第043話 夜の番
台の上には札が五枚出ていた。
五枚とも字の書いてある側を上に向けてあった。昨日は二枚で、二枚とも裏を上にしてあった。
キリは板の後ろに立って、五枚の間隔を直していた。直すと、間は指二本ぶんでそろう。
「今日は出すんだ」
「出す。二十四日は客が来る。年に一度そういう日がある」
「なんで来るの」
「知らん。来るから出す。来ん年もあるが、出しておくのは同じだ」
灯は板の右の端に立った。板の端は腰より指二本ぶん低かった。高さは前と同じになっていた。
台の脚の下には石が四つ。四つのうち一つだけ、まわりの土がまだ湿っていた。二日前も同じ一つだった。
湿っているのは掘り返した脚のほうで、埋め直してからずっと乾かない。灯は指を入れなかった。
朝の霜は枠の下にだけ残っている。四つ角の真ん中はもう乾いていた。日の当たる時刻が一番遅いところだけ、白く残っていた。
空は昨日より低い。低いというより、雲の底が平らになっていた。灯は首を戻した。
五枚の木の目は、四枚が横に走っていて、一枚だけ縦に走っている。縦の一枚は右の端にあった。
灯はその一枚を指でなぞった。目は端まで切れずに通っていた。書くなら下の線を細くする札。
東の道から客が一人来た。灯の背より頭一つ高い。両手には何も持っていなかった。
客は板の前で足を止めて、五枚を上から見た。それから、右の端の縦の一枚を指した。
「これに」
「今日は書かん」
キリはそれだけ言った。客は指を下ろして、板の前から動かない。
動かずに、五枚をもう一度上から見た。それから、東の道のほうへ戻っていった。
灯はその背中を見た。上着の裾は膝の上で切れていて、歩く度に左だけが跳ねる。
「書けばよかったのに」
「今日は書かん。書くと、明日また来る」
「来ちゃいけないの」
「いけなくはない。だが二十四日に書いた札は、次の日に無くなる。三年で三度あった」
灯は板の上の五枚を見た。五枚とも字が書いてあった。書いたのは灯ではない。
「その三度も、字が入ってた」
「入ってた。入ってないのは無くならん」
キリは布を袋へ入れた。袋へ入れる手は速い。
「今日は書かないよ」
「そうか。書かん日の札は俺が持って帰る」
「小屋に行く」
キリの手は札に乗ったままだった。そのうえで、二枚目を一枚目の下へ半分ずらす。
「南の道の三つ目を左だ」
「覚えてる」
「なら言うことは無い。道は変わっとらん」
灯は鞄の底へ手を入れた。輪は四つ入っていた。上の段に二つ、下の段に二つ。指の腹で四つとも触っていた。
触った四つのうち、二つは縁が滑らかだった。昨日ヨルの机の上へ出した二つではない。あれは書記の引き出しへ落ちた。
残った四つは、どれも縁に一か所ずつ欠けがあった。欠けの場所は四つとも違っている。
「番は昼だって言ってた」
「言った。昼の番で一日ぶんの値がつく」
「置いてく人は夜に来るって」
「言った」
キリは三枚目を置いた。次に、板の縁を布で一度だけ拭いた。布の通った先の木の色が濃くなった。
「札はまだ十枚のまま」
「知らん。数えてない。数えると数えたぶんの責めが来る」
「番してるのに」
「番は物の番だ。札は物じゃない」
キリは前と同じ言い方をした。灯はそれを二度目に聞いたことになる。
二度目のほうが、一度目より短く聞こえた。短いのは言葉の数ではなくて、間のほうだった。
「今日も番するの」
「する。昼の間だ」
「夜は」
「夜は帰る。夜まで居たことは三年で一度も無い」
灯は聞こうとした言葉を、喉の手前で押さえた。声にはしなかった。
キリは四枚目と五枚目を並べ終えて、袋の口のひもを結んだ。結び目は二つで、二つ目を一つ目の上へ重ねた。
「灯」
「なに」
「小屋の板の壁は隙間が無い。中を暗くするためだ」
「知ってる」
「知ってるなら、裏の板の切れ端の山も見たろう」
「見た。胸のあたりまであった」
キリはそれ以上言わなかった。言わずに、袋を肩へ掛けた。
袋の底が脚に触れていた。触れたのは、土へめり込んでいるほうの一本になる。
東の道の枠に残るひもの切れ端は、夜でも六つあった。灯は指で二度なぞって、同じ数を取る。
昨日から動いていなかった。灯は口の中で六と置いてから、南の道のほうを見た。
南の道は坂の上へ向かっていた。坂の上に扉が在って、灯はそこから来た。
小屋へ行くには、坂を上らずに三つ目の角まで平らに歩く。歩く距離は四つ角から二百歩ほど。
二百歩は十四日前に数えた。行きだけの数で、帰りは数えていない。
帰りは数えなかった。
南の道の土は、東の道より柔らかかった。荷車が通らないぶん、踏み固まっていない。
灯は道の真ん中を歩いた。真ん中は両側より少しだけ高かった。雨の日に水がよける形になっていた。
一つ目の角の壁の下には、割れた器が三つ置いてあった。三つとも口の側を上に向けてある。
十四日前は二つ。増えた一つは一番手前で、割れ目が新しい。灯は指でその縁をなぞった。
指には何も付かない。割れてから日が経っていないのに、粉が出てこなかった。
二つ目の角までの間に、灯は歩数を数えた。四つ角からここまでで百二十。前と同じ数になっていた。
二つ目の角の先で、道の幅が狭くなっていた。狭いところは灯が両手を広げて少し余った。
壁は左だけが高かった。右は腰の高さで途切れていて、その先は空き地になっている。
空き地の土には、荷車の轍が二本入っていた。轍の底は乾いていた。今日の跡ではなかった。
二本の間の幅を、灯は目で測った。四つ角の枠の下の轍より広い。同じ車ではないことになる。
灯は歩き出した。歩き出してから、一度だけ振り返っている。
四つ角はもう見えなくなっていた。見えるのは一つ目の角の壁と、その下の割れた器の三つだけになっていた。
三つ目の角を左へ折れると、道が急に開けた。
その先に小屋が一つ建っていた。屋根は板を重ねてある。重なりの向きは十四日前と同じで、南へ流していた。
板の壁には隙間が無かった。灯は壁の下から上まで目でたどった。継ぎ目の線は縦に六本走っていた。六本とも通っている。
戸は無かった。壁の一面が口を開けていて、口の高さは灯の頭より上まで届いていた。
中は外より暗い。目が慣れるまでに、灯は五つ数えた。
その間、灯は口の横の柱へ手を掛けた。柱の木は外側より冷たかった。日の当たらない側になっていた。
*
床は土のままで、板は張っていない。
物は四列に並んでいた。棚は置いていなかった。床に直に置いて、物の下に紙が一枚ずつ敷いてあった。
一列目は布と紙の物で、二列目は木と金物。三列目に大きいものが並んでいて、四列目は形の分からないものになっていた。
列と列の間は灯の一歩ぶん空いていた。歩けるだけの幅で、しゃがめる幅は無かった。
灯は一列目の頭から順に見ていく。布が四つ、紙が三つ並んでいた。紙のうち二つは折ってあった。
折り目の数は片方が三つで、もう片方が一つついている。三つのほうは折り直した跡が残っていた。
紙の下の紙には数が入っていた。置いた日からの日数だった。四十一と、十九。
四十一のほうは、書いた数の上に線が引いてあった。線の下から次の数が始まっていた。
数は飛んでいない。四十一を過ぎても、取りに来た人はいない。灯は目を上げた。
十四日前と同じ並び。増えているのは一列目と三列目で、二列目は減っていた。
キリは小屋にいた。三列目の奥にしゃがんで、床の紙を一枚だけ指で起こしている。
起こした紙をすぐ伏せて、次の紙へ移っていた。移る速さは一定で、途中で止まらない。
「来たのか」
「来た。二百歩だった」
「数えたのか」
「行きだけ数えてる」
灯は二列目へ入った。頭は靴で、片方だけ。右のもので、内側のかかとが薄くなっていた。
灯は自分の足元へ目を落とした。減るのは外側で、十四日前から向きは変わっていない。
靴の下の紙には七十二と書いてあった。十四日前は五十八と書いてあった。差は十四になる。
差が十四なら、日は毎日足されていることになる。番は昼だけなのに、数は夜も進む。
灯は指を紙の縁へ掛けた。指は縁の上へ乗っただけで、紙はめくらなかった。
ひもの束は靴の隣にある。太さの違うひもが七本、真ん中で一度結んであった。結び目は一つ。
結び目は解けていなかった。持ち運ぶために結んで、それきり触られていない形。
二列目の途中に、木の枠が二つ立てかけてあった。壁に付いているのは下の縁だけで、上は少し離れていた。傘立ての傘みたいに、一本抜くと隣が寄ってくる立ち方をしていた。市の枠より小さくて、中には何も張っていなかった。
その枠の足元に、木の札が積んであった。
灯は数えた。
十二。
もう一度、下から数え直した。二度目も十二。
十四日前は十枚。二枚増えていた。
上の二枚は横に渡してあった。十四日前と同じで、二枚とも字が下を向いていた。
灯は横の二枚に手を出さない。出さないで、下の十枚のほうへ指を入れた。
下の十枚は縦に重ねてある。縁はそろっていなかった。ひもは全部外してあって、上の穴が空いたまま。
灯は三枚目を少しだけ引き出した。字は二文字。灯の字ではない。
五枚目からは、字を見ないで下の線をたどった。太いものを探している。
木の目の上へ書いた時に、下の線は太くなる。十枚とも、下の線は細かった。
十四日前と変わらない。灯は札を元の重なりへ戻した。縁のずれは、前と同じ幅になっていた。
増えた二枚がどこに入ったかは、外から見ても分からない。縁のずれ方が同じだからだった。
灯は札の山の下の紙へ目を落とした。しゃがむと、紙が目の高さより下へ来る。
紙には線が二本引いてあった。十四日前は一本。
二本は平行ではない。上の一本は端まで届いていて、下の一本は途中で止まっていた。
止まっている先には何も無かった。灯は指を線の上へ置いた。指は線に触れただけで、動かなかった。
二列目の奥には、金物が横一列に並んでいた。数は九つ。十四日前は十二。
三つ減っていた。減った三つの跡は、床の土の色でだけ分かった。丸い跡が三つ、間を空けて残っていた。
跡の内側の土は、まわりより白かった。日が当たらないぶん、置かれていた側だけ乾き方が違う。
灯はその三つの跡へ指を置いた。三つとも同じ大きさだった。
跡の下の紙は無かった。物と一緒に持っていかれていた。
「金物が三つ減ってる」
「取りに来た。三日前だ」
「三人来たの」
「一人だ。三つとも同じ奴の物だった」
灯は三つの跡の並びを見た。並びは一列で、間の幅もそろっていた。
同じ者の物が三つ並んでいたのなら、置いた人は、三つを同じ日に置いたことになる。
「線が二本になってる」
「そうか。線は俺が引いたんじゃない」
「一本増えてる」
「増えたなら増えたんだろう」
キリは四列目へ移っていた。移っても、紙を起こす速さは変わらない。
灯は立ち上がった。立つと床の冷たさが膝から抜けて、代わりに膝の裏だけが冷たいまま残っていた。
立ち上がると、札の山は足元へ下がる。上の二枚の横向きが、上から見えた。
「キリ」
「なんだ。値のつく話なら聞くぞ」
「二枚増えたのって、いつ」
「知らん。数えてないと言った」
「じゃあ、いつ来たかも分かんないんだ」
「分からん。夜のことは番の外だ」
灯は口の中で二と置いた。二という数は日には結びつかなかった。
昨日の帳面の右の欄は十二。ここの札も十二。
二つの十二を、灯は口の中で並べた。二つは重ならなかった。
灯は手首を回した。回すと、内側で何かが引っかかる。引っかかる場所は昨日と同じところ。
持ち上げたのは三枚で、どれも灯の手のひらより軽かった。
急いでいるのだと灯は思った。日の高いうちに帰るつもりだからだと思っていた。
そう思ってから、灯は札の山の前にしゃがんだままでいた。
「昨日、トバリで帳面を見た」
「そうか。トバリは半日つぶれたろう」
「右の欄が十二だった」
「俺は帳面を見ん。見せてもらったことも無い」
紙を起こす手は動いたままだった。手だけ動かして、四列目の三つ目へ移る。
「見たいと思ったこと、無いの」
「無い。見ても俺の勘定は変わらん」
灯は札の山の縁を指で押さえた。指の下で、下の紙が少し波を打つ。波は指を離しても戻らない。
「今日、夜まで居ていい」
紙を起こす手が止まった。キリはその形のままで灯のほうを見た。
目を向けていた時間は灯が四つ数える間。四つ目のところで、キリは紙を伏せた。
「止めはせん。止めるのは番の仕事に入っとらん」
「止めないの」
「止める理由が無い。ここは俺の物じゃない」
「危なくないの」
「知らん。夜に居たことが無い」
キリは立ち上がった。立つ時、右の膝へ手を置く。置いた側の靴の外側だけが土へ深く入っていた。
「一つだけ言う。夜に何を見ても、俺には言うな」
「なんで」
「聞いたら、俺も見たことになる。見た者は値を言えなくなる」
キリは口のほうへ歩いた。途中で一度だけ振り返る。
「灯」
「なに」
「帰りの二百歩は数えろ」
キリは外へ出た。そのまま口の前を左へ折れて、それきり戻ってこなかった。
灯は小屋の中に一人で立っていた。物の四列と、床の紙と、札の十二枚。
外の日は口の縁のところまで来ていた。口の内側の土だけ、奥へ行くほど色が濃かった。
濃いところと薄いところの境は、灯が数えている間にも動いた。動く向きは奥へ寄る。
*
板の切れ端の山は、小屋の裏で灯の胸のあたりまで積んであった。
積み方は高かった。上へ行くほど短い切れ端になっていて、一番上の三枚だけが横に渡してある。
灯は口の正面の道の側へ立ってみた。そこは何も遮るものが無い。
次に東の壁の角へ寄っていた。角からは口が見えない。見えないほうからは、向こうも見えない。
最後に山の陰へ入っていた。立つと、屋根の短い側が頭の上へ来る。ここだけ、口が見えて自分が見えない。
小屋の口は、山の縁から半分だけ見えた。半分でいい。入る人は口を通る。
日は落ちていった。落ちる速さは、灯が数えている間に変わった。
最初は影の縁が土の上を指一本ぶんずつ動いた。途中から、動く幅が広くなる。
広くなってからは数えられなかった。灯は数えるのをやめて、口のほうだけを見た。
匂いは板で、その下に乾いた布。布のほうが押し入れの奥に近かった。
灯は二度吸ってやめた。三度目に新しく出てくるものは無かった。
寒さは足の先から来た。膝までは上がらない。上着の内側は、まだ昼のぶんが残っていた。
家の台所が浮かんだ。鍋の火を入れると、湯気が天井の側へ抜ける。
思ってから、灯は口のほうへ目を戻した。戻すまでに、四つ数えるぶんかかった。
息を止めてみた。八つまで止まる。九つ目で、喉のほうが先に開いた。
日が落ちきるまでの間、灯は同じ場所に立って、足の位置を三度だけ変えて、変える度に土の細かいものが靴の底の下で動くのを聞いて、動く音が自分の耳にしか届いていないことを確かめてから、また口のほうを見た。
灯は上着の前を合わせた。風は襟の下から入る。入った先は鎖骨のところで止まっていた。
雲の底は昼より低くなっていた。低いぶん、暗くなるのが早い。
灯は空を一度だけ見上げた。星は無かった。夏の夜には在っていた。
待つ間、灯は数を置いた。札の十二と、帳面の十二。二つは並んだままで動かない。
置いても減らないので、灯は別のものを数えた。板の切れ端の山の、一番上の三枚。
三枚は横に渡してあった。札の山の上の二枚と同じ渡し方。渡した人が同じかどうかは分からない。
三枚のうち真ん中の一枚だけ、端が焦げていた。焦げは片側だけで、反対の端は白いまま。
灯は焦げた側へ指を当てた。指の腹に黒が付く。指の腹でこすると取れて、落ちた先は暗くて見えなかった。
足の位置を変えるたび、土の上で細かいものが動いた。動く音は自分の耳にだけ届く。
灯は動かさないでいる時間を長くした。長くすると、足の先の感覚が薄くなる。
薄くなったところで、一度だけ足首を回した。回すと戻る。戻るまでに七つ数えた。
待つ間に、灯は鞄の中のノートのことを一度だけ思った。四つ折りの紙の下に入れてある。
開かなかった。開くには明かりがいる。明かりを出せば、ここに人が居ることが道から見える。
灯は鞄の口を押さえた手をそのままにして、目を口のほうへ戻した。
風は道のほうから来ていた。小屋の壁に当たって、当たった先で上へ抜ける。
抜ける音は屋根の板の重なりのところで変わっていた。変わり方は、板の枚数のぶんだけ段。
灯は段の数を数えた。三つ。屋根の板は三枚重ね。中から見た天井と同じ数。
小屋の中は外より先に暗くなっていた。壁の隙間が無いので、口から入る明かりだけだった。
その明かりが細くなって、床の紙の白いところだけが最後まで残っていた。
残ったのは一列目の紙で、二列目の紙は先に見えなくなっていた。二列目のほうが土の色に近い。
音が来たのは、灯が足の位置を三度変えたあとだった。
足音は二つ。歩幅は同じで、間も同じだった。
灯は板の山の縁から口のほうを見た。二人が口の前で止まっていた。
背は二人とも灯より頭一つ高かった。上着は腰までで、前を留めていた。歩く時に裾が足へ当たっていた。
当たるだけの幅しか無い。灯は昨日見た上着のことを思い出して、そこで止めた。
二人は口から中へ入っていた。入ってから、明かりを出さない。
灯は板の山の陰から、口のところまで三歩寄った。寄っても、中は見えない。
中で何かが鳴った。物の動く音ではない。紙をめくる音が二度。
それから、木の音が一度。木と木が当たる音で、板の壁ではなく、もっと小さいものだった。
二人が出てきた。手には何も持っていなかった。入る前と同じ形で出てきた。
二人は口の前を通り過ぎた。そのまま来た道のほうへ戻っていく。
戻る時、前を行くほうが一度だけ振り返っていた。振り返った先は小屋ではなく、板の切れ端の山。
灯は動かなかった。山の陰の暗いところは、外から見ると板と同じ色。
前の一人はすぐ前を向いた。二人の間の幅は、来た時と同じ一歩ぶんのままだった。
足音は遠くなっていた。遠くなる速さは来た時と変わらない。
灯は口の前へ出た。そのまま中へ入っていた。
中は暗かった。灯は口の横の柱へ手を掛けて、目が慣れるのを待った。今度は八つ数えた。
昼は五つ。三つ増えたぶん、外の明るさが落ちていた。
柱の木は昼より冷たかった。掛けた手のひらの真ん中から冷たさが入って、指の先へは来なかった。
二列目まで来ると、札の山の形が見えた。灯はしゃがんで、下から数えた。
十三。
もう一度数え直した。二度目も十三。
一枚がどこへ入ったかは、上から見ても決められなかった。縁のずれ方はどの二枚も同じになっていた。
上の二枚は横のまま。字は下を向いていた。
灯は札の山の下の紙へ指を伸ばした。線は三本になっていた。
三本目は下の二本より短かった。引いた人は、前の二本の長さを見ていない。
線の縁を灯は指でこすった。墨は乾いていた。乾くまでにかかる時間を、灯は知らない。
*
口のほうが明るくなっていた。
明かりは一つで、床の高さを先に照らした。明るいところが奥へ伸びて、灯の靴の先まで来る。
灯は立ち上がらなかった。しゃがんだ姿勢で、口のほうを見た。
入ってきたのは一人。手に平たい金物を持っていて、その隙間から火が出ていた。
街灯の受け皿と同じ形だった。火のある側を下へ向けた持ち方。
上着の丈は膝まで。前は留めずにいて、歩いても裾は足へ触れない。
「灯さん」
灯は返事を作らずにいた。しゃがんだ姿勢のまま手だけを札の山から離した。
ヨルは三歩入って、そこで止まった。そこは二列目の入口で、灯までは五歩ある。
火は下を向いたままだった。床の紙の白いところだけが、明かりの中に入る。
「今日は十三です。昨日より一枚だけ増えております」
「数えたの」
「こちらでは数えません。数を出すのは、置いた者のほうになります」
ヨルは金物を持ち替えた。持ち替えると、火の向きが少しだけ横へ寄る。
寄った先で、札の山の縁が明るくなっていた。上の二枚の横向きが、灯の側から見えた。
「上の二枚は、なんで横なの」
「横にいたしますと、下の字はどなたにも見えません」
「見えないと、どうなるの」
「見た者が値を言えなくなります。それだけのことでございます」
灯は上の二枚を見た。二枚とも字が下を向いていた。ヨルは近づいてこない。
灯の頭に聞きたいことが一つ浮かんだ。それは口の中に残したままにした。
押さえたぶんが、手首の内側へ来た。昼より強かった。灯は手を膝の上へ置いた。
「昨日の帳面、十二だった」
「そうでしたか。こちらは昨日の数を持っておりません」
「ここも昨日は十二だった」
「灯さんはよく数えていらっしゃる」
高さは、数を読み上げる時から動いていなかった。
灯は膝を土へ着けた。上着の裾が下へ触れて、触れた幅だけ布が冷える。
ヨルは動かない。火の向きも変えない。待っている形ではなくて、そこに立っているだけだった。
「上の二枚、起こしていい」
「起こせます。起こすところまでは、どなたにもできます」
「値は」
「起こすのに値はつきません。値がつくのは、読んだあとです」
灯は手を伸ばした。指の先が上の一枚の縁に掛かる。
そこで灯は一度だけ手を止めた。ヨルは何も言わない。
灯は一枚目を起こした。字が上を向く。二文字。
下の線を見た。細かった。
灯は二枚目を起こした。字が上を向く。二文字。
下の線を見た。
太かった。
二枚目の木の目は横に走っている。
灯は札を光のほうへ向けた。火は動かない。ヨルの目は灯の手のほうにあった。
字の上の払いに、止めた跡があった。途中で一度止まって、それから下りていた。
止めた跡は書いたあとも残る。残ったところだけ墨が濃くなる。
灯はその濃いところへ指を近づけた。触れる前で止めた。
「これ」
「そう見えますか。こちらからは何も申し上げられません」
「見える」
札の上が暗くなった。ヨルが金物を下げたからで、火が弱まったぶん、字は影へ入っていた。
「灯さん。ここから先は値がつきます」
「いくら」
「輪で一つです。四日前の見学と同じ値になります」
灯は鞄の底へ手を入れた。輪は四つ。指の腹で四つとも触ってから、手を抜いた。
手はそのまま膝の上へ戻る。
「払わない」
「そうなさってください。払わない側にも値はつきません」
ヨルは札の山のほうへ二歩寄った。寄っても、灯の手には触らない。
灯は二枚を元の向きへ戻した。戻すと、字がまた下を向いた。上の二枚は横のまま。
縁のずれは、前と同じ幅に収まった。ずれ方まで同じにするのに、灯は二度直した。
灯は口を開けた。声は出なかった。
聞こうとしたことは、口の中で形になる前に下へ落ちる。灯は口を閉じた。
その先で、膝の上の手の指が一本ずつ曲がっていた。
ヨルは何も言わない。言わないで、金物の火を一度だけ上へ向けた。
上へ向けると、天井の板の裏が見えた。板は三枚重ねてあった。重なりの向きは、外の屋根と逆。
「灯さん。値がつくのは、口に出た問いだけです」
「出さなかったら」
「数えません。出なかったものは、帳面に載りません」
火は床の高さへ戻った。ヨルが金物を下ろして、紙の白いところだけがまた明るくなる。
灯は立ち上がった。立つと、膝の裏だけが冷たいまま残っていた。
ヨルは口のほうへ半分だけ体を向けていた。出ていく形ではない。灯を通す側。
「もう行く」
「はい」
灯は二列目を出た。その時、靴の先が床の紙の縁に当たっていた。当たった紙は動かない。
口のところまで来て、灯は首だけ後ろへ向けた。
火は札の山の横にある。ヨルは山に触っていない。手は上着の前で下りたままだった。
「灯さん」
灯は止まった。
「見ていらしたのは、輪で二つです。今日はこちらが払います」
ヨルは上着の内側から輪を二つ出した。それを床の紙の上へ置く。
置いた場所は札の山の横で、灯の足元から三歩のところだった。
灯はそこまで戻った。しゃがんで、二つを取る。指の腹に、縁の滑らかなほうが当たっていた。
昨日、机の上へ出した二つと同じ手ざわりだった。書記の引き出しへ落ちた音を、灯は覚えていた。
灯は二つを鞄の底へ入れた。底には四つ入っていた。入れると六つ。
「六つになった」
ヨルはそれ以上言わなかった。言わずに、金物の持ち手を握り直す。
灯は口を抜けて外へ出た。外は中より明るかった。雲の底が薄く光っていた。
板の切れ端の山は、来た時と同じ高さだった。
灯は三つ目の角のほうへ歩き出した。歩き出してから、二百歩を数えはじめる。
二十まで数えたところで、灯は一度だけ振り返った。
小屋の口から、火の色が細く出ていた。細いのは口が高くて幅が狭いからになる。
数は口の中で続いていた。灯は続けながら四十まで数えて、それから前を向いた。
道の土は昼より固かった。踏むと、細かいものが前へ転がっていた。転がった先で止まる。
一つ目の角では、壁の下の割れた器が三つのままだった。三つとも口の側を上に向けていた。
百二十で二つ目の角。百八十で一つ目。
二百まで来ても、四つ角の入口はまだ先にあった。灯は数えるのをやめずに歩いた。
二百六で、入口の壁が横に来た。行きは二百だった。同じ道で六つ多かった。
夜は足の裏を先に置いていた。置くぶん、一歩が短くなる。それでも六の出どころは決まらない。
灯は道のほうが伸びていると思う。
四つ角の台は畳んであった。板は脚から外して、壁の下へ立てかけてある。
立てかけた板の木の目は、外から見ると縦に見えた。昼は横だった。立てると向きが変わる。
灯は板の面へ指を当てた。指の下の板は土より冷たかった。
脚は四本ともまとめて、板の裏へ横に寝かせてあった。めり込んでいたほうの一本は、根元だけが黒い。
灯はその黒いところを指でこすってみた。黒は取れない。木の内側まで入っていた。
枠のひもの切れ端は六つのまま。夜でも数は同じだった。灯は数え直さなかった。
坂の上り口の土は、昼より固くなっていた。日の落ちたぶんだけ、上から順に締まっていく。
灯は歩幅を半分にして、足の裏を先に置いた。置くたび、細かいものが靴の底の下で割れる。
二歩目からは割れなくなっていた。踏んだところだけ、色が元へ戻っていた。
坂の途中で、灯は一度だけ立ち止まった。立ち止まった場所は、壁の切れているところだった。
そこからは四つ角が見下ろせる。台は畳んであって、板の白い面だけが下から浮いて見えた。
南の道の三つ目の角は、四つ角の向こうで折れていた。小屋は見えなかった。
火の色も見えなかった。屋根の板が短いのは裏の側で、道からは口が正面に来ない。
灯は前を向いた。残りの坂は数えずに上る。
上る間、口の中には二百六の六だけが残っていて、行きの二百と並べても引いても何にもならず、それでも灯は六を置いたままにして、置いたまま上りきった。
風は坂の下から来ていた。上着の裾は前へ寄る。膝の裏の冷たさはそこで止まっていた。
灯は上着の前を押さえた。手の下で、鞄の中の輪が六つとも同じ側へ寄っていた。
扉のところの空気は、道より動いていなかった。灯はそこで一度だけ息を吸っていた。
匂いは土と、その下に木があった。木のほうは小屋の板と同じ古さになる。
扉の前で、灯は鞄の口を開けた。
輪が六つ。四つ折りの紙が一枚。青い表紙のノートが一冊。
ノートを出す。角の折れた側を上にして持った。開けば、紙は三枚目のところで止まった。
止まったところに、四つ角で書いた名が二十一並んでいた。数は減っていなかった。
灯は上から順に、下の線の太い字を数える。
九つ。
灯はノートを閉じた。閉じた指の下で、紙の縁が一度だけ持ち上がっていた。




