第040話 裏の名前
台所の窓は、今朝は全部曇っていた。
五日前は下の三分の一だけだった。今日は上の縁まで白い。灯は指で丸を一つ描いた。丸の内側から外が見える。
見えたのは向かいの屋根で、屋根の上の空は昨日より暗かった。丸の縁からは水が下へ走っていた。走った跡は細い線になって残る。
灯は流しの前で水を出した。冷たくなるまでに、今朝は三つ数えた。冷えると、指の付け根から先が遠くなる。
味噌汁の鍋には昨日のぶんが残っていた。火を入れると、湯気が上へ抜ける。天井のところだけ、色が濃くなっていた。
匂いは味噌が先で、その後に大根が来た。順は決まっていた。灯は鼻から二度吸って、そこでやめた。
椀は二つ出した。一つは蓋をして、流しの右の端へ置く。蓋の縁と椀の縁が合う位置は一つしか無かった。
布の上の湯呑は四つとも伏せてあった。輪の跡の濃いのが三つで、薄いのが一つ。薄いほうは、いつも端に置く湯呑。
母は昨日の夜勤から戻っていた。部屋の戸は閉まっていて、下の隙間から明かりは出ていなかった。
祖母は玄関にいた。傘立ての前に立って、三番目の柄へ指を置いていた。指の当たる場所は柄の同じところで、そこだけ色が濃かった。
五本のうち、灯のは三番目。手前の二本は祖母のと母ので、奥の一つは父のものだった。もう一本には持ち主がいない。
灯は靴を履いた。かかとを二度、土間の縁へ当てる。当てる音は二度とも同じ高さになっていた。
「今日は雨かい」
「降らない。雲が動いてない」
祖母は指を離した。その手を、上着の前で合わせる。
「傘は持ったかい」
「持ってない。今日は要らない」
祖母はうなずかなかった。傘立ての三番目のほうへ目を落として、そこで止める。
「灯、今日は五時でしょ、冷蔵庫の上の段に昨日のがあるから」
母の声は部屋の中から来た。戸は閉まったままだった。
「お母さんは遅くなるので、戸締まりは灯がやってちょうだい」
「ばあちゃん、寒いから中へ入れてあげて、玄関は風が通るから」
灯は玄関のほうを見た。祖母は動いていない。
「うん」
母は返事を待たなかった。待たないうちに、戸の向こうで布のこすれる音が止まっていた。
灯は戸を開けた。外の空気は昨日より重かった。重いというより、動いていない。
道の水たまりには薄い氷が張っていた。灯は端を靴の先で押した。氷は割れずに沈んで、また浮いた。
二度目に押すと、真ん中から割れた。ひびは三本で、三本とも端まで届いていない。
道の左の家の塀の上に、猫が一匹いた。灯が近づくと、動かずに顔だけ向けた。
灯は歩幅を変えずに通った。猫は最後まで動かなかった。
駅までは八百歩ある。灯は歩く間に、途中の三つの目印を数えた。水飲み場、魚屋、橋。
水飲み場の蛇口は下を向いていた。昨日は横。誰かが動かしたことになる。
魚屋の前の水は流れていなかった。氷だけが箱の中に残っていて、上の段は空。冬は仕入れが遅かった。
橋の上で、灯は一度だけ川を見た。水は少ない。石の頭が三つ出ていて、夏は一つも出ていなかった。
三つのうち、真ん中のは上が平ら。両側のは先が細い。平らなのだけ、日に当たっている面が白い。
灯は白い面を見た。それから、鞄の底へ手を入れた。木の輪が六つ、指の腹に当たる。
六つは重なっていない。左から三つ、その下に三つ。昨日の四つ角で足した一つは、下の段の右の端。
灯は指を出して、鞄の口を閉めた。それから、外側から一度だけ押した。
改札の時計は八時六分だった。腕の時計は八時五分。一分の差はいつも同じ向きに出る。
駅の前で、人の流れは改札へ入る側と入らない側に分かれた。灯は入らない側の端を歩く。
地下へ下りる階段の口は、改札の手前を右へ折れた先にあった。手すりの上のほうだけが光っていた。
光るのは三分の一までで、その下は鈍い。触る者の手の届く高さだった。
下りるのは学校のあとで、四月から動いていない。朝は横目で見るだけにする。
灯は足を止めなかった。止めたことは四月から一度も無い。今朝も同じ速さで通り過ぎた。
通り過ぎてから、灯は手を上着の袖へ入れた。指の先は冷えたままだった。
駅から学校までは六百歩。途中の目印は二つで、一つは花屋、もう一つは塾の看板。花屋の前の道は、朝はいつも濡れていた。
今日は濡れていなかった。凍っていた。灯は歩幅を半分にして、足の裏を先に置いた。
学校の門の時計は八時十四分。門の内側の掲示板には紙が四枚貼ってあった。四枚のうち一枚だけ、角が丸くなっていない。
四枚のうち二枚は九月の日付だった。一枚は十一月。角の丸くなっていない一枚だけが十二月。
十二月の一枚には「体育館の裏の片づけ」と書いてあった。日付は十二月二十日で、昨日だった。
灯はその一行を二度読んだ。二度目に下の小さい字のほうまで読んだ。下には出す物の置き場所が書いてあった。
昇降口の傘立ては空だった。二十四本ぶんのところに一本も無い。奥の列の三番目に、水の跡だけが丸く残っていた。
灯は自分の場所を探さなかった。中学の傘立てに決まった場所は無い。早く来た者から順に入れる。
上履きへ履き替えた。履き替えた靴は下駄箱の右の端へ入れる。
灯は上履きのかかとを指で起こした。内側が外側より先に薄くなっていた。
甲の内側には名前が書いてあった。四月に書いた。母の字で、灯のものではない。
字は洗う度に薄くなっていた。今は三文字のうち、真ん中の一字だけが濃かった。上と下は形だけ残っていた。
灯は指の腹でその上をなぞった。布の目が指に引っかかる。字のところだけ、目が詰まっていた。
真ん中の一字は「か」になる。上の「あ」と下の「り」は、輪の形の中が塗りつぶれて、丸だけが残っていた。
灯は上履きを裏返した。底には四月からの跡が付いていた。前のほうが減っていて、後ろは減っていなかった。
減り方は左右でちがっていた。右のほうが外側から減る。左は真ん中から減っていた。
左右をそろえて並べると、減った場所が線でつながらない。灯はそれを一度並べ直して、それからやめた。
教室の時計は八時二十一分だった。この時計は家の時計と同じ数を出す。
灯の席は窓側の後ろから二番目。四月から動いていない。二学期に席替えが一度あったが、灯の場所は動かなかった。
みずきの席は廊下側の一番前。前は黒板で、右は壁だった。周りの席は三つとも空いていた。
みずきは座っていた。机の上に本を一冊立てて、その裏側に手を入れている。手は動いていなかった。
灯は席へ行く前に、通路を一本ぶん寄って通った。みずきの机の横がその道。
「おはよう」
「おはよう。今日、体育あるよ」
「一時間目でしょ」
「二時間目。一時間目は自習だって」
灯は黒板を見た。右の端に、白い字で二行書いてあった。二行目の下に線が引いてあった。
線は定規で引いたものではない。端が上へ跳ねていた。
灯は鞄を机の横へ掛けた。その時、底で輪が六つとも同じ側へ寄っていた。寄る音は布の内側で止まる。
机の中には教科書が四冊入っていた。四冊とも背を手前にして、高い順に並べてあった。
並べたのは四月で、それから順は変えていなかった。取り出す時は左から二冊目が一番多い。
二冊目の背だけ、上の角が丸くなっていた。ほかの三冊は角が立っている。
灯は二冊目を出して、机の上へ置いた。戻す場所は左から二番目のまま。
窓のところの壁には、給食の献立表が貼ってあった。十二月ぶんで、二十二日までしか埋まっていなかった。
二十三日から先の枠は白い。冬休みに入るからで、白い枠は九つ並んでいた。
灯は九つを数えてから、目を黒板へ戻した。
黒板の右の端の二行のうち、二行目には二十二日と書いてあった。その下の線は、二十二という字の下だけに引いてある。
線の長さは字の幅と同じで、はみ出していなかった。引いた者は、引く前に字の幅を測っている。
灯は自分の机の上へ手を置いた。天板の木の目は横に走っていて、右の端のところで一度切れていた。
切れ目の先の目は、向きが少しずれている。継いだ板だった。灯は継ぎ目の上を指で二度なぞった。
なぞると、二度目のほうが引っかかりは浅い。指の腹が先にならしていた。
灯は指を離して、天板の上へ手のひらを置いた。木は冷たくない。教室の中で冷たいのは窓の枠だけだった。
窓の外の空は、家から見た時より明るい。雲の切れ目が校庭の上に一つあった。
*
体育館の裏へは、渡り廊下の途中から回る。
昼休みの渡り廊下は風が通っていた。両側とも壁が無い。屋根だけが上に架かっていて、柱は片側に六本立っていた。
灯は柱を数えながら歩いた。六本目のところで渡り廊下が終わって、その先は土だった。
その土は締まっていた。踏んでも沈まない。人が踏んだのではなくて、凍って締まっていた。
体育館の裏は日が当たらない。壁と塀の間が二歩ぶんしかなくて、上は屋根の庇に隠れていた。
匂いは土と、その下に古い布があった。布のほうは、家で冬の布団を出す時の匂いのようだった。
灯は鼻から二度吸って、そこでやめた。三度目に出てくるものは無い。
塀の側の土には、細かいものが吹き寄せてあった。人の手ではない。掃いた跡なら、境がまっすぐに切れる。
吹き寄せの中に、白いものが混ざっていた。灯はしゃがんで指で分けた。中から出てきたのは紙の端で、字は無かった。
壁の下に、青い箱が三つ並べてあった。三つとも同じ大きさで、上の二つには蓋が無い。
一番手前の箱に、上履きが入っていた。
灯はしゃがんだ。しゃがむと、膝の前が壁に当たる。当たったところだけ、上着の布が冷えた。
箱の中の上履きは、片方ずつ向きを変えて入っていた。灯は上から順に取り出して、土の上へ並べた。
十三足あった。二十六ではなく十三足で、そのうち三足は片方しか無い。全部で二十三だった。
並べ終わってから、灯はもう一度数え直した。二度目も二十三だった。
甲の内側を見た。名前の書いてあるものと、書いていないものがある。書いてあるほうが多かった。
読めるのは四つだけだった。あとは形だけ残っていて、字として読めない。洗った回数のぶん薄くなっている。
四つのうち二つは同じ字から始まっていた。灯はその二つを並べて置いた。並べると、書いた手がちがうのが分かる。
一つは大人の字で、もう一つは自分で書いた字だった。自分で書いたほうは、字が大きくて右へ寄っていた。
「何してるの」
声は渡り廊下のほうから来た。みずきが柱の六本目のところに立っていた。
「数えてる。二十まで来た」
「上履き」
「二十三ある。十三足で、三つは片方だけ」
みずきは土のところへ下りてきた。下りる時、上履きの底が土の縁で一度滑っていた。
滑ってから、みずきは足を横へ置き直す。置いた先の土は、灯の靴の跡の横。
「これ、昨日出したやつでしょ」
「掲示に書いてあった」
「捨てるとは書いてない。しばらくここにあるんだよ」
みずきが土の上へ膝を折った。並べてある上履きのうち一つを取り上げる。取り上げたのは名前の読めないほうだった。
「これ、何年のだと思う」
「分からない。模様は見てなかった」
「底の模様で分かるよ。うちのと同じなら今年か去年」
みずきは自分の足を上げて、底を並べた。模様はちがっていた。上履きのほうは真ん中に丸が三つ並んでいる。みずきのは四つ。
「四つのほうが新しいの」
「去年の春に変わったって。三つのは前の形」
「じゃあ、うちのより古いんだ」
「古い。でも捨ててないでしょ」
みずきは上履きを土の上へ戻した。置いた先で、片方が横へ倒れた。名前の書いていないほうだった。
灯はそれを起こした。起こすと、また倒れる。三度目に灯は倒れたままにした。
「立てないほうが読める」
「その一つは名前が下向きだよ」
「読めるものは読む」
みずきは灯のほうを見た。それから、目を箱へ戻した。
名前の読める四つは、箱の中では上のほうに入っていた。下のものは字が全部薄い。
沈む順は入れた順ではなかった。入れた順なら、下のほうが古くて小さいはずだった。実際は下のほうが大きい。
灯は下から出した三足を、大きさの順に並べ直した。字の濃さの順とは合わない。
二つの順を、灯は指で二度たどった。合わないままにして、手を膝の上へ置いた。
「これ、返さないの」
「返さない」
「置いてあるだけでしょ」
「置いてあるのと、返すのはちがう」
灯は手を止めた。手の中の一足も、減っているのは内側。
みずきはもう一度、別の一つを取り上げた。取り上げてから、甲の内側を灯のほうへ向けた。
「これ、読めるかな」
灯は近づけた。字は三つ。真ん中の一字だけが濃い。
「真ん中だけ読める」
「うちのも同じ。上と下から先に消えるんだよ」
灯は自分の上履きの甲を見た。同じだった。真ん中の一字だけが濃い。
かかとを抜いて、甲の内側を光のほうへ向けた。上と下は丸だけになっていた。
灯は指の腹で三つの字の上をなぞった。真ん中のところだけ、布の目が指に引っかかる。
上と下のところは引っかからない。目が戻っていた。
鞄の中に筆箱があった。鉛筆は昨日の夜に削ってあった。
四月にこれを書いたのは母で、母は玄関で書いて、そのまま灯に一度も見せず、見せないまま八か月ぶん洗われて、いま真ん中の一字だけが残っていた。
書き足せば、そこだけ灯の字。
灯はかかとを戻して、足を入れ直した。
みずきは上履きを箱へ戻した。戻す時、底を上へ向けて入れた。灯が出した時は甲が上を向いていた。
「向きが逆になってる」
「底を上にすると乾くのが早い」
残りも同じ向きで戻っていく。灯は名前の読める四つだけを手元に残した。
その四つを、灯は土の上へ並べ直した。並べる順は、字の濃い順。
濃い順に並べると、一番濃いのが一番小さかった。小さいものは学年が下だった。
二番目に濃いのは灯のと同じ大きさで、三番目と四番目は一つずつ大きい。大きいほうが薄い。
「大きいのが薄い」
「長く履いてるからでしょ。洗う回数が増えるから」
「じゃあ薄いのは大事にされてたってこと」
「うちのは薄いけど、洗う人が同じだからね」
みずきは箱の縁へ手を掛けた。指の先が赤くなっている。
赤いのは第二関節から先だけだった。付け根のほうは白かった。境の線は指ごとに少しずつずれていた。
二人の指が並んだ。灯のほうは赤くなっていなかった。しゃがんでいる間、手を袖へ入れていた。
「手、赤くなってる」
「箱が冷たいからでしょ」
みずきの手は箱の縁に乗ったままだった。指で二度たたく。
「洗った回数と、大事かは別だよ。うちは週に一回」
「そんなに洗うんだ」
「洗うよ。白いから、汚れてると分かるでしょ」
「名前が書いてあるのは、返せるんじゃないの」
「返さないよ」
「なんで」
「去年もね、二学期の終わりに四つだけ無くなってた。名前の読めるのだけ」
灯は箱の縁へ手を掛けた。指の下で、青い紙が一枚めくれていた。めくれた下には数字が二つ書いてあった。
二つの数字の間には線が一本引いてあった。線の右のほうが薄い。書いた時期がちがう。
目を落とすと、上履きの先が見えた。土が付いていた。付いたのはさっきしゃがんだ時。
灯は指で払った。それでも、白の内側に灰色が残っていた。
庇の下の壁には、細い線が横に一本走っている。塗り替えの境で、下のほうが新しい。
みずきはその線の下へ背中を付けた。それから、すぐに離した。
「冷たい」
「壁は冷たいよ」
手のひらを壁へ当てた。触れたところだけ、しばらくして温かくなる。手を離すと、また元へ戻っていた。
二度目に当てた時は、温かくなるまでが少し長かった。三度目はもっと長かった。
「三回やると遅くなる」
「手のほうが冷えてるからでしょ」
みずきが自分の手のひらを壁へ当てた。二人の手のひらは、指二本ぶん離れて並んだ。
みずきの側の壁は、灯の側より先に色が変わった。濃くなったところの縁は丸かった。
「みずきのほうが早い」
「うちは手が赤いから」
みずきの手は壁から離れない。指の先を上へ滑らせる。滑らせた跡だけ、また元の色に戻っていた。
灯も同じところへ指を滑らせた。跡は出ない。灯の手のひらの下は、まだ変わっていなかった。
灯は手を上着の袖へ入れた。それでも、指の先の冷たさは袖の内側で止まっていた。
みずきはまだ壁に手を付けている。灯はそれを見ていた。
早く帰りたいのだと灯は思った。そう思ってから、袖の中の指を開いた。
「時間、あと十分しかない」
「まだあるでしょ」
「片づけないと、間に合わない」
灯は四つを箱へ戻しはじめた。向きはみずきのやり方に合わせて、底を上にした。
最後の一つを持ったところで、灯は手を止めた。甲の内側の字を、もう一度見る。
三つの字のうち、真ん中の一字は「か」だった。上と下は丸だけになる。
灯はそれを箱へ入れた。それから、箱の中を上から見た。二十三のうち、甲を上にしたままのものが一つ残っていた。
灯は手を入れて、それも底を上へ向け直した。向け直してから、蓋を探した。蓋は無い。
「蓋、無いよ。一番下のだけあるけど、中に何か入ってる」
「見ていいの」
「見ないほうがいいと思う」
灯は一番下の箱の縁を、上から見ただけにした。
*
放課後の廊下は、昼より暗かった。
窓は西側にしか無い。西の空は雲が厚くて、廊下の床の上に日の形は落ちていなかった。
灯は職員室の前で足を止めた。戸は開いていた。中からは石油の匂いが出ていて、匂いは天井の側へ上がっていった。
職員室の中は廊下より暖かかった。暖かいのは天井の近くで、床の上は廊下と同じくらい冷えていた。
入口の横の壁には出席簿が並べてある。背に組の数字が入っていて、一年の三組は左から三番目だった。
三番目の背だけ、下の角がすり切れていた。ほかの背は角が立っている。
多田は入口から三つ目の机にいた。机の上には紙の束が二つある。左の束のほうが厚い。
「先生」
「灯。どうしましたか」
「体育館の裏の箱、いつまで置いてありますか」
多田は左の束から一枚だけ抜いた。その紙の面を指の背でならしてから、机の縁へそろえた。
「二十五日までです」
「持っていったら、どうなりますか」
「業者が積みます。うちの帳簿からは落ちます」
抜いた紙は右の束の上へ戻っていた。右の束が一枚のぶんだけ高くなる。
灯は聞こうとした言葉を、口の中で一度置いた。置いたままにして、外へは出さない。
「名前の書いてあるのも、同じですか」
「同じ日の同じ車になります」
多田は椅子を引かなかった。椅子に座って、灯の顔の高さで話す。
「四つ、名前が読めました」
「読めましたか」
「読めました」
多田は机の上のペンを取った。書く前に、紙のほうを机の縁へそろえた。
「灯。持ってきてください」
「合ったら」
「合えば渡しましょう。合わなければ車のほうです」
「二十五日って、あと何日ですか」
「四日です。今日を入れて五日」
指は折らなかった。目のほうが、机の上の暦へ動いた。
暦は月ごとの一枚もので、十二月の枠に赤い印が二つ付いていた。二つのうち一つは二十五日の枠。
もう一つはその前の日で、印は細いほうだった。書いた日がちがう。
灯は廊下の窓のほうを見た。西の空の雲は、来た時より下がっていた。
「今から取ってきてもいいですか」
「今からで結構です」
灯は職員室を出た。それから、廊下を渡り廊下のほうへ歩いた。歩幅は行きより広くなっていた。
渡り廊下の柱は六本。灯は数えなかった。数えなくても、六本目で終わるのは分かっている。
体育館の裏の土は、昼より固くなっていた。日が一度も当たらずに、また凍りはじめていた。
青い箱は三つとも同じ場所にあった。一番手前の箱の中を、灯は上からのぞいた。
底を上にした上履きが並んでいる。昼に自分とみずきが直した向きのまま。
箱の縁の青い紙は、昼にめくれていたところがそのままだった。数字は二つで、間の線も同じ。
二つの数字のうち、右のほうが大きかった。左の数字の頭には丸が付いていた。丸の中は塗ってある。
灯は紙の下へ指を入れて、めくった。下には何も書いていない。青いだけだった。
灯は手を入れて、上から順に出した。一足ずつ、甲の内側を見ていく。
一足目は読めなかった。二足目も同じ。三足目にいたっては、字のあった場所さえ分からない。
四つあったはずの、名前の読めるものが出てこなかった。
四足目も、五足目も同じ。字のあったところは布の目がそろっていて、へこみも無い。
出す速さは変わらない。灯は箱の底が見えるところまで出した。
灯は全部出して、土の上へ並べた。それから数えた。十九。昼は二十三だった。
二度数え直した。二度目も十九。
灯は箱の中を上から見た。十九は全部、底を上にした向きで入っていた。
昼に灯が最後に戻した四つは一番上に置いた。その四つの場所だけ、下の段の上履きに土が付いていなかった。
付いていない場所は四つぶん。並んでいる順は、灯が昼に並べ直した順と同じだった。
灯は指を四つの形のところへ置いた。置くと、指の腹に土が付かない。まわりへ動かすと付いた。
付く場所と付かない場所の境は、はっきりしていた。取ったのは、昼から今までの間だった。
灯は四つの形のところへ、昼に手元へ残した四足を並べ直そうとした。手元には何も無い。
箱へ戻したのは自分で、戻した向きも自分で決めた。その向きのままで四つだけが無かった。
灯は指を土の上へ置いた。指の腹に、四つぶんの形の縁が当たっていた。
箱の縁を指で押さえる。指の下で、青い紙がもう一度めくれた。
灯は壁のほうを向いた。壁の下の線は、昼と同じ高さで横に走っている。
二番目の箱と三番目の箱も見た。上履きは入っていなかった。三番目の箱には蓋が載ったままだった。
二番目の箱の底には、丸い跡が二つ付いていた。跡の大きさは上履きのものではない。もっと小さくて、縁が濃い。
灯は指で跡の縁をなぞった。土は乾いていて、指には何も付かなかった。
跡は二つとも同じ向きで、間は灯の指三本ぶん。二つの間の土だけ、色が薄くなっていた。
灯は蓋の縁へ指を掛けた。それから、離した。指の先に、青い粉が付いていた。
粉は指の腹でこすると取れて、落ちた先は土の色と見分けが付かない。灯は地面を見るのをやめた。
三番目の箱の蓋は、四隅のうち二か所だけが箱の縁へ掛かっていた。あとの二か所は浮いていた。
浮いているほうは、下から何かが押している形だった。灯は浮いた側の高さを指で測った。指一本ぶんになる。
こめかみの痛みは、昼より強くなっていた。押さえても引かない。
灯は十九を箱へ戻した。向きは昼と同じで、底が上だった。
最後の一足を戻す時、灯は甲の内側をもう一度見た。字は無い。丸も無い。布の目がそろっているだけだった。
灯は職員室のほうへ戻ろうとして、渡り廊下の手前で足を止めた。
柱の四本目のところで、そこからは職員室の窓が見える。窓の内側の明かりは付いていた。
多田は机にいる。左の束はさっきより低くなっていた。右の束が高かった。
灯は戻らなかった。持っていくものが無い。
指はまだ目の前にある。爪の間に土が入っていた。上着の裾でこすると、白いほうは取れた。黒いほうは残る。
渡り廊下まで戻ると、風は昼より強くなっていた。柱の間を横に抜けていった。
昇降口の傘立てには、朝は一本も無かったところに、傘が三本入っていた。三本とも奥の列に寄せてあった。
そのうち一本は柄が短い。子供のもので、この学校の生徒のものではない。
誰かが忘れて、誰かがここへ入れたことになっていた。灯は柄の先を指で回した。回すと、傘は倒れずに向きだけ変わっていた。
灯は下駄箱の右の端から靴を出した。それから、上履きを脱いだ。
脱いだ上履きの甲の内側は、昼に見た時と同じだった。
灯は鞄の口を開けた。中には筆箱と、青い表紙のノートが入っていた。輪は下の段に六つ。
筆箱の口を開けて、鉛筆を出した。膝の上へ上履きを載せて、甲を手のひらで一度伸ばす。
残っている「か」の上へ「あ」を書いた。下へ「り」を書いた。二つとも、四月の字より小さい。
布は紙より先を吸った。線は縁がふくらんで、書いた場所だけ黒が濃い。
灯は鉛筆を筆箱へ戻した。三つの字は、真ん中の一つだけが薄くなっていた。
灯は上履きを下駄箱へ入れた。向きは甲を上にした。
門を出るところで、灯は一度だけ振り返った。
体育館の屋根の向こうに、青い箱の並んでいるところは見えない。見えるのは屋根の縁と、その上の空だけだった。
みずきが門の内側の掲示板の前に立っていた。四枚の紙のうち、十二月の一枚を見ている。
みずきの手は上着の袖の中に入っていた。紙には触っていなかった。触らずに、下の小さい字のところで目が止まっていた。
灯は鞄の持ち手を持ち替えた。持ち替えても、みずきのほうは見たままだった。
門の外の道の端に、水たまりが一つあった。朝に家の前で押したのとは別で、こちらは凍っていない。
灯は靴の先で縁を押した。水は外へ寄って、そのまま土に入っていった。
朝に家の前で押した氷は割れてから沈んで、また浮いてきたが、こちらは押しても割れるものが無くて、押した先から土のほうが受け取ってしまう。
どこまで入ったかは見えない。灯は水たまりを回って通った。
回った側の土は、踏むと薄く沈んだ。沈んだ跡には、しばらくしてから水が出てくる。
灯は門の柱のところまで戻って、内側をもう一度見た。
みずきは掲示板の前から動かなかった。動かずに、袖の中の手で紙の下の縁を押さえた。




