第034話 二度降る
十二月十四日の夕方、空の色が東の道の上から抜けはじめた。
灯は四つ角の真ん中に立って、それを見上げた。抜けるのは色だけで、雲は動いていなかった。雲の縁が薄くなって、その先が白へ寄っていった。夏に見た時も同じ順。
キリは台の板を外していた。外した板を壁へ立てかけて、脚を四本とも横へ倒していた。倒す速さが、いつもより速かった。
台の上に何も載っていなかった。夕立の日は名前を書かない。書いても、書いた札を持って帰る前に上から何か来る。灯はそれを四日前にキリから聞いていた。
「畳むの。まだ日があるけど」
「夕立だ。台を出しとくと、上から来たやつで板が割れる」
灯は板の立てかけてある壁を見た。壁の下の跡は四日前と同じ場所に四つ並んでいた。今日はその横に五つ目が付いている。
「割れたことあるの」
「二度ある。板は三枚目だ。一枚目は三年前で、二枚目は去年だ」
灯はその数を口の中で置いた。三年前。二日前に聞いた四年とは、そろわない。
そろわない数を、灯は今日は数え直さなかった。
灯は倒した脚のうち、一番短い一本を持ち上げた。持ってみると軽い。木の中が乾いているからだと灯は思った。
脚の断面には輪が出ていた。数えられる細さではない。四日前に数えようとしてやめた輪と、同じ一本。
脚を壁のところまで運んで、板の横へ寄せた。寄せた先で、キリが上に袋を載せた。袋の重さで、板は少しも動かなかった。
四つ角の四つの道のうち、南は坂の上へ向かっていた。あとの三本は平らか、下っている。夕立の日は下る二本のほうが先に人で埋まった。物は低いところへ集まるからだと、灯は夏に一度そう決めていた。決めてから、確かめてはいない。
風は東の道から来ていた。来た風は四つ角の真ん中でぶつかって、上へ抜けていった。抜けたぶんだけ、灯の髪の右の側が持ち上がった。
空の色は東からしか抜けない。西の側はまだ濃く残っていた。濃いところと薄いところの境が、屋根の高さのあたりで一本の線になっていた。線は動いていなかった。
灯は首を後ろへ倒して、その線の下を端から端まで見た。端まで行くのに、二十を数える。
「何が降るの。今日は」
「知らん。降ってみないと分からん」
「前は何だったの」
「前は紙が多かった。その前は金物だ。続けて同じものは来ん」
「じゃあ今日は」
「布か木だ。三回に二回は布だ」
「当たったことあるの」
「四回に三回は当たる。外れた一回は雪が降った」
「雪って、降るの」
「降る。落とし物の雪だ。手のひらで消える」
灯は聞き返さなかった。キリは消えるとは言わなかった。
キリは袋の口のひもを締めた。腰のところで結び目を作っていた。結び目は上へ来た。上へ来ると、走る時に膝へ当たらずにすむ。
袋は夏に見た時より、縫い直したところが増えていた。縫い目の糸は三色で、色の違う三本が同じ袋の上に並んでいた。一番新しいのがどれかは、糸の毛羽で分かる。
灯はその一番新しい糸を、目で追った。先は袋の底のほうへ回って、そこで見えなくなっていた。
鞄のひもの下で、トトが揺れていた。揺れ方は風のぶんだけ遅れる。
朝から、トトはそこにいた。丘から連れて出たのは灯で、連れて出た理由は自分でも作れずにいた。
「おねえさん、これから降るよね。僕、分かるんだ」
「何が重くなるの」
「僕の布だよ。降る前に一回だけ重くなるんだ。ねえ、便利だと思わない」
「重くなってから、どのくらいで降るの」
「そこまでは分からないんだ。重くなるのは分かるけど、いつかは分からないよ」
灯はトトを鞄のひもから外した。手のひらの上に平らに置いた。
「ぬれると二日乾かないんでしょ」
「二日だよ。よく覚えてるね。でも大丈夫。僕は端のほうから乾くから、真ん中さえぬれなきゃいいんだ」
「真ん中って、どこ」
「どこだろう。この辺かな。それとも、もう少し上かもしれないよ。前は分かってた気がするんだ」
灯は鞄の口を開けて、トトを中へ入れた。場所は輪の側ではなく筆箱の反対の側。
「真ん中が分からないと、どこを守ればいいか分かんないじゃん」
「そうだね。だから全部守るんだ。三百年、端から順に守ってるよ。順番は毎日変えてる」
「入っとく。ぬれるより」
「入ってていいの。じゃあ入るよ。僕は暗いのは平気なんだ」
鞄の口を、灯は上まで閉めなかった。指一本ぶん開けて、そこで止めた。
東の道の先で、人が二人こちらへ走ってきた。走りながら上を見ている。見上げたまま走るので、足元の石を二度踏み外した。
二人とも布の袋を持っていた。袋の口は開けたままで、片方は肩へ掛け、もう片方は腰の前で抱えていた。抱えているほうが速かった。
四つ角の店の三つは、戸を半分だけ閉めていた。半分だけ閉めると、中の者が外を見たまま手を伸ばせた。上に何か当たっても、戸の板が受け止める。
一番北の店の軒の下に、木の桶が三つ伏せて置いてあった。伏せた底に、前の夕立の跡がまだ残っていた。跡は丸く、縁だけが黒く残っていた。
キリは走らなかった。壁のところで袋のひもを確かめて、それから四つ角の真ん中の石を見た。
北の道の坂の上から、荷車が一台下りてきた。荷は空。下りきったところで向きを変えて、そのまま西の道へ入っていった。荷は夕立の前に上へ戻る。
押していたのは大人が一人で、下を向いていなかった。上も見ずに通り過ぎた。前だけを見て、四つ角を通り抜けた。
「そこ、どく」
灯は一歩よけた。よけた先の石はまわりより色が薄かった。四角く区切ってあって、その中だけ黒く汚れていた。
拾い場だ。同じ石の上で、灯は同じことを言われている。言ったのは台の後ろの男の子で、いまは二歩ぶん左に立っていた。背の高さだけが違っていた。
あの日、灯は縁の外に立って、青いスコップを一つだけ拾った。今日は袋を持ってきていない。持っているのは鞄で、口は指一本ぶん開けてあった。
「今日はどこで拾うの」
道の石の色が、四つ角の真ん中から順に濃くなっていく。濃くなる速さは、灯が数えて七つぶん。数え終わると、真ん中が一番濃かった。
「拾い場だ。石の内側がいちばん落ちる」
「外じゃ拾えないの」
「拾える。拾った物は拾った奴のものだ。だが外は三つに一つも来ん」
人はまだ増えていた。北の道からも来ていた。来た者は拾い場の外側に立って、四角い石の縁に爪先を並べた。その先を、誰も越えずにいた。
縁の内側に立っているのは、キリを入れて四人。四人とも袋を持っていて、四人とも上を見ていなかった。見ているのは足元の石で、目の高さは同じところに止まっていた。
灯は四人の立ち方を見比べた。膝の曲げ方が四人とも同じで、片足だけを半歩前へ出していた。前へ出しているのは、四人とも右。
四人の袋は口の開き方が違っていた。キリのは指の三本ぶん。隣の者のは大きく開いていて、その隣は半分だけ開いていた。一番端の子供のは、口を折り返して外側へ広げてあった。
広げてあると入れるのは速かった。速いかわりに、走ると出てしまう。
灯も右足を半歩出した。出してから、鞄の持ち手を握り直した。持ち手のへこみは、いつもの場所にあった。
灯は縁の内側へ入って、キリの二歩ぶん右に立った。
石の縁の内側は外より少しへこんでいた。長い間、人が立って、物が落ちてきたぶんだけ下がったことになる。へこみの深さは灯の靴の底ほども無い。灯はそこへ靴の先を入れてみた。
灯は靴の先で、その縁をなぞった。縁の石だけ角が丸くなっていて、内側の石は角が残っていた。踏まれる場所と、当たる場所が違う。
立ったところで、上を見た。
雲の白いところが、一度だけ厚くなった。
*
最初に落ちてきたのは、小さいもの。
落ちてくる前に、上の音が変わった。屋根と屋根の間を抜けていた風の音が、一度だけ低いところへ下りた。下がりきったところで止まって、そこから何も聞こえなくなった。
聞こえなくなったのは、灯の耳が上のほうへ向いたからかもしれない。
灯の三歩ぶん先の石で、何かが一度跳ねた。跳ねてから横へ転がって、拾い場の縁のところで止まった。誰も動いていなかった。
二つ目が落ちた。三つ目は屋根に当たって、そこから道へ落ちた。
屋根に当たったものは、必ず一度跳ねてから来ていた。跳ねると向きが変わって、落ちる場所が読めなくなる。灯は屋根の側を見るのをやめて、真上だけを見た。
そこから先は数えられなかった。
空の低いところが物でいっぱいになって、落ちてくる速さが上と下で違う。上のほうはゆっくり見えた。下へ来るほど速く見えた。灯は目を上げたままにした。上げたままにしていると、どれが自分の前へ来るかが早く分かった。
水は混じらない。
匂いは布が先に立った。布の下に、乾いた木と、その下に金物。三つとも上から下りてきた匂いで、四つ角の石の匂いとは別に来た。
肩に一つ当たった。当たりは痛くない。落ちたのは布で、膝の横へ滑り落ちた。
灯はしゃがんで、それを拾った。細長い布で、端が縫ってある。縫い目は粗かった。中は空。
次に来たのは金物になる。指の長さほどの、平たい金物。真ん中に穴が二つ開いていた。灯は拾って、鞄の外の物入れへ入れた。
金物は冷たかった。上から来たものは、来る前のところの温度をそのまま持ってきた。
落ちてくるものは、大きさが決まっていない。灯の手のひらに乗るものと、両手でも抱えられないものが、同じ空から同じ速さで来ていた。大きいほうは拾い場の外へ落ちた。外へ落ちるのは外のほうが広いからだと灯は思った。
石の上に、櫛が一つ落ちた。歯が三本欠けていた。欠けた場所は端ではなく真ん中で、そこだけ間が空いていた。
その横に、子供の靴が片方。左。
その先に紙の束が一つ落ちていた。ひもで縛ってあって、結び目は固い。落ちても解けなかった。
どれも、誰かが持っていたものだ。
灯はそこまで考えて、手を止めなかった。止めると数が減っていく。
拾い場の中で、四人が同時に動いていた。動き方は四人とも違っていた。キリは膝を落とさずに、腰から先だけを折って拾った。折る回数が少ない。一度折って、二つか三つをまとめて取る。
灯は一度に一つしか取れなかった。取ってから、次を見ていた。見てから、また目を落とした。
二人目は膝を石に付けていた。付けたまま腕だけを前と横へ動かしていた。動く範囲は狭いが、拾い落としが無い。
三人目は立ったまま。落ちてくるものを上で受けて、そのまま袋へ入れていた。受け損ねたものは、石に当たってから拾い直す。
四人目は灯より小さい子供で、両手のほかに口も使っていた。ひもの付いたものを口でくわえて、両手を空ける。
四人とも、拾い場の縁を一度も越えずにいた。越えると落ちてくる数が減る。
縁の外に、灯と同じくらいの背の者が立っていた。手ぶらで、袋を提げていなかった。落ちてくるものを見ているだけで、手は動かさなかった。
その者の足元へ、木の器が一つ落ちた。縁が欠けていた。欠けた断面は白い。
拾わなかった。縁の外だから拾えるはずなのに、手は動かなかった。灯は目を戻した。戻す前に、その者の靴の先が縁から指一本ぶん内側に入っているのが見えた。
拾い場の石の色が、拾ったぶんだけ変わっていった。落ちてくるものが石の粉を巻き上げて、その粉が薄く積もる。踏んだところに、靴の底の跡が残った。
「両手だ」
キリの声が左から来た。灯は左手で鞄の持ち手を握ったままでいた。
「持ってるから。置くとこない」
「置け。石の上なら踏まれん」
灯は鞄を足の間へ置いた。それから、両手を出した。両手にすると、拾える数が変わる。変わるのは数だけで、選び方は変わらずにいた。
三度目にしゃがんだ時、木の札が落ちてきた。
札は灯の靴の先に当たって、そこで止まった。木の色は白くない。日に焼けた色で、縁が一か所だけ丸くなっていた。
灯はそれを拾った。
上の穴にひもは無い。切ったのではなく、抜けていた。穴の縁から下へ、細い黒の跡が伸びる。
表に字が二つ入っていた。
二つとも、下の線が太かった。
灯は札を持ったまま手を止めた。上からはまだ落ちてきていた。落ちてくるものが二つ、灯の肩と腕に当たって、そこから下へ行った。灯は拾わなかった。
字は灯のもの。木の目が横に走っているところへ書くと、灯は下の線を太くする。夏に一度、そう決めた。決めたのは灯で、教わってはいなかった。
二つの字を、灯は口の中で読んだ。読んでから、そのまま置く。四つ角で書いた札は、書いた相手が持って帰っていた。持って帰ったものが、空から落ちてくる筋はどこにも無かった。
鞄の底に、青い表紙のノートが入っていた。紙の下の段に、十二月に入ってから書いた名が四つ。四つのうちの一つが、いま手の中に来ていた。
灯はノートを出さなかった。出すには両手がふさがっていた。
「灯」
キリの声がまた左から来た。
「手が止まってる。止まってるあいだも降ってる」
灯は札を鞄の中へ入れた。置く場所はトトの上ではなく横。それから、また両手を出した。
両手を出しても、次の一つは取れなかった。手が遅れたぶん、物は石に当たって縁の外へ転がる。
外へ出たものは外の者のもの。灯は転がった先を見ずにいた。
落ちてくるものは、高いところでは一つずつ離れていた。近くまで来ると、離れていたものが重なって見える。
灯は落ちてくる先を目で決めてから、そこへ手を置いておくようにした。置いておくほうが、追いかけるより速かった。
三つに一つは手の外へ落ちた。落ちた先で跳ねて、跳ねた先はもう他の者の足元だった。
キリは決めずに拾っていた。落ちてくる場所を見ずに、石の上へ落ちたものだけを取っている。取る速さは灯の倍で、取る数も倍になる。
灯は自分の決め方を変えなかった。変えると、二つとも取れなくなる。
夕立の音は屋根に当たる音と石に当たる音で高さが違う。屋根のほうが低く残った。石のほうは短くて、二度目が来ずに切れた。
鞄の口から、トトの声がした。
「おねえさん、いま何が落ちてる?」
「布と金物。あと木」
「布か。布はいいね。布は仲間だから。ねえ、どんな布か教えてよ」
灯は次の一つを取った。手に来たのは布で、細かった。トトの半分の幅も無い。
「布が落ちてきた」
「僕くらいの?」
「もっと細い。ひもくらい」
「じゃあ違うね。細いのはひもだよ。僕の幅なら、指を四本そろえたぶんあるんだ」
鞄の口の隙間から、指の部分が一本だけ出て、また引っ込んだ。
両手を上げたままでいると、肘から先が重くなった。正座を崩したあとのしびれに似ている。
灯は音のほうを聞かずに、上を見ていた。上を見ていると、首の後ろが引っ張られていた。
拾えた数を、灯は途中から数えていなかった。数えるのをやめたのは、数えると手が遅くなるから。
やめてから、灯は落ちてくるものの向きを見るようになった。同じ向きで落ちるものと、回りながら落ちるものがある。回るほうが軽く落ちた。軽いほうが、当たっても痛くない。
肩に三つ目が当たった。そのまま背中のほうへ落ちる。灯は振り返らずに前のものを取った。
夕立の終わりは始まりより急。
上の物が薄くなって、それから無くなった。無くなってから、遅れて落ちてきたものが四つか五つ。最後の一つは灯の一歩ぶん前の石に当たった。
当たって、一度だけ高く跳ねた。落ちたところで、字のあるほうが上を向いて止まった。
木の札。
灯はそれを手に取った。それから、鞄の中の一枚を出した。
出す前に、指が中で一度トトに触れた。布は乾いている。
二枚を並べて、手のひらの上に置いた。
手のひらの上で、二枚は同じ重さに感じた。片方を持ち上げて、もう片方を下ろしてみた。持ち上げるほうを替えても、同じ。
灯は右の一枚を裏返した。裏は白かった。左の一枚も裏返した。そちらも白い。木の目の走る向きまでそろっていた。
木の色も厚みも変わらない。上の穴の位置がそろっていて、穴の縁から下へ伸びた黒の跡も、長さと濃さが変わらない。
字は二つ。二枚とも同じ字で、下の線はどちらも太かった。
灯は縁の丸くなったところを見た。二枚とも、同じ場所が丸くなっていた。丸みの深さも、指を当てて比べると差が出なかった。
丸くなるのは釘に掛けて風で当たり続けた側。二枚とも、丸いのは同じ側だった。
灯は二枚を重ねた。縁は一分の隙間も無く合った。
*
拾い場の外の人が、中へ入ってきた。
入る前に、外の者は縁の石を靴の先で押す。四人とも同じになる。
入ってきた者はまず自分の袋を石の上へ下ろした。それから、中のものを道の端へ並べはじめる。並べる場所は決まっていて、左が大きいもの、右が小さいものだった。真ん中は空けてあった。
道の端は拾い場より一段高くなっていた。並べる者はそこへ膝を付けて、袋の中身を一つずつ石の上へ出した。傾けると割れるものが混じっていた。
灯は自分の拾ったものを数えた。布が三つ、金物が二つ、木のものが一つ。六つと、札が二枚。
六つのほうを、灯は道の端へ並べた。順は左から大きいもので、まわりを見て合わせた。そろうまでに、二度の置き直しが要った。
一度目は木のものを一番左に置いた。木か布かは関係が無く、大きさだけで並ぶ。
置き直す間、隣の者は待たなかった。自分の並びを終えて、真ん中の空いたところを見ている。
札の二枚は鞄の中に入れたままにした。
真ん中の石はまわりより白かった。物が置かれては取られるので、粉が積もらずにいた。
「出さんのか」
キリが横に立っていた。袋の口はもう締めてあった。締めた袋の膨らみは、灯の並べた六つより大きい。
「出さない。これは置いとく」
「出さんなら値は付かん」
「付かなくていい」
キリは灯の並べた六つを見て、指を二本立てた。
「布の一つは値が付く。縫い目が内側だ。あとの五つは、拾い場の外でも取れる」
「一つだけなの。六つあるのに」
「一つだけだ。三つ並べても、一つぶんにしかならん」
値の付くと言われた布の一つを、灯は取り上げた。縫い目を裏返してみると、確かに内側で止めてあった。外から見て分からない縫い方をした者が、この布のどこかにいる。
真ん中の空けたところへ、別の人が自分のものを置いた。灯の並べたほうを見て、一つを指す。指差されたのは値の付く布ではないほう。
灯はうなずいた。相手は自分の並べたものの中から一つを取って、真ん中へ置いた。木の輪ではない。小さい木の玉で、表に線が二本入っていた。
玉を受け取って、二本の線を指の腹でなぞる。線は交わらずに同じ向きで並んでいた。
二日前に、メノの台の布の上で同じ線を見ていた。
顔を上げた。相手はもう別のほうを向いていて、灯のほうを見ていなかった。向いた先には、まだ並べたままの布が四つ残っていた。
二度目は灯より頭一つ高い者。並べたものは金物ばかりで、六つとも同じ形。
その者は灯の並べた木のものを指した。指す指は人差し指ではなく、中指。
受け取ったのは金物ではなく、白い紙だった。四つに折ってあって、開くと中は白いままで、折り目だけが四本、同じ深さで入っていた。
灯はその紙を、鞄の底のノートへ挟んだ。挟んだ場所は名を書いた紙の裏ではなく、表紙のすぐ内側だった。二枚は厚みが違う。
三度目は灯より小さい子供だった。さっき口を使って拾っていた者だ。
子供は灯の並べた金物を指して、自分の布の中で一番大きい一つを真ん中へ置いた。
灯は金物を渡した。それから、置かれた布の大きさをもう一度見た。合っていない。
合っていないと言おうとして、灯は口を開けた。そのまま閉じる。子供はもう自分の並びのほうへ戻っていた。
三度とも、渡したものと受け取ったものの大きさは合っていない。合っていないことを、誰も口に出さなかった。
石の上に残ったのは、値の付くと言われた布と、渡さなかった布が一つ、それに金物が一つ。
道の端の並びは端から順に消えていった。消えるのは早い者から。
灯の並びも残った。石の上へ手を伸ばすのは、いつも三度目になる。
残ったうちの一つを、キリの袋の前へ置いた。
「いくら」
「輪で一つだ。今日は金が出ん」
キリの袋の口は締めたところが二重に折ってあった。二重にすると、走っても中身が出ない。
「なんで出ないの」
「夕立の日は、みんなが同じ日に同じだけ持つ。持ってる日に売る奴はいない」
「じゃあ、いつ売るの」
「三日たってからだ。三日で割れる」
「じゃあ」
「明日、台へ持ってこい。明日なら出る」
キリは布を取らなかった。取らないで、灯の鞄のほうへ顎を向けた。
「二枚のほうは、どうする」
灯は鞄の口を開けた。中から二枚を出した。手のひらの上に並べると、外の光では木の色の差がもっと小さく見える。
キリは二枚を見た。それから、片方を指の先で裏返した。裏は何も書いていなかった。もう片方も裏返した。そちらも白い。
「二度降ったな」
「二度降るの。同じ物が」
「降る。年に何度かある」
「同じものが、二回」
「同じものだ」
「どっちが先なの」
「先も後も無い。二枚とも降った」
「二枚とも本当なの」
「本当だ。俺の勘定では二枚だ」
「じゃあ、どっちがほんとの」
キリは答えなかった。答えないで、袋を肩へ掛け直した。
キリは二枚を灯の手のひらへ戻した。戻す時、指は札の面に触れなかった。触ると値が落ちる。
「二度降ったやつは、二枚あるから半分だ」
灯は二枚を手のひらの上に置いたままでいた。
その間に、袋の底がキリの膝へ一度だけ触れた。音は布と布で、遠くまでは行かない。手のひらの上の二枚は動かなかった。下の石は乾いていた。
「半分って、いくつ」
「一枚ぶんだ」
灯は二枚を鞄へ戻した。戻す時、片方を先に入れた。先に入れたのがどちらだったかを、灯は入れてすぐに忘れた。
キリは北の道のほうへ二歩歩いて、そこで止まった。止まった先で、袋のひもを巻き直す。巻き直す回数はいつも一度。
「明日は台を出す」
「行く」
「来い。二枚のほうは持ってくるな」
「なんで」
キリは答えを置かずに、北の道へ入っていった。坂の途中の、右側の壁が切れているところで背中が消えた。消える場所は四日前と同じになる。灯はそこを二度見た。二度目には坂の上まで何もいなかった。
道の端で、人が自分の並べたものをまとめはじめた。まとめる音は低い。布と布が重なる音で、石には当たらなかった。
空はもう抜けきっていた。抜けた先の色は夏の夕立のあとより薄かった。
道の石の上に、拾われなかったものがまだ残っていた。大きいものばかりで、脚の折れた棚が一つ、道の真ん中に立っていた。人はその横を避けて通る。避け方が慣れていた。
夏にも同じものを見ていて、あの時は机だった。動かす者は今日もいない。
灯は棚の前で足を止めた。板に手を置く。天板は乾いていて、押すと少し動いた。
字は無かった。彫った跡も残っていない。
拾い場の石の上に、灯の並べた跡だけが残った。跡は六つぶんで、大きさの順に並んでいた。並べ替えた二度目の跡は、一度目の上に重なって消えていた。
灯は首の後ろへ手を当てた。引っ張られるところが、まだ痛い。上を見すぎたからだと灯は思った。
思ってから、手を下ろした。しばらくすると、痛みは強くなった。上を見ていない時のほうが強く来た。
人の数は来た時より速く減った。北と東の坂を上る者が一番多い。
鞄の口から、トトの指の部分が一本だけ出ていた。
「おねえさん、終わった?」
「終わった。もう降らない」
「僕、何も降ってこなかったよ。中にいたからね。ねえ、中にいると降らないんだよ」
「降ってても分かんないよ」
「分かるよ。当たったら分かるからね。当たらなかったんだ」
灯はトトを鞄の口から少し引き出した。布は乾いていた。指の部分は五本とも、朝と同じ長さ。
トトを戻して、鞄の口を閉めた。
板の台の前を通る時、灯はもう一度その口を開ける。
トトを出して、板の下の風の入らないところへ入れる。そこの土は乾いていた。
「ここで待ってて」
「待つよ。僕は待つのは下手じゃないからね。ねえ、何日待てばいい」
灯は答えを作らなかった。作らずに、板の下をのぞく。指の部分は一本も出ていない。
帰りの道は来た時より人が多かった。遅れて来た者は上を見ずに歩いていた。
灯は南の道の右を歩いた。決めたのは去年の夏で、行きは右、帰りは左になる。今日は帰りも右のままだった。
道の途中の壁の下に、拾われなかったものが二つ残っていた。大きい木の枠と、布の塊になる。
灯はその布の横を通った。過ぎてから、一度だけ振り返る。
坂の途中で、灯は左へ寄った。左を歩くと、壁の側が近くなる。壁は下から三分の一の高さまで湿っていて、乾いたところとの境は横一線で切れていた。
扉の前で、灯は鞄の口を開けた。
輪が四つ。木の玉が一つ。布が三つに、金物が一つ。白い紙が一枚。
札が二枚。
鞄の中で、二枚は重ならずに立っていた。筆箱の横に挟まったからで、向きは二枚とも同じ。
灯は二枚を出して、扉の横の光の下で並べた。
一枚に、二つの字が残っていた。下の線は太いままだ。
もう一方の札には、何も書いていなかった。




