第035話 財布の底
十二月十五日の朝、四つ角の板の台には札が七枚並んでいた。
市の三日あとは札が出る日。キリは前の日にそう言っていて、その通りになった。七枚は縦二列で、上の列が四つ、下が三つ。木の色は上と下で別になる。上の四つが白い。白いほうは新しく削ってあった。削った面に、まだ木の粉が残っていた。
灯は台の右の端へ足を置いた。立つ場所に決まりは無かった。決まっていないので、毎回同じところに立つことになった。
キリは板の後ろで、袋の口のひもを解いていた。解いた手で、上の列の右から二枚目を指す。
「今日はここからだ」
「なんで二枚目から」
「一枚目の客はまだ来てない」
東の道の入口には、市の日に使う木の枠がまだ立ててあった。上の横木に、ひもの切れ端が七つ結ばれたまま残っていた。五日前も七つだった。市の日にも増えていない。
枠の下の土には荷車の轍が二本走っていた。二本の間は灯の肩幅より広い幅。轍の底には昨日の水が残っていて、そこだけ土の色が濃かった。
台の脚の下の石は三つ。四つ目の脚は土へめり込んだまま。めり込みは夏より深くなっていた。板の右の端は灯の腰より指二本ぶん低かった。灯は腰の高さを板へ当てて確かめた。夏に同じことをした時は、指一本ぶんになる。増えた一本のぶん、板のほうが沈んでいた。
風は東から来ていた。市の日に荷が通ったぶん、東の道の土は踏み固まって色が濃くなっている。踏み固まったところには朝の霜が長く残った。
灯は霜の残っている側へ動いた。靴の底の下で、細かいものが割れる。二歩目からは割れなくなった。踏んだところだけ、色が元へ戻っていた。
霜は東の道の半分までしか来ていなかった。半分から先は建物の影が掛かっていて、影の内側は霜が白いまま。影の境は朝の間に西へ寄っていった。灯は境の上へ靴の先を置いた。足の先だけが、日の当たる側へ出る。灯が着いた時、境は枠の柱のところ。
匂いは東のほうから来た。昨日の荷の匂いで、干した草と、その下に濡れた木がある。夏の市のあとは草のほうが強かった。今日は木のほうが先に来て、草はあとから薄く届いた。
灯は鼻から二度吸って、そこでやめた。三度目に出てくる匂いは無かった。二度目には出てこない匂いがあると、灯は七日前に確かめていた。
最初の客は灯の背より頭一つ低かった。両手に何も持っていない。上着の袖は指の先まで来ていて、その先だけが外に出ていた。
「二文字」
「うん」
灯は鉛筆を出した。木の目を見た。上の札は目が横に走っていて、横の時は下の線を太くする。灯は札を一度持ち上げて、光のほうへ向けた。木の目は端まで切れずに通っていた。夏に一度そう決めて、いまも同じにしていた。
鉛筆の先は昨日の夜に削ってあった。削った面は六つ。長いのは一つだけ。長い面を紙のほうへ向けると、線が細く出た。札に書く時はその面を横へ回す。
書いている間、客は板の縁を両手で持っていた。持った手の指は動かなかった。書き終えるまで、一度も動かなかった。
二文字のうち、下の一字は横の線が三本。三本とも同じ長さにすると、上から二本目だけが太く見える線。灯は二本目だけ短くした。短くすると、三本が同じに見える。
書き終えると、客は札を取らずに板の上でひっくり返した。裏を見て、それからまた表へ戻す。
「これ、ひっくり返して見る人、多いの」
「多い。十人に七人は返す」
「なんで」
「裏に何か書いてあると思うんだろう。書いてあった札は一枚も無い」
「書いてないのに」
「書いてないから見るんだ」
客は札を胸のところへ入れて、東の道へ歩いていった。歩き方が速い。足音のほうは小さいまま。速いのに、足音は小さかった。板の縁には指の跡が二つ残っていた。跡は左右で深さが別。
一人目と二人目の間は、灯が数えて四十ほど空いた。その間に西の道から人が二人通ったが、どちらも台の前で足を止めなかった。二人とも道の真ん中を歩いて、板のほうへ首を回さない。
キリはその間、袋の中身を数えていた。数え終わる度に口の中で何か言って、また初めから数え直す。三度目でやめた。
二人目は灯より頭一つ高かった。荷を担いでいなかった。手のひらを板の上へ置いて、そこで止まる。手のひらの下から、板の木の目が二本だけ出ていた。
「四文字」
灯は鉛筆を持ち直した。四文字は夏に二度書いた。二度とも、札の下まで使って書いている。
札の幅は決まっていた。二文字なら上下に大きく書けるが、四文字だと一字ずつが小さくなった。小さくすると、下の線の太さが出なかった。
灯は一字目を書いて、そこで手を止めた。それから、札の下の三分の一を空けたまま上へ四つ詰めた。
「詰まってるよ」
「詰まってていい」
「下、空いてるけど」
「そこは持つところだ」
客は札を取って、指の先で四つの字を順になぞった。なぞる速さは上から下へ一定。なぞり終えると、下の三分の一のところで指を止めてそのまま札を持った。
「これ、四つとも合ってる」
「合ってなかったら書き直す」
「いい。合ってる」
二人目も東の道へ入っていく。二人とも東で、西へ行った者はいなかった。西の道の先は名札小路のほうへ続いていた。今日はそちらへ人が動いていなかった。
灯は書き終えた札を、板の上へ置いたままにした。置いた場所は上の列の右から二枚目のところ。キリの言った通りの場所。
灯は書き終えた二枚を、指で少しだけ離した。空いた幅は指一本ぶんで、そこから先へは動かさない。
二枚とも、上の穴が同じ側を向いていた。並べ直したのではなく、灯の持ち方のせい。灯が書く時に、いつも同じ向きで持っていた。
「下を空けたのは初めてだ」
キリが板の裏から言った。顔は上げていなかった。
「持つところ、いるでしょ」
「いる。だが値は知ってるだろう」
「一枚で一つ」
「四文字でも一つだ。字の数では変わらん」
「じゃあ、なんで四文字のほうが疲れるの」
「疲れるぶんは、こっちの勘定に入っとらん」
キリは輪を二つ、板の上へ出す。出してから、灯のほうへ指で押した。輪は板の目に沿って進んで、灯の手の前で止まった。
灯は輪を二つ取って、鞄の底へ入れた。底には四つ入っていた。入れると六つ。
鞄の口を閉めながら灯は手の甲を見た。指の付け根の上のところが、少しだけ赤い。
もう片方の手も、同じだけ板に触れていた。そちらは赤くなっていなかった。
灯は赤いほうの手を上着の袖へ入れた。それでも、赤は袖の口から見えていた。
台の上の白い札は四枚。四枚とも、上の穴にひもが通っていない。通っていないほうが、灯には書きやすかった。
ひもを通した札は、書く時に揺れる札。揺れる札に書くと、下の線が細くなった。夏に一度そうなって、それからキリはひもを後から通すようになっていた。順を変えた理由を、キリは一度も言っていなかった。
*
キリが袋を肩へ掛けようとして、掛け損ねた。
袋は肩の上を滑って、板の角へ当たってから石の上へ落ちた。その拍子に、上着の内側から布の物が一ついっしょに落ちる。
布の物は石の上で一度だけ開いた。口から中身が出て、石の四角い区切りの内側へ散る。散らばった場所は拾い場の内側になる。
拾い場の石だけ、まわりより色が薄かった。四角い区切りの内側が、そこだけ黒く汚れていた。夕立の日はこの内側が一番落ちる。夕立の日ではないので、内側には何も落ちていなかった。
散った十一は四角の中に八つ、外に三つ。外の三つは区切りの線をまたいで止まっていた。
キリは袋を先に持ち上げた。袋の口は開いていなかった。中身も出ていない。袋を拾って肩へ掛け直す間、散ったほうは石の上へ置かれたままになった。
灯はしゃがんだ。しゃがんだ膝の先へ、キリの声が来る。
「拾うな。散ったぶんは、こっちで数える」
「もう拾ってる。聞こえてはいた」
灯は近いところから順に板の上へ並べた。順は拾った通りにする。拾った順のほうが、抜けた時に分かる。
一つ目は木の櫛で、歯が三本欠けていた。欠けたところは新しくなかった。断面は三本とも同じ色をしていた。同じ日に欠けたと分かった。
歯は全部で二十以上。灯は数えようとして、十七で目が滑った。二度目は端から指を当てて数えた。二十四。欠けているのは端から数えて六本目、七本目、八本目。三本が続いていた。
二つ目は鍵。長さは灯の指の第一関節ほどで、頭のところに丸い穴が空いていた。明るいのは穴の縁だけ。縁の内側だけが薄くなっていた。
三つ目から六つ目まではボタン。灯は四つを板の上へ横一列に置き直した。四つとも大きさが違っていた。穴は四つのものが三つで、二つのものが一つ。灯は穴の並びを目でそろえた。四つとも同じ向きへそろう。
一番大きいのは灯の親指の爪ほどで、一番小さいのはその半分も無かった。並べても、大きさは順に落ちない。二番目と三番目がほとんど同じ大きさ。そこだけ段が無かった。
七つ目は布の切れ端。灯は測らずに、指で一度つまんだだけで置いた。つまんだところが少しへこんで、離すと戻った。
八つ目は欠けた器の破片。断面は白いまま。割れた口の縁だけが丸かった。使っているうちに丸くなったのではなくて、割れてから触られたぶんだった。
九つ目は子供の靴のひもが一本。十個目は木の玉で、表に線が二本入っていた。
線は交わらずに、同じ向きで並んでいた。灯は鞄の中の一つを思い出した。昨日、拾い場で交換して受け取った物になる。
十一個目は平たい金物。長さは灯の指二本ぶん。端の片方が丸くて、もう片方は角が残っていた。角のほうを板へ当てると、板が少しへこんだ。
灯はへこんだところを指でなぞって、それから金物を丸いほうへ置き直した。
「十一」
「数えるな。数えた物は、こっちの勘定に入る」
「数え終わった」
キリは板の前へ回ってきた。板の上の十一を、右から左へ見ていった。
「並べ替えるな。大きさの順にするな」
「じゃあ、どうするの」
「置いた順だ。十一とも、入れた日が違う」
「置いた順、覚えてないじゃん」
キリは十一を見終わってから、櫛を一つぶん右へ寄せた。それだけで、あとは動かさない。
「これで置いた順だ。あとは全部、置いた日が近い」
「一つしか動かしてないじゃん」
「一つで足りる。崩れるのは端からだ」
灯は櫛を指で持ち上げた。持ち上げると、歯の欠けた側が下を向いた。欠けた三本のところに、細い糸が一本挟まっていた。糸は毛のもので、木より濃い色。
「これ、誰の」
「知らん。この街に三つはある形だ」
「鍵は。ボタン四つは」
「十一とも知らん。名の分かる物は、この中に一つも入っとらん」
「全部知らないんだ」
「財布のほうは知らん物だけだ。知ってる物は袋へ入れる」
西の道から人が一人来て、板の前で足を止めた。板の上の十一を見て、それから灯を見る。何も言わずに、また歩いていった。
「見てったよ」
「見るのはただだ。触ると一つ取る」
「あたしは触ったじゃん」
キリは板の上の十一を、端から端まで見た。それから、灯のほうへ顔を戻す。
「灯は並べた。並べたのは触ったうちに入らん」
灯は端から順に十一を目で追った。十一のうち、キリが名前を言えたものは一つも無かった。
名前が分からないというのは、持ち主が分からないということ。灯は板の端の一つを指で少し戻した。
「じゃあ、値は」
キリは十一を右から左へ、もう一度見ていった。今度は指を使わない。目だけの勘定。
「櫛が一つ。鍵が三つ。ボタンは四つで一つ。布は零。器の破片も零だ」
「ボタン、夏は一つで一だった」
「夏の値だ。冬は落ちる」
「零のを、なんで入れてるの」
「重さが要る。三つ抜くと、落ちても音がせん」
灯は靴のひもを指でつまんだ。長さは灯の手のひら二枚ぶん。片方の端だけ、色が濃くなっていた。
「これは」
「二つだ。切れてない靴のひもは、この街に少ない」
「じゃあ木の玉と金物は」
「玉が一つ。金物は値が付かん。零は二つでも三つでもいい」
「じゃあ、重さが要るって言ったの、嘘じゃん」
「嘘じゃない。零のは軽いが、無いよりある」
灯は十一を順に指して、口の中で足した。一と三と一と零と零と二と一と零。八つ。
「八つだ」
「合ってる。菓子なら八つ買える値になる」
「じゃあ、全部でそれだけ」
「売らん。買う奴がいないうちは、値だけ持っとく」
「いないのに値だけ付ける」
「付けとかんと、無くした時に困る」
「無くしても、値が分かってれば困らない」
「困らん。同じ値のを拾えばいい」
「同じ値でも、同じ物じゃないじゃん」
「同じ値だ。それで足りる」
灯は板の上の櫛を、もう一度指で押した。押すと、歯の欠けた側が浮いてまた戻った。
灯は板の上の十一をもう一度見た。見てから、キリのほうを見た。
「キリのは、どれ」
キリは顔を上げない。灯はもう一度、板の上を端から見た。
「この中に、キリが失くしたやつはどれ」
キリは板の上へ両手を置いた。その手は動かさない。指は五本とも板の目の向きにそろっていた。
「無い。俺が失くした物は、拾った奴の財布に入っとる」
板に並んだ十一は家の引き出しの中のようだった。大きさの順ではなく、入れた順で決まっていた。
風が東から来て、板の上の布の切れ端が一度だけ持ち上がった。持ち上がって、そのまま戻る。戻った位置は前と同じ。ほかの十は動かなかった。
*
キリは袋を肩へ掛け直した。今度は掛け損ねない。
「北へ戻る。板は出したままにしとけ」
「あたしも行く」
「来るな。道が細い。二人で歩くと、片方の袋が壁に当たる」
「あたし、袋持ってない」
「じゃあ壁に当たるのは俺のだ。当たると中が鳴る」
「鳴ったら」
「上から見られる。見られると、次の日から数が減る」
灯は坂の上のほうを見た。坂の上には何も見えなかった。壁の色が途中で変わっているだけ。
灯は台の横から出て、北の道の入口まで先に歩いた。キリはあとから来た。
北の道は坂になっていた。坂の下の三分の一までは、四つ角と同じ幅。そこから先が細くなっていた。細くなる幅を、灯は肩で測る。壁と壁の間に、肩がちょうど入った。細くなる境のところで、道の石の色が変わる。上のほうが白い。人が通るぶんだけ粉が上がると分かった。
傾きは下のほうがきつい。上へ行くほど緩くなって、一番上は平らに見える。灯は夏に一度、上まで行った。上には塀があって、塀の切れたところから道が細くなる。細くなった先に石段があって、石段を上りきると片手袋の丘だった。
いま見えているのは、塀の手前まで。塀は坂の色と同じで、境が分からなかった。
細くなるところで、右の壁が一度切れていた。切れているのは灯の肩幅ほど。その奥は暗かった。
灯は昨日も五日前も、この切れ目のところでキリの背中が見えなくなるのを四つ角から見ていた。四つ角からは切れ目は壁の色の変わり目にしか見えない。灯は今日まで、それを影だと思っていた。
近くで見ると、切れ目の中には木の桶が一つ置いてあった。桶の横に板が二枚、壁へ立てかけてあった。板は二枚とも同じ長さで、下の端だけ土に埋まっていた。
埋まっている深さは、二枚で違っていた。手前の一枚は指一本ぶん、奥の一枚は指の第一関節ほど。奥のほうが長く立てかけてあった。
切れ目の中の土は、外より乾いていた。上に何も掛かっていないのに乾いていた。風が抜けるからだろう。思ってから、切れ目の奥のほうを見た。奥は行き止まりで、風の抜ける先が無かった。
「ここ、キリんち」
「違う。置き場だ」
「何を置くの」
「重いものだ。持って帰ると疲れるものは、ここへ置く」
灯は切れ目の中へ半歩だけ足を入れた。その足を、キリが袋で止める。袋は灯の膝の高さで止まって、そこから先へは行かせない。
「入るな。見るのもだ」
「見るだけだよ」
灯は足を戻した。それから、切れ目の外の壁を見る。壁の下のところに、桶の縁の当たった跡が横に並んでいた。跡は三つ。三つとも高さが別。
「跡が三つある。桶は一つしかないじゃん」
「今は一つだ。前は三つあったんだろうな」
灯は口を開けかけて、そこで一度止まった。止まってから、聞く代わりに桶の中を覗いた。桶の中には何も入っていなかった。底のところだけ、色が濃くなっていた。
水を入れていた桶。灯はそれ以上は覗かなかった。
桶の縁には指の当たった跡が二か所。二か所は向かい合っていなかった。片側に二本ぶん、もう片側に一本ぶん。
灯は自分の手を桶の縁へ近づけた。近くまで寄せただけで、当てはしない。跡のほうが灯の手より広い幅。
キリは切れ目の前に立ったまま灯が下がるのを待っていた。待つ間、袋のひもを一度も直さなかった。
夏に同じところで待たれた覚えは無い。夏はキリのほうが先に歩いて、灯があとから追った。順が入れ替わっていた。
灯は切れ目の板のほうをもう一度見た。板の上の端に、細い線が横に一本入っていた。刃物の跡ではなかった。何かを載せていた跡。
「三つの跡って、いつのが最初」
「知らん。俺が置いたのは一つだけだ」
「跡の高さ、三つとも違うよね」
「指を当てたのか」
「当ててない。見れば分かる」
「じゃあ、あとの二つは、ここを使ってた人の」
「そうだ。俺の前に使ってた奴が、桶を置いてった」
「その人、どこ行ったの」
キリは切れ目の中を見なかった。見ないで、坂の上のほうへ顎を向けた。
「知らん。三つとも俺より前だ」
坂の上のほうから、風が下りてきた。上から下りる風は、四つ角のと向きが違う。灯の髪は前へ寄った。
髪の中を風が通って、耳のところが冷えた。灯は耳へ手をやろうとして、赤いほうの手が先に上がった。手の甲の赤は朝より広くなっていた。
朝は指の付け根のところだけ。今は手首の側まで来ていた。灯は袖を下ろして、その上から押さえた。赤いところだけ熱があった。
キリは坂の上へ二歩歩いた。歩いてから、一度だけ振り返った。
「板の上のは、灯が片付けろ。次の客までに戻しとけ」
「並べ替えるなって言ったのはキリじゃん」
「言った。並べたのも灯だ。片方でいい、置いた順に戻せ」
「両方はできないよ」
「片方でいいと言った。二度は言わん」
灯は坂の途中で足を止めて、板の上のほうを見た。ここからでは十一の並びまでは見えない。灯は目を細めて、板の縁の線だけを追う。板の白いところと、その上の黒いところの差だけが分かった。
キリの背中は切れ目の先の細いところへ入って、そこから見えなくなった。灯は坂の下から二度見た。二度目も、坂の上まで何も見えない。
消える場所は五日前と同じところだった。灯は昨日それを目で覚えた。その場所は今日も動いていなかった。
坂を下りる間、風は背中から来た。上りと下りで、向きが逆だった。速いのは下りる者のほう。
*
四つ角へ戻ると、板の上の十一はそのままになっていた。
風が来ても、動いていたのは布の切れ端だけ。あとの十は置いた位置から一つも動いていなかった。
布の財布は石の上に落ちたままで、口が開いていた。灯はそれを先に拾い上げた。持つと、思ったより厚い布。布は二重で、内側だけ色が別。内側は擦れて、糸の目が見えるところがあった。灯はそこへ指を入れてみた。指の先は糸の目に引っかかる。
擦れているのは口に近いところだけ。中のほうは擦れていなかった。
灯は左から順に、布の財布の中へ戻しはじめた。大きいものから入れると、あとが入らなくなる。灯は途中で気づいて、一度全部出した。
二度目は小さいものから入れた。金物・木の玉・器の破片・布の切れ端・ボタン四つ。
入れる順を変えると、同じ十一が入る。灯はそこで一度手を止めて、財布の口の広さを指で測った。指二本ぶんと少しの幅。夏に測ったものと比べようとして、比べる相手が出てこなかった。
ボタンを四つ手のひらに載せた時に、灯は手を止めた。
四つのうち二つは、大きさが違っていた。大きいほうは穴が四つ、小さいほうは二つ。大きいほうは片方の面だけ色が濃かった。長く同じ向きで置かれていたのだと分かる。
灯はその二つを覚えていた。夏に、この板の上で払った。案内の代だと言われて、手の中の二つを台へ出した。二つとも、キリが指で自分の側へ寄せた。
払った時のことは、払った理由のほうを先に忘れていた。残っているのは並べ方だけ。大きいほうを左、小さいほうを右へ置いて、それから逆にした。どちらでも同じに見えた。
その日、灯は鞄を持っていなかった。手に在ったのは、この二つと青いスコップだけ。スコップのほうは持って帰った。選んだ理由は覚えていた。スコップのほうが大きかった。
いまは鞄。鞄の底には輪が六つと木の玉が一つ。それに布が三つと金物が一つ入っていた。
灯は二つを財布の外へ出した。残りを先に入れて口を閉めようとすると、留め具が掛からない。中身が膨らんでいた。
灯は二つを手のひらに載せたまま坂のほうを見た。坂の下の三分の一までは、ここから見える。人はいなかった。
二つを手のひらの上で並べ直した。大きいほうを左、小さいほうを右へ置く。夏と同じ置き方。置き方だけが手に残っていて、指のほうが先に動いた。
板の上に鉛筆を置いて、灯は札の列を数え直した。七枚のうち二枚は名前が入っていた。あとの五枚はまだ何も書いていなかった。書いていないほうは風で少し動いていて、名前の入った二枚は動いていない。灯は二枚の下へ指を入れて持ち上げた。下の石の粉が、札の形に残っていた。字の重さのせいではない。二枚とも、下に石の粉が溜まっていた。
二枚の名前は灯の字。上の一枚は今朝の二文字で、下の一枚が四文字のほう。四文字のほうは下の三分の一が白いまま残っていた。
灯はその白いところへ指を当てた。字は動かない。指を離すと、当てたところに指の跡が薄く付いた。跡は石の粉。息を掛けると消えた。
書いていない五枚は、四枚が横並びで、一枚だけ縦になっていた。灯は縦の一枚の縁を指で挟んだ。挟んだところに木の粉が付いた。粉は指の腹で丸くなった。
灯は縦の一枚を横へ直した。直すと、五枚の上の穴が一直線に並んだ。
並べ終えてから、灯はその一直線を目でなぞった。端から端まで、切れているところの無い一直線。
坂の下に、袋を担いだ影が出てきた。上ってきたのではなく、下りてきた。
下りてくる速さは、朝に上っていった時より速かった。袋の膨らみは朝と同じに見えた。中身は増えても減ってもいなかった。
「片付けたか。いくつ入れた」
「九つ入れた。二つ残ってる」
「二つで止まる理由は」
「あとで言う」
キリは板の前へ来て、灯の手のひらを見た。それから、財布のほうへ目を移す。
「二つ抜いたな。どれとどれだ」
「これ。夏に、この板の上で払った」
「払ったのか」
「うん」
キリは板の上へ片手を置いた。指は五本とも開いていた。
「払った物は、渡した先の物だ」
灯は二つを手のひらの上で一度返した。返しても、穴の数は変わらなかった。
灯は板の木の目のほうへ目を落とした。目は夏と同じ向きに走っている。
灯は手のひらを一度閉じた。閉じた先で、二つが少しずれた。
「じゃあ、いくら」
「二つで一つだ」
「四つで一つって言ったじゃん」
「四つまとめての値だ。二つ選ぶと一つになる」
「選ばないと、あたしのじゃないやつも来る」
「そうだ。だから選んだぶんが上がる」
灯は鞄の口を開けた。輪は六つ。見えるのは上から二つ目まで。下の四つは重なって、縁だけが揃っていた。
灯は鞄の底から輪を一つ出して、板の上へ置いた。キリはそれを袋の口のほうへ滑らせる。輪は板の目に沿ってまっすぐ進んだ。
灯はボタン二つを鞄の底へ入れた。輪は五つ。ボタンは輪の下へ落ちて、そこで止まった。
鞄の底へ手を入れると、輪と木の玉とボタン二つが指の腹に順に当たる。当たる順は入れた順ではなかった。底の形で決まっていた。
「いつから持ってたの。それ」
「払われた日からだ。十七年になる」
「じゃあ、ずっと入ってた」
「入ってた。重さのぶんにな」
灯はボタン二つを、輪の上へ載せてから底へ落とした。落ちた先で、二つは重ならずに並んだ。
キリは灯の入れた九つを、一度全部出してから入れ直した。入れる順は灯が二度目にやった順と同じ。小さいものが先で、櫛が最後。
櫛を入れる時だけ、キリは指を二本使った。歯の欠けた側を下へ向けて、布の内側へ滑らせる。滑らせる先は、口から一番遠いところだった。
灯はその手つきを見ていた。三度目も、櫛は同じところへ入っていった。
「櫛だけ、いつも一番奥なの」
「一番長い。長いのは奥だ」
「値は一つなのに」
「値と場所は関係ない」
板の上には、まだ書いていない札が五枚。灯はその五枚を、上の穴の高さでもう一度そろえた。そろえてから、鉛筆を筆箱へ戻した。
筆箱の中で、鉛筆は輪ゴムの下に入った。輪ゴムは二本で、片方が伸びきっている。伸びきったほうは、去年の夏から替えていなかった。
戻し終えてから、留め具を掛けようとした。
掛ける時、キリは親指で口を押さえた。そのまま留め具の側を引き寄せる。引き寄せる幅は指一本ぶんに足りない幅。
留め具は掛からなかった。二つぶん減っても掛からない。
キリは口を押さえていた指を離した。離すと、布の口はゆっくり元の広さへ戻る。その広さは、灯が測った指二本ぶんと少しのままだった。
キリは財布を板の端へ寄せた。財布は倒れずに立つ。中身が下のほうへ寄っていた。
「持って帰らないの」
「掛からんものは、上着に入れると落ちる」
「じゃあ、これはどこへ置くの」
「ここへ置いておく」
灯は坂のほうへ目をやった。北の道の切れ目には、桶が一つと板が二枚。ここには財布が一つ。置く場所はキリの通る道ごとに決まっていた。
「明日も出す。明日は三枚は来る」
「三枚なら三つ」
「三つだ。四文字でも三つのままだ」
キリはそう言って、袋を肩へ掛け直した。掛け直す時、袋の底が板の脚へ一度当たった。当たった脚は、土へめり込んでいるほうだった。
灯は鞄の口へ手を掛けた。閉める前に、底の五つと二つを指で確かめる。輪が五つ、ボタンが二つ。数えなくても、指で足りた。
閉めてから、灯は板の右の端へ戻った。今日ずっと立っていたところになる。立つと、板の端は腰より指二本ぶん低い。高さは変わっていなかった。
東の道の霜は、もう残っていなかった。枠の下の轍だけが、来た時のままの形で残っていた。轍の底の水は減って、土の色が二本とも均されていた。
風は東から西へ。向きは今日じゅう変わらなかった。
灯は板の端の財布を、一度だけ指で押した。倒れはしない。押した先に、指の跡は残らなかった。
押した側の布は、口のところだけが薄かった。薄いところは光が通って、内側の色が外から見えた。
中の十一は、灯が入れた順のまま入っている。
灯は財布の口の縁を、指の腹で一度だけならした。ならした先で、縁の折れが少しだけ立ち直った。
財布は板の上で、口の開いた形のまま止まっていた。




