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レポ 落とし物の街  作者: 智珠
第二巻 名前をなくした街

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42/50

第042話 立て替え

 灯は鞄(かばん)の口を開けたままにした。閉める手は途中で止めて、そのまま下ろす。


 閉めると、あとでまた開けることになっていた。今日は四つ角で札を書かない日で、開けるのは境の石の先になる。


 板の台の札は、どれも裏を上にしてあった。名前の入っているほうは伏せられていた。見えるのは木の面だけになる。


 キリは板の後ろで、袋の口のひもを結んでいた。結び目は二つで、二つ目を一つ目の上へ重ねる。


 「今日は東だ」


 「トバリへ行く日」


 「トバリだ。灯が行くと言ったろう」


 行くと決めたのは昨日の帰りで、キリには言っていなかった。言わなくても、キリは東だと言った。


 穴の上の土は今朝は平らになっていた。踏み固めた跡は無い。上から水をまいて、乾かしたことになっていた。


 「北の道の札、戻ってた」


 「戻ってない。柱の前の二人もいない。三枚とも無いままだ」


 「いつからいないの」


 「今朝からだ。俺が通った時には、柱の前はもう空いてた」


 灯は北の道の入口を見た。折れ目の先は今日も見えない。壁の下の荷は二つに減っていた。


 二つは同じ大きさで、上の一つだけ布が掛かっていた。布の端は土に着いていて、着いた側だけ色が濃い。


 灯は三歩だけ寄った。それでも、折れ目の角のぶんで見える幅は増えない。


 寄っても、増えないのは分かっていた。


 昨日は三つだった。減ったのは、一番上に積んであった一つだった。


 「荷が一つ減ってる。昨日は三つあった」


 「持ってったんだろう。一つ運んで輪が二つの仕事だ」


 キリは袋を肩へ掛けた。それから、板の上の二枚を裏返した。二枚とも字は無い。


 裏返した二枚を、キリはまた裏へ戻した。戻す手は速かった。


 「今日は書かないの」


 「書かん。灯も書かんだろう。今日は客が来ん日だ」


 「うん。輪を返しに行く」


 「輪二つか。半日つぶれるぞ」


 「二つ。四日前に立て替えてもらったぶん」


 キリは板の縁へ手を置いた。五本の指は同じ高さに並ぶ。


 「返しに行く客は珍しい」


 「返さないの、みんな」


 「返さんのが珍しくない。あの男は一度も取り立てん」


 灯は鞄の底へ手を入れた。輪は六つとも下の段の側へ寄っていた。指の腹で二つを分けた。


 二つとも、他の四つより縁が滑らか。手で触った回数のぶんだった。


 「取り立てないなら、返さなくてもいいの」


 「よくはない。だが決まりは無い」


 キリは昨日と同じ言い方をした。灯はそれに気づいて、口を開けかけて、やめた。


 やめてから、鞄の口を閉めた。底で輪が六つとも同じ側へ寄っている。


 東の道の枠のひもの切れ端は六つ。灯は数え直した。二度目も六つだった。


 昨日から減っていなかった。七つだったのは三日前で、減ったのはその間。


 「ひもは六つのまま」


 「なら六つだ。数えたほうが正しい」


 キリは東の道のほうへ歩き出した。灯は横に並んだ。並ぶと、歩幅が合わない。


 合わないので、灯は三歩に一度だけ歩幅を広げた。すると、四歩ぶんで揃(そろ)う。


 東の道の土は乾いていた。踏むと細かいものが前へ転がる。転がった先で、また止まっていた。


 道の右側には、市の日の枠の柱の跡が四つ残っていた。丸いのが三本で、四角いのが一本。夏は五つあった。


 道の左の壁の下には、板が三枚立てかけてある。北の道のと同じ立て方で、下の縁だけがそろっていた。


 灯は裏を見なかった。北の道の三枚で足りていた。


 「その板は誰の」


 「誰のでもない。置いた奴はもう来ん」


 「来ないのが分かるの」


 「三か月そこに在れば来ん。それが線だ」


 道は途中から下りになっていた。下りの土は上りより固かった。荷が下りる時に重さが掛かるぶんになる。


 「トバリは何時までいられる」


 「決まりは無い。だが街灯の本数が変わる前に出ろ。変わってからだと遅い」


 「変わるとどうなる」


 「戻る道の見え方が変わる。俺は一度迷った」


 キリは前を見たままだった。迷った時の話は、そこから続かない。


 灯も聞かなかった。聞かないでいると、キリは次の話へ移らない。道の音だけが残る。


 下りきったところで、草が出てきた。草は膝の高さで、上のほうだけ色が抜けていた。


 抜けた色の高さは、灯の膝より少し上でそろっていた。そろったのは、同じ日に同じ高さまで冷えたぶんになる。


 草の中の石は、四日前から動いていなかった。


 高さは灯の腰ほどで、上の面が平たい。字は無い。灯は手のひらを乗せた。


 石は冷たかった。冷たさは手のひらの真ん中から入って、指の先へは来なかった。


 四日前は乾いた側と影の側で温さがちがっていた。今日は両方とも同じになる。


 灯は石の裏へ回った。苔(こけ)は四日前より薄い。指で押しても沈まなかった。


 爪の先を立てると、苔は粉になって剥がれた。下の石の面は白かった。


 「先に行くぞ。日が回る」


 「待って」


 灯は白い面へ指を置いた。指の当たったところは、まわりより冷たくない。


 苔の下だけ、温さが残る。灯は指を離して、剥がれた粉を石の上へ戻した。


 それでも、粉は元の形に付かない。


 石の先の道は、上りでも下りでもなくなっていた。平らな道が続いて、両側の草が低くなる。


 低くなる場所は毎回同じで、そこから先は土の色が変わっていた。赤い土だった。


 赤い土は靴の底に付いた。付くと落ちない。灯は二度こすって、そこでやめた。


 匂いが変わったのは、平らな道の半分を過ぎたところだった。


 油の匂い。板の台の下でする匂いより濃かった。下に焦げたものが混ざっていて、そちらは鼻の奥へ残っていた。


 四日前なら、この匂いが道の三分の二まで来ないと届かなかった。今日は半分で来る。


 灯は鼻から吸って、口から出した。息は白くなって、すぐに散っていた。


 「匂いが来るのが早い」


 「風が向こうから来とる。四日前は横で、届くのが遅かった」


 道の先の空は、四つ角の上より低く見えた。両側の建物がだんだん近くなる。


 建物は途中から始まっていた。始まる場所に境の線は無い。草がだんだん少なくなって、いつの間にか壁。


 最初の壁には窓が無かった。次の壁には窓が二つ。二つとも、内側から板が打ってあった。


 打ってある板の釘(くぎ)は四つずつ。上の二つは新しくて、下の二つは錆(さ)びていた。


 灯はそこで足を止めた。すると、キリは三歩先で止まった。振り返らずに止まっている。


 「四日前は打ってなかった」


 「そうか。俺は窓を見ん」


 「上の釘だけ新しい」


 「なら、上だけ打ち直したんだろう。下は錆びたままだ」


 キリは窓を見なかった。見ずに、また歩き出した。灯は二歩で追いついた。


 通りに入ると、街灯が見えた。柱は道の両側に立っていて、間はどれも同じ幅だった。


 灯は数えた。入口から見える範囲で、火が右に九。左に八。


 四日前は数えなかった。減っているのは分かっていて、数だけを取らずに通り過ぎた。


 八月の終わりは右が十二で、左が十一。そこから右も左も三つずつ減っていた。


 「右が九。左が八」


 「数えたのか」


 「八月の終わりは十二と十一だった」


 「三つずつだな。減る時は揃うことが多い」


 「揃うの」


 「揃う。理由は知らん」


 灯は数えるのをやめた。やめても、九と八は口の中に残っていた。


 火の消えた柱は、頭の受け皿の内側まで黒くなっていた。黒いところは、まわりの柱より細く見える。


 細いのは影のぶんで、太さは変わらない。灯は近くの一本まで寄った。


 受け皿の縁までは手が届かない。届くのは柱の途中までだった。


 灯は柱に手のひらを当てた。木は温かくない。冷たくもない。土と同じ温さだった。


 火の入っている柱の受け皿には、平たい金物が伏せてあった。火は金物と受け皿の隙間から出ていた。


 隙間の幅は指一本ぶん。火の入っている柱はどれも同じ幅で、火の出方も変わらない。


 「点け直さないんだよね」


 「点け直さん。誰がやるのも見たことがない」


 キリはそれ以上言わなかった。言わずに、通りの先へ目をやっていた。


 キリは通りの左側を歩いた。左側は建物の影が落ちていて、右より暗かった。


 暗いぶん、街灯の火が見えやすかった。灯は影の内側を歩いた。


 板の道は歩くと一枚ずつ沈んだ。端の二枚は沈まなくて、真ん中の四枚が沈む。


 沈むほうの板を踏むと、駅のホームで点字の帯を踏んだ時のようだった。足の下だけが、そこで別の返り方をする。


 板の道の突き当たりに取引所があった。通りの左側。戸は木で、押すと内側へ開いた。


 開けると、暖かさは上のほうにだけあった。天井の近くは暖かくて、床の上は外と変わらない。


 灯は上着の前へ手をやらなかった。開けても、上の暖かさは胸まで下りてこない。


 *


 机は一列に八つ並んでいた。


 八つのうち、人の座っているのは三つ。四日前は八つとも埋まっていた。


 空いている机の上には何も出ていなかった。座っている三つの上には、それぞれ紙の束が置いてあった。


 束の厚みは机ごとにちがっていた。手前が一番厚くて、奥へ行くほど薄い。


 灯は手前の机の前に立った。四日前もこの机。入口に一番近い一つになる。


 書記は顔を上げなかった。上げずに、手元の紙に何か書いていた。


 書く速さは一定で、途中で止まらない。止まらないので、灯は待った。


 待つ間、灯は机の縁を見た。縁の木は角が丸くなっていた。丸いのは手の当たるところだけだった。


 丸いところの幅は指三本ぶん。四日前も同じ幅。


 「返しに来ました」


 書記は書く手を止めた。それから、顔を上げる。


 「何をですか」


 「輪を二つ。四日前に立て替えてもらいました」


 「日付は」


 「十九日です」


 書記は机の下から帳面を出した。帳面は薄かった。灯が四日前に見たものとはちがう。


 書記はそれを開いて、後ろから三枚目のところで止めた。指で行をたどる。


 たどる速さは書く速さより遅かった。三行目のところで、指が止まる。


 「十九日、見学、輪二つ。立て替えは支配人です」


 「そうです」


 「支配人へお返しください。ここでは受け取れません」


 書記は帳面を閉じた。それから、机の下へ戻した。戻す時も、手は帳面から離れない。


 「支配人はどこですか」


 「奥です。呼びます」


 書記は椅子から立った。机の横へ二歩出る。それ以上は出なかった。


 立った時、椅子は後ろへ二寸ほど動いた。脚の跡は床に四つ残っていた。


 跡のうち二つは濃くて、あとの二つは薄かった。濃いのはどちらも左の側。


 灯は四つの跡の並びを見た。並びは長方形ではなかった。前の二つのほうが、後ろの二つより広い。


 出ないところに、白い粉の線が引いてあった。線は床の上を横に走っていて、机の前で切れていた。


 切れているのではない。粉が薄くなっていた。踏まれたぶんだけ薄い。


 灯は線の手前で待った。線の外側の床は、内側より冷たかった。


 キリは戸の内側の壁のところに立っていた。線には近づかない。


 書記は奥の戸を叩(たた)かなかった。戸の横の柱を、指の背で二度たたく。


 二度目のあと、奥から音が返っていた。返った音は一度きりになる。


 書記は椅子へ戻った。それから、また書きはじめる。書く速さは前と同じだった。


 灯は線の粉を見た。粉は白かった。指で触れると、指の腹に付く。


 その粉を、灯は袖でこすった。こすると取れる。取れた先の袖の色は変わらなかった。


 奥の戸が開いた。


 出てきたのは背の高いほうだった。上着の丈は膝まであって、前は留めていない。


 歩いても、裾が足に触れなかった。触れないだけの幅が内側に残っていた。


 「灯さん。四日ぶりになります」


 「返しに来た。四日前のぶん」


 「はい。輪で二つでしたね」


 灯は鞄の口を開けた。底の六つのうち二つを取り出す。


 取り出した二つは、縁の滑らかなほうだった。灯はそれを机の上へ置いた。


 置く場所は線の外側。ヨルは線の内側にいて、机の上へは手を出さなかった。


 「線の外に置かれました」


 「内側に入っていいの」


 「今日は入っていただかなくて結構です。返しは線の外で済みます」


 ヨルは書記のほうを見た。書記は顔を上げずに、手だけを机の上へ出した。


 その手が二つの輪を取って、机の縁の内側へ寄せる。寄せた先で、二つは重ならずに並んだ。


 「たしかに」


 ヨルはそれだけ言って、指を一本立てた。値段を言う時の立て方。


 「灯さん。これで十九日のぶんは終わりました」


 「うん。それで終わり」


 「貸し借りは無くなりました。残るのはこちらの借りです」


 灯は顔を上げた。ヨルの目は灯のほうを見ていた。手は上着の前で下りていた。


 書記は書く手を止めていなかった。止めずに、次の紙へ移っていた。


 「借りって、どっちの」


 「そう申し上げました。灯さんが返しにいらしたぶんは、たしかに受け取っております」


 「うちが借りてたほうでしょ」


 「四日前まではそうでした」


 「反対って、何を借りたの」


 「申し上げられません」


 「帳面には載ってるの」


 「値の付くまでは載りません」


 机の上には輪二つと、書記の紙の束しかない。


 灯は自分の鞄の口を閉めて、外側から底を押した。四つの形が布の上へ出る。


 四つは重なっていなかった。左に二つ、その下に二つ。押した順のまま残っていた。


 「四つになった。二つ減った」


 「四つですね。今日はここでお使いになるものはありません」


 「帳面を見るのは」


 「見学は本日、線の外からになります。外からなら値はつきません」


 「四日前は内側だった」


 「あの日は輪で二つでした。今日は外からで、代はいただきません」


 「四日前より安くなってる」


 「安くはなっていません。見えるものが減りますので、値のほうも下がります」


 灯は線の粉を見た。踏まれて薄くなっているところと、白いままのところがあった。


 白いままのところの幅は、灯の靴の三足ぶん。四日前は四足ぶんだった。


 この四日で踏んだ人が増えていた。灯はそこまで見て、目を机へ戻した。


 ヨルは机の横へ一歩寄った。寄っても、線は越えない。


 越えないところで、上着の内側から帳面を出した。灯が見たのと同じ黒い表紙だった。


 厚みは同じ。角の擦れ方も同じ。表紙の右の下だけ、色が薄くなっていた。


 「四日前のと同じ」


 「同じものです。灯さんが見た紙も、そのままにしてあります」


 ヨルは帳面を机の上へ置いた。場所は机の真ん中で、線の内側。


 置いてから、手を離した。その手は上着の前へ戻る。指は伸ばしたままで、どこも曲がっていなかった。


 「開けません。開けるのは値のつく側の仕事です」


 「じゃあ、あたしが開けるの」


 「灯さんは線の外です。外から見るぶんには、こちらが開けます」


 ヨルは指を一本だけ出して、表紙の縁へ掛けた。そのまましばらく動かさない。


 灯は机の縁まで寄った。線は靴の先の二歩手前で切れていた。灯はその手前で止まった。


 そこから机の上までは、灯の腕の長さより遠い。手は届かなかった。


 「ここからだと遠い」


 「そうでしょうね。四日前は内側でしたから」


 「今日は入れない」


 「入っていただけます。輪で二つです」


 灯は鞄の底を布の上から押した。四つの形が指に当たる。二つは出せる。


 出せる。ただし出すと二つだった。二つになると、その後が一度きりになっていた。


 「今日は外から見る」


 「そうなさってください。値のつかない見方を、こちらから勧めることはありません」


 「勧めないのに、教えてくれるんだ」


 「値の話に値はつきません。中身のほうにつきます」


 書記が紙を一枚めくった。めくる音は、灯の立っている場所まで届いた。


 ヨルはそちらを見ない。見ずに、帳面の表紙へ指を掛け直した。


 ヨルは表紙を開いた。紙は灯が四日前に見たものだった。


 紙の色は白くない。薄い黄で、下のほうへ行くほど濃くなっていた。


 左の列には数が並んでいた。上から下へ一つずつ増えて、飛んでいない。


 右の欄には字が並ぶ。上のほうは書いた人が別々なのが一目で分かる。太いのと細いの、右へ倒れているのと、下の線だけが長いの。


 下のほうは同じ手に見えた。四日前と同じだった。


 灯は目を細めた。それでも、この距離では一つずつの形までは出てこない。


 「近くじゃないと見えない」


 「見えません。それが線の値になります」


 「じゃあ数だけ数えていく」


 「数はどうぞ。数に値はつきません」


 灯は数える前に、紙の全体を一度見た。書いてある行の下に、まだ空きが残っていた。


 空いている行は四つ。四日前は五つだった。埋まったのは一行。


 紙の右の端には余白が指一本ぶん残っていた。左の端は数の列で埋まっていた。


 余白のところには何も書いていなかった。四日前も同じで、そこだけが白いまま残っていた。


 灯は下から数えた。同じ手に見える行を、下から一つずつ。


 一、二、三。四、五、六。七、八、九。十、十一。


 十二。


 灯は手を止めた。それから、もう一度下から数えた。


 二度目も十二。


 *


 その数を口の中で置いても、形にはならなかった。


 四日前は十一だった。十一という数を、灯はこの冬に二度数えていた。


 増えた一つは、上に足されたのか下に足されたのかが分からない。同じ手の字が十二並んでいるだけだった。


 灯は左の列の数を見た。左は上から下へ一つずつ増えていた。増え方は上のほうと同じで、飛んでいない。


 一番下の数を、灯は読もうとした。この距離では出てこない。


 「左の数、一番下はいくつ」


 「読み上げは輪で一つです」


 「じゃあ読まなくていい」


 「はい」


 紙は動かなかった。ヨルの目は、灯の目の止まっているところにある。


 手のほうは上着の前で下りたままだった。紙にも机にも近づけていない。


 書記は書き続けていた。書く速さは灯が入ってきた時と同じだった。


 キリは戸の内側の壁のところに立っていた。立っているだけで、机のほうを見ない。


 見ないでいるのがわざとかどうかは、灯には分からなかった。


 「四日前に見たのと、同じ紙だよね」


 「同じ紙です」


 「四日前は十一だった」


 「そうでしたか」


 数を確かめる手は出てこない。指は紙の縁に掛かったままだった。


 灯は下から三つ目の行を見た。四日前、そこは灯が夏に書いた二文字と同じ形をしていた。


 今日も同じ場所に在る。下から三つ目のままで、動いていなかった。


 増えた一つが上に足されたのなら、下から三つ目は動かない。下に足されたのなら、動く。


 動いていないので、増えたのは上。灯はそこまで数えて、手を止めた。


 止まった先で、奥歯のところが鳴っていた。上と下を離すと、その音が一度だけ来る。


 灯は口の中で上と下を離したままにした。音は来ない。合わせると、また来る。


 損をしたのだと灯は思った。輪二つで見た四日前より、今日は見えるものが少ないからだと思っていた。


 「上のほうに足したんだ」


 「そう見えますか」


 「見える。下から三つ目が動いてない」


 「灯さんはよく数えていらっしゃる」


 言い方の高さは、値を言う時と変わらなかった。


 灯は指を紙のほうへ出しかけて、止めた。指の先と紙の間は、灯の腕の長さより遠い。


 届かないところで止めたことに、灯は止めてから気づいた。


 灯は右の欄の上のほうを見た。上のほうは太い字と細い字が交ざっていた。


 途中から下は同じ手に見えた。境がどこかを、灯は上から数え直した。


 数え直しても、境は四日前より一つ上へ寄っていた。上へ寄ったぶんが、増えた一行。


 「境が一つ上がってる」


 「上がりますか」


 「四日前より上」


 「灯さんの数え方でしたら、そうなのでしょう」


 指は紙の縁に掛かったままで、帳面のほうが灯の目の高さへ少しだけ傾いた。


 傾けると、紙の面の光が変わっていた。変わった先で、字の濃いところと薄いところが分かれる。


 濃いのは下の三行で、薄いのは境のすぐ下の二行。


 「下の三つだけ濃い」


 「その差の読み方は、輪で一つです」


 「じゃあ何のちがい」


 「押した力です。押した力に値はつきません」


 「上に足された行は、いつ足されたの」


 「日付は帳面の左にあります。読み上げは輪で一つです」


 「二十日から今日までのどこか」


 「それは灯さんの数え方です。こちらは何も申し上げていません」


 灯は口を開けかけた。開けかけて、鞄の持ち手を握り直した。


 握り直した先で、布の折れが一つ立っていた。灯はその折れを、指の腹で二度なでた。


 二度目でほとんど平らになる。灯は手を離した。


 「もう閉じますか」


 「うん。数は覚えた」


 ヨルは帳面を閉じた。その時、紙の端が机の板をこすっていた。こすった先だけ、色が変わる。


 変わった色は、しばらくすると元へ戻っていた。戻るまでに、灯は五つ数えた。


 「灯さん。一つだけ、値の付いていることを申し上げます」


 「なに。いくら」


 「これは今日の見学に入っています。うちの帳面には、減らす欄がありません」


 「消せないってこと」


 「消す欄が無いという意味です。消せるかどうかは、別の話になります」


 指は上着の前で下りたままだった。値を言わない時、この人は指を立てない。


 灯はそれを四日前にも見ていた。


 ヨルは帳面を机の下へ入れた。しまった先は書記の机ではなく、机の並びの向こう側だった。


 入れる時、帳面の角が机の板へ一度当たっていた。当たった先の板に、跡は残らない。


 「灯さん。次はいつお越しになりますか」


 「まだ決めてない」


 「決めてからで結構です。こちらは動きません」


 ヨルは線の内側から一歩下がった。下がった場所は、机の並びの向こう側だった。


 書記は書く手を止めない。止めずに、机の上の輪二つを引き出しへ落とした。


 落ちた先で、二つは音を立てて止まる。止まった音は一度きりで、二度目は無かった。


 灯はキリのほうを見た。キリは壁のところで、袋の口のひもを見ていた。


 結び目は二つのままだった。ここへ来る間に解けていない。


 灯は戸のほうへ歩いた。歩く途中で、机の列を右から左へ数えた。八つ。


 人の座っているのは三つのままだった。空いている五つのうち、一番奥の机だけ椅子が引いてあった。


 引いた椅子は戻されていない。立った人は、そのまま行ったらしい。


 灯は戸を押した。押すと外側へは開かない。引くと開いた。


 戸の縁には、手の当たるところだけ色が変わっていた。変わった場所は灯の胸の高さだった。


 その上に、もう一つ色の変わったところがあった。高さは灯の頭より上で、幅は広い。


 背の高い者の手の当たる場所。灯は自分の手を、下のほうの色の変わったところへ置いた。


 置くと、指の広がりが跡の幅とそろわない。跡のほうが少し広かった。


 外の空気は入ってきた時より冷えていた。床の高さから入って、膝のところで止まる。


 外の通りは、来た時より暗くなっていた。暗いのは日が建物の向こうへ回ったぶんだった。


 火は右に九、左に八のままだった。灯は数え直した。


 二度目も九と八。増えても減ってもいない。


 「九と八のまま」


 「なら、まだ早い。変わるのは日が落ちてからだ」


 キリは通りの右側を歩いた。右側は日の当たる側で、影が落ちていなかった。


 灯も右側を歩いた。歩くと、街灯の火は見えにくくなる。見えにくいぶん、受け皿の形だけが残っていた。


 板の道の途中で、灯は一度だけ振り返った。取引所の戸は閉まっていた。


 戸は木で、外からは何も描いていない。船の絵は奥の戸の上にあって、閉めた外からは見えなかった。


 灯は歩き出した。歩き出してから、鞄の底へ手を入れた。


 輪は四つ。上の段に二つと、下の段に二つ。指の腹で全部に触った。


 それから、灯は手を抜く。爪の間には粉も土も付いていなかった。


 草の中の石まで戻ると、日は来た時より低くなっていた。石の影は道の側へ伸びていた。


 灯は石の上へ手のひらを乗せた。行きより冷たかった。腕の重さだけを掛けて押す。


 離すと、手のひらの真ん中が白く残る。元の色へ戻るまでに、灯は三つ数えた。


 石の裏へ回ると、剥がした先の白い面は、まわりより乾いて見えた。


 その面へ、灯は指で何も書かなかった。


 灯は手を下ろした。下ろす途中で、指の先が上着の裾に触れた。


 「行くぞ」


 「うん。もう出る」


 道の途中で、キリが立ち止まった。板の三枚の立てかけてある壁の前。


 三枚のうち、真ん中の一枚が倒れていた。倒れた先は道の側だった。


 キリはそれを起こした。元の角度へ戻す。戻した先で、三枚の隙間は前より狭くなっていた。


 「これ、風じゃない」


 「風でも倒れる。三枚のうち真ん中は座りが悪い」


 「行きは倒れてなかった」


 「そうだな。だが起こせば済む」


 「持って帰ればいいのに。売れないの」


 「売れる。板は輪で一つだ」


 キリは三枚の上の縁をそろえた。そろえてから、手を離した。


 「売れるのに、なんで持ってかないの」


 「三か月ここに在る板を俺が持つと、次に置く奴がここへ置かん。置き場が一つ減る」


 「減ると困るんだ」


 「困る。置き場の無い道は、俺が拾える物も減る」


 キリはそれ以上言わずに、また歩き出した。


 灯は倒れた一枚の裏を見なかった。行きに一度確かめている。


 東の道を上る間、灯は口の中で数を置いた。十二。


 置いても、形にはならない。四日前の十一も同じだった。


 四つ角に戻ると、板の上の二枚はそのままになっていた。二枚とも裏を上にしてある。


 キリは板の後ろへ回って、二枚の間隔を直した。その先で、二枚の間は指二本ぶんになっていた。


 灯は板の右の端に立った。立つと、板の端は腰より指二本ぶん低かった。高さは変わっていない。


 鞄の底の四つを、灯は布の上から押した。四つの形が出る。


 左に二つ、その下に二つ。押した順のまま並んでいた。


 指を離すと、下の段の二つだけが消えた。上の二つは残っていた。


 灯はもう一度、同じところを押した。二度目は四つとも残っていた。

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