第033話 一分
台所の時計は七時五十一分だった。
灯は流しの前に立って、その針をしばらく見ていた。長い針は一度も動かない。動く時にも音は出なかった。前の家の時計は動く度に小さく鳴っていた。この家のは鳴らない。
冷蔵庫の上に炊飯器があって、蓋の内側から湯気が細く出ていた。出た湯気は棚の下の板に当たって、そこで横へ広がる。板の裏の一列だけ、木の色が濃くなっていた。毎朝そこへ当たっているからだ。
匂いは出汁が先に来た。出汁の下に、焼いた海苔。二つとも昨日と同じ順で来て、濃さも同じだった。窓を閉めたままの台所は、匂いが上のほうへたまる。
灯は居間へ行った。居間の時計は柱に掛かっていた。針は七時五十一分を指していた。台所と同じ。
自分の腕の時計を見た。七時五十一分。
三つとも合っていた。合っていることを、灯は昨日から確かめている。
昨日、四つ角でキリが「四年で十だ」と言った。三日前に聞いたのは「三年で九だ」だった。二日の間に、一年ぶんが増えている。灯はその数を寝る前に紙へ書いて、書いてから消した。消してもへこみは残る。
ちゃぶ台の上に、椀と皿が一つずつ。椀のほうには蓋がしてあった。灯は座って蓋を取った。中の汁は熱くない。湯気は出ずに、表の油だけが丸く固まりかけていた。
置かれてから時間が経っていた。灯は椀を両手で持って、そのまま飲んだ。喉の途中までは温かさが残っていて、そこから下は冷たかった。
皿には焼いた海苔が四枚。四枚とも同じ向きにそろえてあった。灯は上の一枚を取って、二つに折ってから口へ入れた。折ると、割れる場所が真ん中にならない。海苔は端のほうから欠ける。
食べ終えて、椀を流しへ持っていった。
棚の上の皿に、四日前の菓子が半分だけ残っていた。指の跡の二つは、押した形のまま固まっている。
台所へ戻ると、祖母が流しの前に立っていた。
いつから立っていたのかは分からない。灯は水の音を聞いていない。祖母は湯呑を一つ洗っていて、洗い終えてから伏せた。伏せる場所は棚の右の端で、そこだけ布が敷いてあった。
「傘は、持ったかい」
「持つ。折りたたみじゃなくて、こっち」
祖母は玄関のほうへ歩いた。歩き方は遅くなかった。廊下の板の三枚目のところで、片方の足だけが少し音を出す。その板は去年の夏から同じ音を出していた。
灯は台所に残って、湯呑の伏せてある布を見た。布には輪の跡が四つ。三つは濃くて、一つだけ薄かった。
薄い一つは、いつも一番端に伏せる湯呑の跡だった。その湯呑を使うのは母で、母は夜に帰って朝に寝ていた。
灯は流しの縁に手を掛けた。ステンレスは冷たい。指を離しても、離した形の曇りがしばらく残った。曇りは端から消えて、真ん中が最後まで残る。
鞄を取りに部屋へ戻った。廊下は台所より三度ほど冷たい。息は白くならないが、鼻の中が乾く。
部屋の窓の下の桟に、木の輪を四つ並べてあった。夜の間だけ鞄から出して、朝また戻す。並べる順は大きさで、一番小さいのが右の端に来る。右の端のものは、縁の一か所が平らに潰れていた。
灯は四つを順に指で押した。どれも音を出さない。木は乾いていた。
四つを片手ですくって、鞄の底へ入れた。底で四つが集まる音は、布の外まで出てこない。
机の上に四つ折りの紙が出したままになっていた。昨日、レポから帰って開いて、そのまま閉じずに置いた。
灯はその紙を光のほうへ向けた。窓の外はまだ暗かった。台の上の電気を点けて、その下で見た。
上の段の六つのうち、二つは字ではなくへこみになっていた。五日前に数えた時と同じ二つ。
三つ目の字が、木の色ではなく紙の色に近くなっていた。
灯は指の腹をそこへ当てた。紙の面が下へ少し沈む。沈むのは、字を書いた時に鉛筆が紙を押したからだ。押した跡は残っていて、押した黒だけが無かった。
三つ目のへこみを、灯は数に入れなかった。まだ読める。読めるうちは字のうちに入る。
紙の下の段には、十二月に入ってから書いた名が並んでいた。数えると九つ。上の六つと合わせて十五。昨日の三文字が一番下の左の端にあって、そこだけ黒が濃かった。
灯は上の段と下の段を見比べた。上のほうが薄い。薄さの順は、書いた順とそろっていなかった。三番目に書いたものが一番薄くて、二番目に書いたものはまだ黒い色をしている。
灯は下敷きを紙の裏へ当てて、上の段の字をもう一度見た。下敷きを当てると紙の面が平らになって、へこみの底の影が、はっきり出る。影は三つ。読める字の下にも、同じ深さの影があった。
紙をたたんで、鞄の内側の物入れへ入れた。折り目の角が底へ引っかかったので、一度戻して入れ直した。
玄関で、祖母が傘立ての前に立っていた。
傘立ては金物で、下のほうが錆びていた。錆びたところは触ると粉が付く。灯の傘は右から二本目。柄は木で、輪になったところが握るぶんだけ色が濃かった。
祖母はその柄に手を掛けた。掛けたまま、動かさずにいた。
毎朝そうする。理由を灯は一度も聞いていない。
今朝は、手を離すまでが長かった。灯は靴を履きながら数えた。四つ数える間、祖母の手は動かなかった。いつもは二つで離れる。
「ばあちゃん」
祖母は振り向かなかった。手だけが、柄の上で止まる。
「今日は」
灯は口の中で先を作りかけた。作りかけて、そこで止めた。止めてから、靴のかかとを指で入れ直した。
「今日は寒いね」
祖母は傘の柄から手を離した。離した手を、祖母は体の前で組む。
「時計は見てるかい」
「見てる。学校でも見る」
「合ってたかい」
「合ってた」
祖母はうなずかなかった。傘立ての一番左の傘を指の先で押した。押すと、傘は隣へ倒れかけて、それから戻る。
祖母は組んだ手をほどいた。ほどいた右手を、傘立ての縁へ置いた。縁の錆びた粉が指の腹に付いて、祖母はそれを袖の内側で拭った。拭った跡は袖に残らなかった。
灯は玄関の戸を開けた。外の空気が下のほうから入ってくる。足首から先が先に冷えた。
戸の桟に、去年の秋に付いた傷が一本残っていた。母が荷を入れる時に当てた傷で、そのままにしてあった。傷の底は木の色が明るく、まわりだけが暗い。
灯はその傷を靴の先で一度なぞった。なぞってから、戸を大きく開ける。
「行ってきます」
返事は来なかった。祖母は玄関の中の電気を消した。消した先で、灯の後ろの土間だけが暗くなった。
母の部屋の襖は閉まっている。夜勤明けで、朝は寝ている。襖の下の隙間から明かりは出ていなかった。灯は廊下を、板の三枚目を踏まずに通った。
外に出ると、道の白いところが端から縮んでいた。霜は道の真ん中に残り、両側の家の影の側だけが濃い。灯はその濃いところを踏んで歩いた。踏むと、靴の底で小さく崩れる。
崩れた跡は、二歩ぶん後ろまで見えた。三歩目からは、風で白い粉が寄って埋まる。灯は一度だけ振り返って、その埋まり方を見た。
角の家の門の内側で、犬が首を上げた。首を上げただけで、鳴かない。灯が通る時に、この犬は去年の夏から一度も鳴いていない。
道の左の家の窓に、洗濯物のはさみが並べて干してある。はさみだけで、洗濯物は無かった。並びは端から一つずつ空いていて、空いたところの向きだけが違っていた。
角の家の前に、自転車が二台停めてあった。二台とも前の輪に錠が掛かっていて、片方は籠の中に新聞が一部入っていた。新聞は昨日から入ったままになっていた。灯は四日前にも同じところで同じものを見ている。
その先の工事の囲いは、板が一枚だけ内側へ倒れていた。倒れた板の下に、青いひもが一本落ちていた。ひもは端が土に埋まっていて、引いても抜けそうになかった。灯は引かなかった。
公園の前を通ると、水飲み場の栓から水が細く垂れていた。垂れた先の受けの底が、そこだけ緑になっていた。冬でも緑のところは色が落ちない。
魚屋の前は、朝のうちだけ水で流してあった。流した水は道の端の溝へ行って、そこから先は見えなくなる。灯はぬれていないところを選んで歩いた。選んで歩くと、歩幅がそろわない。
橋の手前で、灯は歩数を数え直そうとして、途中でやめた。八百まで数えるには、駅までの残りが足りない。
道の途中で、灯はもう一度腕の時計を見た。八時五分。
家の時計と合っていた腕の時計を、灯は今日は信じることにした。信じることにしたのは、三つとも合っていたからだ。
角を曲がると、駅の建物の上の四角い時計が見えた。
まだ遠い。針の位置は分かるが、分の目盛りまでは読めなかった。灯は歩く速さを変えずに、そこまで近づいた。
*
四角い時計の数は、八時六分だった。
灯は改札の前で足を止めずに、腕の時計をもう一度見た。八時五分。
二つを見比べた。長い針の位置が、目盛り一つぶん違っていた。
灯は腕を上げて、駅の時計の下へ並べるようにした。並べても、二つの針が同じ場所に来ることはない。目盛り一つは、腕の時計では二ミリほどの幅だった。駅の時計では手のひらほどあった。同じ一分でも、大きさが違っていた。
改札の外の柱に、もう一つ時計が掛かっていた。そちらは八時六分。
二つとも同じ時刻。腕の時計より、目盛り一つぶん先にいた。
灯は鞄を持ち直した。持ち直してから、駅の建物の中を見た。改札を通る人は、誰も時計を見上げていなかった。見上げずに切符を出して、そのまま奥へ入っていく。
改札の横の階段は下へ続いていた。下りた先に遺失物センターの窓口がある。今は開いていなかった。開くのは九時からで、灯はその紙を夏に一度読んでいた。
匂いは金物が先に来た。改札の機械の金物と、切符の紙。二つとも駅の中だけの匂いで、階段を下りると変わる。
灯は階段のほうへ二歩だけ寄って、それから戻った。
学校は駅の向こう側にある。灯は駅の建物を回って、線路の下の通路をくぐった。通路の中は音が低く残る。自分の靴の音が、前と後ろの両方から来た。
通路の壁の下のほうに、貼り紙が一枚残っていた。日付は去年の秋。角は三つとも剥がれていて、残った一つだけが壁に付いていた。
通路を出たところに、時計は無い。
中学校の門を入ると、右の壁に時計が掛かっていた。八時十四分。灯の腕は八時十三分。
灯は門のところで止まった。そこから、壁の時計をもう一度見た。
学校のも一分進んでいた。
門から教室までは七分だった。教室の時計は前の黒板の上にある。灯は席に着いてから、腕と黒板の上を交互に見た。八時二十一分と八時二十一分。教室のは合っていた。
灯はノートの端に四つ書いた。家。駅。学校の門。教室。書いてから、駅と門のところに丸を付けた。
丸は二つ。丸の付いていないのが二つ。
書いた場所はノートの右の端で、線の外へはみ出した。はみ出したところは紙が少し波を打っていた。昨日、鞄の中で水筒の下になっていた。
灯は鉛筆の先を見た。朝に削ったところが、もう平らになりかけている。木の目へ入る書き方をすると、芯は速く減った。
「何それ」
みずきが横から見ていた。上着を着たままで、机の上に鞄を置いていた。
「時計」
「時計の何」
「合ってるのと、合ってないのがある」
みずきは灯のノートを見た。見てから、自分の腕へ目を移す。みずきの時計は文字の板が四角かった。板の縁に細かい傷が三本入っていて、三本とも同じ向きに走っていた。
「あたしの、八時二十二分」
「一分進んでる。駅のと同じ」
「進んでるのかな。遅れてるほうかもしれないじゃん」
みずきの語尾は上がらない。教室の後ろで、別のところから上がる声が二つ聞こえた。みずきはそちらを見なかった。
灯は椅子に座り直した。背中の、肩の骨の下のあたりが痛い。
昨日、給食のかごを一人で運んだ。そのせいだと灯は決めた。
運んだのは右で、痛むのは左になる。
教室の窓の下の段は、朝のうちだけ白くなる。息と外の冷たさが当たるところで、その場所は毎日ほとんど変わらない。灯は指で一本線を引いた。線の中に、外の色が細く戻った。
線はすぐに端から消えた。下から先に消えて、上のほうが最後まで残る。
「みずき」
「なに」
「一分あったら、何ができる」
「なんにも」
「できるよ。何かはできる」
「何が」
灯は指で数えた。教室の後ろから前まで二十歩で、一分あれば六回歩ける。
「六回、教室を歩ける」
「歩いてどうすんの」
みずきはそう言って、鞄の中から筆箱を出した。出す時に、鞄の口の金具が引っかかって二度目で開いた。
「歩くのは例え」
「例えで六回歩かれても困るじゃん」
「困らないよ。誰も困らない」
「じゃあ何のために数えるの」
灯は答えを持っていた。持っていたが、口に出す形になっていなかった。出すと、みずきに向かって別のことを言う形になった。
「一分がどれくらいか、知りたいから」
みずきはそれを聞いて、筆箱の蓋を閉めた。閉めた音は小さい。
「ねえ、日直って今日どっち」
みずきの語尾が上がった。声は後ろへ行って、目は灯のほうへ来なかった。
一時間目の前に、日直が前へ出て黒板の日付を書いた。十二月十三日。書いた字の下に、落とし物の紙が貼ってあった。紙の右の下の角は、五日前と同じところがめくれていた。
貼り直した跡が二重になっていて、二重の内側だけが黄色かった。
紙の下の机の上の箱は、五日前より高さが増えていた。
灯は箱のほうを見た。上に手袋が一つ載っていた。片方だけ。五日前に数えた三つとは色が違う。
四つ目になる。
灯はノートの端に、それも書き足した。書いてから、丸は付けずに閉じた。
二時間目と三時間目の間に、灯は廊下の時計を見に行った。廊下のは七時のところで止まっていた。針が動いていない。止まった時計は進んでも遅れてもいない。
止まっているものを、灯は数に入れなかった。
廊下の窓から、校庭の端の水たまりが見えた。氷は張っていなかった。朝に踏まれた跡だけが、水の面の下に残っていた。跡の縁の土が持ち上がって、そこだけ色が濃い。
職員室の前の時計は、廊下のより高いところに掛かっていた。十時三十八分。灯の腕は十時三十七分。
灯はノートを出さずに、指で数えた。丸の付くものが三つ目だった。
体育館の入口の時計は、扉の内側にあった。授業の前に一度だけ見えて、十時四十一分。腕も同じ数を指している。
合っているほうも三つになった。丸は三つ、丸の付かないのも三つ。数はそろっていた。
昼休みの前に、給食の当番が廊下の台車を押してきた。台車の車輪は四つのうち一つが回りにくい。曲がる時、その一つだけが横へ滑る。
灯は器を配る側に立った。プラスチックの器は重ねると三十で一つの塔になって、下から取ると上が少し傾く。傾いたまま渡すと、次の人が両手で受ける。
器の数は三十五。人の数は三十四。一つ余った。
その一つを、灯は台車の上へ戻した。戻す場所は下から数えて三段目で、そこだけ縁の欠けたものが集めてあった。
昼休みに、みずきが灯の机の横へ来た。来て、そのまま立つ。座らずに立っている。みずきの席は廊下側の一番前で、そこからは遠い。
窓の側の列に三人。十二月に入る前は四人だった。
「さっきの、まだやってるの」
「やってる」
「どこまで数えたの」
「六つ。丸が付いてるのは三つ」
灯はノートを開いて見せた。家、駅、学校の門、教室、職員室の前、体育館。丸は駅と門と職員室の前に付いている。
「職員室のも進んでるんだ」
「一分。職員室のも一分」
「じゃあ、進んでるほうが多いじゃん」
みずきは口を閉じた。灯はノートを閉じた。
灯はノートの表紙の右下を指で押さえた。去年の秋に付けた折り目が二本、同じ深さで残っている。押さえると、二本とも紙の面より下へ沈んだ。
「多いほうが合ってるとは限らない」
「限らないけど、多いほうに合わせないと遅刻するよ」
灯はその言い方を口の中で二度置いた。遅刻するのは、進んでいるほうに合わせなかった時ではない。遅れているほうに合わせた時になる。
みずきは自分の席のほうを見なかった。見ないで、灯の机の縁へ指を掛けた。
机の縁の塗りは、角のところだけ剥げていた。剥げた下から木が出ていて、その木は塗りより白かった。みずきの指はその白いところに乗っていた。
窓の側の列で、三人のうち一人が立ち上がった。立った先で笑い声が上がって、すぐに下がる。みずきの指は動かなかった。
灯はノートをもう一度開いた。開いて、丸の付いた三つのところを鉛筆の先で順に押さえた。押さえた三つは、駅と門と職員室の前だった。
三つとも、人が通り過ぎる場所。合っている三つは、人が座る場所になる。
「放課後、どこ行くの」
「駅」
「駅の何」
「地下」
みずきはそれ以上聞かなかった。聞かないで、指を机の縁から離した。離した先で、指の腹に木の粉が付いていた。みずきはそれをスカートの横でこすった。
*
階段を下りると、音の残り方が変わった。
上では自分の靴の音が前と後ろから来る。下では前からだけ来て、後ろは壁に吸われた。壁は板ではなく塗ったもので、触ると指の腹が少しざらつく。
匂いは紙が先に立った。紙の下に板。改札の金物の匂いは、五段目のあたりで切れていた。
窓口の板は開いていた。板の外に人はいなかった。
川辺さんは棚の横の柱の前に立っていた。柱に紙が一枚下がっていた。日付と本数が縦に並んでいて、書くのは週に一度。灯は板の前で足を止めた。
川辺さんは前の数に横線を一本引いた。引いてから、その下へ日付を書いた。十二月十三日。日付の右へ数を書く。
五十一。
線の下の字はまだ読めた。四十六。一つ上に四十三、その次が四十。上へ行くほど数が小さくなって、一番上は零だった。零の横の日付は八月三十一日になっていた。
この紙は、台所の柱に付けた背の高さの印に似ていた。台所のほうは下から上へ増える。紙のほうは上から下へ増えた。
灯は一番上から下まで、目で一度だけ追った。追う間、川辺さんは鉛筆を持ったままでいた。
紙の下のほうには、まだ書く場所が残っている。
灯は去年の夏の数を思い出した。二百三十。あれは別の紙に書いてあった数になる。今の紙は八月三十一日に零から始まっていて、上の一番端が零だった。
「五十一本になってるんだね」
「五十一です。数えたのは今朝」
「先週より五本増えてる」
「五本です。三本の日と、二本の日です」
川辺さんは鉛筆を胸の袋へ戻した。戻す時、袋の縁に一度ぶつけてから入れた。ぶつける場所は毎回同じで、そこだけ布が薄くなっていた。
窓口の机の上に時計が置いてあった。四角い置き時計で、板の面がこちらを向いていた。三時四十四分。
灯は腕を見た。三時四十三分。
「これ、一分だけ進んでる」
「進めてあります。去年の春から」
川辺さんは机のほうへ戻って、椅子を引いた。引いた先で座る。座る前に、隣の椅子の位置を見た。隣の椅子は机の下へ入れたままになっている。座面に何も載っていなかった。
灯はその椅子のほうへ目を上げた。それから、机の上の時計へ戻した。
隣の机の上に、湯呑が一つ伏せてある。伏せた下に布は敷いていない。板の上に直に伏せてあって、輪の跡は付いていなかった。
机の端に、鉛筆が二本そろえて置いてあった。二本とも削ってあって、削った長さがそろっていた。同じ日に同じ人が削ると、そうなる。
「なんで進めるの」
「駅の時計に合わせています」
「駅のは合ってるの」
「駅のも進めてあります」
川辺さんは机の右から届出票の束を引き寄せた。束の高さは指の二本ぶん。五日前より低かった。上の一枚を取って、右上の日付の欄に字を入れた。字は速い。
その下に、時刻の欄があった。
川辺さんはそこへ、机の上の時計を一度見てから数を書いた。三時四十四分。
「その時計の時刻を書くの」
「書きます。受け付けた時刻の欄です」
「一分進んでるのを」
「はい」
灯は板の縁に手を掛けた。板の木は冷たくない。人の手が触るところだけ、外の縁より温かい。
板の上には線が二本、横に走っていた。一本は塗りの境で、もう一本は物を置いた跡になる。跡のほうは幅が広く、端が丸い。灯はその幅を、指を並べて測った。三本と、少し。夏に測った時と同じ。
「直さないの」
「直しません」
川辺さんは紙を左へ送った。左の束の上へ載せて、その上から指で一度押さえた。
灯は窓口の板の前に立ったまま、机の上の時計を見ていた。長い針が一つ動いた。動く時、音は出ない。
三時四十五分。灯の腕は三時四十四分。
「保管の日って、いつから数えるの」
「受け付けた日からです」
「時刻も数えるの」
「時刻も書きます。数えるのは日です」
灯は届出票の時刻の欄を見た。三時四十四分。その下の、日を書く欄も見た。
川辺さんは机の下から浅い箱を引き出した。見ないで伸ばして、そのまま引く。中は札だった。糸の付いたものと付いていないものが、分けて入っていた。
「一枚、書きますか」
「書く。書いてみる」
灯は板の内側へ入って、椅子に座った。座ったのは川辺さんの隣ではない。その手前の丸い椅子で、座面が固かった。座ると、朝と同じところが痛んだ。今度は右も痛んだ。
川辺さんが札を一枚と鉛筆を灯の前へ置いた。
「番号は右上です。名前はその下の欄です」
「その番号って何番になるの」
「二百八です。八月三十一日から数えた数です」
灯は右上に三つ書いた。二と、零と、八。紙の目は縦に走っていて、真ん中で一度止めた。止めたところで芯が紙へ入って、線が少しだけ太くなった。
書き終えてから、灯は札を光のほうへ向けた。天井の電気は白い。白い光の下だと、紙の色と鉛筆の色の差が、外で見るより小さく見えた。
「これ、どこに付けるの」
「傘です。棚の下から二段目に入れます」
川辺さんは棚の下から二段目へ手を入れて、折りたたみの傘を一本出した。袋は無かった。骨は八本で、そのうち一本が途中で曲がっていた。曲がったところで布がひきつれる。
灯はその傘を見た。五日前に教室の箱から出したものと、同じ形をしていた。同じ形で、同じところが曲がっていた。
「これと同じのがあった」
「同じものは多いです」
川辺さんは札の糸を柄へ回して、二度巻いてから結んだ。結び目は柄の下のほうに来る。上へ来ると、握った時に手に当たる。
結んだ札は、傘が動く度に柄に当たった。当たっても音は小さい。
川辺さんは傘を棚の下から二段目へ戻した。戻す場所は、出した場所より一つ右になる。
灯は下から二段目の並びを、左から右へ目で追った。左の端のものほど柄の色が濃い。濃い側は、柄の上のほうだけが濃かった。
「番号って、どこまで行くの」
「一年で戻します」
「戻すと、同じ番号が二回目になる」
「二回目です。前のぶんは帳面に残ります」
川辺さんは机の上の紙を一枚裏返した。裏は白い。白いほうを上にして、その上へ次の紙を載せた。
灯は棚のほうを見た。棚は天井まであって、上の段は台に乗らないと届かない。五十一本のうち、灯が数えられるのは下の三段ぶんだった。
下から二段目に十九本。曲がったところのある傘は、曲がりを内側へ入れて並べてあった。並べた者は、一本ずつ回してから置いたことになる。
十九のうち、札の付いているのは十二。付いていない七本は、柄の上のところに糸の跡だけがあった。灯はその七本を、指の腹で順に触った。七つとも同じ高さに付いていた。
夏に触った時、跡の数は違っていた。数は覚えていない。覚えているのは、七つより多かったことだけになる。
「上の段は何が入ってるの」
「上は古いものです」
「古いっていつからのぶんなの」
「先に来たものです。八月三十一日に近いぶん」
灯は上の段を見た。柄の向きが全部そろっていた。そろえたのは人の手で、その人はここに二人しかいない。
灯は上の段の並びを端から端まで見た。端から端まで見て、それから目を下ろした。
窓口の板の外で、階段を下りてくる足音がした。灯は椅子から立った。立って、板の内側から外へ出た。
出る時に、机の上の時計をもう一度見た。三時五十二分。腕は三時五十一分。
板の外へ出ると、天井の電気の当たり方が変わった。内側は上から真っ直ぐ来る。外は柱の影が一本、板の上を斜めに切っていた。
灯は影の外側に立った。そこで、鞄の持ち手を左手で握り直した。握った跡が持ち手の同じところにへこみを作っていて、そこだけ布が薄い。
客は年寄りではなかった。灯より背の高い者で、傘の話をした。川辺さんは棚を見ずに、机の上の紙のほうを先に見た。
「いつ落とされましたか」
「先月です。たぶん先月の終わりごろ」
「日は分かりますか」
「分からないです」
川辺さんは紙を一枚引いて、日付の欄を空けたまま次の欄へ移った。特徴の欄に字が三つ入る。書く速さは、日付を書く時より遅かった。
川辺さんは書き終えた紙を、束の一番上へ載せた。紙の角は、下の紙の角とそろっている。
「一年、置きます」
客は板の上へ両手を置いた。それから、片方だけを下ろした。
「一年ですか」
「一年です。届出の日から数えます」
川辺さんはそれだけ言う。
窓口の板の内側で、川辺さんが棚のほうへ立った。下から二段目の傘を一本抜いた。抜いた場所の両側の傘が、抜いたぶんだけ内側へ寄った。
灯は階段の下の段に立って、それを聞いていた。聞きながら、腕の時計の竜頭を指でつまんだ。
つまんで、引いた。
引いてから、押し戻した。
針は一分ぶん、駅の時計の後ろに残った。




