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レポ 落とし物の街  作者: 智珠
第二巻 名前をなくした街

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第039話 風の向き

 板の下は乾いていた。


 四つ角の台の脚は四本で、そのうち一本だけが土へめり込んでいる。めり込んだ側の下にだけ、風の入らない場所ができていた。灯はそこへ手を入れた。


 指の先が布に当たっていた。布は乾いていて、冷たくもなかった。灯は指を二本入れて、端をつまんで引き出した。


 トトだった。灰色で、親指の付け根が破れている。破れ目から出ている綿は、置いた時と同じ量に見えた。


 「おねえさん、おそいよ」


 声は手の中から来た。灯はトトを手のひらの上へ平らに置いた。置くと、指の部分が五本とも同じ長さで並んだ。


 「五日たってる」


 「五日か。ここは風が来ないからね。来ないと日が分からなくなるんだ。おねえさん、日って何で数えてる」


 灯は答えを作らなかった。作る前に、キリが板の向こうで札を三枚立てた。


 三枚は上の縁をそろえて、下だけが開いていた。開き方は右のほうが広かった。


 「今日は三枚だ。二文字が二枚、三文字が一枚」


 「三文字は初めてじゃないけど」


 「初めてじゃない。だが冬に三文字は久しぶりだ」


 灯は鉛筆を出した。木の目を見る。上の一枚は目が縦に走っていて、縦の時は下の線を細くする。夏に一度そう決めて、それからずっと同じにしていた。


 鉛筆は昨日の夜に削ってあった。面は六つで、長いのは一つだけ。灯はその面を横へ回してから、札を押さえた。


 左の親指と人差し指の二本で押さえる。二本で押さえると札が動かない。三本にすると、かえって浮く。


 客は板の左の端に立っていた。灯より背が低かった。上着は膝まであって、袖は指の付け根で切ってある。切り口は縫っていなかった。


 「三文字」


 「うん。二文字と同じでいい」


 灯は書いた。三文字は二文字より、手を動かす道が一字ぶん長かった。途中で息を止める場所が一つ増えた。


 書き終わって顔を上げると、客はもういなかった。板の左の端に、木の粉が薄く残っている。粉は客の手の形ではなくて、丸い形だった。


 「一つだ。三文字でも一つのままだ」


 キリは輪を一つ、板の上へ出した。指で押すと、輪は板の目に沿って進んで、灯の手の前で止まった。


 灯は輪を取って、鞄(かばん)の底へ入れた。底には五つ入っていた。入れると六つ。


 「六つになった」


 「数えるのが早くなったな。夏は二度数えてた」


 「前は指で数えてた」


 「早い客のほうが得だ。俺の手が空く」


 灯は自分の右手を見た。人差し指の先が、鞄の縁の上で二度動いていた。動いたことに、言われるまで気づいていなかった。


 灯は輪の入った鞄の口を閉めた。それから、外側から底を押した。押すと、六つの形が布の上へ出る。


 六つは重なっていなかった。並びは左から三つ、その下に三つ。指で押した順のまま残っていた。


 「並べ替えるなよ。客の見る順が変わる」


 「並べてない。押しただけ」


 「押すのも並べるうちだ。次の客が来るまで触るな」


 灯は手を離した。離すと、布の上の形は二つだけ消えた。残ったのは下に三つと、上の右に一つだった。


 トトは板の上で起き上がっていた。起き上がると、指の部分が上を向く。上を向いた五本のうち、三本目だけが途中で折れていた。


 「ねえ、僕、板の下で待ってたんだよ。待ってる間、下の土の匂いを覚えた。おねえさん、土の匂いって何種類あると思う」


 「一種類。乾いた土の匂いだけ」


 「はずれ。三つあるよ。乾いたのと、湿ったのと、乾いてから湿ったのだ」


 灯は板の下へもう一度手を入れた。指の先に付いた土を、親指の腹でこすった。粉になって落ちる。


 鼻を近づけると、匂いは一つしか出てこなかった。灯は二度吸って、口から出した。


 「一種類しかない」


 「それはおねえさんの鼻が板の外にあるからだよ」


 灯は板の下へ顔を寄せた。目の高さが板の縁とそろった。そこからは台の脚の内側が四本とも見えた。


 四本のうち、めり込んでいる一本だけ、根元の色が違っていた。ほかの三本は上から下まで同じ色。めり込んだ一本は、土に隠れる手前の三寸ほどが黒い。


 灯は指でそこをこすった。黒は取れなかった。木の内側まで入っていた。


 顔を上げると、朝の霜が枠の下にだけ残っていた。四つ角の真ん中はもう乾いている。


 灯は霜の縁へ靴の先を置いた。白いものが靴の底の形に消えた。跡は靴の形より一回り小さかった。


 「今日は寒いね」


 「寒い。だが昨日より風が弱い」


 キリは板の後ろで足の位置を変えた。その時、右の靴の外側だけが土へ深く入った。左は入らない。


 灯はその二つの跡を見た。それから、目を板の上へ戻した。


 キリは袋の口のひもを結び直していた。結び目は二つ作る。二つ目は一つ目の上に重ねる。重ねる順を変えると、袋が肩からずれると前に言っていた。


 「丘へ行くのか。行くなら昼までにしろ」


 「行く。トトを返してくる」


 「今日の丘は東だ。昼を過ぎると下がる」


 キリはそれだけ言って、板の右の端を布で拭いた。布の通った先の木の色が、前より濃くなった。濃いのは水のぶんで、乾けば戻る。


 灯は東という語を口の中で一度置いた。置いても、何も出てこない。


 「東だと、何かちがうの」


 「行けば分かる。俺が言うと、外れた時に面倒だ」


 キリは布を袋へ入れた。その時、袋の底が板の脚へ当たっていた。当たった脚は、土へめり込んでいるほうだった。


 「板の下は何日ぶんもつ」


 「もたん。三日で虫が来る」


 「虫は見なかったけど」


 「五日いて来ないなら、そこは俺なら使わん」


 キリは板の下をのぞかなかった。のぞかずに、袋を肩へ掛け直した。


 灯は自分の手の指を見た。板の下へ入れた二本だけ、爪の間に土が入っている。灯は爪を上着の裾でこすった。


 こすっても、爪の間の土は残っていた。残ったのは黒いほうで、めり込んだ脚の根元と同じ色。


 東の道の入口には、市の日の枠がまだ立ててあった。上の横木に結んだひもの切れ端は七つのまま。灯は五日前にも数えていた。


 枠の下の轍(わだち)は二本とも浅くなっていた。底の水は無い。土の色は二本とも、まわりと同じになっていた。


 灯はトトを鞄のひもへ掛けた。ひもの下でトトが揺れる。速さは歩く速さより遅れた。


 「行くよ。昼までに戻る」


 「行く。丘は僕の場所だからね。ねえ、五日ぶりに帰るのって、どういう顔ですればいいのかな」


 灯は口を開けかけた。開けかけて、鞄のひもの結び目のほうへ指をやっていた。結び目は解けていなかった。


 解けていないのを確かめてから、灯は指を離した。


 *


 北の道は荷で詰まってはいなかった。


 荷車は一台も通らない。轍だけが残っていて、そのうちの一本は途中で消えていた。消えた先の土は掘り返されて、平らに均してあった。


 灯は均した側を歩いた。足の下で土は沈まない。上の面が白く乾いていた。


 道の左の壁には、板が斜めに立てかけてあった。板は三枚で、下の縁がそろっていた。上の縁はそろっていない。


 三枚とも表に字は無かった。裏は見えない。灯は一枚だけ手前へ引いて、裏を見た。裏にも無い。


 板を戻すと、元の角度より少し立った。灯は上の縁を引いて、傾きを戻した。


 「おねえさん、それ、誰の板」


 「知らない。誰かの」


 「誰かの、か。じゃあ僕が持っていっても誰も困らないね。ねえ、僕、板は持てないけどさ」


 灯は答えを作らずにいた。作らないでいると、トトは次の話へ移る。移る先は毎回ちがう。


 北の道はそのまま坂になっていた。下の三分の一までは四つ角と同じ幅で、そこから細くなる。


 上り口の土は乾いていて、灯は歩幅を半分にした。


 足の裏を先に置く。置いてから体を送る。この上り方は夏に自分で決めた。


 上る間、鞄のひもの下でトトが揺れていた。傾きが変わっても遅れる幅は残り、坂が急になるほどそれが広がる。


 きついのは下の三分の一で、そこから先は緩んでいく。一番上は平らに見えた。


 塀は坂を上りきったところから始まった。左側だけ。右は何も無くて、下の道が見える。


 下の道は細い一本で、四つ角のほうへ戻っていった。途中で二度折れていた。


 二度目の折れのところに、板の台の白い面が見えた。畳んでいないので、脚の上に載ったままになる。


 塀の高さは灯の肩より少し上だった。夏に来た時と同じ高さになる。


 塀の上には片方だけの物が並べてあった。靴と、眼鏡と、長靴。片方ずつで三つだった。


 長靴は子供のもので、底の模様が半分すり減っていた。


 灯は数えた。三つ。夏に来た時と同じ数だった。


 「増えてない」


 「増えないよ。持ってく人はいるけど、置く人はここには置かないんだ」


 「じゃあ減るはずでしょ」


 「ちがうよ。ここは通り道なんだ。置く人は丘へ置く。僕は三百年、置かれた側だからね」


 十一のうち、右のものが四つで、左が七つだった。灯は靴と長靴を右と左で分けて、眼鏡は分けずに置いた。


 眼鏡は片方のつるだけが残っている。残っているほうを右と数えるか左と数えるかは、灯には決められなかった。


 「眼鏡はどっちだと思う」


 「つるの残ってるほうが右だよ。うちの丘ではそう決まってる」


 「誰が決めたの」


 「誰も。うちの丘ではそう決まってるってだけだよ」


 灯は眼鏡を右の側へ寄せた。それから、また真ん中へ戻した。


 塀の石は積んであって、上から三段目までは同じ大きさだった。四段目から下は不ぞろい。積み直した跡が横に一本走っていた。


 跡の高さは灯の胸のところ。夏に来た時は肩のところだった。灯は自分の背が伸びたぶんを、そこで一度だけ数えた。指の幅で二つぶん。


 灯は塀の上へ手を伸ばした。指の先が長靴の口に届く。中を触ると、内側は外より冷たかった。


 冷たさは指の先から入って、第二関節で止まる。灯は手を引いた。


 匂いが変わったのは、坂の三分の二を上ったところだった。


 毛の匂い。乾いた毛で、その下に日に当たった土があった。灯は口を閉じて鼻だけで息をした。上るほど濃くなる。


 夏に来た時は、この匂いが坂の半分のところから来ていた。今日は三分の二まで上がらないと来ない。


 灯は二度吸って、そこでやめた。三度目に出てくるものは無い。


 「僕の匂いだよ、それ」


 「トトだけじゃないでしょ」


 「そうだけど、僕のも入ってる。三百年ぶんだよ。濃いはずだ」


 灯は鼻から息を出した。前には何も出ない。あちらの冬はそこが軽かった。


 風は左から来ていた。塀の切れ目のところでだけ、正面から当たる。当たると、髪が後ろへ寄って耳が出た。


 冷えるのは耳の縁だけだった。灯は襟へ指を掛けた。立てると耳がふさがる。ふさぐと、トトの声が遠くなった。


 「聞こえない。襟を立ててる」


 「聞こえないほうがいい時もあるよ。ねえ、いま僕、何を言った」


 「聞こえてない」


 「じゃあ僕の勝ちだ」


 灯は襟を下ろした。下ろすと、耳がまた出た。冷たさは前より速く来る。


 塀の切れたところから、丘の斜面が少しだけ見えた。下の三分の一だけで、上は塀の角に隠れていた。


 見えている部分の色は灰と茶で、白は無かった。白は上のほうに寄っていた。


 「東ってさ」


 「東がどうしたの」


 「今日は東なんでしょ。キリがそう言ってた」


 「言ってた。板を拭きながら」


 「じゃあ今日は東を探すよ。僕は東の日は東を探すことにしてるからね」


 「東の日って何」


 「風が東の日だよ。丘の風は毎日ちがうんだ。今日が東なら、今日は東の日になる」


 「毎日ちがうの」


 「ちがうよ。八つあってね、八つとも来る。順番は無いんだ。だから前の日の向きを覚えてても役に立たない」


 灯は指を折って数えた。東。西。南。北。四つで止まっていた。残りの四つの名を、灯は知らなかった。


 「四つしか出てこない」


 「間のがあるからね。東と北の間のやつだよ」


 トトは指の部分を一本だけ伸ばして、坂の上のほうへ向けた。指の先は塀の角のところで、丘は見えなかった。


 「そっちが東」


 「それは上」


 「じゃあ着いてから決めるよ」


 塀の切れたところから、道はもう一度細くなっていた。細くなった先に石段があった。


 段の高さはそろっていない。灯は目で数えた。十七。歩くと、上る足は十七回だった。


 高い段は膝の上まで来る。低い段は靴の甲ほど。順に決まりは無かった。


 最後の四段は歩幅が広がっていた。体より先に、足のほうが上へ行く。


 *


 石段を上りきると、丘が開けた。


 斜面は動いていた。風は横から入っていて、手袋の指が右から左へ順に倒れていく。倒れる順は下からではなかった。真ん中の帯から始まって、上と下へ同時に広がる。


 灯は立ち止まった。夏に来た時、順はいつも下から始まる。今日は真ん中から出て、両側へ割れていった。


 「これが東。真ん中から始まってる」


 「東だよ。東の日は真ん中から始まるんだ」


 灯は倒れて戻るまでを数えた。三つ数える間に一度倒れる。次も三つ。その次は二つで、また三つへ戻った。


 数え方は口の中で数える。声に出すと、自分の息の長さのほうに合ってしまう。夏に一度そうなって、それからやめた。


 斜面の裾には、風の届かない帯が横に一本あった。そこだけ手袋が動かない。帯の幅は灯の一歩ぶん。


 帯の中の手袋は、指の向きがそろっていなかった。動かないので、置かれた時の向きのまま残っていた。


 夏は三つ数える間に一度で、その前は四つだった。今日は三つ。


 灯はトトを鞄のひもから外した。それから、手のひらの上へ平らに置いた。置くと、まわりの手袋と同じ向きへ指が倒れた。


 「戻す。段はどこにする」


 「下から三つ目のところがいい。あそこは僕の場所だからね」


 灯はしゃがんで、斜面の下から三つ目の段へトトを置いた。段は人が作ったものではない。物が積もって、そのぶんだけ土が寄っていた。


 置いた場所の土は乾いていた。手のひらを付けると、上のほうだけ日で温まっている。指を入れると、その下は冷たかった。


 「今日は東を探すんだよね」


 「探す。もう始めてる」


 「まだ動いてない」


 「動かなくても探せるよ。東から来るものを、ここで待てばいいんだ」


 灯は東を見た。東は塀の角の反対側で、そちらは丘の縁まで斜面が続いていた。縁から先は見えない。


 縁のところだけ、手袋が二列に並んでいた。並びは人の手ではない。風で寄せられて、寄った先で止まっていた。


 二列の間には土が細く出ていた。幅は灯の指二本ぶん。灯はそこへ靴の先を入れて、土の固さを見た。


 固さは道の土と同じだった。踏まれた土ではない。乾いて固まっただけの土だった。


 斜面の色は三つに分かれていた。灰と茶と、色の抜けた白。白のほうが上に多かった。


 灯は白いものだけを数えた。十九まで数えて、二十で分からなくなった。二十番目のものが白か茶かを、二度見ても決められない。


 白と茶の境に、線は引いていなかった。上へ行くほど薄くなって、どこかで白。


 灯は右へ二歩寄って、同じものをもう一度見た。今度は白に見える。左へ四歩寄ると、茶に戻っていた。


 「動いた。白いのが増えてる」


 「動いてないよ。おねえさんが動いたんだ」


 「同じことでしょ」


 「同じじゃないよ。動いたのはおねえさんの足のほうだ」


 「十九。二十番目が分からない」


 「十九? 白いのを数えたんだね。僕は八十四だと思ってる」


 「八十四もない」


 「あるよ。僕の白のほうが多いんだ。三百年ぶん見てるからね」


 灯は立ち上がった。それからもう一度しゃがんで、また立った。二度やってから、数えるのをやめた。


 「昨日はどっちだったの」


 「聞かないで。板の下にいたから、外の風は分からないんだ」


 「北の日はどう倒れるの」


 「北は下からだよ。下から順に上がって、上で止まる。北は何度も来てるから覚えてる」


 「南は」


 「南も下から。西は横から入る。東だけが真ん中から割れるんだ」


 灯は口を閉じたままでいた。


 トトは指の部分を三本立てていた。三本のうち、真ん中の一本だけが途中で折れている。折れた先は下を向いていた。


 「ねえ、おねえさん。僕が決めたことは、三百年で一度もないよ」


 風がまた入った。今度は少し向きが下がって、斜面の下の帯だけが動いた。上は動かない。


 灯は動かない側を見た。そちらの手袋は、指がどれも内側へ曲がっていた。曲がった指は風を受けない。


 「そっちは動いてない」


 「あそこは古いからね。古いのは折れるんだ。折れた指には風が入らない」


 灯は指の折れた一つへ手を伸ばした。触ると、布は乾いていた。持ち上げると、思ったより軽かった。


 軽さは手のひらではなく手首に来た。持ち上げた腕の、肘から先だけが軽くなる。中身の入っていない給食の器を持ち上げた時に似ていた。持つ前に決めた力が、そのぶん余る。


 灯はそれを元の場所へ戻した。戻すと、指の向きが少しだけ変わった。灯は指で押して、元の向きへ合わせ直した。


 斜面の途中に、金物が一つ出ていた。手袋の下から角だけが見えている。灯はそこまで四歩で上がった。


 角は平たくて、指を掛けると引っかかった。引くと、下の手袋が三つぶん動いた。三つとも、動いた先でまた止まっていた。


 出てきたのは留め金だった。輪と、輪を通す穴の側が一つずつ。穴の側の縁が欠けていた。


 「それは去年からあるよ。誰かが落としてったんだ。おねえさん、それ、僕の相方だったりしない?」


 「金物でしょ。布じゃない」


 「似てないか。似てるって言ってくれると探すのが楽になるんだけどね」


 留め金の輪の側には、細い傷が三本入っていた。三本は同じ向きで、間の幅もそろっている。


 灯は指の腹で三本をなぞった。なぞると、真ん中の一本だけが深かった。深い一本は、ほかの二本より少し短い。


 夏に横丁で見た二枚の札にも、裏に三本の傷がある。あれは二枚とも、間の幅が指の爪ほどでそろっていた。灯はそこまで思い出して、留め金を裏返した。


 裏には何も無かった。


 「裏を見たね。裏を見る人は少ないよ。おねえさん、裏に何かあると思ってるでしょ」


 「思ってない。見ただけ」


 「見たね。じゃあ、僕の勝ちは二つ目だ」


 灯は留め金を元のところへ埋め直した。埋めると、角だけがまた出た。高さは前と同じにならない。


 灯は指で押し込んだ。押し込むと、今度は全部隠れた。隠れたのを見てから、灯は少しだけ引き出した。


 「見えるようにしといた」


 「そのほうがいいよ。隠れると、明日また掘ることになるからね」


 風が三度目に入った。向きは同じで、強さが上がっている。灯は上着の前を合わせた。


 それでも、襟の下から入っていた。入った先は鎖骨のところで、そこだけ冷たさが遅れて来た。


 斜面の音は、風の強さでは変わらない。倒れる数が増えても、一つずつの音は同じ高さのままだった。


 「東の日は音が高いんだよ」


 「同じに聞こえる。高さは変わってない」


 「同じだよ。僕がそう言っただけだからね」


 灯は口の中で息を出した。それから、口の内側に空気が残っているのに気づいて、鼻から出し直した。


 足の裏が熱かった。土踏まずのところだけ、熱が中から来ている。


 坂を上ったからだと灯は思った。


 灯は靴を脱いで、足の裏を土へ付けた。土は冷たい。冷たいところへ付けても、熱は引かなかった。


 しばらくして、熱は前より広がっていた。靴を履き直しても同じだった。


 *


 下りの道は、上ってきた時より広く見えた。


 下りは足の裏の別のところに来る。灯はかかとから置くようにした。置くたび、土の細かいものが前へ転がっていった。


 トトは斜面の下から三つ目の段にいる。灯は五歩下りて、一度振り返った。振り返ると、トトの指の部分だけが上を向いていた。


 「おねえさん、まだ行かないでよ」


 「もう下りてる。五歩ぶん」


 「下りながらでいいから聞いて。今日の東は、朝より少し下がってるんだ。下がると、東じゃなくて東の下になる」


 「東の下は何ていう名前なの」


 「無いよ。名前があるのは八つだけだからね。八つの間は、みんな手で指すんだ」


 灯は戻って、斜面の縁に座った。座ると、土の冷たさが太ももの裏から来た。


 斜面は下から見ると幅が広い。上から見た時より、白いものが少なく見えた。灯はもう一度数えて、十三で止めた。


 「さっきは十九だった」


 「そうだよ。座ると減るんだ。立つと増える。おねえさん、それで八十四になる理由が分かった?」


 「分かってない」


 「分からないままでいいよ。僕も分かってないからね」


 「じゃあ八つの名前、言ってみて」


 「東。西。南。北。それから東と北の間。西と北の間。西と南の間。東と南の間だ」


 「後ろの四つは名前じゃないでしょ」


 「名前だよ。長いだけだからね」


 灯は指を八本立てた。四本は短くて、四本は長い。立てた指を、灯は二度数え直した。


 二度目を数えている間に、短いほうの四本は口が覚えていて、長いほうの四本は数えながら忘れて、忘れたところをもう一度トトに言ってもらって、それでもまた最後の一つが残った。


 「四つは名前で、四つはちがう」


 「じゃあおねえさんが付けてよ。四つでいいから」


 灯は斜面を見た。東と北の間は、塀の角の少し右。そこには白いものが三つ並んでいた。


 「三つ並んでるほう」


 「それは長いよ。もっと短くしてよ」


 「三つ。白いのが三つ並んでる」


 「三つは駄目だよ。明日また三つになったら、どっちがどっちか分からなくなるからね」


 息を口の中で回して、それから出した。前は変わらない。


 「じゃあ名前は付けない」


 「そうだよね。付けないのがいちばん早い」


 灯は膝を抱えた。すると、鞄が横へずれた。ずれた先で、中の輪が六つとも同じ側へ寄る。


 寄った重さは腰の骨のところに来た。灯は鞄を膝の上へ乗せ直した。


 灯は鞄からノートを出した。青い表紙で、角の折れた側を上にして持つ。開くと、紙は三枚目で自然に止まった。


 そこに、四つ角で書いた名が並んでいた。二十一。昨日までは二十だった。


 灯は今朝の三文字を見た。三文字は二文字より横に長かった。長いぶん、右の余白が狭くなっていた。


 右の余白には木の目の向きを書く欄がある。灯は今朝の一枚に「縦」と書いた。


 それから、上の行へ目を戻した。二十一の名は全部、灯の手で書いてあった。


 昨日の帳面の右の欄も、下から十一行が同じ手だった。同じ手というのは、そう見えたということになる。


 灯は自分の書いた二十一の下の線を上から順に見た。太いのが九つ。残りは細い。


 九つのうち、夏に書いたものが何枚かは、この紙からは出てこなかった。


 灯はノートを閉じた。それから、また開いて、同じ九つをもう一度数えた。


 「それ、何を書いてるの」


 「名前。四つ角で書いたやつ」


 「誰の」


 「知らない人の」


 「知らない人の名前を書いて、どうするんだ」


 灯はノートを鞄へ戻した。戻す時、手の甲が輪の一つに当たった。輪のほうは動かなかった。動かないほうが下の段。


 「どうもしない。書くだけ」


 「じゃあ僕のも書いてよ」


 灯は手を止めた。それから、鞄の口を閉めた。


 「トトは知ってる人でしょ」


 「知ってる人は書かないんだね。じゃあ書かれてる人は、みんな知らない人になるのか」


 風がまた入った。四度目で、向きが少し北へ寄っていた。斜面の倒れ方が変わった。真ん中の帯からではなく、右の端から始まる。


 「向きが変わった。右の端から始まってる」


 「変わってない。それは風のほうが疲れたんだよ」


 「風が疲れるの」


 「疲れるよ。夕方まで吹くと、だんだん下がってくるんだ。だから探すのは午前中がいい。僕は三百年ずっと午前中に探してる」


 灯は日の位置を見た。日は塀の角の上にあって、まだ上がっている途中だった。


 影は西へ伸びていた。灯は自分の影の先へ靴を伸ばした。届かない。届くまで二歩要った。


 「明日はどっちになるの」


 「朝に丘へ来て、はじめて分かる」


 「キリに聞けばいいじゃん」


 「あの人は丘に住んでない。住んでない人の向きは、当たる日と外れる日がある」


 「今日は当たってた」


 「三日に二日は当たるよ。道の土を見てるんだ」


 「じゃあキリの読み方を教えてよ」


 「知らない」


 「知らないの」


 「僕は道まで下りないんだ。下りたら丘じゃなくなるでしょ。それに歩けないからね。転がるのは坂の下向きだけなんだよ」


 灯は道の土を見た。向きの分かるものは出てこない。轍の底も、寄せられた細かいものも、どちらを向いているのかが読めない。


 しゃがんで、指で土をならした。跡はしばらくすると風で崩れた。横へ流れる形になっていた。


 「横に消えた。跡が全部そっちへ流れてる」


 「それが東だ」


 灯は指の土を払った。細かいものが風に持っていかれる。持っていかれる向きは、跡の消えた向きと同じだった。


 足の裏の熱は、座っている間も引かない。土の上に足を置いていたのに、引かない。


 「僕がここに戻ったの、何日ぶりだと思う」


 「五日。十五日から数えてる」


 「五日か。板の下だと日が数えられないから、僕は三日だと思ってたよ。おねえさんの五日と僕の三日、どっちが正しいと思う」


 「あたしの。指で数えたから」


 「そうだね。数えたほうが正しいんだ。でも僕は三日ぶんしか待ってないことになるから、そっちのほうが得だよ」


 灯は膝の上の鞄の口を、指で二度なでた。なでた先で、布の折れが一つ立った。


 灯は靴のひもを一度解いて、結び直した。結び目の位置を指一本ぶん外へずらす。ずらしても、熱の場所は動かなかった。


 「そろそろ行く。日が塀の角より上がった」


 「行くんだね。ねえ、おねえさん」


 「なに」


 「明日はどっちを探せばいい」


 灯はトトのほうを見た。指の部分は五本とも上を向いていて、三本目だけが途中で折れていた。


 「風が決めるって言ってた」


 「言った。でも明日は、おねえさんが言ってよ」


 斜面の手袋が一斉に倒れて、戻った。灯は倒れて戻るまでを数えた。三つ。次も三つ。


 下から三つ目の段の手袋だけが、二つで戻っていた。

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