第036話 三日ちがい
十二月十六日の朝、台所の窓は下の三分の一だけ曇っていた。
曇りの上の縁は横にまっすぐ走っていて、その線の上だけ外が見えた。向かいの屋根と、その上の空。空は昨日より白かった。
灯は流しの前で水を出した。最初のうちは冷たくない。二つ数えるうちに冷たくなって、指の先から順に感覚が薄くなった。
鍋の蓋を取ると、湯気が上へ抜けた。天井のところが、そこだけ色が濃い。
湯気は天井へ着く前に薄くなった。薄くなる高さは灯の頭より少し上。夏は天井まで行っていた。
匂いは味噌が先で、その後に昨日の煮た物が来た。二つは同じところから出ているのに、順が決まっている。灯は鼻から二度吸って、そこでやめた。
台所の床は流しの前だけ板の色が薄かった。灯は薄いところの内側へ足を置いた。足の外側が、薄いところの縁と重なった。
母は昨日の夜勤から戻って、部屋で寝ていた。戸は閉まっていて、下の隙間から明かりは出ていない。戻ってきた時の音を、灯は今朝は聞いていなかった。聞いた日と聞かない日があった。
灯は味噌汁を椀へ入れた。椀は二つ出して、一つは蓋をして置いた。蓋をした椀を置くのは流しの右の端。母が起きた時に、そこから取れる。
蓋を載せる時、椀の縁と蓋の縁が合う位置は一つしか無かった。合わないほうで載せると、片側が浮く。灯は二度回して、合うところで止めた。
布の上には湯呑が四つ伏せてあった。四つのうち三つは輪の跡が濃くて、一つだけ薄くなっていた。薄い一つはいつも一番端に伏せる湯呑。
祖母は玄関のほうにいた。傘立ての前で、三番目の傘の柄へ指を当てていた。当てる時間は毎朝ほとんど同じで、灯が三つ数える間動かなかった。
傘立てには傘が五本入っていた。祖母のが一番手前で、母のが二番目。灯のは三番目。あとの二本は父のと、名前の無いのが一本。父のは去年の春から動いていなかった。
祖母が触るのはいつも三番目の柄。柄の同じところだけ色が濃くなっていた。灯はそれを、十二月に入ってから見ている。
灯は鍋の火を止めた。それから、蓋を流しの縁へ立てかけた。
「今日は寒いかい」
「寒い」
祖母は指を離した。その手を、上着の前で合わせる。合わせた指は七日前より膨らんで見えた。
「ごはんは」
「食べた」
祖母はうなずかなかった。傘立ての二本目のほうへ目を落として、そこで止める。二本目は母の傘で、柄の色は一本目と同じ色。
灯は靴を履いた。かかとを二度、土間の縁へ当てて入れる。当てる音は二度とも同じ高さ。土間の縁の、同じ場所。
土間の縁は当てるところだけ角が丸くなっている。丸いのは灯の靴の幅ぶん。祖母は靴を当てない。母も当てなかった。
「傘は持ったかい」
「いらない」
空は白いが、雲の切れ目が東のほうにあった。切れ目のところだけ、色が薄くなっている。切れ目は昨日より東へ寄っている。灯は玄関の外へ二歩出て、その位置を目で覚えた。
昨日のより指一本ぶん東だった。
傘立ての底には水が少し残っている。
灯は鞄の持ち手を左手へ持ち替えた。持ち替えてから、肩の位置を少し下げた。
灯は玄関を出た。風は昨日と同じ向きから来ていた。北からの風は家と家の間を通ると細くなる。
道は途中まで日が当たらなかった。日の当たらないところは土が朝のうちだけ固かった。踏むと靴の底の下で細かいものが割れて、二歩目からは割れなくなる。
角の家の犬は今日は外に出ていた。灯が通ると顔を上げて、通り過ぎるまで見ていた。吠えない。犬の前の地面は丸く土が出ていた。丸の直径は灯の三歩ぶんで、その外側にだけ草が残っている。
工事の囲いは昨日より一枚増えていた。新しい一枚は白く、古いほうは灰色がかっている。
自転車置き場の前を通る時に、灯は数を数えた。二十二台。昨日は二十四。減った二台の場所は端ではなく真ん中。
枠は全部で三十あった。埋まっていない八つのうち、六つは端に寄っていた。灯は夏にそれを数えていた。その時は二十八台。
家から駅までは八百歩あった。その途中に、水飲み場と魚屋と橋が順に来る。橋の下の水は朝の間だけ音が高かった。
水飲み場の栓からは今日も水が細く垂れていた。
魚屋の前の水は道の端の溝へ行って、途中で止まっていた。止まったところに、白いものが二つ浮いている。
駅の建物の上の時計は八時六分を指していた。改札の上のも同じ数。灯は毎朝ここで一度だけ顔を上げる。足は止めない。
鞄の底で、木の輪が五つ、同じ側へ寄った。寄る音はしない。灯は口から手を入れて、五つとも指で確かめた。五つ目だけ、縁が少し薄かった。
鞄の底には四つ折りの紙も入っている。今朝は出さない。出さなくても、へこみが三つあるのは指で分かる。
駅から学校までは六百歩あった。その途中に、花屋の前と塾の看板の下が来る。花屋の前の道だけ、朝はいつも濡れていた。
学校の門の時計は八時十四分。門の内側の掲示板には紙が三枚貼ってあった。三枚とも角が丸くなっていた。
昇降口の傘立ては今日はほとんど空いていた。二十四本ぶんのところに、五本だけ。五本とも、奥の列に寄せてあった。
五本のうち三本は柄の色が同じ物。灯の家の三番目も同じ色だった。
手前の列は十二本ぶん空いていた。穴の内側には乾いた土が薄く残っていた。
灯は自分の傘を持ってきていなかった。持ってこない日は傘立ての前で足が少し止まる。
門の内側の掲示板の前で、灯は一度だけ足を止めた。三枚の紙のうち、真ん中の一枚だけが新しかった。
灯は昇降口で上履きへ履き替えた。履き替えた靴は下駄箱の右の端へ入れた。
教室に入ると、前の黒板の上の時計は八時二十一分を指していた。家の時計と合っている数。
灯の席は窓側の、後ろから二番目。座ると、机の天板の右の端に去年の誰かの傷が来た。傷は三本で、三本とも同じ向きに走っていた。
傷の深さは真ん中の一本が一番深かった。灯は鉛筆の先をそこへ入れてみたことがあった。入ったのは芯の半分の深さ。
窓の下の段は朝のうちだけ内側が白くなる。灯は指の先で短い線を引いた。線は下から先に消えて、上のほうが最後まで残った。
みずきの席は廊下側の一番前。今朝はもう座っていて、机の上に何も出していない。座り方は昨日と同じで、背中が背もたれに着いていなかった。
教室に三十四人が入ると、机と机の間は人一人ぶんだった。廊下側の一番前だけは前が壁で横が戸。両側に人の来ない席はその一つ。
みずきの机の上には鉛筆が二本並べてあった。芯の出ている長さが、二本で一本ぶんも違わない。
一時間目の前に、多田が教室へ入ってきた。名簿を持っていた。名簿の角は右上だけ厚くなっていた。何度も同じところをめくる手。
「後ろの掲示を外します」
多田は名簿を教卓へ置いた。それから、教室の後ろのほうを指す。
「四月から貼ってあります」
灯は後ろを振り返った。教室の後ろの壁に、紙が横一列に並んでいた。左から四月・五月・六月と続いて、右の端が三月。
振り返った時、みずきの席は視野の外にあった。廊下側の一番前は灯の席から見ると後ろではなく前。
紙は灯の背より高いところに貼ってあった。上の縁は灯が手を伸ばして指の先が届くかどうかの高さになる。
紙の色は左のほうが薄かった。日が当たる側が左。
薄いのは四月と五月の二枚で、六月から先は差が出ていない。六月に窓のところへ布が掛かって、それから日が入らなくなる。布はいまも掛かったままだった。
「昼休みに、当番の二人で」
教室の前のほうから、誰かが「二人じゃ足りない」と言った。多田はそちらを見ずに、名簿の上へ手を置いた。
「十二枚です。二人で外してきてください」
多田は名簿を開いた。右上の厚くなっているところを指でめくる。
「今日の当番はみずきと灯」
四月から今日まで、多田は一度も名前を間違えていなかった。灯は三十四人ぶん、それを聞いてきた。
去年まで多田は灯の小学校にいた。四月からこちらにいる。灯はその理由を聞いていない。
みずきは前を向いたままだった。返事はしない。灯のほうへも顔を向けなかった。
窓の側の列で、三人が机を寄せて座っていた。三人は十二月に入る前まで四人。減った一人は廊下側の一番前の席に座っていた。
一時間目が始まると、窓の下の段の白いところは消えていた。消えたのは端からで、真ん中が最後まで残った。
*
四時間目の終わりの札が鳴って、教室の後ろが空いた。
三十四人のうち、半分ほどが廊下へ出ていく。残った者は前のほうの机に集まって、そこから後ろへは来なかった。
残ったのは十四人。灯は掲示の前に立つ前に一度数えて、あとでもう一度数えた。二度目は十二人になっていた。二人はその間に出ていった。
昼の給食のパンは、今日のぶんだけ端が乾いていた。灯は半分を残して紙に包み、鞄の横のところへ入れた。噛んだ時に、上の内側へ当たったところがまだ残っている。
給食の器は台車へ戻してあった。台車は廊下の壁際に出してあって、上の段だけが空いていた。空いているのは上から戻す決まりだからになる。
教室の後ろの床は前のほうより冷たかった。灯は上履きの先で一度、床を押した。板は動かない。板と板の間の線が、灯の靴の幅の内側で二本通っていた。
灯は後ろの窓を一度だけ見た。窓の外は朝と同じ白さのままだった。切れ目は東の空から動いていない。
教室の後ろの窓は下の段だけ内側が曇っていた。曇りの上の縁は朝の台所の窓と同じ高さに来ていた。
灯は掲示の前に立った。近くで見ると、十二枚は同じ紙ではない。四月から八月までの五枚は目の細かい紙で、九月から先の七枚は少し厚かった。途中で紙が変わっていた。
変わり目は八月と九月の間。八月の紙の右の端と、九月の紙の左の端が、そこだけ厚みで段になっていた。灯は指を横へ滑らせて、段のところで一度止めた。
十二枚は同じ高さで貼ってあった。上の縁がそろっている。下の縁は紙の丈が違うぶん、そろっていなかった。
灯は上の縁へ手を伸ばした。指の先が紙の上の縁へ届く。
みずきはあとから来て、灯の右に立った。二人の間は灯の肩一つぶん空いている。
その幅は給食の台車を二人で押す時の間隔と同じくらい。二人で持つ物があると、そこまで寄る。
みずきの上履きのかかとは外側だけが減っていた。灯のは内側から減る。
「どっちから外す」
「左の端から。そのほうが早い」
みずきは答えるのが早い。早いのに声は大きくなかった。声の終わりは上へ行かなかった。
「左って、四月の端から」
「四月から。順に取ったほうが数えやすい」
灯は四月の紙の右下の画びょうへ指を掛けた。そこで、上の二つを先に抜いたほうがいいと気づく。上を先に抜くと、紙が自分の重さで前へ倒れてくる。
画びょうは一枚に四つ。十二枚で四十八。灯は数えてから、抜いたぶんを右のポケットへ入れることに決めた。自分で決めて、誰にも言わなかった。
「上の二つから抜く」
「上から抜く。下からは破れる」
みずきは背が灯より少し高かった。上の画びょうへはみずきのほうが先に届いた。
みずきの指は画びょうの頭を横から挟んで抜く。上から爪を掛けない抜き方。爪を掛けると、頭に跡が残った。みずきの抜いた二つには跡が一つも付いていなかった。
灯は自分の抜いた画びょうを見た。二つの頭に、爪の形の跡が付いていた。
四月の紙が外れると、その下の壁が出た。壁は紙の形に色が濃く残っていた。まわりは八か月ぶん焼けて、紙の下だけが四月のままになる。
濃いところと薄いところの境は、まっすぐではない。上の縁だけがわずかに波を打っていた。
灯は境の線を指でなぞった。なぞっても、壁の色は動かない。
「壁に跡が残ってる」
「残る。八か月も貼ってあれば残る」
「三か月だとどうなの」
「三か月でも残るじゃん。跡が薄いだけで」
「じゃあ、いつからなら残らないの」
「そんなの、貼ってみないと分からないでしょ」
灯は四月の紙を裏返した。裏には何も書いていなかった。表には名前が縦に並んでいた。四月の欄は三人。
名前は活字。小学校の掲示は手書きの紙で、中学に入ってから活字になっていた。活字の名前はどれも同じ太さで並んでいた。
三人の名前の下には小さい数が二つずつ付いている。日にちの数。四月の三人は二日と十四日と二十六日。
五月は三人。六月は四人。灯は数えながら外した紙を右手の上へ重ねていく。重ねる度に、右手の下のほうが少し重くなった。
六月の紙の下の壁は四月のところより薄かった。同じ八か月でも、濃さが同じにならない。日の当たり方が左から右へ変わる順。
七月の紙を外す時に、みずきの手が先に上の画びょうへ掛かった。指はそこで止まった。
「七月の紙、持っててよ」
みずきはそれだけ言って、画びょうを抜いた。紙はみずきの手の上で一度たわむ。
灯はその紙を受け取った。受け取る時、みずきの指は紙の下の縁に掛かったままだった。灯が持ってから、みずきは指を引いた。引く速さは掛けた時より遅い。
灯は紙の表を上にした。
七月の欄は二人だった。
欄の下の五本ぶんは空いている。二人ぶんしか無いので、そこまで届かない。空いたところに、うっすらと横の線が引いてあった。線は七本。名前が載っているのは上の二本で、あとの五本は白いまま残っていた。
上にみずきの名前がある。その下に、灯の名前があった。
二人の間には行が一つも空いていなかった。名前の下に、小さい数が二つずつ付いていた。七日と、十日。
灯は上から順に読んだ。七日が上で、十日が下。上に来ているのはみずきの名。
欄の中は日にちの順に並んでいた。五月も六月も同じ並び方をしていた。四月だけは二日の人が一番上ではなかった。
「みずき、誕生日が七月なんだ」
「七月」
「上のほうが、七日」
「七日。下のほうは十日って書いてある」
灯は自分の名前の下の数を見た。十日。指を三本立てて、それから下ろした。
立てた三本は七日と十日の間の日数。八日と九日と十日。数え方によっては二本。灯は三本のほうで数えた。
「七日と十日で、三日ちがい」
みずきは紙のほうを見ていた。灯のほうは見ていなかった。紙を持つ指は下の縁の同じところに掛かったままだった。
「知ってた。四月から知ってた」
教室の前のほうで、誰かが椅子を引く音がした。引いた椅子は戻されずに、そのまま。誰が引いたかは、背もたれの角度では分からない。
その音の間、みずきは紙から手を離さなかった。紙の下の縁を、親指と人差し指で挟んだままでいた。挟む力は強くなかった。紙の縁は折れていない。
灯は口を開けかけた。開けかけて、七月の紙の縁を指で押さえた。そこの紙が、少し波を打つ。
波は指を離しても戻らない。灯はその波を、親指の腹で二度なでた。二度目でほとんど平らだった。
「八か月ずっと貼ってあったのに」
「貼ってあったから」
「あたしは今日まで見てない」
「見なかった人のほうが多い」
みずきは八月の紙の画びょうへ手を伸ばした。その手は灯の前を横切らない。灯の外側を回って、上から掛かった。
回り方は四月の時と同じ形。灯は横切られたことが一度も無かった。一度も無いことに、いま気づいた。
八月の欄は一人だけ。九月は四人で、十月は二人。灯は三枚を数える間、指を折らずに口の中だけで足した。
八月の一人の下には十二という数が付いていた。灯はその数を知っていた。去年の八月十二日に、灯はその家へ行かなかった。行かなかった日のことはこの紙には書いていなかった。
九月と十月の紙は外す時に上の縁が少しだけ壁に貼り付いた。剥がすと、壁の側に紙の白いものが薄く残る。残ったところは指でこすっても取れなかった。
灯は数えながら七月の紙だけを束の一番上へ戻した。あとで見返すためではない。上に来ていたほうが数えやすい。
束の順は外した順から一枚だけずれた。ずれたのは灯の手で、みずきはそれを見ていた。見たままで、何も言わない。
十一月は五人で、十二月は四人。十二月の四人の名前の下には、まだ日が来ていない数が二つ混じっていた。
「十二月、四人いる」
「この一年で一番多い月」
「もう過ぎたのが二人いる」
「三日と八日でしょ」
「二人とも、なんかしたの」
「知らない。この教室では二人とも何もしてない」
灯は十二月の紙を束へ重ねた。それから、束の厚みを指で挟んだ。指一本ぶんと少しの厚み。
厚みは紙の枚数のぶんだけではなかった。画びょうの穴のところが、少しずつ膨らんでいた。四十八の穴が重なって、束の四隅だけ厚くなっていた。
一月は三人、二月は二人、三月は一人。三枚で六人だった。
月ごとの数を足すと、四月から三月までで三十四になった。灯は二度足して、二度とも同じ数が出た。
三十四はこの教室の人数と同じ数。傘立ての二十四本ぶんより十人多かった。灯はその十人ぶんを、十二月に入ってから毎朝見ていた。
紙の外れた壁が、左から右へ十二並んだ。色は右へ行くほど浅い。
*
放課後の教室に居るのは、灯とみずきの二人だけだった。
十二枚の束は教卓の上に置いてある。多田は職員室へ戻っていて、まだ来なかった。窓の外は昼のうちから曇っていた白。
昼休みは前のほうに人がいて、そこから音が来た。いまはどこからも来ない。
四角い跡は上下がそろっていた。左右の間はどれも指二本ぶんずつ空いていた。
跡の四隅には画びょうの穴が四十八あった。穴は跡の縁より少し内側にある。紙の端を留めると、そうなる。
灯はポケットの中の画びょうを握った。二十四は思ったより重かった。針の側が布へ当たると、内側から一つずつ数えられた。
灯は左の端の跡へ手のひらを当てた。壁は冷たかった。当てたところだけ、しばらくして温かくなった。手を離すと、また元へ戻る。
戻る速さは当てていた時間より短い。温まるのに数えて八つ、冷えるのに三つの数。灯は二度やって、二度とも同じ数。
灯は壁の跡を左から順に数えた。端まで行ってから、右の端をもう一度見る。
「これ、来年も貼るのかな」
「来年も貼る。四月にまた同じ場所へ」
「来年も同じ十二枚なの」
「同じ十二枚だと思ってたでしょ」
「思ってない」
「別の十二枚。名前が入れ替わる」
みずきは教卓の前に立って、束の角をそろえていた。そろえる手つきは速かった。四回で角が合った。
四回のうち、二回は横で、二回は縦。横を先にすると縦が合いやすい。灯はその順を覚えた。
束は横から見ると、体育館のマットを立てて並べた時のようだった。上の何枚かだけが少し浮いている。
浮いている枚数を、灯は指を入れて数えた。三枚。三枚とも、角の折れているほうが上へ来ていた。
折れた角は、四隅のうち左の上だけ。十二枚とも同じ隅が折れていた。同じ手で外して、同じ手で重ねたからだった。
灯は昼のパンの乾いた端を思い出した。
舌の付け根のところが、いまも少し痛む。
乾いたパンのせいだと灯は思った。
水は昼のうちに二度飲んだ。二度とも、痛みは変わらない。
みずきは同じパンを二つ食べていた。食べ終わるのは灯より早い。
教卓の板の上には白い粉が薄く残っていた。指でこすると、粉は跡になって板の目へ入った。
灯は教卓の横へ回った。それから、束の一番上の紙を指で少しだけ持ち上げる。七月の紙が出てくる。
持ち上げた紙の下から、八月の紙の上の縁が見えた。二枚の間には画びょうの穴の位置がそろっていない。同じ壁に同じ幅で貼ってあったのに、穴だけがずれていた。
「一番上、七月のままだよ」
「上にしたの、こっちじゃない」
「上にすると数えやすいから」
「誰が数えるの、それ」
「あたし」
「数えやすいのは上にした人だけじゃん」
灯は紙を戻した。戻すと、束の角がまた一枚ぶんずれた。みずきはそこを二回でそろえた。
みずきは束を両手で持ち上げた。持ち上げた高さはみずきの腰のあたりで止まる。
持ち上げる時、束の下の縁が教卓の板を一度こすった。跡は残らない。教卓の板はそこだけ前から擦れていた。
「持っていくよ」
「多田先生に、二人で行くって言われた」
「そう言われた」
「じゃあ、二人で持つ」
「そんなに重くないよ。十二枚しかない」
「重さの話はしてない」
みずきは束を灯のほうへ半分渡した。二人の指が、束の同じ側に来る。灯の指が四本、みずきの指が四本。八本で十二枚を持つことになる。
教室の戸を閉める時、下の敷居のところで一度引っかかった。引っかかる場所は朝も同じところだった。
廊下は昼より寒い。窓が一つだけ開いていて、そこから風が入っていた。開けた者はもういなかった。
廊下の床は真ん中だけ色が薄い。人が通るところがそうなっていた。薄いところの幅は二人が並んで歩ける幅より少し狭かった。灯とみずきはその内側を並んで歩いた。
束は二人の間で少し傾いた。傾く側はいつも灯の側。傾いたぶんを直そうとすると、みずきの側が上がる。二人とも直さないでいるのが、一番平らだった。
廊下の途中に、給食の台車が一つ出してあった。台車の上の段は空で、下の二段に器が入っていた。器の数は三十五。人は三十四だった。
職員室の前の時計は三時四分を指していた。灯の腕の時計は三時三分。一分ぶん、廊下のほうが先に行っていた。
灯は腕を下ろした。それから、束のほうへ指を掛け直す。
職員室の中は廊下より暖かい。入ってすぐのところに、石油の匂いがあった。匂いは天井の側へ上がって、床の近くには来なかった。
多田は入口の近くの机にいた。束を受け取ると、上から順にめくって、枚数を数える。めくる速さは変わらない。
めくる時、多田は紙の右上を親指で押さえた。名簿の角が厚くなっているのは、その手。
「十二枚。ありがとう」
多田は束を机の右の端へ置いた。そこにはほかの紙が三枚ぶん積んである。積んである紙の角は三枚とも同じ側が折れていた。
多田の机の上には湯呑が一つ伏せてあった。伏せた下に布は敷いていなかった。跡が机へ直に付いて、輪が二つ重なっている。
「これ、捨てるんですか」
「取っておきます。来年のぶんに使います」
「去年のもあるんですか」
「三年ぶんあります」
「三年前のも」
「あります」
「見ることってあるんですか」
「並びを見ます」
灯は束のほうをもう一度見た。一番上は七月の紙のままになっていた。
廊下へ出ると、みずきは先に歩き出していた。灯は二歩ぶん遅れて追った。追いつくと、みずきは歩く速さを変えなかった。
窓の外は昼より暗くなっていた。四時前でこの暗さになるのは、十二月から。灯は去年の十二月のことを思い出そうとして、そこで止めた。去年の十二月はまだ小学校にいる。
廊下の途中で、みずきが一度だけ足を止めた。そこには何も無い。壁と、その上の窓。
昇降口の傘立ては朝と同じ五本。五本とも、奥の列に寄せてある。誰も取りに来ていなかった。
朝と違うところが一つあった。手前の列の左から七本目に、水の跡が付いていた。誰かが一度入れて、また抜いたことになる。跡は乾きかけていた。
灯はその穴の内側を覗いた。底に土が薄く溜まっている。溜まった土の真ん中だけ、丸く濡れていた。
「みずき」
みずきは足を止めた。それから、灯のほうへ顔を向ける。顔を向けたのは今日で二度目。
一度目は七月の紙を渡した時で、あの時は紙のほうを見ていた。今度は灯のほうを見ている。
灯は聞こうとした言葉を、口の中で一度置いた。そのままにして、外へは出さない。
代わりに、鞄の横から紙の包みを出した。昼のパンの半分が入っている。
「これ、いる」
みずきは包みを見て、それから灯の手を見た。手のほうを長く見る。
「いらない。乾いてるでしょ」
「知ってる」
灯は包みを鞄へ戻した。戻す時、紙の折り目が一つ増えた。
出さないでいる間に、舌の付け根のところがまた痛んだ。痛みは昼より強くなっていた。
置いてから、別の言葉を出した。
「明日、当番じゃないよね」
「じゃない。次の当番は一月になる」
「一月の当番も、やっぱり二人」
「二人。誰と誰かはまだ決まってない」
みずきは一歩早く外へ出た。外の光は廊下の中より白かった。出てすぐ、みずきは鞄の持ち手を左手から右手へ持ち替えた。持ち替える場所はいつも昇降口の三歩ぶん向こうになる。
みずきの背中は門のところで一度小さくなって、それから右へ曲がった。曲がる先は灯の帰る道と反対。灯は一年生の四月からそれを知っていた。
外は廊下の中より風が強かった。門のほうから来る風で、灯の髪は後ろへ寄る。寄ったところから、耳が出た。
灯は昇降口の縁のところで足を止めた。上履きの底が、縁の段のところに掛かっていた。そのまましばらく動かさない。
縁の外は日が当たっていないぶん土が固かった。灯は靴の先でそこを一度押した。土はへこまずに、音だけを返した。
門のほうから、二人ぶんの声が近づいてきて、そのまま通り過ぎた。二人とも灯のほうを見ていなかった。
段の縁は真ん中だけ丸くなっていた。三十四人が同じところを踏んで、そこだけ先に丸くなる。丸いところの幅は灯の靴の三足ぶん。
止まったところで、指を三本立てた。
三本の影が、段の縁の丸いところへ落ちた。
間は三日空いていた。




