場所にある。人は一人だけだった。
灯は自分の席へ着く。天板の木の目は右の端で一度切れていて、そこから先だけ向きがずれていた。
灯は指の腹でその切れ目をなぞった。四月からずっと同じ場所にある切れ目で、なぞる度に爪の先が一度だけ引っかかる。
机の中は空。教科書は二十二日に全部持って帰っていた。中の板には、消しゴムのかすが二つだけ残っていた。
二つのかすは、同じ大きさになっていなかった。大きいほうは角が丸く、小さいほうは角が立っていた。
灯は指を入れて、二つとも手のひらへ載せた。載せてから、机の横のごみ箱を見る。ごみ箱に袋は入っていなかった。
灯はかすを上着のポケットへ入れた。入れた先で、指の先にまだ二つの形が残っていた。
ポケットの底には、四月からの綿ぼこりが薄く敷かれていて、かすはその上に載ったまま沈まなかった。
窓のところの壁には、給食の献立表がまだ貼ってある。二十三日から先の枠は白かった。白い枠は九つ並んでいた。
白い枠には線だけが引いてあった。線を引いた紙がまだ掛かっているぶん、冬休みは表の内側にあることになる。
黒板の右の端には、二学期の残りの予定が二行のまま残っていた。二行とも横線で消してあった。線は定規で引いてあって、字の幅からはみ出していなかった。
消した線の下の白い粉は、まだ黒板の縁に残っていた。粉は端のほうへ寄っている。消した者は右から左へ拭いた。
線を引いた者は、引く前に字の幅を測っていた。灯はその二本を見て、下に空いている場所のほうを見た。空いているところには何も引かれていない。
柊は窓側の一番前にいた。机の上には何も出ていない。両手は膝の上で、右のほうだけが上着のポケットへ入っていた。
窓側の一番前は、朝のうちだけ日が当たっていなかった。壁の側になるからで、柊はいつもそこにいる。
灯は自分の席から柊の背中を見た。上着の肩は、片方だけが下がって見えた。
灯は職員室の前まで歩いた。戸は開いている。中の石油の匂いは、天井の側へ上がって、そこで止まっていた。
多田は入口に近い机にいた。左手に紙の束、右手には何も持っていなかった。
束は二つに分けてあった。上のほうが薄くて、下のほうが厚い。多田はそれを机の上へ置いて、上の束だけを右へずらす。
ずらした先の角は、机の縁とそろっていた。そろえたのは置いた後で、置く時ではなかった。
「先生、いいですか」
「灯。どうしましたか」
「箱、今日ですか。体育館の裏の」
「今日です。午前に来ます」
多田は暦のほうを見なかった。目は灯の顔の高さのところにある。
「片づけは、あと何人来ますか」
「来る人は決まっていません」
多田はそれだけ言って、下の束を左へずらした。ずらした先も、机の縁とそろっていた。
職員室の中で音を立てているのは、奥のほうの一人だけだった。紙をそろえる音が、間を空けて三度した。
三度目のあとは何も来ない。灯は戸のところで待ってから、そこを離れた。
離れる時、机の上の紙が一枚だけ風で動いて見えた。
*
冬休みの廊下で音の出るところは決まっていた。職員室と、その先の給湯室と、体育館の側の戸。
灯は教室へ戻る間に、三つを順に聞いた。
教室に戻ると、柊はまだ同じところに座っていた。座り方も、灯が出ていく前と同じに見えた。
みずきの席は廊下側の一番前で、そこは朝から空のままになる。
窓の外は明るいままだった。雲の切れ目は朝より広がっていて、幅は指五本ぶんになっていた。
灯は窓の下の暖房へ手を当てた。入っていない。冬休みは職員室だけだった。
暖房の金物の上には、埃が薄く一列にたまっていた。列の幅は指一本ぶん。端のところだけが切れる。
切れているところは、誰かが物を置いた跡。置いた物の大きさは、灯の手のひらより小さかった。
当てた手のひらは、金物のぶんだけ冷えて戻る。灯はその手を上着の袖へ入れた。
「柊くん」
柊は顔を上げた。それから、机の中へ手を入れる。
「柊くんの箱、久しぶりに見た」
「知らない」
柊は箱を出した。小さい箱で、蓋は別になっていた。十二月の初めに灯が横から見た時より、角の紙が擦れて見えた。
蓋を開けると、中は仕切ってあった。厚紙を切って、縦に二本、横に一本。それで六つに分かれていた。
二十三日前に見た時、中は仕切っていなかった。物は底へ直に入っていて、置き方だけが決まっていた。
左上に金物の輪。灯の持っているのより一回り小さいものが並んでいて、大きさの順に置いてある。
その右にボルト。ボルトは頭の形で分けてあった。六角のものと、溝が一本のもの。溝が一本のほうは少なかった。
「これとこれ、下が同じじゃん」
「頭がちがう」
「下で分ければいいのに」
「下は回らない」
灯は六角のほうを一つつまんだ。指の腹で回すと、溝の側の面が順に来る。六つ来て、また一つ目へ戻っていた。
戻ったところで、灯は指を止めた。止めた先の面は、最初に上を向いていた面と同じだった。
「これ、六回で戻る」
「戻る」
「柊くん、それも知ってたの」
「知ってた」
右上には片方だけの耳の物。三つ。三つとも線の付け根が同じ向きに折れていた。
三つの折れ方は、深さが少しずつ違った。一番深いものは、折れた先が反対側へ回って見えた。
三つの並びは、崩すと元へ戻らなくなる。灯は指を近づけずに数えていた。
三つとも、切れた側の縁が同じ形に潰れて見えた。同じ工具で切った跡になっていた。
下の段の左は石。石は色で分けてあるように見える。灰と、灰より白いもの。
灰のほうが多かった。白いほうは三つ。三つとも角が丸い。
真ん中は紙。折り目の付いたものと、丸めた跡のあるもの。字の書いてあるものは無い。
折り目の付いたほうが多く見えた。丸めた跡のあるものは二つで、二つとも同じ大きさに丸めてあった。
「字の書いてあるのは、入れないほう」
「入れない」
「なんで」
「誰のか分かる」
鞄のほうを、灯は一度見た。中には四つ折りの紙と、青い表紙のノート。二つとも字のあるものになる。
灯の舌が上あごへ一度当たって、そこで止まった。
右下は空だった。
横の厚紙はまっすぐではなくて、右へ行くほど下がっていた。右下が一番浅い。
灯はそこへ指を伸ばして、触る前で止めた。
「右の下だけ、まだ入ってない」
「どれでもないやつ」
柊は指を右下の区画へ置いた。すぐに離す。
「今は空だけど」
「ある」
柊はポケットへ手を入れた。手はしばらく出てこない。出てきた時、手のひらの上に金物が一つ載っていた。
平たくて、真ん中に穴が一つ開いている。穴の縁は片側だけ潰れていた。
「それ、輪に見えるけど」
「輪だと思ったやつ」
灯はそれを見た。輪ではない。輪なら穴の縁の厚さがそろう。これは片側が薄く、その側に細い傷が三本。向きは三本とも同じで、間の幅もそろっていた。
鞄の底を布の上から押した。六つの形が出る。六つとも縁は丸かった。
「これ、輪の仲間じゃないんだ」
「別のところ」
「でも輪のところに入れないんだ」
「入れたら分かんなくなる」
柊は金物を右下の区画へ置いた。置くと、仕切りの厚紙より低くなって、上から見ると区画の底の色に近くなる。
「置いたら見えなくなるじゃん」
「見える。おれは見える」
柊は蓋を持ち上げて、箱を傾けた。その先で、輪だけが左上の中で寄る。寄る音は一度きり。
寄る前に、箱の底が机の板を短く鳴らして聞こえた。
「いま動いたの、どれ」
「輪。三つ」
「三つって、よく分かる」
「音が三つ」
柊は箱の縁を持ったままでいた。指の先は白くない。持つ力が要らない重さに見えた。
灯は箱の中をのぞいた。左上の輪は寄って、隅で重なる。何個あるかは、上から見ただけでは分からない。
重なった二つのうち、下のほうは縁が欠けていた。欠けた側を上にする者はいない。柊は置き直していない。
「数えてないでしょ」
「数えてない」
「じゃあ三つって、なんで分かるの」
「三つ鳴った」
灯は笑った。声が出て、出た先で自分でも止まらなかった。
止まってから、口の横のところがしばらく元へ戻らない。
「三つ鳴ったら三つってことか」
「三つ鳴った」
「四つ鳴ったら」
「四つ」
「零だったら」
「入ってない」
灯は箱の中をもう一度のぞいた。左上には輪が、隅で重なっていた。零ではない。
零ではないのに、柊は零の答えを持っていた。持っていて、使わないままにしていた。
「もう一回やって」
柊はもう一度傾けた。今度は前より浅く見えた。
「今のは」
「二つ」
「二つ鳴ったの」
「二つ鳴った」
灯は三度目を頼まずにいた。代わりに、自分の鞄を持ち上げて、底を横へ傾けた。中で輪が寄る。
「今の何個」
柊は少し考えた。その間、目は灯のほうを見ていない。
「六つ」
「当たり」
「六つは音が長い」
「長いだけで数が分かるんだ」
「六つは長い。七つはもっと長い」
灯は七つ入れたことがなかった。入れたら長いのかどうかも、七つを持っていないので確かめられなかった。
「七つは聞いたことないんだ」
「無い」
灯はもう一度鞄を傾けた。今度は前より深く倒す。中で輪が寄って、寄った先で止まる。
「今のは」
「六つ」
「同じにしたつもりないけど」
「同じ六つ」
柊は自分の膝の上へ手を下ろした。手はまた右のポケットへ入る。
柊は自分の箱の蓋を閉じた。それから、机の中へ戻す。戻す時に、机の縁で箱の角が一度引っかかった。
引っかかったところの紙は、前からそこだけ白くなっていた。何度も同じ角が当たっていた。
灯は自分の机の中へもう一度手を入れた。指に当たるものは、消しゴムのかす二つだけだった。
天板の裏の金具には、赤い粉が浮いていた。粉は四月からそこにあって、指で押すと落ちる。灯は押さなかった。
「柊くんのは、いくつあるの」
「知らない」
「数を知らないのに、分けてる」
「分ける。数えない」
「数えたら、いくつか分かるのに」
「分けたら分かる」
「分けても数は分かんないでしょ」
「分かる」
灯は箱の蓋の裏を見た。裏には何も書いていなかった。紙の色は表より薄くて、真ん中のところだけ指の跡で濃くなっていた。
蓋の四隅のうち、二つだけが内側へ折れ癖を持つ。折れているのは開ける側の二つだった。
跡は一か所ではなくて、同じ場所に何度も付いていた。押さえる指の位置が、いつも同じところにあった。
鞄の口を閉めた。指の下で、青い表紙のノートの角が布を押し返していた。
戸のところにみずきがいた。部活の帰りで、鞄はもう肩に掛かっている。教室にいるのは三人になっていた。
みずきは通路を一本ぶん寄って通る。通り道が灯の机の横。
「よいお年を」
「よいお年を」
灯は顔を上げた。その時、みずきはもう半歩先へ出ていた。
四日前、みずきはこの掲示板の前に立っていた。袖の内側の手で、紙の下の縁を押さえている。灯はそれを門の柱のところから見ていた。
みずきは戸のところで一度だけ足を止めた。戸の枠へ手を掛ける。掛けた手はすぐ離れた。
離れた先の枠に、手の形は残っていなかった。木の色は掛ける前と同じに見えた。
廊下を行く音は、四歩めで曲がっていた。曲がってからは、板の鳴り方が低くなる。
窓の外で車の音がした。門のほうから来て、校舎の裏へ回っていった。音は途中で一度低くなって、それから止まっていた。
柊は窓のほうを見た。それから、灯のほうへ目を戻す。
「業者」
「二十五日って言ってた」
「行く」
柊が立ち上がった。椅子の脚が床を擦って、その音のほうが車の音より大きかった。
*
体育館の裏へ回る道は、渡り廊下の途中から折れた。両側とも壁が無い。柱は六本で、間の幅はどれも同じだった。
六本目の柱で渡り廊下が終わる。その先は土で、今日も締まっていた。踏んでも沈まなかった。
柱の根元には、雨の落ちる線が一本ずつ入っていた。線の側は六本ともそろっている。
張り出した屋根の下の壁を、細い線が横に切っていた。塗り替えの境に見えた。下のほうが新しかった。四日前にみずきがその線の下へ背中を付けていた。
灯は同じところへ手のひらを当てた。壁が温くなるまでに、四つ数える。
二度目は五つ。三度目はやらなかった。
青い箱は三つとも無かった。
箱のあったところの土は、まわりより色が薄い。四角い跡が三つ、間を空けて並んでいた。跡の縁は指でなぞれるほどはっきりしていた。
三つとも、縁の四辺のうち一辺だけが薄れている。庇の側の一辺。庇の縁から落ちたものが、そこへ一列に当たっていた。薄れ方は三つとも同じ幅で、指の腹一つぶんだった。
灯は一つ目の跡の四辺を目でたどった。長い辺と短い辺の差は、灯の手のひらの半分ほど。三つとも同じ形をしていた。
灯は一つ目の跡の縁へしゃがんだ。しゃがむと、土の冷たさが膝の前から来た。
跡の内側の土は、まわりより色が薄い。給食の器を持ち上げた後の給食台に似ていた。
跡の内側の土には、細かいものが落ちていなかった。外側には枯れた葉と、砂と、給食の粉の牛乳に似た白いものがあった。それは指で触ると付いて、袖でこすると取れた。
匂いは土と、その上に鉄。鉄のほうは新しく来ていた。灯は二度吸って、口から出す。三度目に来るものは無かった。
鉄の匂いは、二度目のほうが強く来た。
鉄の匂いは車の止まっていたあたりから、一番強く来た。灯はそちらへ三歩寄って、そこで止まる。
止まった先の土に、油が丸く落ちて見えた。丸は二つで、大きいほうが手のひら、小さいほうが親指の頭ほどだった。丸の縁のところだけ、土の色が濃かった。
大きいほうの縁は、触れば指に付く。付けば上着でこすっても取れない。
丸の内側には土が浮いていて、浮いた土だけが乾いていた。下はまだ乾いていなかった。
「三つとも持っていかれた」
「行った」
柊は二つ目の跡の前にいる。手はポケット。灯はそちらを見上げてから、目を土へ戻した。
二つ目の跡の内側に、一つだけ物が残っていた。
上履きだった。片方だけで、底を上にして落ちていた。灯は手を伸ばして、底のほうから持ち上げた。
底の模様は真ん中に丸が三つ。四つのほうが新しいと、みずきが言っていた。これは三つだった。
甲の内側を光のほうへ向けた。字はあった。三つの形が並んでいて、上と下は丸だけになっていた。真ん中も丸に近かった。丸に近い。ただし丸ではない。
灯は指の腹でその上をなぞる。布の目が指に引っかかる場所は無い。どこも同じ手ざわりだった。
四日前に読めたものは四つで、四つとも十二月二十一日の放課後に無くなっていた。これは読めるほうではない。
灯は上履きを持ったまま立ち上がった。立つと、膝の前だけが冷たいまま残る。
持ち上げた重さは、思っていたより軽かった。片方だけで、中身も入っていない。それでも、手の中で形が崩れずに立っていた。
かかとのところの布は、内側だけが薄くなっていた。灯の上履きも、減るのは内側だった。
薄くなったところの布の目は、まだ切れていなかった。切れる手前で、履く者がいなくなっていた。
柊は三つ目の跡のところにいた。しゃがんで、跡の縁の土を指で押している。押した先の土は沈まなかった。
「柊くん」
柊は顔を上げた。
「これ、どこに入る」
灯は上履きを持ち上げて見せた。柊はそれを見た。目を向けていた時間は、灯が三つ数える間だった。
「入らない」
「これは入らない」
「大きい」
手の中のそれを、灯はもう一度見た。柊の箱に入る大きさではない。仕切りの厚紙より、上履きのほうがずっと大きく見えた。
柊は立ち上がって、渡り廊下のほうへ二歩歩いた。歩いてから、一度だけ振り返る。
「持ってく」
「あたしが持ってく」
柊はそれ以上言わない。言わないで、そのまま渡り廊下のほうへ戻っていった。柱の六本目のところで、上履きの底が土の縁で一度滑る。滑ってから、柊は足を横へ置き直した。
灯はもう一度しゃがんだ。三つの跡は、間の幅がそろっていなかった。一つ目と二つ目の間は靴の二足ぶん、二つ目と三つ目の間は三足ぶんある。
四日前に並べた時は、三つとも壁に付けて置いてあった。いま残っている跡は、壁から指四本ぶん離れていた。運ぶ時に一度手前へ引いていた。
引いた跡が土の上に細く残る。四角い跡の壁側の辺から、手前へ向かって二本。二本の間は箱の幅と同じだった。
灯は二本の跡を指でなぞった。なぞると、指の腹に土が付く。付いた土は、跡の内側の色ではなくて、外側の色をしていた。
跡の外側の土に、車の輪の跡が二本入っていた。二本の間は灯の肩幅より広かった。跡の底は乾いていて、今日の土の色より薄く見えた。
跡の縁は片側だけが立っていて、そちらが車の止まった側。
灯は輪の跡を目でたどった。跡は校舎の角のところで切れていた。そこから先はアスファルトになって、跡の付く場所が無くなっていた。
風が来た。校舎と体育館の間を抜けてきた風で、まっすぐ顔へ当たる。髪は後ろへ寄って、耳の縁だけが出た。
冷えるのは耳の縁だけ。灯は襟へ指を掛けて、そのまま下ろす。
もう帰っていいのだと灯は思った。
灯は三つ目の跡の前から動かなかった。膝の前の冷たさは、しゃがんでいた時のまま残っていた。
跡の内側の土へ、手に持っていないほうの指を置く。指の腹に土は付かなかった。
三つの跡の内側は、どこも同じ色をしていた。庇から落ちたものは、四角の内側までは届いていなかった。
灯は跡の中へ立ってみた。立つと、足が二つとも内側に収まる。箱の底の面積は、灯の靴の二足ぶんより少しだけ広かった。
立った先の土は、上に箱の載っていたぶんだけ踏まれずに済んで見えた。
四日前の昼にここへ来た時、箱は壁に付けて三つ並んでいた。灯は一人でその前にしゃがんで、二十三を土の上へ全部出して、それから底を上にして戻した。戻した順は、大きさでも字の濃さでもなかった。
いま立っている場所は、そのうちの三つ目の箱の内側。四日前に灯が最後の一足を入れたのは、一つ目の箱だった。
灯はそこに立ったままで、四日前に数えた数を口の中に置いた。十三足で二十三。読めるのは四つ。四つはその日のうちに無くなって、残りの十九が今日までここに在っていた。
二十三から四を引くと十九。十九から一を引くと十八。灯は手の中の片方を見て、その引き算を二度やった。二度とも同じ数だった。
鞄の中のノートは、四つ角の紙のところで止まる癖がついていた。開けば、そこが出てくる。
出てくるのは二十一の名で、名の下の線は九つが太かった。数は四日前から動いていない。
跡の外側の土に指を置くと、そちらは付いた。灯はそれを袖でこすった。こすると取れて、袖の色は変わらない。
灯は手の中の片方を、三つ目の跡の内側へ一度だけ置いてみた。置くと、底の丸三つが土に浅い跡を作っていた。
持ち上げても、丸は残っていた。指で押しても消えない。
押した指の下で、土だけが少し沈んで見えた。
灯は同じ場所へもう一度置いてみた。置いた先で、丸は前の丸とわずかにずれる。ずれた幅は爪の半分ぶんだった。
二度目の丸のほうが深かった。押した力が違ったことになる。
灯は鞄の口を開けた。中は筆箱と、青い表紙のノート。輪は下の段に六つ。
上履きを入れると、ノートの上に載る形になった。底の丸三つが、青い表紙の真ん中のところに当たる。
鞄の口を閉めて、外側から一度だけ押す。六つの形は出てこなかった。上履きのぶんで、布の張りが変わっていた。
空の雲の切れ目は、朝の指三本ぶんから、昼の指五本ぶんを通り過ぎて、いまは体育館の屋根の端から端まで届いていた。中の色はまわりの雲より白かった。
そこから先は広がらなかった。
四角い跡の内側に、丸が三つ残っていた。




