↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
レポ 落とし物の街  作者: 智珠
第二巻 名前をなくした街

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
38/50

第038話 帳面の右

 坂の途中で、灯は一度立ち止まった。


 息のせいではない。土の色が一昨日と違っていた。一昨日は乾いて白かったところが、今日は上の一枚だけ濡(ぬ)れている。下は乾いたままで、踏むと二つの層が別々に動いた。


 灯は靴の先で、濡れた側の土を横へ寄せた。下は白かった。白いところは指で押しても跡が付かなかった。


 坂を下りきると、四つ角に台が出ていた。板は脚の上に戻してある。板の上には木の札が三枚と、金物の細かいものが並んでいた。


 キリは板の向こうに立って、札の位置を直していた。三枚のうち一枚だけ、字の書いてある側を上に向けている。あとの二枚は裏を上にしていた。


 灯は板の手前で足を止めた。板の高さは灯の腰より少し上で、上から見ると三枚の札の間隔がそろっていなかった。右の二枚は近く、左の一枚だけが離れていた。


 板の木の目は横に走っていた。横のときは下の線を太くする。灯は目でその線をなぞって、それから顔を上げた。


 「二日ぶり。ここだけ変わってない」


 「二日か。俺は四日ぶりになる」


 キリは札から手を離さなかった。離さないまま一枚目の角を板の縁とそろえた。そろえてから、二枚目を一枚目の下へ半分だけずらして置いた。


 「灯、昨日は来なかった」


 「うん」


 「来なかったのはこれで三度目だ」


 灯は答えなかった。答えないでいると、キリはそれ以上聞かない。三枚目の札を、二枚目の下へ置いただけになる。


 灯は右手の親指を折った。折ると、指の付け根が上着の袖に当たっていた。そこだけ布が少しへこむ。


 十八。


 数えたのは口の中で、指は一本しか折らなかった。あとの四本は伸ばしたままにした。


 「今日は札を書かない。書いても損になる」


 「なんで今日は書かないの」


 「客が来ん。寒くなってから、三日に一日はこうなる」


 灯は板の上の三枚を数え直した。三枚とも、字の書いてある側の隅が同じように欠けていた。欠けの形も三枚でそろっていた。


 「これ、書く人がいないぶん」


 「来た時に別の名だったら、丸ごと損になる。前にも言った」


 キリは一枚目を裏に返した。返すと、裏側の木目が表より粗い。表は削ってあって、裏は削っていない。


 「小路のほう、どうなった」


 「十一のままだ。数えたのは取り立てで、俺じゃない」


 灯は口の中で十一と言った。声に出してから、言わなければよかったと思う理由を探して、見つからなかった。


 十一のうち四つは灯が自分で数えた。あとの七つはキリが取り立ての言った数を伝えただけになる。数え方の違うものを足して十一にしていることを、灯は知っていた。


 四つ角の石は乾いていた。乾いているのに、拾い場の四角い石の内側だけ色が濃かった。濃さの境は石の縁より指二本ぶん内側にあって、そこから外は白かった。


 灯はその内側へ手のひらを置いた。石は冷たい。冷たさは手のひらの真ん中から入ってきて、指の先へは来なかった。


 板の上の金物は金物の環(わ)が四つと、平たくて札ほどの大きさのものが二つ。環はどれも同じ大きさで、内側の錆(さ)び方だけが違っていた。灯は一つを指で回した。環は板の目に沿って進んで、そこで止まった。


 キリの足元を、灯は上から見た。


 靴の形は前に見た時と変わらない。変わったのは底のほうで、右の外側だけが深く減っていて、そこだけ縁が丸くなっていた。夏に見た時は両方とも同じだけ減っていた。


 灯は自分の靴を並べて見た。左右のすり減り方は同じ。同じなのに、右の靴の内側だけ土が濃く付いていた。


 「靴、片っぽだけ減ってる」


 「歩き方だ。俺は右から入る」


 キリはそれ以上言わなかった。灯も聞かなかった。聞かないでいる間に、板の上の環が一つ、風で少し回っていた。


 風は北から来ていた。北から来る風は四つ角の石の上を低いところで抜けていく。灯の膝から下だけが冷えた。


 キリは板の下から、布の袋を一つ出した。袋の口はひもで縛ってあって、結び目は二つ重なっていた。持ち上げると、中で細かいものが片側へ寄っていた。


 「今日は東へ行く。板は畳んでいく」


 「東って、市のほうじゃない東」


 「トバリだ。夜のほうの街だ」


 灯は袋のほうを見た。袋の底は四角く張っていて、そこだけ布が薄くなっていた。底の四つの角はどれも角のまま出ている。


 「あたしも行く。荷物持つ」


 「勝手にしろ。俺は待たん」


 「勝手にするけど、遠いの」


 「灯の足で、行って帰って半日だ」


 半日がどれくらいかは灯には分からなかった。分からないまま鞄(かばん)の持ち手を握り直した。


 キリは板を脚から持ち上げた。外した板を脚の横へ立てかけて、脚のほうは石の上に残した。四本の上には板の跡が四角く付いている。立てかけた板は風の来る側へ少し倒れた。キリはそれを直さなかった。


 灯は鞄を左手へ持ち替えた。中は筆箱と、水筒と、青い表紙のノート。それから木の輪が五つ。輪は袋に入れずに、底へじかに入れてあった。


 歩き出すと、輪が五つとも同じ側へ寄って、鞄の底で一度だけ形を変えた。


 鞄は左手の指の付け根で重かった。重い場所は毎回同じで、人差し指と中指の間。灯は持ち手を一度、手のひらの側へずらした。


 四つ角の東の入口には市の枠が三つ立てかけてあった。夏に見た時は二つだった。三つ目は新しくて、木の色が明るい。


 枠の下の石には雨の跡が細く残っていた。跡は枠の下だけにあって、その外には無い。枠が雨を切っていた。


 「枠、三つになってる」


 「一つ折れて、二つ足した」


 「折れたのはどっちの」


 「真ん中だ。真ん中から先に折れる」


 灯は三つの枠の下の辺を見比べた。新しい一つだけ、下の辺に土が付いていなかった。立てかけてからまだ雨に会っていないことになる。


 板の下の土からは油の匂いがした。四つ角で油の匂いがするのは、板を外した日だけだった。脚の受けのところに差してある。


 灯は鼻から吸い直した。二度目のほうが薄かった。薄くなったぶん、風の中の土の匂いが上に来る。


 東の道は四つ角から出て、すぐ下りになっていた。石の敷き方が途中で変わるところは、夏と同じ場所。目地の広くなるところで、灯は歩幅を狭くした。


 目地の間の土は夏より固い。踏んでも沈まなかった。沈まないぶん、靴の底が石の角へ当たる。当たる音は道の両側の壁へ行って戻ってきた。


 道の両側の壁の下には細かいものが吹き寄せてあった。寄せ方は西の道と同じで、境が波を打っていた。


 波の高いところと低いところの差は、灯の指の第一関節ぶんほどだった。灯はそこを見ながら二十歩ほど歩いて、それから見るのをやめた。


 道を行く者は少ない。前を行くのが一人だけで、その一人は荷を背負っていた。荷の形は四角で、上のほうが布で覆ってあった。


 灯はその背中を目で追った。そのうちに、荷の下の端が一度だけ持ち上がっていた。持ち上がったところから縄が出て、また隠れた。


 道の両側の家は少しずつ低くなっていった。屋根の傘の色は夏よりどれも薄い。三軒に一軒は屋根が新しくて、そこだけ布が張ってある。


 張ってある布に字が残っている家を、灯は二軒数えた。夏も二軒だった。同じ二軒かどうかは分からない。


 「この道、夏と同じ順で来てる」


 「道は同じだ。屋根の下が三軒ぶん替わった」


 「三軒って、どれ」


 「数えても仕方ない。俺は屋根の色で数える」


 灯は一軒目の家の戸を見た。戸の下の隙間から、内側の色が見える。内側は外より明るかった。


 二軒目は戸が開いていて、中に人が二人いた。二人とも灯のほうを見なかった。見ないでいる間に、灯はその二人の背の高さを比べた。片方が頭一つ高い。


 三軒目からあとは戸が全部閉まっていた。閉まっている戸の数を、灯は九まで数えた。九のところで家が途切れた。


 家が途切れると、塀も無くなっていた。道の両側が草。


 草の丈は灯の膝より低かった。夏は膝の高さに届いていた。低くなったぶん、遠くの地面の色が見える。地面は道の近くだけ黒くて、離れるほど白かった。


 草の色は上と下で違っていた。上の三分の一が白くて、下は薄い茶。境の高さはどの株もそろっていた。


 そろっているのは同じ日に同じ高さまで冷えたからだと灯は見た。そう思っただけで、口には出さなかった。


 灯はしゃがんで、道の端の草を一本つまんだ。つまむと、草は途中から折れた。切れ口は乾いていて、中に色が残っていない。


 立ち上がると、キリは先へ行っていた。灯は追った。追いつくまでの間に、折れた一本を指の間で二度回して、それから落とした。


 *


 草の中の石は夏と同じところに立っていた。


 灯の腰ほどの高さで、上が平たい。字は無い。夏に触った時は日の当たる側だけが乾いていて、影の側が冷たかった。


 今日は両方とも冷たかった。手のひらを乗せて、乾いた側から影の側へ滑らせても、境目のところで温さが切れない。切れるところが無いので、灯は途中で手を止めた。


 指の下に、白い粒が付いていた。指でこすると粒は消えて、跡だけが濡れて残った。


 石の裏側へ回ると、苔(こけ)が薄くなっていた。夏は指で押すと沈んで、離すと戻っていた。今日は押しても沈まない。表面が固くなっていて、爪の先が引っかかった。


 「この石、まだ印なの」


 「印だ。ここから先は別の勘定になる」


 「勘定って、輪の勘定のこと」


 「輪は向こうじゃ使えん。灯の輪は五つとも、こっちへ戻るまで動かん」


 灯は鞄の底へ手を入れた。輪は五つとも底の同じ側に寄っていた。寄る側はいつも鞄の縫い目のあるほう。指で数えると、五つ目だけが他より少し薄かった。


 キリは袋を持ち直した。持ち直すと、袋の底の四角が前より片側へ寄った。


 「その袋、何が入ってるの」


 「向こうで置いてくるものだ」


 「置いてくるって、売るの」


 「売るのとは違う。置いてくると言った」


 灯は袋の口のひもを見た。結び目は二つ重なっていて、上の一つだけが新しい。下の一つは色が沈んでいた。


 道はそこから二度曲がって、下りが急になっていた。曲がり角は二つとも右。夏と同じ向きになる。


 石ではなく、砂の混ざった土になっていた。灯は歩幅を狭くした。それでも、靴の底が二歩に一度は滑る。滑ると、膝から上が先に行って、あとから足が追っていた。


 キリは滑らなかった。灯はキリの足元を見て、置き方を真似した。真似すると、滑る回数が三歩に一度になっていた。


 真似したのは足の裏の向きだった。つま先を進む向きより少し外へ開くと、砂の上で止まる。開きすぎると、今度は膝の内側が張っていた。


 灯は開き方を二度直した。二度目でちょうどよくなって、そこから下まで一度も滑らなかった。


 匂いが変わっていた。


 油の匂いだった。四つ角の板の下の匂いより濃くて、その下に焦げたものが混ざっていた。焦げたもののほうは鼻の奥に残る。灯は鼻から吸って、口から出した。息が白くなって、すぐに散る。


 坂を下りるほど濃くなる。


 下りきったところで、道が平らになった。平らになったところから、空は後ろと前で色が違う。境目は線ではなくて、少しずつ移っていく幅を持っていた。


 夏に来た時はその幅が灯の腕を伸ばしたくらいに見えた。今日はもっと広い。広いぶん、どこからが向こうなのかが決まらなかった。


 「前だけ暗いのは夏と同じ」


 「同じだ。あそこは昼をやらん」


 道の先に街の形が見えてきた。屋根の並びは夏に見たままで、下の階より上の階のほうが道の側へ出ていた。出ている幅は上へ行くほど広い。一番上の階の下は影になっていて、影の中に光が点いていた。


 建物の壁は灰色の板で、継ぎ目に細い金物が挟んである。灯は歩きながら壁へ指を当てた。指の腹に細かい粉が付いた。粉は夏よりも白い。


 粉は上着でこすっても取れなかった。取れないまま指の内側の線のところへ入っていた。線は三本あって、真ん中の一本だけが白く浮いた。


 街の道はレポの道より狭い。狭いのに、頭の上が広く感じられた。屋根が張り出しているせいで、空が細い帯になっていた。帯は駅のホームの屋根の切れ目のようで、幅もだいたい同じくらいだった。


 入口の柱の火を、灯は一つだけ近くで見た。柱の頭に金物の受け皿があって、その上に平たい金物が伏せてある。火はその隙間から出ていた。皿の中は見えない。


 伏せた金物の縁に、薄い氷が張っていた。氷は火から遠い側にだけあって、近い側は水のまま残っている。境は真ん中ではなくて、火の側へ寄っていた。


 灯は数えなかった。夏に数えた数は覚えていた。


 「トバリって、店ばっかりなの」


 「店と、店じゃないものだ」


 「店じゃないものって」


 「取引所だ。今日はそこへ行く」


 道の両側の建物は下の階だけ戸が開いていた。開いた戸の内側はどこも外より明るい。明るいのに、中に人の影が見えるのは三軒に一軒。


 人の影の見えない店は戸の内側に台が一つ置いてある。上には何も載っていない。空の台の高さはどの店もそろっていた。


 灯は三軒ぶんを目で並べて確かめた。そろっているのに、脚の形は三軒とも違う。決まっているのは高さだけになる。


 灯は歩きながら開いた戸の数を六まで数えた。六つ目のところで、中から布の束を抱えた者が出てきて、灯とすれ違った。すれ違う時、布の匂いが一度だけ通っていた。


 その匂いは傘屋の押し入れの匂いに近かった。近いだけで、同じではない。こちらのほうが乾いていた。


 すれ違った者の抱えていた布は、上の三枚だけ色が濃かった。下は色が抜けていた。抱え方は下を手のひらで受けて、上を顎で押さえる形になっていた。


 灯はその抱え方を、頭の中で自分の腕に移してみた。移してみると、顎に当たるところが自分の場合は鎖骨のあたりになる。背の高さでそこが変わる。


 道の途中に、水を張った桶(おけ)が一つ置いてあった。桶の縁は氷が張っていて、真ん中だけ張っていない。真ん中の水は上から見ると黒かった。


 灯は覗(のぞ)き込んだ。覗いた水に、自分の顔は映らなかった。映るには上に光が要る。上には張り出した屋根があるだけだった。


 取引所は板の道の突き当たりに建っていた。通りの左側で、ほかの建物より低い。


 夏に見た時と同じ建物で、同じ看板が出ている。看板の字は横に長くて、下の三分の一が影に入っていた。影の境は日ではなくて向かいの建物の張り出しで決まっていた。


 入口の階段は三つ。一つの高さは灯の手のひら一枚ぶんで、三つとも同じだった。縁は真ん中だけ丸くなっていた。灯は真ん中を踏まずに、右の端を踏んで上がった。


 右の端は角が残っていて、靴の底がしっかり掛かる。掛かると、石の内側から乾いた音が返ってきた。


 戸は押すと内側へ開いた。押したところの木だけ色が抜けていた。抜けている幅は灯の手より広い。


 中は外より暖かかった。暖かいのは天井の近くで、床の上は外と同じくらい冷えていた。灯は上着の前を開けなかった。


 匂いは紙と、乾いた木。夏に来た時と同じ順だった。置いてあるものは夏から動いていない。


 天井は高かった。高いのに、灯の頭の上のところだけ低い。入口の上に別の板が渡してあって、そこだけ下がっていた。


 部屋の真ん中に机が一列。八つ並んでいて、その向こうに八人が座っていた。八人とも同じ形の筆を持っている。


 灯たちの前へ来たのは入口に一番近い一人だった。夏に見た者と同じ格好をしていた。同じ格好で、同じ者かどうかは分からない。


 書記は顔を上げずに、手元の紙を左から右へ移していた。移す速さは一定で、途中で止まらない。


 移した紙は右で束になっていった。束の角は一枚ずつ少しずれていて、上から見ると階段の形。ずれの幅はどこも同じだった。


 書記の右の手は束の上に置いたままになっていた。置いた手は動かない。動くのは左の手だけだった。


 キリは線の内側へ入って、袋を机の端へ置いた。底が机の板に付いて、そこだけ形が平らになった。


 「二人ですか。二人だと手続きが変わります」


 「一人は見るだけだ。線の外へ置く」


 「見学はこの線の内側までになります」


 書記は机の手前の床を、指の先で示した。そこに細い線が一本引いてある。線は端から端まで通っていて、途中で一度も切れていなかった。


 灯は線の手前で足を止めた。線は白い粉で引いてあって、踏んだところだけが薄くなっていた。薄いところは入口から机まで、まっすぐに続いていた。


 まっすぐなのはみんな同じところを踏むからになる。灯は薄いところを避けて、まだ白い側へ足を寄せた。


 止めた場所から机の上を見た。机の上には紙の束が三つあって、真ん中の束だけ角が厚くなっていた。厚いのは下から三枚目まで。


 書記は袋のひもをほどいた。ほどいた先を開いて、中を見ずに机の下へ入れた。その時、袋の底の四角い形が一度だけ机の縁に当たった。


 「では預かりで入れます」


 「そうしてくれ。判はいらん」


 灯は袋の行った先を目で追った。机の下まで行って、そこから内は見えない。


 その横に、大きな帳面が伏せて置いてある。


 *


 奥の戸が開いて、一人が出てきた。


 背は灯より頭二つぶん高い。上着は膝の高さまであって、前を留めずに着ていた。歩く時、上着の裾が足へ当たらなかった。当たらないだけの幅がある。


 「お待たせしました。今日は僕が受けます」


 書記は立ち上がって、机の横へ寄った。それだけで、外へは出ない。


 ヨルは机の向こうに立った。それから、灯のほうを見る。灯を見た時間は、キリを見た時間より長い。


 「灯さん、線の内側は輪で二つです。今日はこちらで立て替えておきます。返しは次に来た時で結構です」


 灯は鞄の底へ手をやった。輪は五つある。出そうとして、ヨルが先に帳面へ手を掛けた。


 「今は受け取りません。受け取ると、見学が売買になります」


 灯は手を鞄から出した。手のひらに、輪の縁の跡が二つ残っている。


 灯は線を越えた。内側の床は手前より少し温かい。越える時、靴の先で白い粉を少し押した。粉は線の外へ出て、そこで止まった。


 机の上の帳面を、ヨルは表に返した。表に返した表紙は黒くて、真ん中だけ色が抜けている。抜けているところの形は手のひらに近かった。


 「一枚だけお見せします。見学の値の内側になります」


 「これ、なんの帳面」


 「それは答えの値段になります」


 ヨルは帳面を開いた。紙は左端に細い線が縦に引いてあって、線の左が数、右が字だった。


 数は上から下へ並んでいる。一枚の紙に入るのは三十行で、その下に余白が指二本ぶん残っていた。右の字は短くて、二つか三つ。四つのものは無かった。


 灯は近づいて、紙の上を目で追った。追う時、机の縁に肘が当たっていた。


 右の字を、灯は上から順に読んだ。読める字と、読めない字がある。読めるほうが少なかった。


 そのうち二つは灯の知っている形をしていた。名札小路の札で見た形。ただし同じ字はこの街に何人ぶんもある。


 灯は知っている形のほうを数えるのをやめた。やめてから、線の切れているほうを数えた。二十二。


 読めない字は線が途中で切れている。切れているのは書き損じではなくて、初めからそこまでしか無い形をしていた。


 左の数は上から下へ一つずつ大きくなっていく。飛んでいるところは無い。灯は上の三つと下の三つを見比べて、間の増え方が同じかどうかを確かめた。同じだった。


 紙の下のほうはまだ空いている。空いている行は五つ。五つの下に、次の紙の端が見えていた。


 書いてある行の、下から十一行。その十一行の字はみんな同じ人が書いたように見えた。


 上のほうの字は、書いた人が別々なのが一目で分かるくらい形が違っていて、太いものと細いものと、右へ倒れているものと、下の線だけが長いものが順番なしに並んでいた。


 三つ目の行に、灯の知っている形があった。


 二つの字で、上が短く、下が長い。上の字の右の払いが、途中で一度だけ止まっていた。止まってから、また下りている。


 灯はその形を夏に書いた。四つ角の板の上で、木の札に書いた二文字。書いた時、右の払いのところで鉛筆の先が引っかかって、一度止めてから続けた。


 夏に二文字を書いた札は一枚ではない。灯は口の中で、書いた順に名を並べはじめた。


 一枚目は小路の家の戸口、二枚目は四つ角、三枚目は市の日に来た者のぶん。そこまでは名と札の形が一緒に出てきたのに、四枚目で名だけが先に出て、札のほうが後ろから来なくなった。


 離れたところから先はどれがどれか分からない。灯は初めからもう一度並べた。二度目も同じところで離れた。


 止めた跡は書いたあとも残っていた。残ったところだけ墨が濃くなる。濃いところの位置は上の字の右の三分の一のあたりだった。


 帳面の字も、そこが濃い。


 灯は指を紙の上へ近づけて、触れる前で止めた。


 そこで、肘の内側がまた引きつる。


 机の縁に当てたからだと灯は思った。


 肘は机から離れている。


 「これ、あたしが書いたやつ」


 「そう見えますか」


 「見える」


 ヨルは帳面を動かさなかった。動かさないで、灯の指の先が止まっているところを見た。


 その間、ヨルの手は帳面の外にあった。紙にも机にも触っていない。指は伸ばしたままで、どこも曲がっていなかった。


 キリは線の内側に立っていた。立っているだけで、帳面のほうを見なかった。見ないでいるのが、わざとかどうかは灯には分からない。


 「同じ形かどうかはまた別の値がつきます」


 灯はもう一度、下から十一行を数えた。二度目も十一だった。


 左の数は上から下へ一つずつ増えている。増え方は上のほうと同じで、飛んでいない。


 同じ日に入ったのか、十一日かけて入ったのかは、数からは出てこなかった。灯は左の列をもう一度上から見た。日付の欄が無い。


 十一。灯はそれを口の中で並べた。並びができたところで、聞こうとした言葉が喉の手前まで来た。


 誰がこれを、と灯は言いかけた。


 言いかけて、指を引いた。そのまま上着の袖の内側へ入れると、肘の内側が袖の布に当たった。


 ヨルは待っている。待っている間、帳面の紙は一枚も動かなかった。


 「数、合ってる」


 「合っているかどうかは別の値段になります」


 ヨルは帳面を閉じた。その時、紙の端が机の板をこすって、そこだけ色が変わっている。変わった色は指でこすると元へ戻っていた。


 キリは何も言わなかった。言わないまま戸のほうへ歩いた。歩幅は来た時より広い。歩く時、右の外側から先に着いた。


 「見学はここまでです」


 書記が机の横から言った。それから、机の手前の床の線を、もう一度だけ指の先で示した。


 灯は線の外へ出た。行きに押した粉の跡を踏まないように、半歩ぶん外を回っている。


 戸のところで、灯は一度だけ振り返った。帳面は閉じたまま机の上にあって、その上にヨルの手は無かった。


 ヨルは灯のほうを見ていた。見たままで、何も言わない。値のつく言葉が、いまは一つも無いことになる。書記は元の椅子へ戻っていて、紙をまた左から右へ移していた。


 外へ出ると、道は来た時より暗くなっていた。


 段を下りる時、灯は行きと同じ右の端を踏んだ。踏むと、音は行きより低い。三段とも低かった。


 暗くなったのは日ではない。火の数が減っている。柱は同じだけ立っていて、上に火の無いものが増えていた。灯は増えた数を数えなかった。


 数えたのは日のほうだった。三十一日まで、あと十二日。


 「ヨル、値段しか言わない」


 「あれは値段しか言わんことにしている奴だ」


 街を出るまでの間、灯は数を一つも数えない。数えると、十一へ戻る。


 坂は行きより上りにくかった。砂の混ざった土は上る時のほうが崩れる。灯は膝を高く上げて、二歩に一度、土を踏み固めてから進んだ。


 境の石のところで、灯は立ち止まった。


 石の上に手を置くと、行きより冷たい。灯は体の重さを掛けて押した。押すと、手のひらの真ん中だけが白くなった。白いところは離してから三つ数える間で元へ戻っていた。


 草の道は行きより明るかった。日が後ろに回ったぶん、草の白い側が全部こちらを向いている。


 白い側は近くで見ると白ではない。薄い茶の上に、細かい粒が乗っていた。粒は指で払うと落ちて、落ちた先で見えなくなった。


 灯は道の端に沿って歩いた。端のほうが土が固い。真ん中は行きに二人で踏んだところが少しへこんでいた。


 灯は一昨日の林のことを思った。石の割れ目に立てた四十本のうち、布の切れ端が残っていたのは二本だけ。六本目と十一本目だった。


 十一本目。今日の帳面の十一行。二つの十一は灯の中で並んだまま重ならなかった。


 重ねようとすると、片方が骨で、片方が字だった。


 灯は鞄の底へ手を入れた。輪は五つとも、行きと同じ側に寄っていた。数は動いていない。


 灯は五つのうち一つを、指の先で立てて回した。輪は鞄の布に当たって、そこで止まる。それから、また横になった。


 鞄の底から、灯は青いノートを出した。出す時、指の先が輪の一つに触れる。触れた輪は底で一回りして、また止まっていた。


 ノートの中の紙には四つ角で書いた名が二十並んでいる。二十のうち二文字のものが何枚あるかを、灯はここで数えなかった。


 出したまま開かなかった。折れた側を上にして、胸の前で抱える。両手の親指が、表紙の同じ高さに並んだ。


 灯は道の先を見た。キリは坂の途中で立ち止まって、こちらを見ずに待っていた。


 灯は抱え方を少し直した。角の折れは前より深くなっている。


 折れた角の下は、青がまだ濃い。折り目から先は白く抜けていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。