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レポ 落とし物の街  作者: 智珠
第二巻 名前をなくした街

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第041話 呼ぶ

 四つ角の板の上には、何も出ていなかった。


 台は脚の上に載ったままで、上の面だけが拭いてあった。跡は左から右へ、四本の帯になって残っていた。


 帯の幅は布の幅。四本目だけが途中で切れていて、その先に木の粉が寄っていた。


 キリは板の後ろにいた。立ってはいない。脚のところにしゃがんで、めり込んだ一本の根元を手で掘っていた。


 使っているのは指の三本で、親指は土に付けていなかった。親指を入れると土が固まると、夏に一度言っていた。


 穴の縁は丸い。出た土は右の側へ寄せてある。山は灯の靴の半分ほどの高さだった。


 「今日は台を出さないの」


 「出さん。北の道の札が三枚無くなった。三枚とも名前の入ってたやつだ」


 灯は板の上を見た。何も無い。いつもなら、名前の入った札は上の列に並べてあった。


 「無くなったって、どこから」


 「折れ目の先の柱だ。三枚とも掛かってたのが無い。掛けたのは俺じゃない」


 キリは掘る手を止めなかった。土は乾いていて、指の入る深さは一寸ほどで止まる。


 「掛けたのは誰だったの」


 「知らん。掛けたい奴が掛けるところだ」


 灯はしゃがんで、寄せてある土の山に指を入れた。中は外より湿っていた。掘り返したぶんだけ、下の土が出ていた。


 匂いは土と、その下の木。木のほうは古い。灯は鼻から二度吸って、そこでやめた。


 「札って、掛けたら誰のものになるの」


 「掛けた奴のだ。取ったら取った奴のになる」


 「じゃあ取ってもいいってこと」


 「よくはない。だが決まりは無い」


 キリは掘る手の指を三本だけ立てた。値段を言う時の立て方ではない。数を数える時の立て方。


 「無くなったのはいつ」


 「昨日の昼までは在った。今朝は無い」


 「昨日は行ってない」


 「行ってないな。俺は通った。昨日の昼は在った」


 二十日は丘へ行った日になる。二十一日は行っていない。行かない日のことを、灯は今日まで数えていなかった。


 行かない日にも札は掛かっていた。


 灯は自分の指を見た。指の腹に土が付いている。上着の裾でこすると、白いほうは取れた。


 黒いほうは残って、爪の間へ入って、こすっても出てこなくて、こする度に指の腹のほうだけが赤くなっていた。


 キリは掘るのをやめた。やめて、掘った穴の底へ手のひらを当てた。その時間は灯が四つ数える間。


 「濡(ぬ)れてる」


 「昨日は乾いてた。手を入れてない」


 「じゃあ下から来てる」


 キリは寄せた土を穴へ戻した。戻す時、上から押さえずに、指で崩して落とした。


 押さえると水が上がると、キリは前に言っていた。理由は言っていなかった。


 「折れ目の先までは行かんほうがいい」


 「なんで行かないほうがいいの」


 「札の無くなった柱の前に、人が二人立っとる。二人とも、俺の知らん顔だ」


 灯は北の道の入口のほうを見た。坂の下の三分の一の先で、道は一度折れている。


 柱はその折れ目の先。丘へ上がる側とは反対になる。折れ目の手前の壁の下に、荷が三つ積んであった。


 「無くなったのは木の札」


 「木だ。二文字が一枚、三文字が二枚。三枚とも俺の手じゃない」


 「あたしも書いてない」


 「そうだろうな。灯の書いた札は四つ角のぶんだけだ」


 キリは掘った土をもう一度崩した。崩れた先で、粒の大きいものだけが穴の縁に残る。


 「二人は何してるの」


 「立っとるだけだ。朝からずっと同じところに立っとる」


 「ずっとって、何時から」


 「俺が通った時からだ。通ったのは、日が屋根の上に来る前になる」


 灯は日の位置を見た。日は東の建物の屋根より上にあった。屋根の縁からは灯の手のひら二つぶん。


 「じゃあ、日が手のひら二つぶん動くあいだ立ってる」


 「そんなところだ」


 「見に行かないの」


 「行かん。俺の札じゃない」


 「三枚だと、いくらぶん」


 「名の入ったのは冬で一枚一つだ。三枚で三つになる」


 キリは指を三本立てた。値を言う時の立て方で、掘る時に使っていた三本とは向きが違った。


 「取った奴は三つぶん持っとる。俺は一つも損しとらん」


 「損してないのに、行くなって言うんだ」


 「言う。損しとらんから言える。損した奴の言うことは値が下がる」


 キリは立ち上がった。立つ時、右の膝へ手を置いた。その側の靴の外側だけが土へ深く入る。


 灯はその跡を見た。二日前より深い。土が湿ったぶん、沈む深さが変わっていた。


 「丘へ行く。トトのところ」


 「行くのか。今日の丘は西だ」


 「西だと何かちがうの」


 「知らん。俺は丘の風は読まん。読むのは道の土だ」


 キリは板の上の帯の跡を、手のひらで一度なでた。なでた先で、四本目の切れ目が消えた。


 無くなったのは跡のほうで、木の粉は残っていた。灯は粉のところへ指を置いた。指の下で、粉は動かない。


 「板を拭いたのは今朝」


 「今朝だ。出さんのに拭くのは、拭いとくと次が早いからだ」


 「じゃあ明日は出すんだ」


 「出すかは明日決める」


 「木の粉、動かない」


 「湿っとるからだ。乾いてたら風で行く」


 灯は指を離した。あとに、指の形の跡が残った。


 キリは板の下へは手を入れなかった。二日前は入れずに、灯が入れた。今日は灯も入れない。


 東の道の入口の枠は、二日前と同じところに立っていた。灯は上の横木のひもの切れ端を数えた。


 六つだった。


 灯はもう一度数えた。二度目も六つだった。


 「ひも、六つになってる」


 「そうか」


 キリはそれだけ言って、袋を肩へ掛けた。袋の底が板の脚へ当たる。当たった脚は掘ったほうだった。


 「数えてたのか」


 「二日前も七つだった。数えてる」


 「なら六つだ。俺は数えん。数えた奴の数で払う」


 キリは東の道のほうへは行かなかった。北の道の側へ二歩歩いて、そこで止まる。


 止まった場所は、荷の積んである壁の手前。灯はその背中を見た。


 背中は動かない。動かずに、キリは荷のほうを見ていた。


 穴の底の湿りは、掘る前からそこにあったことになる。灯は寄せた土の山のほうへ指を入れた。


 指を差した場所は穴の縁から二寸ほど外だった。そこは湿っていなかった。


 灯は指を抜いた。爪の間には何も付いていない。


 灯は北の道の入口まで三歩だけ寄った。寄ると、折れ目の先が少しだけ見える。


 見えたのは道の右の壁で、壁の下には何も無い。人の足も、影も出ていなかった。


 あと一歩だけ寄ってみた。それでも、見える幅は増えなかった。折れ目の角が邪魔。


 灯は聞こうとした言葉を、喉の手前で押さえた。そこから先へは出さない。


 「行くよ。昼までに戻る」


 「行け。丘は昼までだ」


 灯は坂のほうへ歩き出した。歩き出してから、一度だけ振り返った。


 キリはまだ同じ場所にいた。荷のほうを見たままで、肩の袋を下ろしていない。


 北の道は二日前より人が少なかった。荷車は一台も通らない。轍(わだち)の底には水が薄く残っていた。


 灯は轍の外側を歩いた。外側の土は踏まれていて、内側より固かった。固いところは靴の底が滑る。


 道の左の壁の下の板は三枚のまま。灯は裏を見なかった。二日前に見ていた。


 坂の上り口の土は、二日前より湿っていた。湿ると滑らない。灯は歩幅を戻して上った。


 塀は坂の途中から始まる。左側だけ。塀の上の片方だけの物は、二日前は十一だった。


 灯は数えた。十一。減っても増えてもいない。


 長靴は同じ場所にあった。眼鏡も同じ。灯は眼鏡のつるの残っているほうへ指を伸ばして、触る前でやめた。


 塀の石の積み直した跡は、灯の胸のところを横に走っていた。跡の上の石は下より小さかった。


 石と石の間の目地に、白いものが詰まっていた。灯は爪の先を入れる。すると、それは粉になって落ちた。


 粉は塀の下の土の上で、しばらく白く残っていた。土の色に混じるまでに、灯は七つ数える。


 匂いが変わったのは、坂の半分を上ったところだった。二日前は三分の二まで来ないと届かなかった。


 毛の匂い。乾いた毛で、その下に土がある。今日のほうが早く来る。風が上から下りているからだった。


 灯は口を閉じて鼻だけで息をした。上るほど濃くなる。二度吸って、そこでやめた。


 風は上から来ていた。二日前は横から来ていた。上から来る風は、髪を前へ寄せる。


 寄った髪の間から、耳の縁が出た。冷えるのは縁だけだった。灯は襟を立てなかった。


 襟を上げると音が遠くなる。今日はそちらを聞いていたい。灯は自分でそう決めた。


 塀の切れたところから先は、道が細くなっていた。細い側の残りは目で三十歩ぶん。歩くと四歩よけいにかかる。


 三十歩目のところで、灯は足を止めた。


 上から下りてくる風の中に、斜面の音が混ざっていた。二日前と同じ高さの音だった。


 灯はもう一度歩き出した。最後の四歩は歩幅が広がった。


 細くなった先に石段がある。段の高さはそろっていなかった。灯は目で数えた。十七。上ると十七回だった。


 二日前は最後の四段で歩幅が広がった。今日は三段目から広がっていた。


 *


 石段の最後の一段で、灯は足を止めた。止めた先に丘があった。


 斜面は動いている。風は上から下りていて、手袋の指は上から順に倒れた。倒れる先は下で、戻る先も下からだった。


 二日前は真ん中の帯から割れていた。今日は上の縁から下りてくる。


 二日前にトトは八つの向きを並べていた。東は真ん中で割れ、南と北は下で始まり、西は横から入る。上から下りてくる型は無かった。


 今朝キリが言ったのは西。


 灯は上の縁のほうを見た。縁の手袋も、上から順に倒れていた。


 灯は倒れて戻るまでを数えた。四つ数える間に一度倒れる。次も四つ。その次も四つ。


 二日前は三つだった。三つが四つになったぶん、斜面は遅く見えた。


 灯は下から三つ目の段を見た。トトはそこにいる。二日前に灯が置いた場所と同じところ。


 段は掘ってできたものではない。物の積もった重みで土が下へ寄って、そこだけ平らになる。高さは灯の靴の甲ほど。


 段の縁のところだけ、手袋の重なりが薄かった。薄いのは風が縁で分かれるからで、二日前も同じだった。


 トトはその薄いところの真ん中にいた。まわりの手袋との間は、どちらの側も指二本ぶん空いていた。


 空いている幅は二日前より広い。灯はそこを目で測った。二日前は指一本ぶんだった。


 斜面を四歩上がっていた。上がると、まわりの手袋が足の先で三つぶん動いた。三つとも、その先でまた止まる。


 トトは指の部分を五本とも下へ向けていた。まわりの手袋と同じ向きだった。


 二日前は上を向いていた。上げていたのはトトで、風ではない。


 風で倒れたのなら、倒れる向きは下。灯はそこまで見て、斜面のほうへ目を移した。


 灯はしゃがんだ。しゃがむと、膝の前の土が乾いているのが分かる。二日前も乾いていた。


 灯は手を伸ばして、トトの端をつまんだ。持ち上げると軽かった。二日前より軽く感じる。


 持った重さは手のひらではなくて、手首に来た。腕の、肘から先だけが浮く。


 灯はトトを手のひらの上へ平らに置いた。それでも、指の部分は動かない。


 布は乾いていた。親指の付け根の破れは、二日前と同じ幅で開いていた。中の綿も同じ量に見えた。


 持ち上げた時の軽さは、水を捨てたあとの掃除のバケツのようだった。


 置いてしばらくして、三本目が一本だけ動いた。途中で折れているほうだった。


 「……おねえさん」


 声は前より薄い。薄いというのは高さではない。届く距離のほうが短くなっていた。


 灯は耳を近づけた。そこまで寄せると、聞こえる。離すと聞こえなくなった。


 聞こえる距離を、灯は指の幅で測った。指四本ぶんまでは届く。五本ぶんで切れる。


 二日前は測っていなかった。測らなくても、鞄(かばん)のひもへ掛けたまま話が続いていた。


 灯は指四本の幅を覚えた。それから、手のひらの高さをそこで止めた。


 「二日ぶりになる」


 「二日か」


 「二日。二十日に来た」


 「そうだった」


 トトはそこで止まった。灯は次を待った。それでも続かない。


 二日前なら、待たなくても続いた。灯が答えを作る前に、次の話へ移っていた。


 「風、今日は上から」


 「上からだね」


 「上の日って、何を探すの」


 トトは答えなかった。答えずに、指の部分をもう一本立てた。立ったのは五本目。


 「上の日は」


 「上の日は」


 トトは繰り返した。繰り返してから、そこで切れた。


 手のひらの上でトトを回した。回すと、日の当たる面が変わる。変わった面のほうが色が薄かった。


 薄いのは日に当たった年数のぶんで、二日前も同じに見えていた。今日は境がぼやけていた。


 灯は指で境をなぞった。なぞっても、どこからが薄いのかが決められなかった。


 二日前は決められた。決められたのは、そこに線があったからになる。


 「三本目の内側のこぶ」


 「こぶ」


 「相方の。三本目の内側にこぶがあるって、前に言ってた」


 「こぶ」


 トトは三度目に同じ語を出した。それから、指の部分を三本目のところで曲げる。


 そこを灯は見た。曲げたところに、こぶは無い。トト自身のには、はじめから無かった。


 「トトのには無い。前もそうだった」


 「無いね」


 「相方のにはあるんでしょ」


 「あるよ。三本目の内側だ」


 言い終わって、トトはまた止まっていた。今度の止まり方は、前より短い。


 「三本目、まだ折れてる」


 「折れてる」


 「それ、痛くないの」


 「痛くない。折れてるのは前からだよ」


 その二つは切れなかった。前と同じ長さで出て、前と同じところで終わった。


 灯はもう一度、同じことを別の言い方で聞いた。今度は途中で切れた。


 灯は膝を土へ着いた。着くと、上着の裾が土に触れる。触れたところだけ、布が冷えた。


 鎖骨の下のところが、少し詰まった。息を入れると、そこで一度止まる。


 灯は膝を伸ばして座り直したが、入り方は変わらなかった。


 腹が立っているのだと灯は思う。トトが同じ語しか返さないからだと思う。


 思ってから、灯は自分の手を見た。指は開いていて、どこも握っていなかった。


 斜面の白いものを、灯は数えた。十九まで来て、二十番目で分からなくなる。二日前と同じところで止まった。


 立ってから数え直すと、二十三まで行けた。しゃがむと減る。立つと増える。


 「十九だった。立つと二十三」


 「立つと増えるんだ」


 「二日前もそう言ってた」


 「言った?」


 灯は手のひらの上のトトを見た。指の部分は二本立ったまま動かない。


 「言った。八十四だとも言ってた」


 「八十四」


 トトはその数を繰り返した。繰り返してから、指を一本下ろした。下ろしたのは五本目のほう。


 残った一本は三本目で、折れているほうだった。


 灯は二日前に埋め直した留め金を探した。下から三つ目の段から、斜面を四歩上がったところだった。


 角が出ていた。高さは埋めた時と同じ。灯は指を掛けて、少しだけ引いた。


 下の手袋が三つ動いた。三つとも、少し進んだところで止まる。


 留め金の輪の側の傷は三本のままだった。真ん中の一本だけが深くて、ほかの二本より短い。


 灯はそれを元の高さへ戻した。それから、四歩下りてトトのところへ戻った。


 「留め金、まだあった」


 「留め金」


 「二日前に埋めたやつ。角だけ出るようにしといた」


 「そうだった?」


 灯は答えなかった。答えを作る前に、次の語が来ないのが分かっていた。


 灯は斜面の下のほうを見た。下の帯には風が届いていなかった。二日前と同じ場所で、幅も同じ一歩ぶん。


 帯の中の手袋は動かない。指の向きがそろっていないのも同じだった。


 灯はそちらへ二歩下りた。下りてから、また上がった。上がる時、足の下で手袋が四つぶん動いた。


 「トト」


 「なに」


 「今日、何を探した」


 「今日は」


 トトはそこで切れた。その先で、残った三本目が半分だけ下がった。それ以上は動かない。


 灯はトトを両手で挟んだ。挟むと、布の冷たさが手のひらの真ん中から入ってくる。


 入ってくる速さは、留め金を持った時より遅かった。布のほうが遅かった。


 「二十日は東だった」


 「東」


 「その前の日は南で、その前は北」


 「南」


 トトは灯の言った語だけを返した。返す順は灯の言った順で、間は空いていない。


 灯は言うのをやめた。やめると、返る語も止まった。


 次に、別の語を出した。今度は数ではなくて、丘に無いものを言ってみた。


 「傘」


 「傘」


 「机」


 「机」


 「板の台」


 「板の台」


 三つとも戻ってきた。戻る速さは同じで、間も同じ。


 斜面の音だけが残っていた。上から下りて、下で戻る。四つ数える間に一度。


 手のひらを開いた。そこにトトを置いて、上から日を当てた。


 日の当たる面の色は、影の面と同じだった。二日前は境があった。


 灯は面を裏返した。裏も同じ色。どちらが表かを、灯は決められなかった。


 「ねえ」


 「うん」


 「相方、まだ探してる」


 「探してる」


 その一言は切れない。長さも速さも、はじめの日のままだった。


 灯は続けて聞いた。


 「三百年」


 「三百年」


 「四十回、南を探した」


 「四十回」


 手のひらの真ん中へ、灯はトトを寄せた。


 指の下で、三本目が一度だけ曲がった。伸びるまでに二つ数えた。


 灯は立ち上がった。立つと、斜面の白いものがまた増えて見える。


 増えた側を見ないで、灯は下から三つ目の段の土へ手をついた。土は乾いていた。二日前と同じ乾き方だった。


 *


 日は塀の角の上まで来ていた。


 影は斜面の下のほうへ伸びている。伸びた先は道の縁で、そこから先は影が土に消えた。


 トトを手のひらへ載せて、斜面を上へ歩いた。上へ行くほど、白いものが増える。


 五歩上がって、灯は止まった。そこからは、丘の縁の二列が見えた。


 二列の間の土は、二日前と同じ幅で細く出ていた。灯は靴の先を入れた。固さも同じだった。


 「上のほうだけ白い。下は茶色」


 「白い」


 「二日前に聞いた。古いのは折れるって」


 「古いと」


 灯は上げた足を下ろした。足の下の手袋が二つ動いて、そこで止まる。


 灯は上の縁まで目を上げた。手袋は二列に並んでいて、動いているのは上の側だけ。下は止まっていた。


 二日前は両方とも動いていた。


 灯は下へ戻った。戻る途中で、二度足を止めた。


 はじめに止めた場所は上から二歩目で、次は四歩目。二歩目の土は乾いていた。


 四歩目のところは、まわりより色が濃かった。灯はしゃがんで指を入れた。指の先は湿らない。


 色が濃いのは水のぶんではなくて、上の手袋の影が長く落ちるぶんになる。灯は指を出して立った。


 下から三つ目の段まで来ると、灯は土の上へ座った。座ると、太ももの裏から冷たさが来る。


 トトは手のひらの上にいた。指の部分は三本目だけが立っていた。


 「ねえ、トト」


 「うん」


 「今日、丘に誰か来た」


 「来た」


 「誰が来たの」


 「誰が来たの」


 灯はそこでやめた。斜面の上の縁のほうを見ると、人の通った跡は出ていない。


 「三本目の内側にこぶがあるのは、どっち」


 「相方」


 「じゃあトトのは」


 「僕のは」


 そこで切れた。その先で、立っていた三本目が半分だけ下がった。


 灯は手のひらの角度を変えた。傾けると、指の部分がまた立つ。日の当たり方で立つのではない。


 布の重さのぶんで、傾けた側へ倒れているだけだった。灯は手のひらを水平へ戻した。


 戻すと、三本目は半分下がったところで止まった。


 灯は上着の袖の内側へ手を入れた。指の先は冷えていた。冷えたきりで、袖の内側でも温まらない。


 鎖骨の下の詰まりは、坂を上っていた時より広くなっていた。息の入る幅が狭かった。


 灯はもう片方の手を土へ着いた。指の下で、細かいものが二つ割れた。


 灯は自分の鞄の口を開けた。中には青い表紙のノートが入っていた。輪は下の段に六つ。


 ノートを出して、角の折れた側を上にして持った。開くと、紙は三枚目で自然に止まる。


 止まったところに、四つ角で書いた名が並んでいる。全部で二十一。上の六つは薄かった。


 薄い六つのうち二つは、形が出てこない。灯は指でその二つの場所をなぞった。紙にはへこみだけが残っていた。


 灯はノートを閉じた。それから、鞄へ戻した。入れた先は輪の反対の側。


 トトの名は書いていない。書いていないことを、灯は今日まで数えていなかった。


 「二十日にさ」


 「二十日」


 「明日はどっちを探せばいい、って聞いたでしょ」


 「聞いた」


 「あれ、あたしが答えてない」


 トトは返さなかった。返さずに、三本目がもう一度立っていた。


 灯は斜面を見た。上から順に倒れて、下から戻る。四つ数える間に一度。


 数える間、灯は口を動かさなかった。動かさないで四つを三度数えた。


 三度目の四つ目のところで、トトが動いた。


 「ねえ、おねえさん」


 「なに」


 「ねえ、僕の名前ってなんだっけ」


 目を落とした先で、三本目の指は立っていた。ほかの四本は下を向いたまま。


 布の色のほうは、表も裏も同じになっていた。境はどこにも無い。


 灯は口を開けた。一度閉じて、もう一度開けた。


 「トト」


 声は自分の耳にも届いた。その先で、斜面の音の中へ入っていく。


 トトは動かなかった。


 灯は同じ高さで、もう一度言った。


 「トト」


 二度目も動かない。指の部分は三本目が立っていて、残りは下を向いていた。


 灯は手のひらを口のところまで上げた。指四本ぶんの高さだった。


 上げた腕の肘は、上着の袖の中で曲がっていた。曲げた側の布が、内側で二重に重なった。


 二重のぶん、腕は前より重い。重さは手のひらではなくて、肩の付け根に来た。


 「トト」


 三度目のあと、三本目の隣の指が動いた。二本目で、途中までは上がって、そこで止まる。


 止まった高さは三本目の半分ほど。灯はその二本を見た。


 肩の付け根の重さが、そこで手のひらの側へ戻った。腕は下がらない。下がらない。下がらない手のひらの上で、指が二本立っていた。


 灯は口の中で四つ数えた。四つ目のところで、手のひらの上のものが動いた。


 その動きは、二日前に段へ置いた時の倒れ方でも、風で押された時の倒れ方でもなくて、内側から順に持ち上がって、持ち上がったところで止まる形だった。


 「僕、トトだ」


 「トト」


 「トト。ねえ、それ、僕の名前だよね」


 「そう」


 「僕はトトで、相方は右で、三本目の内側にこぶがあるんだ」


 声は前より届いた。灯は手のひらを下げた。それでも、聞こえる。


 指四本ぶんより遠いところで、聞こえた。


 灯は測らなかった。測る代わりに、手のひらを膝の上まで下ろした。そこでも聞こえる。


 灯は斜面を見た。手袋は上から順に倒れて、下から戻っていた。四つ数える間に一度。


 上から順に倒れるのは、トトの言った四つのどれでもない。名前のあるのは四つだけで、残りの四つは手で指す。


 灯はそれを聞かなかった。


 三度数えた。三度とも四つだった。


 「明日はどっちになるの」


 「明日は分からない。朝に来て、はじめて分かるんだ」


 「二日前も同じこと言ってた」


 「言った」


 「覚えてる。全部じゃないけど」


 「じゃあ、二日前のことはおねえさんに聞くよ。そのほうが早い」


 灯は返事を作らずにいた。作る前に、トトが次の話へ移っていた。移った先は相方の話。


 「相方は右でね、三本目の内側にこぶがあるんだ。こぶは糸の玉で、僕のには無いんだよ」


 「知ってる。前に聞いた」


 「知ってるのか。じゃあ、おねえさんも探せるね」


 トトの声は途切れなかった。切れ目の無い一本だった。息を吸うために空く間が一度も入らない。


 灯は自分の息のほうが先に足りなくなるのに気づいて、口で吸い直した。


 二日前と同じになった。同じところまで戻ったのかどうかは、灯には測れない。


 灯は膝の上のトトを持ち上げて、日の当たる側へ向けた。その面と、影の面を見比べる。


 境が戻っていた。日に当たっていた面のほうが薄くて、影の面のほうが濃かった。線はどこかにある。


 灯は指でその線をなぞった。二度目で、どこからが薄いのかが決められた。


 二日前は一度でなぞれた。今日は二度かかる。


 「色、戻ってる。境が見える」


 「色は戻るよ。上から見るか横から見るかで変わるからね」


 「そうじゃなくて」


 「そうじゃないのか。じゃあ、おねえさんの言うほうが正しいよ」


 トトを載せた手が膝の上へ下りた。その先で、トトが自分で一度ひっくり返って、それから起き上がった。


 起き上がる時、五本の指が順に動いた。動く順は一本目から五本目で、飛んでいない。


 灯はトトを下から三つ目の段へ置いた。置くと、指の部分がまわりと同じ向きへ倒れる。


 二本目と三本目だけ、倒れ方が浅かった。


 灯は立ち上がった。上着の裾に付いた土を、手のひらで二度払っていた。


 払った先で、細かいものが風に持っていかれる。持っていかれる向きは、斜面の上のほうだった。


 「また来る。明日か明後日」


 トトは返さなかった。


 灯は坂の下りるほうへ歩き出した。歩き出してから、上着の袖の内側の指を確かめた。


 指の先は温まっていた。上着の中で温まる速さは、来た時より速い。


 鎖骨の下の詰まりは残っていた。息はそこで一度止まる。灯は押さえなかった。


 二歩歩いて、そこで振り返った。


 トトは同じ場所にいる。二本目と三本目が、まわりより浅く倒れて、まわりより遅く戻っていた。


 灯はその二本を目で覚えた。それから、斜面の全部をもう一度見た。ほかは全部そろっていた。


 灯は口を開けた。そこで、出てくるものが無い。


 灯は口を閉じて、坂を下りた。


 坂の途中で、灯はもう一度だけ止まった。塀の切れ目のところだった。


 切れ目からは丘の下の三分の一が見える。下から三つ目の段は、その中に入っていた。


 入っているのに、どれがトトかは分からない。距離のぶんで、二本の遅れは見えなくなっていた。


 灯は目を細めた。それでも同じだった。灯は歩き出した。


 斜面の音は下まで届く。灯は下りながら三度数えた。三度とも四つだった。


 音は坂の折れ目のところで切れた。

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