第041話 呼ぶ
四つ角の板の上には、何も出ていなかった。
台は脚の上に載ったままで、上の面だけが拭いてあった。跡は左から右へ、四本の帯になって残っていた。
帯の幅は布の幅。四本目だけが途中で切れていて、その先に木の粉が寄っていた。
キリは板の後ろにいた。立ってはいない。脚のところにしゃがんで、めり込んだ一本の根元を手で掘っていた。
使っているのは指の三本で、親指は土に付けていなかった。親指を入れると土が固まると、夏に一度言っていた。
穴の縁は丸い。出た土は右の側へ寄せてある。山は灯の靴の半分ほどの高さだった。
「今日は台を出さないの」
「出さん。北の道の札が三枚無くなった。三枚とも名前の入ってたやつだ」
灯は板の上を見た。何も無い。いつもなら、名前の入った札は上の列に並べてあった。
「無くなったって、どこから」
「折れ目の先の柱だ。三枚とも掛かってたのが無い。掛けたのは俺じゃない」
キリは掘る手を止めなかった。土は乾いていて、指の入る深さは一寸ほどで止まる。
「掛けたのは誰だったの」
「知らん。掛けたい奴が掛けるところだ」
灯はしゃがんで、寄せてある土の山に指を入れた。中は外より湿っていた。掘り返したぶんだけ、下の土が出ていた。
匂いは土と、その下の木。木のほうは古い。灯は鼻から二度吸って、そこでやめた。
「札って、掛けたら誰のものになるの」
「掛けた奴のだ。取ったら取った奴のになる」
「じゃあ取ってもいいってこと」
「よくはない。だが決まりは無い」
キリは掘る手の指を三本だけ立てた。値段を言う時の立て方ではない。数を数える時の立て方。
「無くなったのはいつ」
「昨日の昼までは在った。今朝は無い」
「昨日は行ってない」
「行ってないな。俺は通った。昨日の昼は在った」
二十日は丘へ行った日になる。二十一日は行っていない。行かない日のことを、灯は今日まで数えていなかった。
行かない日にも札は掛かっていた。
灯は自分の指を見た。指の腹に土が付いている。上着の裾でこすると、白いほうは取れた。
黒いほうは残って、爪の間へ入って、こすっても出てこなくて、こする度に指の腹のほうだけが赤くなっていた。
キリは掘るのをやめた。やめて、掘った穴の底へ手のひらを当てた。その時間は灯が四つ数える間。
「濡れてる」
「昨日は乾いてた。手を入れてない」
「じゃあ下から来てる」
キリは寄せた土を穴へ戻した。戻す時、上から押さえずに、指で崩して落とした。
押さえると水が上がると、キリは前に言っていた。理由は言っていなかった。
「折れ目の先までは行かんほうがいい」
「なんで行かないほうがいいの」
「札の無くなった柱の前に、人が二人立っとる。二人とも、俺の知らん顔だ」
灯は北の道の入口のほうを見た。坂の下の三分の一の先で、道は一度折れている。
柱はその折れ目の先。丘へ上がる側とは反対になる。折れ目の手前の壁の下に、荷が三つ積んであった。
「無くなったのは木の札」
「木だ。二文字が一枚、三文字が二枚。三枚とも俺の手じゃない」
「あたしも書いてない」
「そうだろうな。灯の書いた札は四つ角のぶんだけだ」
キリは掘った土をもう一度崩した。崩れた先で、粒の大きいものだけが穴の縁に残る。
「二人は何してるの」
「立っとるだけだ。朝からずっと同じところに立っとる」
「ずっとって、何時から」
「俺が通った時からだ。通ったのは、日が屋根の上に来る前になる」
灯は日の位置を見た。日は東の建物の屋根より上にあった。屋根の縁からは灯の手のひら二つぶん。
「じゃあ、日が手のひら二つぶん動くあいだ立ってる」
「そんなところだ」
「見に行かないの」
「行かん。俺の札じゃない」
「三枚だと、いくらぶん」
「名の入ったのは冬で一枚一つだ。三枚で三つになる」
キリは指を三本立てた。値を言う時の立て方で、掘る時に使っていた三本とは向きが違った。
「取った奴は三つぶん持っとる。俺は一つも損しとらん」
「損してないのに、行くなって言うんだ」
「言う。損しとらんから言える。損した奴の言うことは値が下がる」
キリは立ち上がった。立つ時、右の膝へ手を置いた。その側の靴の外側だけが土へ深く入る。
灯はその跡を見た。二日前より深い。土が湿ったぶん、沈む深さが変わっていた。
「丘へ行く。トトのところ」
「行くのか。今日の丘は西だ」
「西だと何かちがうの」
「知らん。俺は丘の風は読まん。読むのは道の土だ」
キリは板の上の帯の跡を、手のひらで一度なでた。なでた先で、四本目の切れ目が消えた。
無くなったのは跡のほうで、木の粉は残っていた。灯は粉のところへ指を置いた。指の下で、粉は動かない。
「板を拭いたのは今朝」
「今朝だ。出さんのに拭くのは、拭いとくと次が早いからだ」
「じゃあ明日は出すんだ」
「出すかは明日決める」
「木の粉、動かない」
「湿っとるからだ。乾いてたら風で行く」
灯は指を離した。あとに、指の形の跡が残った。
キリは板の下へは手を入れなかった。二日前は入れずに、灯が入れた。今日は灯も入れない。
東の道の入口の枠は、二日前と同じところに立っていた。灯は上の横木のひもの切れ端を数えた。
六つだった。
灯はもう一度数えた。二度目も六つだった。
「ひも、六つになってる」
「そうか」
キリはそれだけ言って、袋を肩へ掛けた。袋の底が板の脚へ当たる。当たった脚は掘ったほうだった。
「数えてたのか」
「二日前も七つだった。数えてる」
「なら六つだ。俺は数えん。数えた奴の数で払う」
キリは東の道のほうへは行かなかった。北の道の側へ二歩歩いて、そこで止まる。
止まった場所は、荷の積んである壁の手前。灯はその背中を見た。
背中は動かない。動かずに、キリは荷のほうを見ていた。
穴の底の湿りは、掘る前からそこにあったことになる。灯は寄せた土の山のほうへ指を入れた。
指を差した場所は穴の縁から二寸ほど外だった。そこは湿っていなかった。
灯は指を抜いた。爪の間には何も付いていない。
灯は北の道の入口まで三歩だけ寄った。寄ると、折れ目の先が少しだけ見える。
見えたのは道の右の壁で、壁の下には何も無い。人の足も、影も出ていなかった。
あと一歩だけ寄ってみた。それでも、見える幅は増えなかった。折れ目の角が邪魔。
灯は聞こうとした言葉を、喉の手前で押さえた。そこから先へは出さない。
「行くよ。昼までに戻る」
「行け。丘は昼までだ」
灯は坂のほうへ歩き出した。歩き出してから、一度だけ振り返った。
キリはまだ同じ場所にいた。荷のほうを見たままで、肩の袋を下ろしていない。
北の道は二日前より人が少なかった。荷車は一台も通らない。轍の底には水が薄く残っていた。
灯は轍の外側を歩いた。外側の土は踏まれていて、内側より固かった。固いところは靴の底が滑る。
道の左の壁の下の板は三枚のまま。灯は裏を見なかった。二日前に見ていた。
坂の上り口の土は、二日前より湿っていた。湿ると滑らない。灯は歩幅を戻して上った。
塀は坂の途中から始まる。左側だけ。塀の上の片方だけの物は、二日前は十一だった。
灯は数えた。十一。減っても増えてもいない。
長靴は同じ場所にあった。眼鏡も同じ。灯は眼鏡のつるの残っているほうへ指を伸ばして、触る前でやめた。
塀の石の積み直した跡は、灯の胸のところを横に走っていた。跡の上の石は下より小さかった。
石と石の間の目地に、白いものが詰まっていた。灯は爪の先を入れる。すると、それは粉になって落ちた。
粉は塀の下の土の上で、しばらく白く残っていた。土の色に混じるまでに、灯は七つ数える。
匂いが変わったのは、坂の半分を上ったところだった。二日前は三分の二まで来ないと届かなかった。
毛の匂い。乾いた毛で、その下に土がある。今日のほうが早く来る。風が上から下りているからだった。
灯は口を閉じて鼻だけで息をした。上るほど濃くなる。二度吸って、そこでやめた。
風は上から来ていた。二日前は横から来ていた。上から来る風は、髪を前へ寄せる。
寄った髪の間から、耳の縁が出た。冷えるのは縁だけだった。灯は襟を立てなかった。
襟を上げると音が遠くなる。今日はそちらを聞いていたい。灯は自分でそう決めた。
塀の切れたところから先は、道が細くなっていた。細い側の残りは目で三十歩ぶん。歩くと四歩よけいにかかる。
三十歩目のところで、灯は足を止めた。
上から下りてくる風の中に、斜面の音が混ざっていた。二日前と同じ高さの音だった。
灯はもう一度歩き出した。最後の四歩は歩幅が広がった。
細くなった先に石段がある。段の高さはそろっていなかった。灯は目で数えた。十七。上ると十七回だった。
二日前は最後の四段で歩幅が広がった。今日は三段目から広がっていた。
*
石段の最後の一段で、灯は足を止めた。止めた先に丘があった。
斜面は動いている。風は上から下りていて、手袋の指は上から順に倒れた。倒れる先は下で、戻る先も下からだった。
二日前は真ん中の帯から割れていた。今日は上の縁から下りてくる。
二日前にトトは八つの向きを並べていた。東は真ん中で割れ、南と北は下で始まり、西は横から入る。上から下りてくる型は無かった。
今朝キリが言ったのは西。
灯は上の縁のほうを見た。縁の手袋も、上から順に倒れていた。
灯は倒れて戻るまでを数えた。四つ数える間に一度倒れる。次も四つ。その次も四つ。
二日前は三つだった。三つが四つになったぶん、斜面は遅く見えた。
灯は下から三つ目の段を見た。トトはそこにいる。二日前に灯が置いた場所と同じところ。
段は掘ってできたものではない。物の積もった重みで土が下へ寄って、そこだけ平らになる。高さは灯の靴の甲ほど。
段の縁のところだけ、手袋の重なりが薄かった。薄いのは風が縁で分かれるからで、二日前も同じだった。
トトはその薄いところの真ん中にいた。まわりの手袋との間は、どちらの側も指二本ぶん空いていた。
空いている幅は二日前より広い。灯はそこを目で測った。二日前は指一本ぶんだった。
斜面を四歩上がっていた。上がると、まわりの手袋が足の先で三つぶん動いた。三つとも、その先でまた止まる。
トトは指の部分を五本とも下へ向けていた。まわりの手袋と同じ向きだった。
二日前は上を向いていた。上げていたのはトトで、風ではない。
風で倒れたのなら、倒れる向きは下。灯はそこまで見て、斜面のほうへ目を移した。
灯はしゃがんだ。しゃがむと、膝の前の土が乾いているのが分かる。二日前も乾いていた。
灯は手を伸ばして、トトの端をつまんだ。持ち上げると軽かった。二日前より軽く感じる。
持った重さは手のひらではなくて、手首に来た。腕の、肘から先だけが浮く。
灯はトトを手のひらの上へ平らに置いた。それでも、指の部分は動かない。
布は乾いていた。親指の付け根の破れは、二日前と同じ幅で開いていた。中の綿も同じ量に見えた。
持ち上げた時の軽さは、水を捨てたあとの掃除のバケツのようだった。
置いてしばらくして、三本目が一本だけ動いた。途中で折れているほうだった。
「……おねえさん」
声は前より薄い。薄いというのは高さではない。届く距離のほうが短くなっていた。
灯は耳を近づけた。そこまで寄せると、聞こえる。離すと聞こえなくなった。
聞こえる距離を、灯は指の幅で測った。指四本ぶんまでは届く。五本ぶんで切れる。
二日前は測っていなかった。測らなくても、鞄のひもへ掛けたまま話が続いていた。
灯は指四本の幅を覚えた。それから、手のひらの高さをそこで止めた。
「二日ぶりになる」
「二日か」
「二日。二十日に来た」
「そうだった」
トトはそこで止まった。灯は次を待った。それでも続かない。
二日前なら、待たなくても続いた。灯が答えを作る前に、次の話へ移っていた。
「風、今日は上から」
「上からだね」
「上の日って、何を探すの」
トトは答えなかった。答えずに、指の部分をもう一本立てた。立ったのは五本目。
「上の日は」
「上の日は」
トトは繰り返した。繰り返してから、そこで切れた。
手のひらの上でトトを回した。回すと、日の当たる面が変わる。変わった面のほうが色が薄かった。
薄いのは日に当たった年数のぶんで、二日前も同じに見えていた。今日は境がぼやけていた。
灯は指で境をなぞった。なぞっても、どこからが薄いのかが決められなかった。
二日前は決められた。決められたのは、そこに線があったからになる。
「三本目の内側のこぶ」
「こぶ」
「相方の。三本目の内側にこぶがあるって、前に言ってた」
「こぶ」
トトは三度目に同じ語を出した。それから、指の部分を三本目のところで曲げる。
そこを灯は見た。曲げたところに、こぶは無い。トト自身のには、はじめから無かった。
「トトのには無い。前もそうだった」
「無いね」
「相方のにはあるんでしょ」
「あるよ。三本目の内側だ」
言い終わって、トトはまた止まっていた。今度の止まり方は、前より短い。
「三本目、まだ折れてる」
「折れてる」
「それ、痛くないの」
「痛くない。折れてるのは前からだよ」
その二つは切れなかった。前と同じ長さで出て、前と同じところで終わった。
灯はもう一度、同じことを別の言い方で聞いた。今度は途中で切れた。
灯は膝を土へ着いた。着くと、上着の裾が土に触れる。触れたところだけ、布が冷えた。
鎖骨の下のところが、少し詰まった。息を入れると、そこで一度止まる。
灯は膝を伸ばして座り直したが、入り方は変わらなかった。
腹が立っているのだと灯は思う。トトが同じ語しか返さないからだと思う。
思ってから、灯は自分の手を見た。指は開いていて、どこも握っていなかった。
斜面の白いものを、灯は数えた。十九まで来て、二十番目で分からなくなる。二日前と同じところで止まった。
立ってから数え直すと、二十三まで行けた。しゃがむと減る。立つと増える。
「十九だった。立つと二十三」
「立つと増えるんだ」
「二日前もそう言ってた」
「言った?」
灯は手のひらの上のトトを見た。指の部分は二本立ったまま動かない。
「言った。八十四だとも言ってた」
「八十四」
トトはその数を繰り返した。繰り返してから、指を一本下ろした。下ろしたのは五本目のほう。
残った一本は三本目で、折れているほうだった。
灯は二日前に埋め直した留め金を探した。下から三つ目の段から、斜面を四歩上がったところだった。
角が出ていた。高さは埋めた時と同じ。灯は指を掛けて、少しだけ引いた。
下の手袋が三つ動いた。三つとも、少し進んだところで止まる。
留め金の輪の側の傷は三本のままだった。真ん中の一本だけが深くて、ほかの二本より短い。
灯はそれを元の高さへ戻した。それから、四歩下りてトトのところへ戻った。
「留め金、まだあった」
「留め金」
「二日前に埋めたやつ。角だけ出るようにしといた」
「そうだった?」
灯は答えなかった。答えを作る前に、次の語が来ないのが分かっていた。
灯は斜面の下のほうを見た。下の帯には風が届いていなかった。二日前と同じ場所で、幅も同じ一歩ぶん。
帯の中の手袋は動かない。指の向きがそろっていないのも同じだった。
灯はそちらへ二歩下りた。下りてから、また上がった。上がる時、足の下で手袋が四つぶん動いた。
「トト」
「なに」
「今日、何を探した」
「今日は」
トトはそこで切れた。その先で、残った三本目が半分だけ下がった。それ以上は動かない。
灯はトトを両手で挟んだ。挟むと、布の冷たさが手のひらの真ん中から入ってくる。
入ってくる速さは、留め金を持った時より遅かった。布のほうが遅かった。
「二十日は東だった」
「東」
「その前の日は南で、その前は北」
「南」
トトは灯の言った語だけを返した。返す順は灯の言った順で、間は空いていない。
灯は言うのをやめた。やめると、返る語も止まった。
次に、別の語を出した。今度は数ではなくて、丘に無いものを言ってみた。
「傘」
「傘」
「机」
「机」
「板の台」
「板の台」
三つとも戻ってきた。戻る速さは同じで、間も同じ。
斜面の音だけが残っていた。上から下りて、下で戻る。四つ数える間に一度。
手のひらを開いた。そこにトトを置いて、上から日を当てた。
日の当たる面の色は、影の面と同じだった。二日前は境があった。
灯は面を裏返した。裏も同じ色。どちらが表かを、灯は決められなかった。
「ねえ」
「うん」
「相方、まだ探してる」
「探してる」
その一言は切れない。長さも速さも、はじめの日のままだった。
灯は続けて聞いた。
「三百年」
「三百年」
「四十回、南を探した」
「四十回」
手のひらの真ん中へ、灯はトトを寄せた。
指の下で、三本目が一度だけ曲がった。伸びるまでに二つ数えた。
灯は立ち上がった。立つと、斜面の白いものがまた増えて見える。
増えた側を見ないで、灯は下から三つ目の段の土へ手をついた。土は乾いていた。二日前と同じ乾き方だった。
*
日は塀の角の上まで来ていた。
影は斜面の下のほうへ伸びている。伸びた先は道の縁で、そこから先は影が土に消えた。
トトを手のひらへ載せて、斜面を上へ歩いた。上へ行くほど、白いものが増える。
五歩上がって、灯は止まった。そこからは、丘の縁の二列が見えた。
二列の間の土は、二日前と同じ幅で細く出ていた。灯は靴の先を入れた。固さも同じだった。
「上のほうだけ白い。下は茶色」
「白い」
「二日前に聞いた。古いのは折れるって」
「古いと」
灯は上げた足を下ろした。足の下の手袋が二つ動いて、そこで止まる。
灯は上の縁まで目を上げた。手袋は二列に並んでいて、動いているのは上の側だけ。下は止まっていた。
二日前は両方とも動いていた。
灯は下へ戻った。戻る途中で、二度足を止めた。
はじめに止めた場所は上から二歩目で、次は四歩目。二歩目の土は乾いていた。
四歩目のところは、まわりより色が濃かった。灯はしゃがんで指を入れた。指の先は湿らない。
色が濃いのは水のぶんではなくて、上の手袋の影が長く落ちるぶんになる。灯は指を出して立った。
下から三つ目の段まで来ると、灯は土の上へ座った。座ると、太ももの裏から冷たさが来る。
トトは手のひらの上にいた。指の部分は三本目だけが立っていた。
「ねえ、トト」
「うん」
「今日、丘に誰か来た」
「来た」
「誰が来たの」
「誰が来たの」
灯はそこでやめた。斜面の上の縁のほうを見ると、人の通った跡は出ていない。
「三本目の内側にこぶがあるのは、どっち」
「相方」
「じゃあトトのは」
「僕のは」
そこで切れた。その先で、立っていた三本目が半分だけ下がった。
灯は手のひらの角度を変えた。傾けると、指の部分がまた立つ。日の当たり方で立つのではない。
布の重さのぶんで、傾けた側へ倒れているだけだった。灯は手のひらを水平へ戻した。
戻すと、三本目は半分下がったところで止まった。
灯は上着の袖の内側へ手を入れた。指の先は冷えていた。冷えたきりで、袖の内側でも温まらない。
鎖骨の下の詰まりは、坂を上っていた時より広くなっていた。息の入る幅が狭かった。
灯はもう片方の手を土へ着いた。指の下で、細かいものが二つ割れた。
灯は自分の鞄の口を開けた。中には青い表紙のノートが入っていた。輪は下の段に六つ。
ノートを出して、角の折れた側を上にして持った。開くと、紙は三枚目で自然に止まる。
止まったところに、四つ角で書いた名が並んでいる。全部で二十一。上の六つは薄かった。
薄い六つのうち二つは、形が出てこない。灯は指でその二つの場所をなぞった。紙にはへこみだけが残っていた。
灯はノートを閉じた。それから、鞄へ戻した。入れた先は輪の反対の側。
トトの名は書いていない。書いていないことを、灯は今日まで数えていなかった。
「二十日にさ」
「二十日」
「明日はどっちを探せばいい、って聞いたでしょ」
「聞いた」
「あれ、あたしが答えてない」
トトは返さなかった。返さずに、三本目がもう一度立っていた。
灯は斜面を見た。上から順に倒れて、下から戻る。四つ数える間に一度。
数える間、灯は口を動かさなかった。動かさないで四つを三度数えた。
三度目の四つ目のところで、トトが動いた。
「ねえ、おねえさん」
「なに」
「ねえ、僕の名前ってなんだっけ」
目を落とした先で、三本目の指は立っていた。ほかの四本は下を向いたまま。
布の色のほうは、表も裏も同じになっていた。境はどこにも無い。
灯は口を開けた。一度閉じて、もう一度開けた。
「トト」
声は自分の耳にも届いた。その先で、斜面の音の中へ入っていく。
トトは動かなかった。
灯は同じ高さで、もう一度言った。
「トト」
二度目も動かない。指の部分は三本目が立っていて、残りは下を向いていた。
灯は手のひらを口のところまで上げた。指四本ぶんの高さだった。
上げた腕の肘は、上着の袖の中で曲がっていた。曲げた側の布が、内側で二重に重なった。
二重のぶん、腕は前より重い。重さは手のひらではなくて、肩の付け根に来た。
「トト」
三度目のあと、三本目の隣の指が動いた。二本目で、途中までは上がって、そこで止まる。
止まった高さは三本目の半分ほど。灯はその二本を見た。
肩の付け根の重さが、そこで手のひらの側へ戻った。腕は下がらない。下がらない。下がらない手のひらの上で、指が二本立っていた。
灯は口の中で四つ数えた。四つ目のところで、手のひらの上のものが動いた。
その動きは、二日前に段へ置いた時の倒れ方でも、風で押された時の倒れ方でもなくて、内側から順に持ち上がって、持ち上がったところで止まる形だった。
「僕、トトだ」
「トト」
「トト。ねえ、それ、僕の名前だよね」
「そう」
「僕はトトで、相方は右で、三本目の内側にこぶがあるんだ」
声は前より届いた。灯は手のひらを下げた。それでも、聞こえる。
指四本ぶんより遠いところで、聞こえた。
灯は測らなかった。測る代わりに、手のひらを膝の上まで下ろした。そこでも聞こえる。
灯は斜面を見た。手袋は上から順に倒れて、下から戻っていた。四つ数える間に一度。
上から順に倒れるのは、トトの言った四つのどれでもない。名前のあるのは四つだけで、残りの四つは手で指す。
灯はそれを聞かなかった。
三度数えた。三度とも四つだった。
「明日はどっちになるの」
「明日は分からない。朝に来て、はじめて分かるんだ」
「二日前も同じこと言ってた」
「言った」
「覚えてる。全部じゃないけど」
「じゃあ、二日前のことはおねえさんに聞くよ。そのほうが早い」
灯は返事を作らずにいた。作る前に、トトが次の話へ移っていた。移った先は相方の話。
「相方は右でね、三本目の内側にこぶがあるんだ。こぶは糸の玉で、僕のには無いんだよ」
「知ってる。前に聞いた」
「知ってるのか。じゃあ、おねえさんも探せるね」
トトの声は途切れなかった。切れ目の無い一本だった。息を吸うために空く間が一度も入らない。
灯は自分の息のほうが先に足りなくなるのに気づいて、口で吸い直した。
二日前と同じになった。同じところまで戻ったのかどうかは、灯には測れない。
灯は膝の上のトトを持ち上げて、日の当たる側へ向けた。その面と、影の面を見比べる。
境が戻っていた。日に当たっていた面のほうが薄くて、影の面のほうが濃かった。線はどこかにある。
灯は指でその線をなぞった。二度目で、どこからが薄いのかが決められた。
二日前は一度でなぞれた。今日は二度かかる。
「色、戻ってる。境が見える」
「色は戻るよ。上から見るか横から見るかで変わるからね」
「そうじゃなくて」
「そうじゃないのか。じゃあ、おねえさんの言うほうが正しいよ」
トトを載せた手が膝の上へ下りた。その先で、トトが自分で一度ひっくり返って、それから起き上がった。
起き上がる時、五本の指が順に動いた。動く順は一本目から五本目で、飛んでいない。
灯はトトを下から三つ目の段へ置いた。置くと、指の部分がまわりと同じ向きへ倒れる。
二本目と三本目だけ、倒れ方が浅かった。
灯は立ち上がった。上着の裾に付いた土を、手のひらで二度払っていた。
払った先で、細かいものが風に持っていかれる。持っていかれる向きは、斜面の上のほうだった。
「また来る。明日か明後日」
トトは返さなかった。
灯は坂の下りるほうへ歩き出した。歩き出してから、上着の袖の内側の指を確かめた。
指の先は温まっていた。上着の中で温まる速さは、来た時より速い。
鎖骨の下の詰まりは残っていた。息はそこで一度止まる。灯は押さえなかった。
二歩歩いて、そこで振り返った。
トトは同じ場所にいる。二本目と三本目が、まわりより浅く倒れて、まわりより遅く戻っていた。
灯はその二本を目で覚えた。それから、斜面の全部をもう一度見た。ほかは全部そろっていた。
灯は口を開けた。そこで、出てくるものが無い。
灯は口を閉じて、坂を下りた。
坂の途中で、灯はもう一度だけ止まった。塀の切れ目のところだった。
切れ目からは丘の下の三分の一が見える。下から三つ目の段は、その中に入っていた。
入っているのに、どれがトトかは分からない。距離のぶんで、二本の遅れは見えなくなっていた。
灯は目を細めた。それでも同じだった。灯は歩き出した。
斜面の音は下まで届く。灯は下りながら三度数えた。三度とも四つだった。
音は坂の折れ目のところで切れた。




